前にもちらっと書いたけど私最近は「小説家になろう」のコンテンツをアプリ「小説を聞こう」で摂取していますのよ。テキスト読み上げアプリですわね。当然、人間の朗読じゃないから読み上げ方は機械的。一昔前に較べたら物凄く自然にはなったけど、まだまだ本職の声優さんには敵わない。
登場人物の感情のこもったセリフとかも棒読みになるのでそこはいちばん肉声とは違うのだけど、「小説を聞こう」アプリに慣れてきた最近の私はそれで全然OKなのよね。脳内で、棒読みで音読された文章をちゃんと声優さんの演技に変換して楽しめるようになってきてる。
普段、黙って座って読書してる時はもともとそうじゃないですか。黙読って、特に登場人物の感情の起伏のあるセリフは脳内でそれなりの生っぽい肉声に変換して読んでる。それは、「目で追う文字を音声に変換している」わけです。これを最近の私は「耳で追う(棒読みの)音声を(棒読みではない)音声に変換して読んでる」んですよ。音声から音声への変換。意図してそうしようとしたわけではなく、聴いてるうちにそうなってたんだけどね。
さて。前にヒカルパイセンは
『音楽とは言語のようなものだと思っている』
と仰っていた。
https://www.billboard-japan.com/special/detail/3186
そう仰る論理的な理由は、そこで引き続き「一人の世界ではなく色んな人の共通認識の上に成り立っている」と語っている通りなのだけど、あたしは今「音声を音声に(自動的に)変換する」行為を通して、そこを感覚的に知れてきたような気がする。そうなんだよ、音も記号になるんだよ。
言葉は意味を通じて現実世界の五感と結び付く。その中で一旦五感を切り離してまたくっつける事を思考と呼ぶのだけど、ヒカルさんはそういう意味では「音楽で思考する」ことが出来るのかもしれない。何かについて考える時、人は、言葉で考える。日本語だったり英語だったりイタリア語だったりエスペラント語であったり…数学とかの人もいるかな? しかし、ヒカルさんくらいになると、音楽そのもので抽象的思考を展開できるのかもしれない。そうなると創作の幅はぐっと広がる。音を鳴らせば新たな思考がはたらき、また新しい発想が生まれてくるからだ。
台北香港公演で明らかになったように(って私個人は殆どまだ動画とかをチェックしてないのだけどね)、ヒカルさんは新しい言語を習得する能力がとても高い。今や日本語・英語(米/英)・イタリア語・フランス語に加えてあれもこれもという感じ。ただ、世の中広くてバイリンガル・トリリンガル…とマルチリンガルな人材にはもっと凄いのが沢山いる。しかし、「音楽語で思考できる」となれば話は別だろう。極めて少なそうだ。そもそも、そんな発想自体が無いもんね。
逆からもみれる。最近のヒカルさんは言葉や言語に御執心だけれども、そこでの言語的思考を音楽語に変換することで新しい音楽をも生み出せる訳だ。自然言語を音楽語に変換して思考しまた自然言語に戻して独創的な思想を生み出すプロセスと、音楽語を自然言語に変換して思考しまた音楽語に戻して独創的な音楽を生み出すプロセスの両方が手に入る。ふむ、これは宇多田ヒカルの新しい時代を呼び込めそうだ。これ以上独創的な音楽が生み出されたらどうなるやらもうよくわからないけど、合間にきっと小説とか文学とかみたいな創造物も挟まると思うので、今後のパイセンの新しい活動に引き続き期待していきましょうか。…あら、大阪二日目そろそろ無事終わったかな?
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