無意識日記
宇多田光 word:i_
 



あたしは当初SFツアーの実態として、「昔からのファンが高齢化で座り始めて新しく入ってきた元気なファンが燥ぐ」のかなと思ってたけど、現実は違うっぽい? 寧ろ「立って燥いで盛り上げようとする古参と、大人しく聴き入る新参。」みたいな構図の方が多いの? まだ私は会場に入ってないからわからないぜ。


─ 長い余談を始める。今「燥ぐ」と書いたがこれは「はしゃぐ」と読む。言葉自体はお馴染みだけど漢字表記は珍しいよね。通常通りならここは「騒ぐ」を使うのよさ。ライブを盛り上げようとする人は「立って騒ぐ人」と言われがち。なんだけど、気がついてみると「騒」という字はどうもネガティブな場面で使う事が多くてね。「騒ぎを聞き付けて警官が駆け付ける」とか言うじゃない。この場合の“騒ぎ”は大抵喧嘩とか揉め事なんかのトラブルよね。他にも、「お騒がせしました」は大体謝罪の言葉だし、どうにも印象が宜しくない。まぁ、騒ぐのはトラブルを起こした本人というよりは周りの野次馬の皆さんの方だったりするのだけどそれはともかく。なので最近少しずつ、使える場面を探りながらこの「燥ぐ」を使ってみてるとこ。こちらの言葉も別にポジティブな意味とは言えないけれど、少なくとも誰かが燥いでる程度では警官は駆け付けないので「騒ぐ」ほどにはネガティブでもないかなと。これ、なんでこんなこと書いてるかって、「コンサートで騒ぐ人」と最初に言い始めたのってこれを「迷惑行為」として捉えてこう表現したのかもしれないなと思ったのでね。あたしはここはフラットで行きたいのよ。宇多田ヒカルのコンサートは最初っからずっと「立って燥ぐか座って観るか」が議論になってるからね。どちらの肩を持つ気もないし、そもそも肩を探す気もない。…ヒカルさんの残り香は嗅ぎたいけどな! ─ ふぅ、長い余談終わり。


確かに、今の10代前半〜20代後半のリスナー/オーディエンスについては、気になってる事があった。ここらへんの世代からグッと「洋楽ファン」というのが減ってる気がするのよね。もうこの世代だと昭和生まれのような舶来礼賛嗜好は一切無いし、洋楽を聴いてるだけでカッコいいとも思われてなさそうだから、歌詞のわからない歌を無理して聴く必要がない。更にシンプルに、国内の音楽のクォリティがここ10年でぐっと充実しているから(サブスクのお陰だねぇ)、それを聴いてるだけでもう事足りる。更に追い討ちを掛けたのが感染症禍で、ここで来日公演がごっそり減った。なので洋楽が「ファンを繋ぎ止める」のが難しかった。なるほど、そりゃ洋楽ファンは減るわな。納得。

そうするとどうなるかといえば、ライブで燥ぐ機会や割合が減る。これは原理的な話で、そもそももともと日本には「音楽を聴きながら燥ぐ」文化がない。また今度詳細に解説すると思うけど、ライブで燥ぐ行為自体が「輸入物」なんですよ。となると、邦楽だけ聴いてるとあんまり燥ごうという人は増えないのでは?となる。

ふむ、であれば、確かに、「40代以上のファンがライブを盛り上げようと奮闘してる間、10代のファンが傍観してる。」という構図はあり得るかもしれんなぁ。今の40代はロック全盛期とヒップホップが覇権を取っていく時期の両方を知ってるし、日本にロックフェスが定着していくのをリアルタイムで体感してきた世代でもあるから、もしかしたら邦楽史上いちばん燥いできた世代かもしれないのだ。いや、30代後半くらいまでか? まぁここはへんは幅があるだろうが、つまり、当初考えてたよりもこの伝統的な「立って燥ぐか座って観るか」の問題は、幾つかの構図が絡み合っているせいで複雑になりつつあるのかもしれない。少なくとも単純な世代間対立には還元できないかもね。地域性もあるだろうし、、、となるとお国柄の比較もしたいところだからここから台北香港公演なのは僥倖だな。国外でのオーディエンスのリアクションも、楽しみにしておきますよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




代々木二公演も無事終わり、日本国内では月末の大阪横浜公演で間が空く。もちろん、国外では今週末来週末と台北香港公演なのでTeam Utada Hikaruはそんなに休んでる暇は無い。

初の東アジア、日本国外でのライブだけどそもそも昔から大人気なので集客に不満はなく。日本より観客のリアクションいいかもしれないしな。他のJ-Popアーティストは早々に詣でてるし寧ろそれで慣れてるくらいだろう彼女たちは。その、他のJ-Popアーティストとの十把一絡げ感が吉と出るか凶と出るかはわからないけれど。


コンサートでの作法というのは、お国柄というかそれぞれの文化圏で特異性と個性がある。日本は本当に独特で、昔から外タレに様々な驚きを与えてきた。1970年代はロックコンサートであっても皆着席していた。その反動でというか、立ち上がり始めたら暴走して圧死事件なども巻き起こしたのだが、要は加減を覚えるまで時間が掛かったのだやっぱり。

ヒカルのコンサートであってもそれは同様で、客が加減を覚えるのには時間が掛かる。しかし、今まで見てきた通り、様々なファクターが重なってここまでの蓄積された「記憶」が「忘却」されているのが問題であるというのは、ここまで書いてきた通り。

・チケット販売方法による初参加と若年層の増加
・経年による既存層の高齢化
・ツアー間隔の長さによる断絶
・音楽性のV字回復による意識の齟齬

などなど。で、週末に色々と会話を交わしている中で、この四つめの点についてこの日記で余り触れてこなかった事に気がついた。ありがたやありがたや。

何度か書いてきている通り、ヒカルは2018年のアルバム『初恋』で、楽曲の平均テンポを落とし(BPMと言うとまた違うから感覚的な話としてね)、大人っぽくしっとりした音楽性にシフトしたように見せていた。そして、それに連なる『Laughter In The Dark Tour 2018』では、マーメイドライン?だっけ、忘れたけど(忘れるなよ)黒のロングドレスで登場して更にその印象を強めた。今後もこうやって、経年変化として大人しい音楽性になっていくのだろうなとのんびり構えていたらアルバム『BADモード』の登場である。21歳の時の『EXODUS』を引き合いに出されるエレクトロニカな音楽性は再びダンスミュージックとしての側面を強めた。更に次の『SCIENCE FICTION』からのリーダートラックは『Automatic (2024 Mix)』に『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー(Sci-Fi Edit)』、それに『traveling (Re-Recording)』とアップテンポ中心。この6年とか3年とかで、「若返る」方向にまた舵を切ってる印象なのだ。

つまり、この音楽性の変化に対する認識の違いでも、コンサートにおけるオーディエンスのリアクションはまた多彩になっているだろうことは想像に難くない。これもまた、観客の反応のバラつきを生む要因のひとつになっているかもしれない。


などとばかり書いてると、断絶ばかりのライブなのかと言われそうだがさにあらず。今回の客層で、前回のツアーよりも目立って増えていたのが「年齢差が大きな2人組」即ち恐らく「親子連れ」だったんですよ。確かに、世代がより幅広くなって世代間の違いは浮き彫りにはなっているけれど、それは別にバラバラになっていってる訳ではなくて、例えばその親子連れだったら当然繋がりや会話があるわけでね。継承されるものや擦り合わされるものもまたここで生まれてるのよね。こういう過渡期に混乱や当惑が生まれるのはある程度までは仕方がない事だとは思うので(チケット販売方法に関しては仕方なくない気がするけど)、こればっかりは次のツアー、次の次のツアーまで含めて眺めていくしかないですわ。コンサートってな、一生をかけてブラッシュアップしていく覚悟が要るんだわねぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )