ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

旅で出会ったローカルごはん94…広島・平和記念公園の原爆展示&お好み焼きⅠ

2007年09月04日 | ◆旅で出会ったローカルごはん


 自分たちが小学校の頃は、夏休みになり8月に入ると、戦争にまつわる様々な情報があふれていたように思える。当時の様子を特集したドキュメンタリー番組に、空襲や召集による戦死といった悲劇をテーマとするドラマや映画。8月6日、9日になると原爆を主題にした広島・長崎の特集に追悼行事、そして
15日の終戦記念日まで、一連の流れがあったものだ。
 広島の原爆といえば、中沢啓二作の「はだしのゲン」も、小学校4年生の頃に市民公会堂で映画を見たことがある。原爆投下後の町の様子を描写した映像は、いまでも鮮明に記憶している。現在の特殊メークやCGなんてないのに、焼け払った町を彷徨う被爆者のただれた火傷や溶けて垂れ下がった皮膚は、怖いぐらいに凄惨そのもので、原爆の悲劇が実にダイレクトに伝わってきた。
 この原爆被害を伝える名作が、先日ドラマでリメイクされたのでちらっと見てみたが、子供の頃見たオリジナル版よりも、かなりこざっぱりとした印象だった。ゴールデンタイム放映のテレビドラマということもあり、映像表現がきつくならないよう、いささか手心を加えたのだろうか。

 ともあれ、自分たちの子供の頃に比べ、夏のこの時期に戦争をテーマとした情報が、かなり減ってきているのは事実だろう。加えて前述の新旧「はだしのゲン」の比較のように、報じられる情報の質も幾分変わってきている、言ってしまえば、戦争のもつリアリティが希薄になった気もする。
 今後、戦争を事実として知る方々が年老いていくにつれて、社会全体が戦争の実感が希薄になっていき、次第に風化していく。いつしか戦争が、すっかり過去のものになってしまう時が来るのかもしれない。果たしてそれでいいのだろうか、特に子供を持つ身として、ある程度は戦争の悲劇や決して繰り返してはならないことを、子供たちにきちんと伝えることが、親の義務なのはないだろうか。

 と、前置きが長くなったが、そんな訳で今年の我が家の家族旅行は、子供への戦争教育をメインテーマに、広島となった。広島市街で原爆ドームや平和記念公園を見学させるのはもちろん、もう1箇所、瀬戸内海に浮かぶ大久野島という小島も訪れる予定。その理由は大久野島の紹介編で触れるが、実はこの2箇所を合わせて訪れることに、きわめて重要な意図があるのだ。
 羽田から空路、広島空港へ入り、初日は日本三景&世界遺産の宮島を訪れた。旅の初っ端からハードに戦争資料館見物、というのも重いので、まずは鹿と遊んだり、海上に浮かぶ厳島神社の大鳥居まで干潮時に散歩したり、もちろんあなごめしに紅葉饅頭、焼きガキと「私的テーマ」のローカルごはんもバッチリもこなして1日目は無事、楽しく終了。そして2日目は小雨模様の中、まずは原爆被害の象徴である原爆ドームを見学後、やや神妙なムードでいざ、平和記念資料館へと足を向ける。

 平和記念資料館は、自分はもう3~4度見学したことがあり、大まかな展示内容は知っているつもりだった。それが何年か前に展示内容をリニューアルしたようで、これまでは原爆投下後の被害にまつわる展示が中心だったのに加え、様々な展示スペースが増えていた。
 中でも興味深いのが入口を入ってすぐのコーナーで、「なぜ『広島』に原爆が落とされることになったのか」という経緯が説明されている。足を進めるにつれ、広島が原爆投下地に決められた、驚愕すべき事実が多々綴られていて、ここは子供以上に食い入るように展示にのめりこんでしまった。以下、戦前の広島の町の様子、それに則して広島が投下地になった様々な要因、加えてアメリカ側の都合による原爆投下の理由付けなどを、展示からまとめてみよう。

 第2次世界大戦前の広島は、日清・日露戦争で栄えた軍事拠点で、両戦争時には大陸への物資輸送拠点、日中戦争時には三菱重工が進出して工業港となった宇品港をはじめ、陸軍運輸部に大本営、さらに師範学校もある一大軍都だった。よって街も賑わいを見せており、現在も広島を代表する繁華街である新天地や本通界隈には、料理屋やカフェが120軒あまり軒を連ねていたという。これら繁華街は皮肉なことに、原爆の爆心地にすぐ隣接して広がっていたのである。
 その広島に原爆が投下されることとなった理由の前に、アメリカの原爆の開発について簡単に触れておく。もとはアメリカが敵国のひとつであったドイツに対し、ナチスによる核兵器開発を進めているのでは、と懸念を抱いたのが発端で、ドイツへの牽制の意味もあってルーズベルト大統領の主導で核開発の「マンハッタン計画」がスタート。実験も成功し、実用段階へと進んでいった。

 となれば、原爆の投下先はドイツに向くと思いきや、日本が標的になったのは戦後処理に向けたアメリカの思惑、というかご都合がからんでいる。大戦末期にさまざまな戦争終結の選択肢があった中で、アメリカとしてはソ連より主導権を握れること、なお原爆開発への巨額投資に対して、国民に理由付けができることを最優先に、戦争終結の方策を検討していた。一方、日本は敗色濃厚な中、和平を画策したい際に仲立ちをお願いしようとしていたのが、こともあろうに中立条約を結んでいたソ連。これがアメリカの焦りを呼ぶこととなり、原爆の日本投下へ向けての準備が促進されることとなったのだ。
 それにしても、上記の原爆投下を決めたプロセスは、近年の湾岸戦争やイラク空爆の理由付けともほとんど大差ないように思える。アメリカのエゴ、といえばそれまでとはいえ、アメリカの立ち位置が「国際的警察」といった正義に基づくものでは決してないことが、昔も今も変わらないのが垣間見えるように思える。

原爆投下前の平和記念公園周辺(左)と投下後(右)の模型

 日本に原爆を投下することが決まってから、次に検討されたのが「どの都市に投下するか」。候補地を決める条件となった、直径3マイル(4.8キロ)の都市というのは、要はアメリカが開発した原爆の効力が最も得られる規模というのだから、候補地選びは戦争終結のために意味があるかどうかではなく、原爆の実験台として適切かどうかが重視されていたのはは明白だろう。
 1945年4月27日の、第1回目標検討委員会会議では、17都市・地域が候補に挙げられた。全部挙げると東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。自分の住む町や郷里がこの中に入っているという方は、背筋が凍ったのではなかろうか。5月11日の第2回会議では、そこから京都、広島、横浜、小倉の4都市が候補となり、5月28日からこれらの都市への空襲が禁止されたのだが、その理由が「原爆の効力を検証するため、事前の破壊行為を控える」だから恐れ入る。
 7月に入ると、原爆と同じ大きさ・形の模擬爆弾による練習を兼ねた空襲が、富山、宇部、神戸、四日市、春日井、豊田、いわきを中心に展開され、7月25日に最終的に「8月初旬に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に原爆を投下する」ことが決定。投下予定の8月6日が晴天だったこと、連合国軍の捕虜収容所がない(と思われていた)ことが、最終的に広島に決まった理由とされている。

 広島と長崎に原爆が投下されてしまったことは、消すことのできない事実だが、こうして投下先が決まった経緯を追ってみると、何かの条件がひとつ違っていれば、別の都市に原爆が投下されていたことも充分あり得る。横浜や神戸のエキゾチックな港町がすべて破壊されていたかも知れず、京都の数え切れないほどの貴重な歴史的文化遺産が、ひょっとすると全く存在していなかったかも知れない。広島と長崎が運が悪かった、というのではなく、上記の候補都市を始め、日本のあらゆる都市が、当事者となった可能性があることを、もっと認識してもいいのではないのだろうか。

 …いろいろ綴った最後に、名物のお好み焼きでローカルごはんで締めるつもりが、まだまだ原爆にまつわる話が続きそう。食べ物ネタがまったくなくてイレギュラーですが、今回はいったんここまで。次回に原爆の破壊力の説明&市街の人気店「若貴」の破壊力満点のボリュームのお好み焼きで、まとめたいと思います。(2007年8月28日記)



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