ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

濱松たんとの濱松ホルモンとたんとぎょうざ@浜松

2019年07月07日 | 町で見つけた食メモ
ローカルごはんでも触れたこの店、浜松と遠州の料理が盛りだくさんかつ安く、当地の味をざっと試してみるのにはオススメの店である。

浜松といえばギョウザだが、この店によると味噌ホルモンと一緒に食べるのが、地元の流儀という。なので締め飯がわりにそれぞれをオーダー、ギョウザは三方原のキャベツに「遠州の夢の夢ポーク」の地元食材を使い、小ぶりながら野菜と挽肉のジューシーさが嬉しい。モヤシを添えるのが浜松餃子スタイルで、一緒に食べるとシャキシャキと野菜感が増幅されてヘルシーだ。

味噌仕立てのその名も「濱松ホルモン」は、朝挽きの鮮度のいいモツを、こちらもモヤシと炒めてある。ギョウザとモヤシとホルモンとをまとめていけば、肉と野菜のバランス良いパワーフード。辛めの味噌味が遠州の地酒「華の舞」の冷やを進めてくれる。

な訳で今宵も天下泰平、あしたは浜松市街を歩いてみましょう。

旅で出会ったローカルごはん…浜松 『濱松たんと』の、三方原馬鈴薯のじゃがバターと遠州焼き

2019年07月07日 | ◆旅で出会ったローカルごはん
「三方原の合戦」にまつわる史跡はいずれも、徳川家康の負け戦だった名残をとどめていた。戦国三傑の中では晩成だった家康は、まだこの当時は軍略家である武田信玄とやり合うには、技量も経験も足りなかったのだろう。しかしながら家康は、この戦の敗因を検証することで、「長篠・設楽原の合戦」で信玄の没後に家督を継いだ勝頼を退け、その後の動乱も乗り越えて天下人となっている。「出世大名」となるに至るまで時間はかかったものの、戦に治世に様々な経験を積んだことが活きたからなのは、間違いないだろう。

その三方原を周遊していると、赤茶色をした土の畑が広がるのが、やたら目に入ってくる。三方原台地の土壌は強酸性なためで、野菜などの作物が育たず古くから入植者たちを悩ませていた。この環境で栽培が成功したのが、ジャガイモだ。土中の酸がデンプンの形成を促進し、赤土ならではの水はけの良さが身質の白さときめ細かさを作り出す。いわば、デメリットを利点に転じて生み出された特産品といえるだろう。三方原台地に挑み得た経験値から成ったもの、と思えば、ジャガイモの特産化も家康公の出世と並び立つ成果に見えてくるような。

その名も「三方原馬鈴薯」というジャガイモ、現在では高品質で味が良いと評価が高く、浜松のブランドローカル野菜に「出世」している。なのでぜひ産地で味わってみたく、浜松市街に戻って味わえる店がないか調べたところ、浜松駅の南口に遠州浜松料理を標榜する「濱松たんと」という居酒屋を見つけた。店内は地元客でほぼ埋まっており、カウンターに隙間を見つけてなんとか落ち着けたほどの盛況ぶりだ。まずはビールを頼むと「浜松の乾杯流儀、読んでおいてください」と、店のお姉さんが能書きを置いていった。

それによると、この店では家康公ゆえんで出世の街を標榜する浜松にちなみ、「出世の盃」との儀式がお約束とある。お客が杯を掲げ「やらまいか!」と発声したら、店の皆さんが「おいしょお!」で応える。やらまいかは「やったろうじゃん」の意で、前向きな意気込みに祝いの掛け声で返して、活躍祈念をしてもらえるというから気持ちよさげだ。一人客だとちょっと恥ずかしいが、声を上げジョッキを掲げたら、今宵の宴もやる気マンマンに。お通しの浜名湖青のりとオクラのせ冷奴でジョッキを傾けつつ、 まずは二品の「遠州オリジナル」からいってみようか。

先に運ばれてきた「遠州焼き」は遠州版お好み焼きで、たっぷりのネギに紅ショウガのほか、賽の目状に切った具材がゴロゴロ入っている。正体はなんと、角切りのたくあん。乳酸菌系の強い酸味に存在感があり、コリコリの食感はどの地域のお好み焼きもない新体験だ。小麦粉の焼き加減はレア目でゆるく、漬物系の食感をトロリとくるんでいる。遠州焼きは食べ物が少ない時代、肉などが使えずに考案された経緯があり、特産で安価だったたくあんが主役に「出世」したご当地粉物といえる。

そしてお目当ての三方原馬鈴薯は、居酒屋メニューのじゃがバターで素材そのままの味を試してみた。水分は少なめで締まっており、粘りはない分ホコホコと軽い。口の中で熱々のを転がしているうちに、ゆるやかに甘さが出てくる。バターのとろみと出合ってちょうどいいジューシーさなのが、ジャガバター向きなのかも知れない。また芋特有の土の香りがさほどないのが上品で、これが三方原の赤土による手柄なのだろうか。

新規のお客が入れ替わり立ち替わり来店するたび、あちこちで「やらまいか!」「おいしょお!」の乾杯が響く。敗れてもそれを糧に立ち上がる、家康公のスピリッツ。栽培条件が悪かろうとうまく利用して結果を出す、ジャガイモ農家の機転。さらにこの店に集う、地元客の発声。様々な「やらまいか!」から浜松魂を刷り込まれたような、三方原台地を巡っての一夜である。

くれたけインアクト浜松@浜松

2019年07月07日 | 宿&銭湯・立ち寄り湯
浜松三方原てくてくさんぽの宿は、駅前のこのホテル。くれたけ系は市街にたくさんあり、ここはオーソドックスなビジネスホテルだ。部屋はコンパクト、セミダブルベッドは固めで寝やすい、窓からは向かいのビルの裏側越しにアクトシティの頭がのぞく。過不足なしのレベル感か。

では晩御飯、浜松名物三昧のお店に行きましょうか。

浜松三方原てくてくさんぽ4

2019年07月07日 | てくてくさんぽ・取材紀行
今日歩いたのは三方原台地の北端にあたり、台地が落ち込んだ北限に位置する「滝峯の谷」沿いに史跡が見られる。滝峯不動尊は斜面の杉木立に囲まれて社があり、湧き水が滝となり流れ落ちる音が、谷底に下る参道からも響いてくる。滝行や願掛けも行われたとあり、広々した高台から一転した神秘的スポットである。

この滝峯の谷底まで下ったところからは、6個の銅鐸が発掘されている。滝峯才四郎銅鐸が出土した場所は「銅鐸公園」になっており、半分埋まった形の銅鐸のレプリカが展示されていた。ちゃんと穴が掘られており、斜面に埋めていたのは祭りをした場所なのだろうか。

どちらも祝田の旧道と同様、訪れる人はほとんどいないらしく、滝峯不動尊は台風で壊れた鳥居がそのまんま、銅鐸公園は足元はドロドロで蜘蛛の巣だらけだった。戦国史だけでなく古代史の史跡も見られる三方原、歴史さんぽの台地として、浜松散策プラスアルファでPRしてみたらどうだろうか。

では三方原さんぽはコンプリート、浜松市街へ戻りましょう。

浜松三方原てくてくさんぽ3

2019年07月07日 | てくてくさんぽ・取材紀行
三方原の合戦で、武田信玄の「家康スルー」にゆかりのある史跡が、三方原霊園から徒歩圏に二ヶ所ある。「根洗(ねあらい)の松」は、三方原霊園から姫街道を5分ほど北に歩いたところにある、松の古木。あたりは武田勢が、祝田の坂を下らず反転して陣を置いた場所とされ、 現在の松は二代目ながら、 見事な枝ぶりを見せている。

ここから国道から外れ、台地の北の端にあたる部分をしばらくゆく。周囲は畑が広がり見通しが良く、武田勢がこのあたりに陣を構えたのがイメージできる。そのうち舗装が途切れると道幅が極端に狭くなり、行き止まりに思えたところから林の中の斜面を一気に落ち込んでいく。この先が、武田勢が徳川をスルーして下ると見せかけた「祝田(ほうだ)の坂」の旧道である。幅と急さからして一駒ずつしか通れないため、武田勢がここを下るには隊を崩す必要がある。家康はそれを狙い、坂の途中で守勢しづらい状態になったところを背後から突こうとしたのである。

日頃からほとんど歩く人がいないようで、道は古道というよりは手付かずで荒れた感じがする。鬱蒼とした林の中、右には台地の斜面がはだかり、左は深い谷が刻まれ、さらに湧水で足元がぬかるみ転げ落ちそうでおっかない。これは坂の上、しかも背後から攻められたらひとたまりもない。 家康の戦術が理解できる上、そうくるのを読んで逆に利用した信玄の知将たるや。よろよろ下りながら、熱い攻防に思いをめぐらしてみたりして。

下り切ったら帰りは並行する国道275号に出て、来た方向へと登り返した。旧道に比べてカーブを描きながらの緩い登りだが、三方原台地がせり上がっていくのは感じられ、たまに振り返ると都田川越しに金指から細江方面の河岸平地も見下ろせた。ちなみに旧道、根洗の松の前に小さな案内板が立つほかは、道中に道標も碑も説明もない。訪れる人が少ないのはそのせいかも知れないが、三方原の合戦において鍵となる「聖地」なのにもったいない気がする。

合戦の史跡のほかにも、道中で見かけた見どころもいくつか、触れておきましょう。