奈良を訪れるのは、実に中学校の修学旅行以来である。普段から全国を飛び回っているため、ほとんどの都道府県は何度も繰り返し訪れている中、これまで不思議と奈良には縁がなかった。それだけに逆に新鮮でもあり、五重塔がそびえる興福寺、砂利道の参道を経て春日大社と、奈良の定番コースを巡っていくだけでワクワクしてくる。緑が深い奈良公園内は11月に入ったばかりなのに肌寒く、あいにくの曇り空なのもあり歩いていると体がかなり冷えてきた。
夜行バスでやってきたため朝食がまだだったのも思い出し、行く先に見えてきた茶屋で食事と暖をとることに。吉城川に面して立つ茅葺きの建物に入ると、ひとり店番をしていたご主人が愛想良く出迎えてくれた。茶屋の名は『水谷茶屋』。ご主人によると店は昭和23年からやっており、建物は大正時代の物だとか。年季ある建物なので、昔は何だったんですか、と聞くと「さあ、昔のことはようわからん」と笑っている。
暖かいお茶を頂いてひと息ついたところで、お腹の方も落ち着けたい。品書きによるとわらびもち、おこわなど喫茶のメニューほか、うどんやそばがあるのがありがたい。ご主人におすすめを尋ねると、麺類と奈良名物の柿の葉寿司とのセットはいかがでしょうとのこと。うどんとのセットをお願いして、窓の外の緑を眺めながらくつろいでいると、ややたってからうどんとともに、葉に包まれた寿司が3つ並んだ皿が登場。葉を開くと、中はご飯にサバの切り身がのった寿司が包まれていた。サバの身の中央は軽く脂がのり、ほんのり茶色になっている。
見た目はサバをタネに飯と一緒に握り、柿の葉でくるんだシンプルなこの寿司、内陸に位置する奈良・吉野の人々がかつて、海の魚介を摂取するために工夫を凝らした料理だったという。当時、吉野まで熊野灘沖でとれた魚介を運ぶ際、陸路の熊野街道と紀ノ川の水運の2つのルートがあった。しかしともに急いでも丸2日と時間がかかり、特に鮮度落ちが激しいサバにとって致命的である。そこで考え出されたのが、「浜塩」という加工法。サバの腹を割いて多量の塩を詰め込むことで、なるべく傷みを防ごうしたのだ。だから吉野に着く頃にはサバの身にしっかり塩が回っていて、そのまま食べるには塩辛いほど。そこで身を薄くそぎ、ひと口ほどの大きさに小分けした白飯にのせて食べたのが、柿の葉寿司のルーツといわれている。それを吉野の柿の葉に包み、重石を置いて寝かせること3日ほど。ご飯が糸をひくぐらい発酵した頃が食べごろというから、寿司といっても保存を重視した「なれ寿司」の一種といえる。柿の葉も防腐剤の役割がある上、高血圧を押さえるタンニンやビタミンが含まれており、結果的に健康にも効果があったようだ。
水谷茶屋で出す柿の葉寿司は、吉野で創業百数十年の歴史を誇る老舗「平宗」のもの。猿沢池の近くの奈良町ほか、奈良市街に数店を構えている。ここの柿の葉寿司は現在の食材の質やお客の嗜好などに合わせて、ひと口で食べられるよう小ぶりにしたり、白飯でなく寿司飯を使ったり、魚も塩分を減らして酢締めにするなど、原型の味や形に様々な手を加えて食べやすくしているという。特に新鮮な生魚をネタにした握り寿司が主流の現在、独特の食感と風味が強いなれずしには抵抗がある人が多い。よって材料のサバも塩漬けではなく新鮮なものを使い、寝かせるのも一昼夜だけ。季節によって塩加減を調節してくせがないように仕上げ、適度になれた状態で頂くようにしているという。
ひとつ手に取ってみると関西の寿司らしく、しっかり型で押された上寝かせてあるのでよく締まっている。たっぷり塩漬けされた薄い切り身を使っていた当時の名残なのか、今も身はかなり薄い。それが口に運ぶとほろりと自然に崩れて、こってりしたサバの脂とよくなじむ。ここまでは大阪寿司のバッテラと同じだが、最後に柿の葉の青臭さが一瞬漂うのが独特だ。ヨモギのようなやや苦みのある香りで、濃厚なサバの脂の風味をぴしゃり、おかげで2つ3つと進んでしまう。かつては保存に一役買っていた柿の葉は、食材の鮮度が良くなった今では風味付けの役割を担っているようだ。タネのサバは熊野灘で水揚げされた昔ながらのもののほか、最近は佐賀県の唐津で冬場に揚がるものも使用、こちらは脂ののりが適度なため味がくどくないとか。サバもかつての浜塩ではなく旬の新鮮なものとなったが、脂が生きているので昔と同じ薄い身でも充分に味が出ている。
寿司をつまむ合間に頂くうどんは、関西風の澄んだつゆでワカメがたっぷり。麺をすするたびに柚の香りがほんのりと漂ってくる。お腹が落ち着き体も温まったところで、東大寺へ向けて再び奈良公園の散策へと出発だ。ここから二月堂まで歩いてどれぐらいかかるかご主人に聞くと、「そこの階段を上ってゆっくり歩いて10分」との返事。さあもうひとがんばり、と店を出たとたん、鉛色の雲の間からサッと日が射しこんできた。(2001年11月10日食記)
夜行バスでやってきたため朝食がまだだったのも思い出し、行く先に見えてきた茶屋で食事と暖をとることに。吉城川に面して立つ茅葺きの建物に入ると、ひとり店番をしていたご主人が愛想良く出迎えてくれた。茶屋の名は『水谷茶屋』。ご主人によると店は昭和23年からやっており、建物は大正時代の物だとか。年季ある建物なので、昔は何だったんですか、と聞くと「さあ、昔のことはようわからん」と笑っている。
暖かいお茶を頂いてひと息ついたところで、お腹の方も落ち着けたい。品書きによるとわらびもち、おこわなど喫茶のメニューほか、うどんやそばがあるのがありがたい。ご主人におすすめを尋ねると、麺類と奈良名物の柿の葉寿司とのセットはいかがでしょうとのこと。うどんとのセットをお願いして、窓の外の緑を眺めながらくつろいでいると、ややたってからうどんとともに、葉に包まれた寿司が3つ並んだ皿が登場。葉を開くと、中はご飯にサバの切り身がのった寿司が包まれていた。サバの身の中央は軽く脂がのり、ほんのり茶色になっている。
見た目はサバをタネに飯と一緒に握り、柿の葉でくるんだシンプルなこの寿司、内陸に位置する奈良・吉野の人々がかつて、海の魚介を摂取するために工夫を凝らした料理だったという。当時、吉野まで熊野灘沖でとれた魚介を運ぶ際、陸路の熊野街道と紀ノ川の水運の2つのルートがあった。しかしともに急いでも丸2日と時間がかかり、特に鮮度落ちが激しいサバにとって致命的である。そこで考え出されたのが、「浜塩」という加工法。サバの腹を割いて多量の塩を詰め込むことで、なるべく傷みを防ごうしたのだ。だから吉野に着く頃にはサバの身にしっかり塩が回っていて、そのまま食べるには塩辛いほど。そこで身を薄くそぎ、ひと口ほどの大きさに小分けした白飯にのせて食べたのが、柿の葉寿司のルーツといわれている。それを吉野の柿の葉に包み、重石を置いて寝かせること3日ほど。ご飯が糸をひくぐらい発酵した頃が食べごろというから、寿司といっても保存を重視した「なれ寿司」の一種といえる。柿の葉も防腐剤の役割がある上、高血圧を押さえるタンニンやビタミンが含まれており、結果的に健康にも効果があったようだ。
水谷茶屋で出す柿の葉寿司は、吉野で創業百数十年の歴史を誇る老舗「平宗」のもの。猿沢池の近くの奈良町ほか、奈良市街に数店を構えている。ここの柿の葉寿司は現在の食材の質やお客の嗜好などに合わせて、ひと口で食べられるよう小ぶりにしたり、白飯でなく寿司飯を使ったり、魚も塩分を減らして酢締めにするなど、原型の味や形に様々な手を加えて食べやすくしているという。特に新鮮な生魚をネタにした握り寿司が主流の現在、独特の食感と風味が強いなれずしには抵抗がある人が多い。よって材料のサバも塩漬けではなく新鮮なものを使い、寝かせるのも一昼夜だけ。季節によって塩加減を調節してくせがないように仕上げ、適度になれた状態で頂くようにしているという。
ひとつ手に取ってみると関西の寿司らしく、しっかり型で押された上寝かせてあるのでよく締まっている。たっぷり塩漬けされた薄い切り身を使っていた当時の名残なのか、今も身はかなり薄い。それが口に運ぶとほろりと自然に崩れて、こってりしたサバの脂とよくなじむ。ここまでは大阪寿司のバッテラと同じだが、最後に柿の葉の青臭さが一瞬漂うのが独特だ。ヨモギのようなやや苦みのある香りで、濃厚なサバの脂の風味をぴしゃり、おかげで2つ3つと進んでしまう。かつては保存に一役買っていた柿の葉は、食材の鮮度が良くなった今では風味付けの役割を担っているようだ。タネのサバは熊野灘で水揚げされた昔ながらのもののほか、最近は佐賀県の唐津で冬場に揚がるものも使用、こちらは脂ののりが適度なため味がくどくないとか。サバもかつての浜塩ではなく旬の新鮮なものとなったが、脂が生きているので昔と同じ薄い身でも充分に味が出ている。
寿司をつまむ合間に頂くうどんは、関西風の澄んだつゆでワカメがたっぷり。麺をすするたびに柚の香りがほんのりと漂ってくる。お腹が落ち着き体も温まったところで、東大寺へ向けて再び奈良公園の散策へと出発だ。ここから二月堂まで歩いてどれぐらいかかるかご主人に聞くと、「そこの階段を上ってゆっくり歩いて10分」との返事。さあもうひとがんばり、と店を出たとたん、鉛色の雲の間からサッと日が射しこんできた。(2001年11月10日食記)
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