無意識日記
宇多田光 word:i_
 



コクトー・ツインズは、Hikaruの走り書きにあったように「ポスト・パンク」「ドリーム・ポップ」そして「スコットランド」なバンドだが、ああいう幻想的な曲調を聴いてしまうと、何故あれが「ポスト・パンク」なのかイマイチぴんと来ない。日本でパンクのスタンダードを確立したのはザ・ブルーハーツだろうが、ああいうハキハキジャキジャキしたサウンドとは対極にすらあるといえる。

まぁ、彼らも初期のサウンドを辿れば「なるほど」となるのだが、そこからTreasure や Heaven Or Las Vegas などの名盤が生まれるとは予想もつかないと言える。何故こんな事になったかは、しっかりと歴史を見つめ直してみる必要がある。

ポストパンクの前は、後(ポスト)の前なんだから当然パンクで、この世代の音楽ジャンルは「パンク/ニューウェイヴ」と一括りにされる事が多いが、かなり音楽性の異なる2つがこうしていっしょくたにして語られるのは何故なのか。そこには「過去を否定する」という共通点があったのだ。

パンクとは、まぁタイヤのパンクを思い浮かべればいい、破裂するようなあの感じ。70年代にロックが様式技術を重んじるようになり、ロック本来のプリミティビティが失われてしまったと感じた新しい世代がパンクに走った。要は、肥大化したロックに風穴をあけて破裂せしめたのがパンクな訳だ。様式を無視し、技術がなくても音を鳴らす。そこにあったのは過去との決別と断絶であった。

「ニューウェイヴ」も実は、思想としては同じである。70年代のロックを古い時代の音楽、「オールド・ウェイヴ」として否定し、新たな音楽を創ろうという気風が70年代後半から80年代前半にかけて表れた。音楽自体はパンクとはまるで異なったりするのだが、それまでの音楽を否定した上で創作に入るアティテュードは共通していた。あクマで「否定から入る」。ここがポイントだ。

90年代にも似たような動きがあり、80年代後半に商業的に肥大しきったロックに原初性を取り戻すべく"オルタナティヴ・ロック"が脚光を浴びたのだが…ってまぁそれはいいか。

この、「否定から入る」アティテュードが最初にあった世代だという点は、コクトーツインズのサウンドを見極める上で非常に重要である。出発点が否定な為、音楽的に洗練を経て美学の表現に長ければ長けるほど、その耽美は退廃の度合いを増してゆく。そして、これが70年代のロックと大きく異なるのだが、曲に展開がないのである。あるフィーリングを捉えたら延々とそこに耽溺し、それに終始する。何しろ、過去の否定が出発点なのだから、「それまでの流れを"踏まえて"」次の音楽を繰り出すという発想に乏しい。これがパンク/ニューウェイヴ世代の退廃的な耽美性の正体だ。極端にいえば、意味を求めない音楽なのである。

そういった時代性、つまり、「ニューウェイヴ」とは「オールドウェイヴではない」という意味であり、新に新しい訳ではない。古さを否定しているのだからそこから何かが新しくなれる筈もない。ただ孤立した、「それとは違うもの」「それでないもの」の集積として、コクトーツインズの音楽をまずは捉えてみよう。それが入門編であり、同時に総てでもある。

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スコットランドをルーツとして語る時「土」がキーワードになるとの事だが、確かにブルー・ナイルなどは「ダウンタウン・ライツ」みたいな"ラウンジ・ミュージック"が代表曲なのに、どうしても隠し切れない地脈のようなものを感じる。それは伝統的というか、スコットランドに共鳴する総てのミュージシャンが語るキーワードかもしれない。いや別に皆にきいてまわった訳じゃないけど。

スコティッシュと共に、お隣のアイルランドや、北欧各国も巻き込んであの一体の伝統的な音楽を「ケルト」として纏めて認識している音楽ファンも多い。私もその一人だが、ケルティックと言った時にはそれに対応した音階が頭に浮かぶのだが、スコティッシュと限定すると逆にその統一感は抽象的になる。区分けの統括度が下がると曖昧さが増えるというのも奇妙な話だが、例えばコクトーズなどは寧ろケルトというイディオムから如何に距離を置くかといった点に注力しているようにも考えられる…

…話が小難しくなってしまったが、Hikaruの"ルーツ"らしきものに名前が付けられる状況になった事実は兎に角画期的である。今の話も、Hikaruが今までケルトというイディオムから距離を置いてきた事を想起したからだ。恐らくいちばん接近したのはGoodbye Happinessだろうが、あれがケルトだと言ったらケルトファンからは煙たがられるかもしれない。そうではない、のである。

お隣のアイルランドでは、真っ向からのケルトといえば、例えば大御所のチーフタンズが居たりするが、一方でその色に染まらないU2の存在があり、そういった音楽の中で"アイリッシュ"というイメージが醸造されている。いい対比が思い浮かばないが、スコティッシュでもそういった風景が広がっている、という事だ。

もっとシンプルに言ってしまえば、バグパイプが似合うとケルトである。スコティッシュ・バグパイプやアイリッシュ・バグパイプを積極的に使うとケルトっぽくなる。少し控えめだとそうはならない。それ位でOKだ。というか私もその程度の認識である。

そして、ケルトとは"土"なのだ。アイリッシュやスコティッシュは、その"土"を前面に出したり、土壌として下敷きにして成り立っている。Hikaruの言う"土"は、土壌として下の方に隠れている類の"土"であり、その意識づけ自体がルーツという物事の捉え方なのだ。辿っていった先、根の生える所である。それがNY生まれの人からきけるというのは奇妙な感じだが、そこらへんの所からまた次回。

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