オーシャンロードに戻り、陸側のけやき通り方面へ。黒石川畔の磯自慢酒造は1830(天保元)年創業、魚介に合う酒です。南北1.2kmの浜通りはその滞在の家があったことで「八雲通り」とも。焼津の水産業が盛んになったのは江戸期からのことで、浜通りは当時、船元や漁師、魚屋などが軒を連ねた、いわば焼津が漁業の町となった礎ともいえる通りです。新港が近い北側の北浜通と、磯自慢酒造のある南側の鰯ヶ島が、かつての漁師町。中ほどの城之腰には鮮魚店や加工場が集まり、今も当時の町並みをとどめています。沿道にはカツオ節の加工を中心に、様々な屋号の看板が。焼津には400を超える屋号が残り、その数日本一とも。浜通りでは苗字より、屋号で呼んだ方が通じやすいそうです。寺社も多く、航海の安全と大漁祈願がされてました。
庚申塔のある札の辻あたりから、城之腰になります。マルハチ村松があるあたりは、今も水産加工の店が集中。格子の重厚な建物の軒に、屋号の縦看板が並び、往時を思わせる町並みが続いています。だしの「マルハチ村松」と生利節の「ぬかや斎藤商店」が隣接。あたりには、カツオの香ばしい匂いも漂ってきます。城之腰の中ほどにある常照寺。漁師が引き揚げた魚藍観音ほか、六地蔵の先には吹出物に霊験ある、瘡守稲荷も。商店の軒先には、懐かしいホーロー看板も健在です。浜通りは、かつて海岸線だったオーシャンロード付近の防潮堤の、すぐ内側。そのため高潮と浸水に対し、様々な防護策がされました。屋根が低いのは風除け、通りと平行なのは波の力をいなし流されにくくするためです。随所に見られる生活感あふれる路地も、寄せた波を抜くために設けられてました。
小泉八雲が夏に滞在した、魚商人の山口乙吉宅跡も通り沿いに。八雲はよく、近隣の和田浜へ泳ぎに行ったそうです。このあたりから北浜通に入り、平入り瓦屋根の建物が並びます。かつての船元と漁師の家が混在、間口などが異なります。「北の弁天さん」と呼ばれる護信寺には、木彫りの弁財天を合祀。漁師の奥さんや家族が、折に触れ海上安全を祈った弁天様です。通りの北側には、小泉八雲風詠の碑も。氏は作品「焼津にて」を綴っています。古びたアーチをくぐり、新川橋で浜通りを後に。並行する黒石川は、焼津港へ材木を運ぶため設けた運河です。
再び船玉浦神社を見て、船玉通りを焼津駅方面へ。大漁旗の染工所も見られ、婚礼や節句などの祝いにも贈られるそうです。「あらや三神社」の一つ、青木神社は大黒様を祀り、海神の船玉浦神社、恵比寿の西宮神社との御朱印巡りも人気だそう。片アーケードの通りに入ると焼津駅前通り商店街へ、地元のお客向けの生活感ある店舗が軒を連ねます。市のキャラクター「やいちゃん」に迎えられ駅前へと到着します。
庚申塔のある札の辻あたりから、城之腰になります。マルハチ村松があるあたりは、今も水産加工の店が集中。格子の重厚な建物の軒に、屋号の縦看板が並び、往時を思わせる町並みが続いています。だしの「マルハチ村松」と生利節の「ぬかや斎藤商店」が隣接。あたりには、カツオの香ばしい匂いも漂ってきます。城之腰の中ほどにある常照寺。漁師が引き揚げた魚藍観音ほか、六地蔵の先には吹出物に霊験ある、瘡守稲荷も。商店の軒先には、懐かしいホーロー看板も健在です。浜通りは、かつて海岸線だったオーシャンロード付近の防潮堤の、すぐ内側。そのため高潮と浸水に対し、様々な防護策がされました。屋根が低いのは風除け、通りと平行なのは波の力をいなし流されにくくするためです。随所に見られる生活感あふれる路地も、寄せた波を抜くために設けられてました。
小泉八雲が夏に滞在した、魚商人の山口乙吉宅跡も通り沿いに。八雲はよく、近隣の和田浜へ泳ぎに行ったそうです。このあたりから北浜通に入り、平入り瓦屋根の建物が並びます。かつての船元と漁師の家が混在、間口などが異なります。「北の弁天さん」と呼ばれる護信寺には、木彫りの弁財天を合祀。漁師の奥さんや家族が、折に触れ海上安全を祈った弁天様です。通りの北側には、小泉八雲風詠の碑も。氏は作品「焼津にて」を綴っています。古びたアーチをくぐり、新川橋で浜通りを後に。並行する黒石川は、焼津港へ材木を運ぶため設けた運河です。
再び船玉浦神社を見て、船玉通りを焼津駅方面へ。大漁旗の染工所も見られ、婚礼や節句などの祝いにも贈られるそうです。「あらや三神社」の一つ、青木神社は大黒様を祀り、海神の船玉浦神社、恵比寿の西宮神社との御朱印巡りも人気だそう。片アーケードの通りに入ると焼津駅前通り商店街へ、地元のお客向けの生活感ある店舗が軒を連ねます。市のキャラクター「やいちゃん」に迎えられ駅前へと到着します。