無意識日記
宇多田光 word:i_
 



圭子さんとヒカルの関係性の複雑さと多様性が、ヒカルの書く歌詞の基本になっている可能性は高い。たとえ実体験がなくてもリアルに書く能力は、勿論本人の想像力の高さがいちばんだが、母との関係性がよき経験となってベースを構成しているのかもしれない。

母と子であったり、護ったり護られたり、時に恋い焦がれ、憧れ、尊敬し、と様々な側面を感じさせる中で、いちばん希薄なんじゃないかと思うのが「姉妹」の感覚。

どういう事かというと、この2人、「きょうだいげんか」みたいなのをした事あったのかな、と。圭子さんについてはよく知らないけれど、ヒカルの性格だとそもそも喧嘩ってものにならない気がする。

親と子の喧嘩っていうのは権利と義務の軋轢で、夫婦喧嘩は愚痴と欺瞞と愛情、恋人同士は痴話喧嘩。きょうだいげんかというのは、権利と意地のぶつかり合いだ。「先に手を出したのはそっちだろー」とは友達同士でも言う事だが、きょうだいはここに役割と立場が絡んでくる。「おねえちゃんなんだから我慢しなさい」系のアレである。対等とも上下関係とも違うつかず離れずなあの感じ。これがきょうだいげんかだ。

確かに、親ときょうだいげんかをするのは難しい。扶養義務というアドバンテージは状況を大きく左右する。しかし、ヒカルはその点について、大きくは出なかっただろう。弟や妹のように、甘えて、ワガママを言う。彼女がいちばん苦労してきたファクターだ。宇多田ヒカルの特徴は妹属性の欠如と言ってもいいかもしれない。

いやね、普通に一人っ子ならそうなるよね、というのは真実だ。しかし、ヒカルの場合特別なのは、普通より母との関係性が多彩であった為、余計にそこの欠落が目立つのだ。『甘えてなんぼ』と漸くわざわざ歌えたのがデビューして7年以上経過してからの事である。私(次男)からすれば「いちいち言うことか」というのが正直なところだった、りした。

世には「妹萌え」が蔓延っているが、ヒカルは途轍もなく無関係だ。上目遣いで誘っても「共犯」にまでしかいかない。甘え上手は勿論甘えた相手に罪と罰を押し付けて何食わぬ顔で立ち去るのだ。ない。そんな歌は宇多田ヒカルの歌にない。

裏を返せば、母を喪った今後は、齢30越えにしてそういった「小悪魔」な側面を見せていけたら面白い。いきなり「悪魔」にまで飛びそうで怖いけどそれはそれで。ただ、人に甘えるほどの欲望を捏造しなければならないので、その詐欺っぷりはある種宗教的ですらある。新しい局面と言っても、大きくファンを振り落としそうだ。それはそれで面白いかも…という私も、随分と悪い予感にワクワクするようになったもんである。こういうのを、悪影響と言うんだろうな~。楽しい。

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圭子さんがヒカルの曲を聴いていたと耳にしていちばんに思い付くのは、やっぱり嵐の女神な訳だが、如何に直接『お母さんに会いたい』と歌っているとはいえ、これを字面通りだけで解釈するのは片手落ちである。

忘れてはいけないのは、歌の最後である。

『私を迎えに行こう お帰りなさい
 小さなベッドでおやすみ』

ここをどう解釈するかは、以前も触れたが繰り返しておこう。元々、

『「許し」って何? きっと…
 与えられるものじゃなく与えるもの
 どうして私は待ってばかりいたんだろう』

という一節が予め存在する。それを踏まえれば、ただ受け身で帰ってくるのを待つだけでなく、、、と続けるのが常識的な考え方だ。じゃあ「こちらから会いに行こう」と。しかし、更にここから続きがある。「"私が"、帰ってくるのを出迎えてあげよう」と。こう繋げて初めて最後の一行が意味を持つ。手紙にはきっちり『必ず帰るよ』とあったのだから、ベッドのある家で帰りを待ち、出迎えてあげるのは必然だ。その構造が嵐の女神の骨格である。

つまり、邂逅とは待って与えられるものではなくこちらから会いに行く事でも…とまず"普通に"考え、更に出迎える所まで考えるのがこの歌の"新しい"点なのだ。最後に、家に帰ってくる「私」を迎えに行く人間に歌の視点が変化している。この変化の過程の中に『お母さんに会いたい』が挟まれているのが重要である。

つまり、「私」が会いに行くお母さんと、「私」を迎えに行く「最後の歌い手」が、結局の所重なるのだから、この『会いたい』は、自分の中に、自分の会いたい人を現せしめる事を言い表していると解釈する事が出来る。要は、「母になる」となるのだが、これは別に実際にこどもが出来る訳じゃなく"母性の萌芽"とみるのが妥当かもしれない。


それにしても、『分かり合えるのも 生きていればこそ』の一節は、響くわ。

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