長岡市街さんぽ、長岡を代表する歴史上の偉人の記念館が、市街に二つある。まず訪れたのは、河井継之助記念館。長岡藩の家老職で、北越戊辰戦争に尽力した、長岡を代表する偉人である。以下、展示によると、
長岡は牧野氏7万4000石ほどの城下町で、幕末まで平穏だった藩である。様相が一変するのは、開国期の頃。政府軍(西軍)に攘夷論の藩は攻め立てられ、長岡藩も同様の苦境に立っていた。家老の河井継之助は、「小千谷談判」での西軍(薩長・新政府軍)との講話を求めたが会談は決裂。慶応4年5月19日の、西軍の信濃川強行渡河戦により長岡城は落城した。その後、二カ月間に及ぶ奪還の戦いが強行され、7月24日の八丁沖の強行渡河から長岡城の奪還作戦が始まる。継之助の指揮で夜半に700名で城下に突入する奇襲により、長岡城を奪還。しかし継之助が負傷すると、29日に再び落城する。その後会津に向け、藩兵とその家族1600人以上との「八十里越」の敗走の後、道中で命を落とした…。
戊辰戦争、学校の歴史の授業では鳥羽伏見らへんからとんで五稜郭あたりしかやらないが、各所でこうした旧幕に寄るか、新政府に寄るかの選択が迫られていたよう。戦いを避けたかった継之助の意に対し、小千谷談判で敵方が対応したのは、薩長軍の「若手」。そんな輩に意向を完全スルーされた氏の無念さは、思いはかるに何とも言えないものがある。
にしてもこの城の奪還合戦、日本史の数ある戦史においてなかなか壮絶だったようだ。館の入り口にあったガトリング砲のレプリカ、手動機関銃で1分に200〜300発連射できるとあり、1868年5月19日の長岡城落城の際に、継之助が自ら速射したそう。この時代になると、戦もかなり近代兵器が入っていたようだ。
長岡は牧野氏7万4000石ほどの城下町で、幕末まで平穏だった藩である。様相が一変するのは、開国期の頃。政府軍(西軍)に攘夷論の藩は攻め立てられ、長岡藩も同様の苦境に立っていた。家老の河井継之助は、「小千谷談判」での西軍(薩長・新政府軍)との講話を求めたが会談は決裂。慶応4年5月19日の、西軍の信濃川強行渡河戦により長岡城は落城した。その後、二カ月間に及ぶ奪還の戦いが強行され、7月24日の八丁沖の強行渡河から長岡城の奪還作戦が始まる。継之助の指揮で夜半に700名で城下に突入する奇襲により、長岡城を奪還。しかし継之助が負傷すると、29日に再び落城する。その後会津に向け、藩兵とその家族1600人以上との「八十里越」の敗走の後、道中で命を落とした…。
戊辰戦争、学校の歴史の授業では鳥羽伏見らへんからとんで五稜郭あたりしかやらないが、各所でこうした旧幕に寄るか、新政府に寄るかの選択が迫られていたよう。戦いを避けたかった継之助の意に対し、小千谷談判で敵方が対応したのは、薩長軍の「若手」。そんな輩に意向を完全スルーされた氏の無念さは、思いはかるに何とも言えないものがある。
にしてもこの城の奪還合戦、日本史の数ある戦史においてなかなか壮絶だったようだ。館の入り口にあったガトリング砲のレプリカ、手動機関銃で1分に200〜300発連射できるとあり、1868年5月19日の長岡城落城の際に、継之助が自ら速射したそう。この時代になると、戦もかなり近代兵器が入っていたようだ。
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