『"宇多田ヒカル"を演じるのでは意味がない』ってそういえばテレビでも言っていたんだな。それが本名での活動に繋がるとすれば、件の懸案である"復帰後の名称"の候補に、「宇多田光」が浮上するのだろうか。つまり、MV監督以外の、作詞作曲や歌唱等の仕事も"宇多田光"という名で活動する、という意味である。
幾ら何でも、そうなる可能性は低いか。「宇多田ヒカル」という表記は定着してしまっている。近い将来辞典にも載ろうかという命名に複数の表記があるのはややこしい。いや、別にいいっちゃいいけれど、違和感を上回る効能は果たして生じ得るだろうか。難しい気がする。
更にいえば、それをファンが望むだろうか。出来れば、嘘でも何でもいいから「"宇多田ヒカル"を演じ続けてほしい」という願望はありはしないか。演技でない、ロールプレイでもない、ありのままで生きていけてる光さんを目の当たりにしたら戸惑いが勝るようにも思うのだ。ディレクターとしてコンセプトレベルで"宇多田光"になる位ならまだしも、と。
しかしここの読者だと、そのナマの光さんこそ魅力なのだという感情が大きいかもしれない。あまり責任とか感じ過ぎずに感じるままに振る舞ってくれた方が嬉しいのではないか。何より見たいのは苦しむ光の姿ではなくイキイキと快活に楽しそうな光だろう。20代はイケイケだったが30代はイキイキかな。いや何か年寄りっぽいか。違うな。30代は…ノリノリくらいで。無難過ぎるか。
それにしても、光の演じてきた"宇多田ヒカル"とは、どこらへんが"演技"だったのだろう。凄く広い意味で、社会に必要とされている役割を果たす事を"演技"というのなら、生きてる人はみんなずっと演技中である。女はみんな女優だというのなら男もみんな千両役者だ。寧ろ、そういう"ワイルドライフな"生き方というものの方が希有だろう。それを敢えて提示してきたのだとしたら、それこそそんな芸当はアーティスト肌にしか出来ない。アーティストである、という言い訳に守られているから生き様がエンターテインメントに成り得るのだ。なんだか、それこそ逆説的である。どうなるんだろう一体。
という訳で、引き続き復帰後の名義名称については考えていきたい。変えないとは思うけどね。
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