ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

らあめん次元@高岡駅前

2020年12月12日 | 旅で出会った食メモ
漆黒のスープの見た目から「富山ブラック」と称される、この地のご当地ラーメン。そもそもは戦後の復興で働く労働者のための味付けで、塩分の補給やご飯のおかずになるよう、濃いめの味付けにしたのが所以とされている。醤油をがっつり使ったその見た目通り、なかなかしょっぱ目でインパクトがある濃さが特徴なのだとか。

高岡駅前の「次元」のラーメンは、とんこつベースに焦がし醤油、さらにチャーシューの煮込みダレも使い、重層で複雑なしょっぱさに仕上がっている。太麺の縮れ具合がしっかり目で、スープをがっちり絡めるのに向いている。麺をすすると、とがってなくまろやかで厚みのある醤油味が、常習性が出そうな強い引き。が、すするうちにさすがに喉が渇いてしまう。一説にはラーメンライスのご飯、さらにラーメンに添えたお冷が、もっともうまく感じられるラーメンとも。

こちらでは「ご当地グルメセット」と称し、高岡名物の高岡コロッケ、とろろ昆布おにぎりつきのメニューもある。高岡はコロッケの消費量が、日本有数なことから名物になったそうで、具は店それぞれと定義はなんともおおらか。白エビを使う店もあるそうだが、こちらのはシンプルなジャガイモコロッケ。昆布おにぎりも、富山県が世帯あたりの昆布消費量が日本一なのにあやかっており、使うのは白とろろ、黒とろろ、おにぎり昆布におぼろ昆布など、こちらもおおらかだ。

いずれの名物もブラックのスープに相性がよく、濃い味のスープのサイドオーダーにはありがたい。昼に食べた金屋町の和食は繊細な味付けが印象に残ったが、これはこれで舌に記憶が残る味かも?

かけそばつかだ@直江津

2020年12月12日 | 旅で出会った食メモ
上越のローカルソウルフードと聞いてやってきたこちら、駅そばかと思ったら歩いて10分ほど、関川畔で車両基地にも面した、ともすれば殺風景な場所にある。なのに駐車場はクルマで埋まっており、店内はまさに働く人の食堂たる様相で、男ひとり客が黙々とすすっている。タクシー、運送系の方に混じり、鉄道の制服の方がいるのも、立地ならではだ。

創業70年のこの店、もとは直江津駅前にあり、製麺所を併設しているのは当時と変わらない。うどん、そばほか中華麺もつくっていて、そばつゆで食べる「かけ中か」が人気メニュー。自分は天そばにしたが、カツオたっぷりでとったつゆがめちゃくちゃうまく、玉ねぎとゲソ入りの天ぷらは衣がつゆに染みてふやけるのが早く、逆によく含んでいい味になる。値段も240円は、まさに製麺所価格。

直江津は泊まったり歩いたりしたことがない、乗り換え通過形の街なのだが、これで乗り換え時間に余裕を取る楽しみが、できたというものだ。

世界ノトナリ@高田

2020年12月12日 | 旅で出会った食メモ
愛を叫ぶのは世界の中心だが、高田でコーヒーを飲むなら世界ノトナリ。なんてキャッチフレーズなぞないけれど、大町通りの中心であり映画館の高田世界館のトナリにある喫茶店がこちら。この映画館のファンな方が、映画を観た後に余韻に浸れる場所として、オープンさせた店である。建物は築60年の町家をリノベしており、擬洋風の映画館の隣に高田伝統の町家が、ピッタリハマっている。

コーヒーは地元の焙煎所の豆で入れた挽きたてでいれており、アイスでいただくと軽くスッと入っていく感じ。単品で頼むとアーモンドの菓子がお茶受けについていて、こちらはガッチリした甘さにリラックスできる。フードはキーマカレーほか、トーストやサンドイッチが揃い、キャベツとベーコンのトーストはシャキシャキに瑞々しいキャベツが主張。厚切りベーコンがゴロゴロたっぷりなのも嬉しい。

アンティークの扉の向こうは、雁木の町家の街並み。窓を覗くと高田世界館の堂々とした館。高田の町のど真ん中にいることを実感できる、町家カフェである。

高田てくてくさんぽ11

2020年12月12日 | てくてくさんぽ・取材紀行
瞽女の続き。越後の瞽女は、長岡藩と高田藩の二つの系統があった。高田藩の瞽女は「座元制」という組織になっていて、14軒の家ごとに親方がおり、それを座元が束ねる仕組み。高田では大町や本町、旧奥州街道の町家に瞽女の家が集まっていた。後述する、最後の親方となった杉本家の町家も、現存しているという。目の見えない娘が親に連れられ、親方に弟子入りする形で、年齢は6歳ぐらい。弟子入りしたら親方の養女となり、以後は親方と生活を共にする。3年目に祝い、7年で名替えして「姉さん」となり一人前に。年季は10年で明け、13年になると親方になれ弟子を取れるようになる。

また高田の瞽女で注目すべきところは、共存の精神が強かった点。芸の習熟が芳しくない弟子には、本人にあった芸や仕事をあてがうなどして、個々の資質を生かしていく。収入は瞽女の力量によって変わることなく、同じ座元内の瞽女には均等割で配分される。さらに座元同士も協力し合っており、芸の教え合いをしたりなどの交流もあったという。座元同士、瞽女同士が共存できることを第一とし、生きていく上でみんなで助け合う、ともに支え合う精神が表れている。

高田の瞽女で名が知られているのが、「最後の親方」と称される杉本キクイさんだ。昭和39年に最後の旅に出るまで、最後の瞽女とされる弟子のシズさん、手引きの難波コトミさんと連れだっての巡業を繰り返した。芸事もその振る舞いも秀でており、また優れた座元としても語り継がれている、高田瞽女の象徴的な方である。ちなみにコトミさんは上牧の生家を離れ、自分から高田へ来て弟子入り。16歳と遅く芸事の習得がやや厳しかったこともあり、手引きとしてその特性を生かされたのだそうである。

高田の瞽女の伝承者としてもう一人挙げられるのが、画家の斎藤真一氏だ。ヨーロッパを旅した後に東北を巡った際、津軽三味線のルーツが高田瞽女が彼の地に渡り伝えた技にあると聞いて、杉本キクイ親方と出会ってその技量と人柄に感銘を受ける。これをきっかけに高田に通って瞽女の取材を続け、「越後瞽女日記シリーズ」を描いた。市に寄贈された160点のほか、ここには個人寄贈された絵が並び、赤など原色をもとに瞽女の力強く、かつどこか憂いのある表情が描かれている。

氏に描かれた絵の中で「はなれ瞽女」とあるのは、いわば親方から破門され一人で巡業する瞽女のことである。破門の理由は、ご法度だった男性関係が主で、芸で生きる不自由な身の者が、気持ちを乱し芸に影響するのが理由とされる。はなれ瞽女は作家である水上勉の作品「はなれ瞽女おりん」にも描かれ、盲目の女旅芸人と脱走兵の恋物語を、岩下志麻と原田芳雄が演じた映画にもなっている。館内には作品の展示コーナーが設けられ、ポスターには格子窓を背に雁木で三味線をひく、瞽女の立ち姿が凛とした絵柄だ。

「自立」の術として身につけた芸事と、それに裏付けられる自らの立ち位置への信念。瞽女の巡業はいわば、障害者による地域への発信であり、社会還元でもあったといえる。高田の街に古くから、障害者福祉や障害者芸術に対する理解とリスペクトがあったのは、瞽女が培ってきたこうした足跡によるところが、大きく影響しているのではなかろうか。

高田てくてくさんぽ10

2020年12月12日 | てくてくさんぽ・取材紀行
奥州街道沿いにある「瞽女ミュージアム高田」は、高田を拠点にしていた瞽女(ごぜ)にまつわる資料を揃えている。建物は昭和12年築の町家、麻屋高野を改しており、間口2軒で奥行が60mほどある間取り、広い吹き抜けに回廊を通した造りなど、高田の典型的な町家の構造も見ることができる。

瞽女は一言でいえば、盲目の女旅芸人である。師匠である親方に付き、手引きと呼ばれる案内役と連れ立って3人ほどで、頸城地方をはじめ北信濃、時には佐久まで足を伸ばし、農村の村々で歌や三味線などを披露して収入を得ていた。暮らしはほとんどが旅の中で、巡業は2月1日から12月27日までと年間300日、1回の行程は2ヶ月に及ぶ。座敷の晴れ着、髪結道具、行き先によっては自炊の用意も加えた旅荷は、15キロもの重さ。足元は草鞋や地下足袋で、雪深い地だけに辛いものがあったという。

江戸期には、視覚に障害を持ったものは自立の選択肢が限られており、按摩と瞽女が数少ない職であった。瞽女は6歳ごろに親方に弟子入りして、三味線、語り芸の段ものなどの瞽女歌の稽古を重ねていく。親方の声のみを頼りに瞽女歌や段ものを覚え、三味線も親方が後ろに回り手を取って教えるなど、盲目ゆえの苦労は枚挙にいとまがない。加えて稽古はほぼ巡業をしながらで、芸事だけでなく日々の暮らしの作法や躾も厳しいものだったという。四六時中、気を抜く間のない鍛錬の繰り返し。まだ親元が恋しい年の娘にとって、その辛さは想像にかたくない。

そうした修行の甲斐もあり、当時瞽女は訪れる各村々で、大変な尊敬の念を持たれていたという。高田藩は当地はほぼ農地で、労働が厳しく娯楽が少ない土地柄だった。そんな中で年に数度、瞽女の芸事を見ることは、農民にとって日々の辛さを乗り越える楽しみであった。芸の素晴らしさに加え、所作や振る舞いの優美さ、さらに瞽女自らも辛い日々なのに、おくびにも出さない凛とした姿。田畑を連れ立って歩く姿に拝んだり、自身をかえりみて律したりという話もあり、障害を持った気の毒な者ではなく、芸も人間性も卓越した者として、畏敬の念を持たれていたのである。

各村での瞽女の迎え入れにまつわる話にも、そんな様子が受け取れる。1000軒あったという瞽女が滞在する「瞽女宿」は、地主や豪農が提供しており、寝食をすべて持ってお世話をする。芸を見にくる村人は、ひとりあたり茶碗に1杯の「瞽女米」を報酬として持ち寄るのだが、これがかなりの量と重さになってしまう。そこで瞽女は瞽女宿にこの米を売り、お金に替えるのだ。面白いのはその米を、瞽女宿へ村人が改めて買いにくること。瞽女米は子供の体に良いと珍重されており、こんなところにも瞽女への敬いの気持ちが表れている。