子供の戦争教育を兼ねての広島への家族旅行でやってきた、平和記念資料館の展示で、なぜ広島へ原爆が投下されたか、という経緯についてがよく理解できた。いくつもの候補都市の中で、広島が投下地に選ばれたのには様々な理由があるけれど、何かの条件が違っていたら別の都市になっていた可能性があったことは、背筋を寒くさせた。候補地の中には自分が住んでいたことがある都市も、今住んでいる都市も入っており、場合によったら原爆にまつわる諸事が、もっと身近になっていたのかも知れない。
2階からは、原爆の威力とその被害についての展示が続く。パネル展示を過ぎて広いスペースに出ると、右手の一角に瓦礫と火災のジオラマ、そこには大火傷を負った被爆者を模したマネキンが立っており、リアルというか少々おぞましい。ほか被爆者の怪我の様子を写した写真パネルや、焼け焦げた遺品など、少々子供たちには刺激が強いかもしれないが、しっかりと見ておいてほしい事実である。
途中、実物大の原爆の模型を見かけ、足を止めてみる。中規模の都市を一瞬で壊滅させたのだから、巨大な爆弾かと思いきや、長さ3メートル、重さ4トンほどと、結構小柄な印象だ。計画当初の長さよりも全長が短くなったため、「リトルボーイ」という呼称がつけられた、と解説にあるが、無差別殺戮兵器にしては愛らしい名称に、何だか違和感を感じてしまう。
付近には原爆の破壊力と投下の際の基礎データが記されていて、その威力が分かる数値がいくつも並んでいる。この小柄な爆弾にはウラン235が50キロ搭載されており、一瞬のうちに臨界量を越えて、高性能火薬1万6000トンに匹敵する破壊力を持つという。
当日は、この原爆を搭載した爆撃機エノラ・ゲイ号ほか、科学観測機、写真撮影機の3機編隊で、相生橋を投下目標に作戦の実行にかかった。相生橋は当時、太田川の両岸に加えて平和公園のある中州にもかかる、珍しいT字型の橋だったため、上空から視認しやすく投下の際の格好の目標になったのである。
実物大の原爆の模型。これで14万人の死者を出したという
そして高度9600メートルで投下された原爆は、43秒後に相生橋の南東300メートル、原爆ドームに近い島病院の上空600メートルで炸裂後、投下後1万分の1秒で火の玉が直径28メートルに、さらに1秒後に直径280メートルになったのち、熱線と放射能、数十万気圧の爆風とともに、市街一面に拡散した。
火の玉の中心部の温度は30~100万度以上、爆心地の周辺は3000度だったというから、人間も含め様々なものが、一瞬で気化してしまったはず。自分が死んだことすら分からないうちに、気体となって蒸発するというのは、いったいどんなものなんだろうか。
結果、この小柄な爆弾一発のおかげで、死者は14万人、半径2キロ以内の建物は跡形もなく壊れ、広島は文字通り壊滅状態となった。加えて拡散したおびただしい量の放射能により、広島は当時、70年間あまりは草木も生えないだろうといわれていた。それが現在はすっかり復興したどころか、西日本屈指の規模を誇る大都市に成長したのだから、戦後における広島市民のバイタリティーには感心させられる。
さらに原爆による様々な被害状況を伝える資料を順に眺め、結局館内をひと通り見学し終えるまで、2時間近くの時間を費やした。濃密な展示のせいもあり、子供たちも少々くたびれた様子。この展示を見た直後で何だが、ともあれ昼飯の時間ではある。
ちなみに戦後の復興の際に、広島の人々を支えた味が、広島名物のお好み焼きなのである。原爆投下から間もない戦後すぐの頃、繁華街である新天地界隈に集まっていた屋台で、すでにお好み焼きの原型といえる料理が売られはじめていた。当時は「一銭洋食」という名で、水で溶いた小麦粉に何とか集めた野菜くずを具として、鉄板で焼いてソースを塗って供していたという。極度の食糧不足の中、この料理は人気を博し、復興に携わる人たちにとっての活力源ともなったとされている。
後に具材が増えたり、キャベツや麺を入れるようになったりと、現在のボリューム満点の広島風お好み焼きが形作られていくのだが、起源はこのシンプルな一銭洋食だったことを、原爆投下後の広島復興にまつわる話、として、記憶しておくのもいいかもしれない。
そうした経緯をふまえた上で、というよりも、単にみんな腹が減ったということで、お昼ごはんはもちろん、お好み焼きである。戦後に屋台が集中していた新天地界隈は、今ではパルコなどファッションビルが立ち並ぶエリアとなり、屋台街は「お好み村」というビルに収まっている。2階から4階までに30軒のお好み焼き屋が集まる、いわば元祖屋台村、といった感じで、ガイドブックにもとりあげられているせいか、観光客や修学旅行生に人気の観光スポットでもある。
有名なお好み村で食べるのも悪くないけれど、広島の市街にはおよそ2000軒ものお好み焼き屋があり、激しくしのぎを削っているというから、「殿堂」以外の店も面白そうだ。で、訪れた『若貴』は、広島に来るたびに顔を出す店で、お好み村の目と鼻の先の本通りのアーケードにある。エレベータでビルの4階へ上がると、フロアひとつがすべて1軒のお好み焼き屋、というスケールの大きさは、相変わらずである。
自分はいつもの、豚肉に生エビ、生イカ、玉子、中華麺とたっぷりの野菜が入った「お好み焼きスペシャル」。女性と子供は麺が少な目の「レディース」にできるそうなので、ほかの皆はそれにすることに。大皿いっぱいのお好み焼きは、結構な量に見えるが、瑞々しくたっぷりのキャベツ、生から焼いているためプリプリ、シャッキリのエビとイカ、下に敷いたカリカリの豚肉にパリパリに熱が通った麺と、食べ進めると割とじゃんじゃんいける。
甘ったるいドロリとしたソースにマヨネーズも、広島風お好み焼きに欠かせないアイテム。オタフクソースが有名な中、この店ではオリジナルの「若貴ソース」が用意されている。生地にも麺にもソースをしっかりからめ、ひと口、もうひと口。子供にひとり1枚ずつは「レディース」でもちょっと多かったようで、残った分まで平らげたら、さすがに満腹でごちそうさま、となった。
資料館では始終、神妙な面持ちだった子供たちは、お好み焼きで満腹となったところでリラックスしてきたよう。戦争や原爆の悲惨さについて、どれぐらい何を感じてくれたのかは何とも言えないが、今回の旅がきっかけになり、これらに少しでも関心を持つようになってくれればとりあえずよし、という感じだろうか。
かく言う自分も、集中していたリバウンドか、満腹とジョッキのビールのおかげか、ひと息ついてドッと眠気が襲ってきた。みんな一生懸命見学したのだから、今日はお疲れ様、ということでこの後いそいそ観光して回るのはやめ。広島港を臨むホテルに戻ってひと休みした後、館内でボウリングを楽しんだり、近くの海辺を散歩したりと、のんびり家族旅行モードで過ごすことにしよう。(2007年8月29日食記)
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