ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

高田てくてくさんぽ11

2020年12月12日 | てくてくさんぽ・取材紀行
瞽女の続き。越後の瞽女は、長岡藩と高田藩の二つの系統があった。高田藩の瞽女は「座元制」という組織になっていて、14軒の家ごとに親方がおり、それを座元が束ねる仕組み。高田では大町や本町、旧奥州街道の町家に瞽女の家が集まっていた。後述する、最後の親方となった杉本家の町家も、現存しているという。目の見えない娘が親に連れられ、親方に弟子入りする形で、年齢は6歳ぐらい。弟子入りしたら親方の養女となり、以後は親方と生活を共にする。3年目に祝い、7年で名替えして「姉さん」となり一人前に。年季は10年で明け、13年になると親方になれ弟子を取れるようになる。

また高田の瞽女で注目すべきところは、共存の精神が強かった点。芸の習熟が芳しくない弟子には、本人にあった芸や仕事をあてがうなどして、個々の資質を生かしていく。収入は瞽女の力量によって変わることなく、同じ座元内の瞽女には均等割で配分される。さらに座元同士も協力し合っており、芸の教え合いをしたりなどの交流もあったという。座元同士、瞽女同士が共存できることを第一とし、生きていく上でみんなで助け合う、ともに支え合う精神が表れている。

高田の瞽女で名が知られているのが、「最後の親方」と称される杉本キクイさんだ。昭和39年に最後の旅に出るまで、最後の瞽女とされる弟子のシズさん、手引きの難波コトミさんと連れだっての巡業を繰り返した。芸事もその振る舞いも秀でており、また優れた座元としても語り継がれている、高田瞽女の象徴的な方である。ちなみにコトミさんは上牧の生家を離れ、自分から高田へ来て弟子入り。16歳と遅く芸事の習得がやや厳しかったこともあり、手引きとしてその特性を生かされたのだそうである。

高田の瞽女の伝承者としてもう一人挙げられるのが、画家の斎藤真一氏だ。ヨーロッパを旅した後に東北を巡った際、津軽三味線のルーツが高田瞽女が彼の地に渡り伝えた技にあると聞いて、杉本キクイ親方と出会ってその技量と人柄に感銘を受ける。これをきっかけに高田に通って瞽女の取材を続け、「越後瞽女日記シリーズ」を描いた。市に寄贈された160点のほか、ここには個人寄贈された絵が並び、赤など原色をもとに瞽女の力強く、かつどこか憂いのある表情が描かれている。

氏に描かれた絵の中で「はなれ瞽女」とあるのは、いわば親方から破門され一人で巡業する瞽女のことである。破門の理由は、ご法度だった男性関係が主で、芸で生きる不自由な身の者が、気持ちを乱し芸に影響するのが理由とされる。はなれ瞽女は作家である水上勉の作品「はなれ瞽女おりん」にも描かれ、盲目の女旅芸人と脱走兵の恋物語を、岩下志麻と原田芳雄が演じた映画にもなっている。館内には作品の展示コーナーが設けられ、ポスターには格子窓を背に雁木で三味線をひく、瞽女の立ち姿が凛とした絵柄だ。

「自立」の術として身につけた芸事と、それに裏付けられる自らの立ち位置への信念。瞽女の巡業はいわば、障害者による地域への発信であり、社会還元でもあったといえる。高田の街に古くから、障害者福祉や障害者芸術に対する理解とリスペクトがあったのは、瞽女が培ってきたこうした足跡によるところが、大きく影響しているのではなかろうか。

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