無意識日記
宇多田光 word:i_
 



私が『あなた』に乗り切れていないのは、メロディーもそうなのだが、歌詞にもちょっとピンと来ていない、ってのがある。

『多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください』―この一節がどうも引っ掛かるのだ。ここに乗れないのである。

映画を観れば納得する。納得した。何気ない日常を失うとか取り戻すとか、そういうニュアンス。『神様お願い』と入れるのも映画にぴったりである。だから、この私の怪訝さはそれで解消された、問題解決と言っていい。ここで引くのが大人の態度。

他方、こどものようにごねてもみたい。ひとつの、映画を離れたひとつの歌として『あなた』をみた時に、これは誰目線で何に向かって、いや、どんな状況下で吐露された思いなのか。これがわからない。

そもそも、『多くは望まない』と言って『代り映えしない明日』をお願いするのは誰なんだ。今の時代、代り映えしない日常はとても貴重なように思える。ありふれているか? 誰しも日々悩みながら様々な問題にぶち当たっている。何より、歌われている通りミサイルだなんだと戦争を匂わせるニュースすら飛び交う日常だ。『代り映えしない明日をください』と願うのは全く同意なのだが、それを『多くは望まない』って、何? これって「贅沢は言わないから」って事ですよね。いちばんの贅沢だと思うんですけど私ちょっとズレてんのかな。

住む家があって愛する家族が居て皆健康で、犬や猫なんて飼っちゃったりして。昔と違って今の日本(『あなた』は日本語で歌われているのだ)には度を過ぎた上昇志向は似合わない。勿論各専門分野では切磋琢磨してよりよい仕事をしようと皆頑張っているだろうが、昭和の頃のような「明日はより豊かになっている」と信じれる時代ではない。将来に希望を持ちようがないこどもたちを育て、日々こちらの顔と名前を忘れていく老人たちを介護するのが今の日本の日常であって、それはどこまでも苦悩の尽きない日々である。『代り映えしない明日』といった時の「ちょっと退屈だけど平穏無事なんだったらまぁいいか」みたいな贅沢な感覚からは程遠い。私にはこの一節は「何より多くを望んでいる」ようにみえる。とても贅沢である。

ただ、宇多田ヒカル個人の歌としてみれるなら納得だ。ただでさえ喧しい周囲の喧噪から抜け去って静かな日常、特に息子との安らかな日々を送るのはヒカルにとってはとても価値がある。何しろお金持ちだから、そんなヒカルが『代り映えしない明日をください』と歌うのは確かにささやかな願いだよねと合点がいく。何より、「家族が(もうこれ以上)欠けていない」というのは一旦幸せである。ヒカル個人が『多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください』と歌っているならわかる。資産家で才能に溢れ超有名な立場にある人間の願いなら。

でも、だとしたらポップソングとしての『あなた』の存在とは一体何なのか。「DESTINY 鎌倉ものがたり」という映画の主題歌としては最高だ。宇多田ヒカルの自叙伝的役割と捉えても意義がある。ではこれは"我々"の為の歌じゃないの? そんな事ないよね。そこを探るのが今の私の課題です。

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15年前の今日はファンメールを千通読んでメッセを四回更新してたのか。遠い昔とはいえ隔世の感。今のオフィシャル・サイトでは『Mail To Hikki』も消滅し『Message from Hikki』も『MORE』の中に押し込まれ、辛うじて『Mail To Staff』のみが名前を変えてちんまりと継続しているのみ。時代は変わった。

もしこれでTwitter社が潰れたらと気が気でない。なんであれがいち私企業なんだといわれのない愚痴も言いたくなる。ツイートとリプライ、そしてリツイート、さらに「いいね」などで随分と『Mail To Hikki』と『Message from Hikki』の代替が出来ているのだから本来は感謝しかないが、それって順番が逆かもしれないなとも思う。TwitterがあったからMailもMessageも奥にしまい込んでしまってよかったのだ、と。

これを「昔はよかった」と言うつもりはない。それぞれにメリットデメリットがあり、それを活かして活用するだけだろう。あとはTwitter社の動向に左右されない備えだけあれば。いつも赤字だ赤字だと喧伝するものだから不安になってしまうが、今や週刊誌程度の認知度はあるのではないか? バンバン広告を請け負って大丈夫だと思うんだが。呟きと同じサイズにするから邪魔なので、小さいフォントで一行広告を打つんだったらツイートごとに挟まっててもそんなに気にならない気がするんだが…って余計なお世話ですね。それはさておき。

要するにファンとの距離感、ありようというものが変わってきたのだろう。幾ら天才でもデビュー当時はミドルティーンだ。実存的不安に苛まれながら日々を送っていたとしても不思議はない。まぁありていにいえば、恋人と熱心な時はメッセの感覚が空く、とかそういった事だったのかもしれない(きりやんとつきあい始めてからメッセの量が減ったからねぇ)。本人曰わく、バートナーを切らした事がないそうなので、相手によって熱心の温度に色差がついていた、という事か。内情はわからない。

今は夫…というより息子がいて、実存的不安は外側から立ち上がるものとなった。確かに、ファンとメッセージのやりとりをしている場合でもないのかもしれない。こちらも、「元気ならいい」と実家の爺婆感覚で見守っている節がある。

あとは、最近新しくファンになった10代の人たちにとってどんな存在なのかという事だが、某かやりとりするならラジオ番組をやってお便りを募集するのがいちばんわかりやすいかな。それを通じての交流ならクリアに責任の所在と方法論が明確になる。今度はそういう番組もいいかもしれん。

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