無意識日記
宇多田光 word:i_
 



未だに不思議なのが、ハイレゾ音源をダウンロードのみで販売している事だ。単曲なら大した違いはないが、フルアルバムのダウンロードとなるとやたら時間が掛かる。最初からDVD-ROMででも売ってくれればと思うのだがやらない。円盤売りたいんじゃないの?

技術的な可能性は知らないが、Audio-CDの裏面にDVD-ROMとか、二層構造にするとか何か方法はないのか。まぁそんなややこしい事をせずCDを普通のAudio-CDとハイレゾ音源入りのDVD-ROMの2枚組にして、勿論プレイパスも入れて売ればいい。映像ソフトだって同内容のDVDとBlurayを同梱して売っているのだから出来るだろうに。

こんな事を言うのも、最近「シングル曲は配信で、アルバムはCDで」みたいな流れが出来つつあるからだ。大体フルアルバムでは半分位の楽曲がシングル曲と重複しているからそれらの場合同じ曲を2度買う事になって何だか損をした気分。それを緩和するには「同じ曲でも音質が格段に上がりますよ」とハイレゾ音源でフルアルバムを提供すればいいんじゃないか。

やや行き過ぎだと自覚した上で書けば、その為にシングル配信時はハイレゾ音源無しにしてしまうのもテだ。256kbpsの音質がいきなり10倍近いビットレートで刷新されるとなれば配信で音源を持っている人も円盤に手が伸びやすくなるだろう。

もっとも、これは現実には、特にヒカルの場合無理だろう。普通の配信チャートでも勿論強いが、ハイレゾチャートではいよいよ無類の強さを発揮しているからだ。ハイレゾの中でも際立つドル箱アーティストの新曲シングルをハイレゾで配信しない手はないのである。

ただでさえ、ヒカルは「アルバム・バージョン」を作らない。リマスタリングの違いを有り難がるのはかなりのマニアだ。大体、アルバムで聴けるシングル曲はそのままだ。笑い声があったりなかったりとかでもあればいいんだけどねぇ。それでもこれだけ毎回CDを売るのだからいやはや皆どれだけヒカルのアルバムに期待しているかがわかろうというもの。

『Fantome』の売上は嬉しい誤算だった。事前にここまで売れると予想した人はどれだけ居たのか。SCv2の売上を大幅に超えたのである。SCv2はああ見えて(?)『WILD LIFE』ブーストがかかった1枚だった。コンサート優先予約権が同梱されていたからだ。なぜか私も5枚持ってる(したがって、『Goodbye Happiness』ミュージックビデオDVDも5枚持ってる)。応募は一口で当てたんだけどね。そういった多々買いが有り得たCDに対して何もついていない『Fantome』があんな事になったのだから桁が外れている。新曲5曲入り&ライブチケットブーストのシングルコレクションにオリジナルアルバムが買ったのだ。6年分のCD市場縮小などものともせず。今のヒカルの売上は凄いのである。

このままいけば来年発売されるアルバムはSCv2同様ライブチケットブーストがかかるだろう。どうせなら例えば全20公演なら20種類出してくれれば面白いのに。そうなったら20枚買うかな…。個人的にはそれ位の売り方をしてくれても何ら嫌悪感は生まれないのだが世間的には無理だろう。前も書いたようにヒカルは目先の売上を疎かにしてまで評判と信用を重視してきた。末永く家業を営むつもりなら賢明な判断である。そこを死守するならせいぜい二種類の発売程度かな。もうそこまでいけばチケットとアルバムをセットで売ってしまえばいいのにね。20万人動員ならそのまま20万枚売上加算。そう簡単にはいかないか。

と、いう感じで来年アルバムの売上を増やす為の方策を考えてみたが、個人的には売れようが売れまいがどうでもいい。ひたすら中身に期待しますよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この度漸くオリコンがダウンロードの、今度はシングルランキングの発表を始めた。第1週の第1位はヒカルの『あなた』。約6万DLの売上だという。『あなた』の発売日が12月8日であったのに対してオリコンの集計は12月11日からとある。字面通り受け取れば『あなた』の初動DLをかなり取りこぼした数字だとみるべきか。3日分という事で単純に倍、13万DL位は堅いかな。

アルバムランキングが始まった時も、『Fantome』は登場5週目とかそんなんだった。それでも1位をとったのだから化け物アルバムだが、ヒカルの場合こうしてみると運がいいやら悪いやら。

今回の数字も6万ときいて「なんだそんなもんか」と思われているかもしれない。かといってこれきっと10万DL超えてますよと言い添えてもな。そのうちゴールドディスク認定が来るだろうからその時でいいだろう。

こうやって正確な実数を把握出来るのは有り難い事だ。オリコンランキングの利点である。とはいっても全ダウンロードを網羅しているかどうかは知らないので、究極的にはやっぱり他のアーティストたちとの相対的な多寡、過去の自分の成績との比較が主眼になるだろう。したがってダウンロードランキングもまた一年二年三年と年月が積み重なって更に価値が増してくる。データは財産である。

しかしそううまくいくかはわからない。前に指摘した通り、日本以外の国ではダウンロード販売が斜陽に移りサブスクリプションがメインストリームとなっている。その流れがいつ日本に波及するかわからない。とはいえ日本は今でも世界に名だたるCD大国。他国の流れに素直に追従するかどうかはわからない。寧ろここからダウンロード販売が伸びる事だってあるかもわからないのだ。ひとまずヒカルもサブスクサービスに参画したが暫く混沌が続くんでないかな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




@utadahikaru : 久しぶりに下手くそなギターで作曲中。たのしい。


というツイートの『下手くそなギターで作曲中。』の一言に食いついたのが前回。しかし目玉はやはりその後の一言。『たのしい。』。これだ。

そうかそうか、たのしいか。この一言が聞けただけで、なんだか年を越せそうな気がする。勿論作曲中であると聞けたのだけでも相当嬉しい(何しろほんのちょっと前まではこの一言を再び耳にするのに何百日もかかっていたのだから!)のだが、その作業が『たのしい』とな。

ヒカルは『家業を継いだ』発言からもわかる通り、ミュージシャンとしての営みを職業、仕事として捉えている。日々働く人々、自分の仕事を「たのしい」と感じる事が出来ているだろうか。中にはそういう幸せな人も在る訳だが、多くの人々は日々の糧を得る為に種々のストレスに耐えて仕事をしている。

ヒカルだって仕事中には辛い事苦しい事が山ほどあるだろう。音楽を作るだなんて知らない人からみれば遊びの延長線上にあって何をそんなに苦悩する事があるのかという感じかもしれないが、宇多田ヒカルという看板に相応しいクォリティーを保つプレッシャーというのはそれはもう想像を絶する。仕事の注文は総てそのクォリティーが目当てなのだからね。

そんな中でこうやって『たのしい』と呟ける瞬間がある。珠玉であり至極である。もっともっと踏み込んで言えば、ヒカルが今ミュージシャン稼業を営む自分自身の状態を肯定してみせたのだ。それがどれだけ価値のある事か。

長年ファンをやっていると、どうしても申し訳なさの方が先に立ってくる。ヒカルはもう一生遊んで暮らせる(夫やこどもが増えようが大したことないくらいのなっ!)だけの資産を持っている。故に、上記のような尋常ならざるプレッシャーの中に身を置く動機なんてものは外からみれば脆弱だ。辛かったり苦しかったりすれば逃げればいいし辞めればいい。我々平民は仕事を辞めれば「来月からの支払いどうしよう?」とすぐに生活の危機に立たされるがヒカルにはそんなものはないのだ。いつ仕事を辞めても何の障害もない。何だったら契約に対する違約金を払っても大丈夫。恐らくビクともしないだろう。

そんな人にわざわざ種々の苦労(例えば出棺時にボンネットに人がへばりついているとか)を味わわせて、私達はヒカルが届けてくれる音楽を呑気に楽しんでいるのだ。正直、いいんでしょうかという気分になる。そういう時に「大丈夫だよ、曲作りたのしいよ。」なんて言われたとしたらまさにそれは救いの一言。あなたもたのしいのか。私達も気兼ねなく楽しんでいいのだと肩の荷がすらっと降りる。これがどれだけPreciousな事か、わかってうただけるだろうか。私達は、ヒカルの歌を遠慮なく味わう事を許されるんだ。たった四文字『たのしい』と書いて貰っただけで。

だからってそれが丸きり免罪符になる訳でもない。制作が進んでまたヒカルの精神が荒廃する時期があるかもしれない。その時にまた申し訳ない気持ちになるだろう。「いや別にあなたたちの為にやってる訳じゃないから」と言われてもこれは気分の問題なのだ。こちらが一度びそう捉えてしまったらもうそこから離れられない。そこを解き放つ魔法の言葉『たのしい』。例によって本人は何気なく入力して投稿しただけだろうがこれは御神託御託宣と呼ぶべきレベル。今年一杯噛み締めさせてうただくます。

しかしあれだね、たった一言にこんだけ反応されると、ますます気軽に呟けなくなるね…。何と言いますか、しっかり自分で自分の首を絞めてしまっているような。まぁ仕方ない。私本当にそう思ってるから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




おやギターで曲作りを始めているとな。前回の続きはまたいつかにしよう。

ギターで作った曲といえば『Be My Last』だ。それもエレキギターだったとか。今回はアコースティックかエレクトリックかはわからないが、下手と言ってるから別にこの7年の間に猛練習を積んだとかではなさそうだ。『WILD LIFE』で「Across The Universe」で弾き語りをしていたが、あんな感じなのだろう。1人で弾き語りをしてもサマになる歌である事は間違いないので(聴いた事があるから)、純子さんに手伝って貰ったのは自分一人じゃ不安だったからだろうか。ピアノの弾き語りはするのにね〜。

という訳で、ギターで作曲をしたからといっていきなりエディ・ヴァン・ヘイレンみたいな煌びやかでテクニカルな曲調になる訳ではないだろう。シンプルに、フォークとかロックとかそんなふんわりとした寄り方になるんじゃないかと。ふと思ったが『About Me』はギターで作曲したんじゃないのかの。どこかのインタビューで答えてないかなー。

曲調自体を予想するのは難しいが、例えば編成を予想するのはアリだろうか。アコースティックギターを用いておきながらリズムが打ち込みであったり、派手なホーンセクションが嘶いたりといった事は少ない。素直にドラムス、ベースそしてギターという編成になるだろう。

ここでオルガンを入れてきたら面白いんじゃあないかというのがこちらの勝手な妄想だ。『Forevermore』でのエレピサウンドというかあれはエレクトーンと呼びたい音色だが、ストリングスとジャズのリズムセクションを従えてあの音色が活躍するのは痛快だった。ここは更に一歩踏み込んで、オルガンサウンドがメインになり響く古風な薫りのするヴィンテージ・サウンドを目指すのも悪くない。

しかし、ただロックバンドにオルガンを足しただけでは普通過ぎる。その上で何をするか。ここから先は実際の楽想と向き合って決める事だが、個人的には和楽器、それも和太鼓をフィーチャーするのが面白いんじゃないか、なんて考える。

今は和楽器バンドなんてグループがあるから、彼らが既にやっている可能性もあるけれど、オルガンと泣きのギターに普通にパーカッションを加えたらサンタナみたいなラテンサウンドになるのがオチだ。それも勿論悪くないが、パーカッションが和風だったらオルガンがどう響くかは興味がある。そんな事を勝手に考えてみたりもするのでした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『宇多田ヒカルの言葉』を読む時に、敢えてメロディーを"消して"読んでいる。折角文字だけの存在になってみたのだから、平板なただの"詩"として読んでみる。すると「あぁ、こういう内容の歌だったのか」と、意味を取り違えていた訳でもないのに「合点する感覚」が生まれてくる。体験として非常に興味深い。


そこらへんを突っ込んで考える前に、日本語による歌詞の特徴について捉えておこう。

比較として英語を思い浮かべる。英語を文字で表す時、覚えなければならないのは各種記号を除けばアルファベットの26文字だけ。一方日本語はひらがな50音にカタカナ50音。更に常用漢字だけでも1000字は覚えなければならない。桁が2つも違う。

従って、英語には「表意文字」がない。表音文字のみだ。即ち、文字とはそのまま音である。文字の連なりは音の連なりでありそれが単語を、文章を形成して初めて意味を成す。もっと言えば、アルファベットをただ並べただけではただの音にしかならない。

日本語には漢字という表意文字がある。勿論発音も指定されるのだがそれ以上に漢字はそのままで意味を、イメージを持つ。字を見ただけで日本語人はちょっと引っ張られるのだ。

実際、日本語には同音異義語が山程ある。「こうか」という言葉は「高価・降下・効果・硬化・考課・硬貨・校歌・高架・降嫁・後架・功科・功過」と12もあった。歴史上何故こうなったのかは専門家に訊かないと私も知らないのだが、漢字のような表意文字が必要になるだろう言語であった事は容易に想像がつく。書き文字のなかった時代は、そもそもこんなに漢語がなかったのかもしれないが。

つまり、日本語人は、話し言葉であってもある程度、朧気ながらかもしれないが漢字を思い浮かべている。でないと、こんなに沢山ある同音異義語に対処しきれない。もっと言えば、話し言葉で例えば上記の「こうか」という音を文の途中に挟まれても、発音は補助というか意味を呼び出す為の過程の一つに過ぎない、という言い方も出来ようか。文字がそのまま発音を表し、発音がそのままダイレクトに意味を運んでくる、表音文字しかない言語(例えば英語)とは、書き文字やその指す発音と文の意味の関係が根本的に異なるのである。

この根本的な差異が、表意文字も持つ日本語による歌詞と、表音文字しか持たない(例えば)英語の歌詞の間にこれまた根本的な差異を生む、という話から又次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




クリスマスシーズンという事でポツポツと『Can't Wait 'Til Christmas』のオンエア情報がみられるが、スタンダードといえるレベルにまでは来てないかな? 日本には山下達郎の『クリスマスイブ』というド定番があって今年もシングル盤を刷っているようだが、そこまでいかなくてももうちょっと持ち上げてくれてもいいのに。せっかくおめかししてTVCMにまで出たんだから。

TVCMというとSONYのは無事にオンエアされているのだろうか。提供番組が偏っていてなかなかツイートが目に入らないというのもあるかもしれないし、スポットも打っていないかもしれない。今のご時世、TVCMもオンエア時刻を総てオフィシャルでカレンダー化しておけば視聴率も上がってうぃんうぃんすると思うんだがやってないのかな。何か反感を買う空気でもあるんだろうか。

まぁ今回ばかりはあまりイメージが定着してもらってもなぁ、というのはある。ワイヤレスの象徴、みたいのならまだしも、個別の商品のイメージがつくのはどうも気兼ねする。あれだけ高価なのに音質に制限があるとかいうのはミュージシャンのイメージ作りとしてはやや厄介だ。それでもAppleのAirpodsよりは大分音がいいらしいが、accに劣るってどれ位音質を犠牲にしているか想像もつかないわ。

まぁ『HEART STATION』のビデオで音質度外視の四角白いヘッドフォンをつけていたからといってそのイメージがついちゃった訳でもなし、前曲の『Forevermore』でイヤフォンが壊れていたからワイヤレスので新調しました、ってのも洒落がきいてて悪くない。注目度がそんなに高くなければ固定イメージもつきにくいし、一時話題になればそれでいいのかもしれない。

サントリーに続きSONYでも本人出演のCMが流れたとなると来年からのタイアップも引き続き期待出来る。様々な事情が奇跡的に許されて「宇多田ヒカル出演CM集」なんてものがメイキングつきでリリースされれば美味しいのだが勿論そんな事も有り得ず。その都度しっかり捕獲していくしかない。まぁ有り得るとすれば何十年後かに「なつかCM」として特集してくれるテレビ番組が制作される事位か。そうなるよう地上波TV局はもう少し頑張って。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『あなた』については特にエンディングのアレンジを取り上げて絶賛したが、他にも特筆すべき点は幾つもある。相変わらず他では聴けないハイクォリティーを維持しているが、それでも私は当初からの通りに「中途半端」で「物足りない」と言い続けよう。そうしないと立ち行かない。

そもそも、今の宇多田ヒカルは別次元・異次元の存在だ。有り体に言ってしまえば、『Fantome』に『桜流し』と『真夏の通り雨』という化け物じみた、いやもう化け物そのものに近づいた楽曲2曲を収録した時点でもう後戻りは出来ないのだ。評価のハードルを下げる必要は最早無いのである。

勿論、論理的には「これがピーク」という可能性もある。人間には、少なくとも、日本人女子にはここらへんが限界なのだろうと"見限る"事も出来るだろう。しかし私はそれをしない。過去19年の記憶が「そちらに賭けるのは愚かではないか」と問い掛ける。寧ろ誰しもそうではないか。

その2曲以外にも『Fantome』には特別な瞬間が幾つもある。『道』の高揚感、『俺の彼女』のドラマツルギー、『花束を君に』の美意識、『二時間だけねバカンス』の…と挙げればキリがない事はもうこの日記でも散々書いてきた(書ききったとは思っていないが)。しかしそれでも『Fantome』が「宇多田ヒカルの最高傑作」であるという気分にはなれないのである。それは過去の作品との比較もあるかもしれないが、それ以上に、ここから広がる期待が果てしなく大きいからだ。「日本語の歌でここまでできるのか」という驚きが私を、我々を貪欲にさせる。「ここから先の世界をもっと観てみたい」と。

だから私は中途半端だとか物足りないとか遠慮なく言う。皆も言えばいい。『大空で抱きしめて』には爽快なカタルシスが足りない、『Forevermore』は爆発力不足だ、と。子を育てながら「もう二度とこんな作品は作れない」とまで自らに言わしめるアルバムを完成させた人に不服を垂れるとは人でなしにも程があるが、ここまできたらとことんだ。今までどれだけの限界を突破してきたか。正直、『DEEP RIVER』を聴いた時これがヒカルの最高傑作だと思った。が、あの『ULTRA BLUE』のスケール感が「そんなのはこどもの世界の話よ」と教えてくれた。「いやはや参った。まだクォリティーが上がるとは。しかし高みに上がり過ぎて大衆はついてこれないのでは?」と一瞬訝ったら『ぼくはくま』でこどもらを虜にし『Flavor Of Life』でダウンロードの世界記録を一旦打ち立てた。クォリティーは上がるわ売上は復活以上のレベルに達するわ何が何だかよくわからなかった…みたいなストーリーを19年間延々見せつけられてきたのだ。それはもうこちらの期待
のハードルも走り高飛びのバーなみの高さになるよ。そのうち気がついたら棒高飛び並みになっているに違いない。もうなってるかも。


斯様に私はもう何の遠慮もなく究極の贅沢モードでヒカルのクリエイティブを批判している。多分、ずっとこのまま行くんじゃないか? 更に強化される事はあっても緩める事はもうないかもしれない。当然、人間だから調子の斑はあるだろう。2,3作迷いを感じさせたりするのも楽しみな回り道だくらいには受け止めよう。しかし全体的には、一切の手心無しに思った事を口にしていこうと思う。それが、全身全霊を繰り返して前人未踏の境地を独り拓き歩み続ける宇多田ヒカルへの礼儀ってもんだろう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




『あなた』もまた判を押すかの如く国内チャートでは悉く1位を獲得、引き続きヒカルへの関心と楽曲への評価が高い事を示した。今や「Jpopの最後の良心」みたいに思われてるとこあるので、ファンも安全安心の新曲購入だろう。

しかし、ちょっと勿体無いかなと思わされるのが、国際展開だ。『Fantome』が3位だか6位だかで、『Ray Of Hope EP』が2位をゲットした割にそちらのプロモーションは手薄というか皆無というか。各種動画も国内視聴に制限されていたり。海外に部署なり担当者なりが居ないなら仕方がないというか当たり前の事態に過ぎないが、なんだろう、2017年に至る今国内重視というのは寧ろ珍しいとすらいえるかも。

Dir en greyとBABY METALを筆頭にロック勢は積極的に海外に進出している。余波をかってか何なのか、海外進出の元祖たるLOUDNESSも近年は欧州フェスティバルの出演を増やしている。One Ok Rockのように、いやまぁもう若手ではないけれどというバンド達がひとつまたひとつと後続として国内という枠を外している。そんな中一度はアイランドレーベルという老舗のドメジャーと契約したアーティストがこうなっているのは、悔しくも残念でもないけれど(私は日本語が聞き取れるのでな)、なんかこう不可思議に感じる。

更に本人は普段ロンドンに住んでいる。言葉の使い方は間違っているが我々はイギリスから日本大衆音楽を逆輸入しているのだ。SONYに移籍したばかりでまず国内で結果を出さないといけない、という内情もわかるが、もしかしてSONYとは国内契約のみで国際展開が最初っから視野に入っていないなんてこたないだろうな?

SONYといえば今やユニバーサルとワーナーと並ぶ「音楽業界3大メジャー」のうちのひとつである。EMIの吸収のお陰で随分バランスは崩れてしまったが、それでも世界に販売網をもつ地球規模のレコード会社である事は間違いない。ヒカルは7年前一旦はEMIと世界契約を結んだアーティストだ。現状はどうにも窮屈に思える。

まぁ焦る事ではない。私としては出てくる新曲が日本語だろうが英語だろうが大して違いはなく、ワールドツアーも日本公演をやってくれればそれでいい。やってくれなければこっちからいくし。まずは来年のアルバムとツアーが国内で成功する事を祈っておくとしよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『あなた』のアレンジでいちばん秀逸だな、と思ったのはやはりエンディングだ。壮大かつやや悲壮なストリングスと華やかなブラスセクションに左右から挟まれて『あなたいがいかえるばしょは天上天下どこにもない』と力強くヒカルが歌う。この曲でいちばん言いたかったことをラストに持ってきたかなと思わせながら、『どこにもなぁぁい』『どこにもなぁぁぁい』と繰り返す。しかしその最後の最後、一頻りアドリブでスキャットをかました後、憂いを追伸として置くように弾かれるジャズピアノをバックにリズムの符割りを変えて呟くように『…どこにもなぃ…』と歌う。この引き際のお洒落感が生む余韻は絶品で、この一瞬のせいで映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」の後味の旨味が一段上がるのだ。エンディングのスタッフロールの時の映画館の空気を読み切った見事なアレンジである。

ここで注目したいのは、歌詞の解釈である。『どこにもない』には当然『あなた以外』がかかっている。これがあるとないとでは大違い。なければかえる場所が本当にない事になってしまう。『あなた以外』のお陰で「私にはあなたというかえる場所がある」とポジティブなメッセージを伝えられるのだ。られるのだ…

…ここに"隙(すき)"があるように思えてならない。最初に繰り返す『どこにもなぁい』のパートでは我々聴き手の頭にしっかり『あなた以外』の一言が刻まれているからメッセージをポジティブに受け取れる。しかし、そこからある程度の時間をとってアドリブを入れた挙げ句のピアノを従えた『…どこにもなぃ…』の呟きに辿り着く頃には、我々の頭の中で『あなた以外』の残像が霞み始めていて、半分くらい『あなた以外』がないような感触で『どこにもない』の一言を受け取る。サウンドの余韻とも相俟ってまるで「私にはかえる場所がどこにもない」と悲しい事を言われたのかもしれない、という感覚がそこに残る。ここの匙加減こそまさに絶妙。ニュアンスとしては、「私にはあなたというかえる場所がある」という肯定的なフィーリングから「もしあなたが居なくなったら私にはかえる場所がなくなってしまう」という否定的なフィーリングに移るか移らないかの落としどころ。いやはや、もう一度言うしかない。まさに絶妙。

この、歌詞のマジックともレトリックともいえる仕掛けに対してのサウンドプロダクションな。ストリングスの悲壮とブラスの華麗がピアノのしっとり感に収束していく様子と歌詞のニュアンスの変遷が軌を一にしている。果たして英語圏の演奏陣はこの総力戦的エンディングの意図をどこまで汲み取れているかはわからないが、三度び「見事・絶妙」と言うしかないわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そうか、『Passion』の発売から今日で12年か。干支一回りした訳だ。

ヒカルが本格的にiTunes Storeでの配信販売を始めたのが2005年だった。それ以前から使えはしたが、『Be My Last』が年間2位になるなど目立った攻勢はそこらへんからだ。干支が一回りして今度はダウンロードからストリーミングへ。サブスクさんの登場である。

で。昨日の話には続きがあって。まずAppleがダウンロード終了を否定したと。こういうのは毎度判断に困るから難しい。わざとリークさせて皆の反応を伺い「…やっぱ、ナシかな。」と判断して徐に否定する、なんて事やってるかもわからないし。ま、最初の記事もただの推測だしこちらは経緯を見守るとして。

YouTubeが有料音楽配信を始めるらしい。こちらも2005年からだったっけ。干支一回りしていよいよ黒船感のある事業に乗り出してきた、のかな。

もともと、「ある日突然YouTubeが有料化されたら」という妄想は常につきまとっていた。皆の生活に浸透しきってから(妥当なお値段で)有料化されたらいちもにもなく加入するしかなくなるのではないか、と。勿論「無料だから」という理由のみで使っていた人は他の無料サービスに行くだろうが、YouTubeの規模…再生回数「億超え」がひとつの基準になるというワンピースの懸賞金みたいな桁の世界の話、ユーザーの1%でも残ってくれたらそれだけでも一大勢力となるわな。

サブスク参加を表明したばかりのヒカルもまたYouTubeの音楽配信に参画する事になるだろう。しかしどうせなら、有料サービスを利用して今置いてあるミュージック・ビデオの高画質化&高音質化を実現して欲しい。音源はどうせ買う、しかしUH5が出ないのであればせめて配信でハイクォリティーなビデオをを楽しませてはくれまいか。今のビデオ配信販売でも画質&音質ともに満足のいくものでもない(といってもそれは比較の話でしかないのだが)のでここで見られるようになったら大きなアドバンテージである。登録や支払の手間以上のメリットがあれば皆利用すると思うが如何か。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、Appleがダウンロード販売を終了してストリーミングに特化する、というニュースが流れた。レストランがビュッフェのみを出してアラカルトはお断りだなんて英断を通り過ぎて無謀な気がするが、不評も厭わずiphoneからイヤフォンジャックを消したAppleなら無謀にみえて深謀があるのかもわからない。

この度、ヒカルも各種サブスクリプションサービスへの参入を表明した。Spotifyのみ来年かららしいが、まぁそりゃやってみるかな、という感じ。時期をみていた、というのも本音だろう。まだ一度もサブスク関連を使ってみた事がない私が勝手な予想をしてみると、ヒカルはサブスクで「やたら強い」ミュージシャンになる気がしている。

「取り敢えず宇多田」というのは手軽に音楽を聴こうとする層の合い言葉のようなものだ。新古書店でのSCv1の驚異的な売上もそうだし、『Fantome』は今でもレンタルチャートの上位だ。ヒカルにはマニアが少ない代わりに薄く広いファンが居る。しかも、ルックスや話題性などの傍流的な興味関心ではなく、シンプルに「歌を聴いて楽しもう」という層が厚い。薄く広いのに厚いとは是如何にという感じだが、それもまた宇多田ヒカルの摩訶不思議のひとつといったところか。

何しろ、ヒカルの歌は耳に入れば感動できる。他の理由で音を鳴らすミュージシャンたちと、音楽の力そのもので勝負したら敵う筈もない。定額制サービスは、いよいよ"宇多田の覇権"を強固にするだろう。


ただ、私個人はサブスク何の必要もないというか。特に宇多田関連だと全く不要というか。CDだろうが配信だろうが「購入一択」なので、定額聴き放題だから何だもうこちらは"所有"しているぞというしかない。

たとえAppleがダウンロード販売を取り止めても他のダウンロード販売サイトで購入するだけだからね。普通に考えて、音楽へのアクセスでAppleを使う機会が激減する。moraやらレコチョクやら、ダウンロード購入できるサイトは幾つもある。Goodbye Apple、てなもんだ。

問題は、Appleのやり方が"世間の主流"になった場合だ。つまり、ダウンロード販売をどこもやらなくなった場合、ヒカルのシングル曲を聴く方法がサブスク以外なくなってしまう。それは非常に困るわね。普段は音楽はCDで買うんだけど宇多田は配信しかないから仕方なくダウンロードで買ってる、という人に有料定額払わせるのはハードルが高いぞ。多分、流石にそんな事ないとは思うが日本は昔から外圧に弱いからな…。


大体、各種サブスクの説明を読んでも肝心の「ローカル保存」の細かい仕様がわからない。Appleのm4pファイルのようにデバイスやアプリが限定される形式なのかとか、気になる事は山ほどあるのにどこもストリーミングだのプレイリストだのというオンラインの話ばかり。パーソナルカスタマイズドになったからってそれは結局ラジオでしかない。ポッドキャストやインターネットラジオに親しんできた身からすれば正直"退化"ですらある。まぁそっちは使っていくうちに変化するだろうからいいとして、オフラインで"財産"が築けないのであればサブスクほんと要らない。


っと、後半ただの愚痴になってしまったが、我々宇多田ヒカルのファンは「暫くサブスクは無視しといてよし」というのが結論だ。もし梶さんが「新曲サブスク先行公開」とか言い出したらイヤだなぁと思うがやらんだろう流石に。ダウンロード購入ですら「本当はジャケットと歌詞カードがついて音質もいいCDシングルで手に入れたいんだけどな」と"妥協して"利用しているに過ぎないのがコアなファンなのだからこれ以上あっち行っちゃうとマズいんじゃないかな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『宇多田ヒカルの言葉』に寄せられた寄稿文八編はいずれも個性に溢れた興味深いものだが、どうにもこのままでは言及が足りないと痛感しているので一言だけ付け加えておこう。それは『Utadaの分』である。

Utada名義で発売された2枚のオリジナルアルバムは極一部を除き歌詞は英語である。よって今回の(縦書きの)『宇多田ヒカルの言葉』には直接関係ない。それはそうだ。

しかし、『宇多田ヒカルの作詞の何たるか』を語る上で、特に、日本語詞の特性を語る上でUtadaの英語詞は外せない。それは"引き算"として機能する。

宇多田にもUtadaにも共通する作詞の特徴が何かあるとする。例えば小道具としてPHSやBlackberryが登場するとか失恋と別れの歌があるとか。そういった特徴は詞が日本語か英語かに影響されない。一方で英語詞でしかみられない特徴、例えば『The Workout』や『Dirty Desire』などの直接的な歌詞などのような特徴は、それが英語ならではだったり、日本語ではできないといった理由から生まれていたりという可能性が出てくる。

そう、Utadaの歌詞を検討する事によってヒカルが日本語詞で何をしているかのみならず、「何をしていないか」まで考察の対象とする事が出来る。この差はかなり大きい。禁忌とまではいかなくても禁じ手や忌み手、避け手などを通して宇多田ヒカルの日本語詞の個性をより一方進んで見極める事が出来る。その観点からみれば『宇多田ヒカルの言葉』にとって「Utadaからの言葉」は殊更意味をもつ。八つの寄稿文にはその視点がなかった。ヒカルの歌詞に対して分析的になるのは「気分じゃない」のかもわからないが、だからこそ今ここで指摘するのは大事なのです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




驚異的だな、と思ったのは、こちらの、『あなた』という楽曲自体に対する印象や評価が、映画を観る前と観た後で「何も変わっていない」事だ。

映画のエンディングで流れるのを聴いて、すっかりこの曲の事を気に入った、というのであれば、非常に優れたエピソードではあるが、それ自体は理解可能だ。ところが私は、相変わらず「ラジオから流れてくるポップソングとしては中途半端なサビだな〜」と思っているし感じている。事前に映画のエンディングにフィットするかどうかも確信が持てなかった。果たして実際に観たら、どうだ、もし私が何も情報を知らなければ、「出来上がった映画を観た上で書いた歌だ」と言うだろう。いや、そう言うしかないだろう。実際は、ヒカルが言う通り、大まかな内容とコミックス数巻で『あなた』を書いている。一体どうやったのか、全くわからない。

だから私は今、「映画に合わせたからこんなメロディーになったのだ」と解釈できる立場にいる。だがその解釈は、無意味というかしっくりこないというか、兎に角気が向かない。映画は大いに楽しませて貰った。エンディングテーマも魔法のようにフィットしている。しかしそれでも『あなた』は宇多田ヒカルブランドのシングル曲としては弱い、と思っている。

と言っても、サビが中途半端だな、というだけで他のパートはいずれも素晴らしい。フックの強さという意味ではサビよりAメロなんじゃないのと思っているほど。後半の展開や終局部での引き際など心憎い程だ。フルコーラス全体に対する評価にはいつもの絶賛が似合う部分も多々あるのだ。

ヒカルのシングルで近い気分になった曲があったのを思い出した。『Wait & See〜リスク〜』である。この時も、「ヒカルのシングル曲としては今一歩かな」という感想をもった。が、その時は理由が明白だったのだ。楽曲制作には「polish」とでも呼ぶべき最終工程がある。原石のようなメロディーを隅々まで磨き上げてダイヤモンドの輝きにまで高める工程だ。『〜リスク〜』にはその工程が欠けていた。

楽曲を作っている人間はしばしば「このアイデアならあそこまで届くはずだ」という確信をもってpolishに取り掛かる。「あそこ」というのは完全に感覚の話で、磨き上げた挙げ句の完成品に対して「よしできた。"手が届いた"ぞ」という感触が生まれる。『〜リスク〜』の時は、単純にヒカルに時間が無かったのだろう。確認はしていないが、私はそれでほぼ間違いないと思っている。


『あなた』に関してはそういう「時間が足りなかった」とか「途中で〆切が来ちゃった」とかの"制作上の都合"は透けてこない。ちゃんと出来ている、完成された楽曲だ。だからこそ映画のエンディングにピタッとハマった。どこまで意識的かは兎も角、ヒカルの意図した通りの曲が出来たという事だ。


今私が受け取っている摩訶不思議な感覚が伝わるかは不安だが、曲の評価も印象も変わらないままその機能(今回の場合は映画のエンディングテーマ曲としての、だ)を絶賛する羽目になっているのが、まるでヒカルに掌の上で転がされているかのようだ。天才のやる事には何とも翻弄される事よの。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『宇多田ヒカルの言葉』が縦書きだった。

この手の書籍だとそりゃまぁ自然なのかもしれないが、欧文が読みにくい事この上ない。たまに差し挟まれるならまだしもヒカルの曲はその多くがタイトルからして欧文であり最初からその存在は大きい。勿論最終的にはヒカルがGoサインを出したのだろう。読書家は縦書きに欧文が混ざるのに慣れているのでOKしたのかな。見づらいってのに。

当初の「352ページだと一曲あたり見開き2ページでは半分以上余ってしまう」問題も杞憂だった。詩集のような大胆な余白の取り方で基本一曲あたり見開き4ページ。ふむ、これなら全部埋まるわな。これはこれで拡張高いしいいのだが、ページの半分以上が余白となると「700円くらい余白に金払ってんのか」とか野暮や事まで考えてしまう。余白に響く余韻まで含めての読書体験だというのに。やれやれだぜ。

総じて、シンプルな作りである。ヒカル本人によるまえがきと、著名人8名による寄稿。時期を3つにわけ黒駒で塗りつぶしたページで区切る。パッと本を見た時わかりやすい。いいアイデアだ。

しかしやはり肝は掲載順だろう。執筆時期の順番で並んでいる。故に書籍は『Never Let Go』で幕をあける。それだけで随分と新鮮だ。そこから辿っていくと、確かに、アルバムの中にとどまらない宇多田ヒカルの大きな流れのようなものが見えてきそうな気がしてくる。これは英断だった。

この本は、それだけの、ある意味素っ気ない作りの本だ。潔いという事も出来るが、ヒカルの詞の普遍的な価値を伝えるにはこれ位でちょうどいいのかもしれない。紙の上の詞はまるで違う手触りを放つ事もある。貴方も迷わず買ってみるといい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




リアルタイムで観れなかったので書き逃してたが、今年のM1グランプリのネタを観た。いやぁ毎年面白いねこの番組。とろサーモンも和牛も勿論面白かったが、やっぱり私がいちばん笑ったのはジャルジャルの「ピンポンパンポンピン」のネタだ。完成度という意味ではM1史上最高峰じゃないの。水も漏らさぬとんでもない構成力だったわ。結果は6位だっが、彼らは漫才の枠にとどまらずに独自の創造性を発揮していってくれればいい。実際、つまらない人には徹底的につまらないらしいし。

彼らのネタは非常に"音楽的"である。主題を提示し応用して展開させる。コードを変えテンポを変えリズムを変えて様々な変奏で彩った後に前半からの主題を再提示して帰結していくカタルシスの作り方は全く協奏曲や交響曲のそれだ。今回は第4楽章のアレグロの爆発力か。いやはや、あれを実現する練習量も凄まじいし発想の独自性にそこから可能性を突き詰めて辿り着いた完成度の高さときたら。

彼らの今回のネタは普遍性という点でも図抜けている。実際、20年後30年後にこのネタを披露しても笑いがとれる。予め知っておくべき約束ごとが「ピンポーンは呼び鈴の音」程度の事しかないのだから老若男女問わず楽しめる。時代が変わってもそういった約束ごとのマイナーチェンジを施せば幾らでもエバーグリーンなネタだろう。落語でいえば「古典」を作ったといって差し支えない。あとは本当に時代を超えてこのネタを見せてくれるコンビが現れるかだが…めっちゃ練習いや訓練しないとひとつのミスで総てがグダグダになるタイプのネタなので、あれだな、パガニーニのカプリースみたいな感じか。名曲だけど、さて演奏できる人は現れますのんか、というような。


こういう他分野の作品に触れるのは刺激になるねぇ。動画はYouTubeなどに落ちているから気になる人は4分ちょい、見てみればいい。万が一笑えなくても感心は出来るから。

「DESTINY 鎌倉ものがたり」も同じく「とてもよく出来た作品」だ。こちらは古典となるような強靱さには欠けるものの、レンタルビデオやテレビ放送なんかで気軽に触れたらかなりの好打率で「結構よかった」と言って貰える作品である。「丁寧に作り込んであるなぁ」と感心するような小ネタがそこかしこに潜んでいる。あんまり煽ってこれから観る人の期待値を上げすぎると「何だ、大した事ないじゃん」と言われる事請け合いなので、肩の力を抜いて楽しんできて欲しい。

こういう作品にヒカルが主題歌を提供する、というのも不思議な感じである。「Casshern」やら「エヴァンゲリオン」やら、制作者が命懸けで作っているような真剣勝負の作品にはヒカルのシリアスなトーンがマッチしていたが、こういう、「DESTINY 鎌倉ものがたり」のような「所詮はお話なんだし」という態度が透けて見える作風は正直合わないと思っていた。実写かアニメかにかかわらず。

しかしまぁ『あなた』のはまり具合はどうだ。見事なものだ。更に不思議なのは、ヒカルは別にその「所詮はお話なんだし」というアティテュードに全然乗っかっていない所だ。息子への愛を正直に誠実に歌った歌がこの茶番映画にすんなり溶け合うというのはなかなかに得難い事態だ。ヒカルは一体どこまで"見通して"たのか。本当に不思議だわ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »