無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ふと。『何色でもない花』がリリースされた頃、量子力学については少し触れたけどシミュレーション仮説についてはあんまり触れてなかったなと思い出したのでほんの少し触れてみるか。

ヒカルはその2つを並列するように語っていたのにこちらで扱いに差を出した理由は単純で。量子力学は現代的と言われる生活を支えるのに欠かせない謂わば現生人類が営む社会の基礎として機能している非常に堅牢で影響力が絶大な学問的成果であるのに対して、シミュレーション仮説は言葉の通りただの仮説、しかも自明に偽だと言って差し支えない、単なる妄想でしかないからだ。そりゃ、差が出る。差を出す。というか、二つを並べて語るのは…いろんな喩えが浮かんだけどやめとこ。月とスッポン、とかいう伝統的な一言でも書いとくか。

単なる妄想、とは書いたけど、そんなものがここまで有名になるのは勿論理由がある。これを作業仮説と見做して様々な考察を繰り広げる事で人類の自然に対する理解が深まっていくという意味で、有用/有効だからだ。たとえば19世紀の頃は「エーテル」という物質が仮想されていて、20世紀には「そんなものはなかった」と結論づけられたのだが、エーテルについて皆考えたり実験したりしてるうちに自然に対する理解は驚く程進歩した。シミュレーション仮説も、22世紀の頃にはエーテルと同じように振り返られているかもしれない。あたしは自分の個性に従って「自明に偽」とは書いたけど、これを遍く人々に対して“証明”していくのは恐ろしく難儀な事だろうからね。短い人生でだとやる気にならないくらいには。

というわけで、既に役に立ちまくっている量子力学と、仮説の域を出ないシミュレーション仮説は本来並べるようなものではないのだが、ヒカルが並べて語ったのはそういう実生活実社会に於ける影響力の話ではなく、これらにまつわるエピソードを耳にした時に感じるフィーリング同士に近しいものがあったからだ。『何色でもない花』にはその共通したフィーリングがよく表現されている。ここでいう表現とはつまり、ヒカルが感じたフィーリングを、不完全ながらではあるもののある程度我々も感じ取ることが出来るという、クリエイティブの根源となる話。

なので、量子力学やシミュレーション仮説の解説を読んでみて「なんのことだかさっぱりわからん」と思った人も気にする事はない。大事なのは『何色でもない花』を聴いた時に、他では感じたことのないフィーリングを感じたり、独特の心象風景が広がったりするかどうかなのだ。そしてそれがヒカルの伝えたかった事であり、それが伝われば、いちばんの満足…というか、ヒカルの意図が達成されたとみるべきだろう。究極の話、歌詞の意味なんてひとつもわからなくてもいいのである。案外、そんなものよ。音韻構造や単語の意味、歌詞の構成などを指摘されるのも勿論嬉しいけれど、「何言ってるかさっぱりわからなかったけれど、この歌を聴いてると小さい頃に旅行した先で迷子になった時の気持ちを思い出した。」とかそういうことを言われた時に「よしっ!」って物凄く力強くガッツポーズを繰り出したくなるのよ。それこそが表現活動の成果。結実。果実が生り、実を結ぶとはこのことかと。苦労して作詞をやりきった甲斐があったねヒカルちゃん、と労いたくなる瞬間なのだ。ですから皆さん、歌詞の意味がさっぱりわからなくても、どんどん感想を伝えましょう。寧ろ、「曲とは直接関係ないと思うんだけど、聴いてる時ふとこんなことを思い出して」とかいうエピソードこそ大好物です。パイセンに積極的に伝えていきましょうね☆ この空間では、社会の基礎も不遇な空想も、似たようなものなのだから。

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ヒカルさん、歌の途中で時々「宇多田ヒカルになる」ことあるよね。『Wait & See 〜リスク〜』の『キーが高過ぎるなら下げてもいいよ』とか『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』とか。それまで「歌の物語の登場人物」として歌詞を歌ってたのに急に本人が登場してこちらに話しかけてくるあの感じ。手塚漫画では度々手塚本人が登場してたりしたけど、それに通じるものがあるかなと思ったり思わなかったり。ピノコは関係ないですよ?

で、これをライブで歌ったらどうなるか、って、特に何も変わらないのが面白い。ヒカルさんもここで特に意識を切り替えないのよね。ちょっと茶目っ気を出した歌い方や表情をするかと思ったらそうでもない。寧ろ、音源で聴けるより落差は控えめだったりする。嗚呼、『ともだち』の『いやそれは無理』なんかで顕著かな。ライブ・バージョンではそこまで芝居っ気というか外連味というか、そういうのなくある程度そのまま歌っちゃってたわよね。

こういうのをみると、目の前に本人が居てもなお、「歌ってる間」は特殊な空間なんだろうなと思わずにはいられない。寧ろ、ライブになるとそういうところから醒めさせて欲しくない、という心理の方がオーディエンスに強くはたらくんだろうかな。それについてはいろいろ考えるところがあるけれどそれについてはおくとして。


ヒカルのライブのMCってとことん不思議。近年では、例えばインスタライブなんか観てると聴いてると、もうそのまま歌詞になるじゃんみたいな名言が話し言葉の中からポンポン出てくる。「その人が痛み止めだった」とかね。もう今や普段から作詞家なのかと感心するのだけど、ライブのMCって「拙さが可愛い」みたいなところで評価が落ち着いてきてるように思う。MCで歌詞のような含蓄や感動をもたらす流れ、或いはそのまま次に歌う歌の歌詞世界に地続きになる言葉とか、そういうのは結構少ない? 『WILD LIFE』の『虹色バス』とか、特異だもんね。なので、今回のツアーでそこのところに変化があるのかないのかを確かめるのも楽しみのひとつだったりしますよ。たまには昔みたいに、唐突に『行くぜ』って凄んでこちらをドキリとさせてくれたりしても、いいのよ?

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