ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

長岡てくてくさんぽ6

2016年11月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
長岡市街さんぽの偉人編、もうひとつの山本五十六記念館へも足を伸ばした。連合艦隊司令官としての軍人のイメージが強いが、展示によると意外に知らなかった人物像が。以下、

もとの名は高野五十六といい、儒学者の家系に生まれた。後に旧長岡藩家老の山本帯刀家を継いだ。そのせいか軍人というよりも学者肌で、世界を視察で巡りアメリカ駐在員も経験、早くから石油や航空に注目しており、メキシコに石油の視察をしたり、リンドバーグの大西洋横断にも触発されていた。
海軍軍縮条約に尽力し、開戦や三国同盟には反対の姿勢など、戦いよりも国の安全を望んでおり、その意に反して連合艦隊司令長官になりつつも、早期講和を望んでいた…、

こちらの展示の目玉は、フロア中央に配された海軍一式陸上攻撃機の左翼。昭和18年4月18日に、パプアニューギニアのブーゲンビル島にアメリカ軍により撃墜、戦死した際のもので、平成元年に日本に戻されたものだそうだ。

展示には結婚当時や家族の写真が多く、家族愛な人物だったのも伺える。近隣の生家跡は山本記念公園となっており、銅像ほか復元された生家が建つ。二階の勉強部屋から、そんな氏の足跡や戦争への思いを偲んでみたり。

長岡てくてくさんぽ5

2016年11月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
長岡市街さんぽ、長岡を代表する歴史上の偉人の記念館が、市街に二つある。まず訪れたのは、河井継之助記念館。長岡藩の家老職で、北越戊辰戦争に尽力した、長岡を代表する偉人である。以下、展示によると、

長岡は牧野氏7万4000石ほどの城下町で、幕末まで平穏だった藩である。様相が一変するのは、開国期の頃。政府軍(西軍)に攘夷論の藩は攻め立てられ、長岡藩も同様の苦境に立っていた。家老の河井継之助は、「小千谷談判」での西軍(薩長・新政府軍)との講話を求めたが会談は決裂。慶応4年5月19日の、西軍の信濃川強行渡河戦により長岡城は落城した。その後、二カ月間に及ぶ奪還の戦いが強行され、7月24日の八丁沖の強行渡河から長岡城の奪還作戦が始まる。継之助の指揮で夜半に700名で城下に突入する奇襲により、長岡城を奪還。しかし継之助が負傷すると、29日に再び落城する。その後会津に向け、藩兵とその家族1600人以上との「八十里越」の敗走の後、道中で命を落とした…。

戊辰戦争、学校の歴史の授業では鳥羽伏見らへんからとんで五稜郭あたりしかやらないが、各所でこうした旧幕に寄るか、新政府に寄るかの選択が迫られていたよう。戦いを避けたかった継之助の意に対し、小千谷談判で敵方が対応したのは、薩長軍の「若手」。そんな輩に意向を完全スルーされた氏の無念さは、思いはかるに何とも言えないものがある。

にしてもこの城の奪還合戦、日本史の数ある戦史においてなかなか壮絶だったようだ。館の入り口にあったガトリング砲のレプリカ、手動機関銃で1分に200〜300発連射できるとあり、1868年5月19日の長岡城落城の際に、継之助が自ら速射したそう。この時代になると、戦もかなり近代兵器が入っていたようだ。

長岡てくてくさんぽ4

2016年11月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
新潟県長岡散策、市街の西寄りには「寺町」的なお寺が集積する一角がある。建物の造作が様々で、コンクリート建築の長永寺や西入寺、銅葺きの大屋根の妙宗寺、浄土真宗でオリエンタルなモスクのような西福寺、早くも豪雪に備えた善行寺など。意匠の違いを楽しみつつの散策も、面白そうだ。

長岡てくてくさんぽ3

2016年11月27日 | てくてくさんぽ・取材紀行
此度の要件がなければ、用のない街扱いになりそうな新潟県長岡。毎度だが、いざ歩けば町の「ツボ」はいろいろ見えてくるもの。おさんぽ目線にて、面白がりながら歩いてみましょう。

駅から南へ下ったところの柿川は信濃川の支流で、長岡市街を経ることから物流の拠点として機能していた。当時、新潟湊も長岡藩の管理下にあり、蝦夷地からのニシンや昆布が荷下しされ、魚沼や十日市、六日市の米が発送される中継地として、長岡は繁栄したという。柿川の流域には6つの河戸(荷揚げ場)が設けられ、水運権の収入がかなりのものだったそうである。

現在の柿川は、流れに沿った遊歩道が整備され、親水護岸や東屋も設けられているなど、ちょっとした水とのふれあいの場となっている。殿町稲荷神社には鳥居の奉納があり、都橋の先には桜や紅葉や柿の木などの季節感にあふれる。また神明神社には、長岡空襲の際の慰霊の説明板もある。水辺の散策路として、市街散策の注目のエリアである。

ローカル魚でとれたてごはん…長岡 『長岡小嶋屋』の、ニシン煮とへぎそば

2016年11月27日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
牧野家7万4000石の城下町である、新潟県長岡市。信濃川に隣接し三国街道などの交差点であることから物流の要衝、また「米百俵」の逸話のように幕末〜近代に活躍した偉人を輩出した地であり、市街には史跡や名残、足跡が点在している。新幹線から駅に降り立つと、長岡花火のモニュメントがお出迎え。市街へと歩き出せば、歩道の随所に「雁木」と呼ばれる小屋根が設けられているのが目に入る。豪雪地帯ならではの対応だが、11月末の晴天のもと、まだこのお世話にならずに町歩きが楽しめそうである。

駅から南に数分歩くと、柿川という小川に出くわした。流れに沿って遊歩道が整備され、親水護岸や東屋も設けられているなど、ちょっとした水とのふれあいの場となっている。市街の西部を巻くようにゆく流路から、かつては信濃川の水運に利用されてきた河川でもある。当時の長岡藩は、西廻り航路の寄港地である新潟も治めており、上流の十日町や六日町からの米などの荷を、ここで大型の船に積み替えて新潟へと運んでいた。柿川の流路には6つの河戸(荷揚げ場)が設置され、ここを通過する際の水運権の収入はかなりのものだったという。

川と並行する柿川通りの近くには繁華街の殿町が広がり、川に沿って料亭もいくつか見られるなど、今もなお水運の恩恵であたりが栄えたことが伺える。長岡は海や港から離れた立地のため、ローカル魚はこうした町の所以から見出すこととなりそうだ。柿川畔の散策後に、殿町にあるそば屋「長岡小嶋屋」へ。昔ながらの木造の板壁の建物にひかれて暖簾をくぐり、品書きを一覧するとそば前にニシン煮があり、思わずニヤリとする。北前船の寄港地に卸される蝦夷地からの「下り荷」の、代表といえば身欠きニシン。魚沼など信濃川流域の町村で、古くから食べられていたことから、ニシンは長岡を経ての水運に所以がありげだ。

長岡に蔵がある「吉乃川」とともにオーダーしたら、ゼンマイと車麩との煮付け盛り合わせで出された。ニシンはほろりと箸でくずれやすく、味はとても淡い。塩干物特有のゴワゴワさ、塩辛さがなく、ビシッと辛口の「吉乃川」を含むと、後味がクッと甘く引き立つのがいい。極太のゼンマイ、出し汁ヒタヒタの車麩とも穏やか目の味のため、つい箸が進み酒が追いつかずになってしまう。なので早めにそばへと切り替え、店の看板である「へぎそば」を追加した。そばといってもれっきとしたローカル魚料理で、「ふのり」という海藻をつなぎに使っている、この地方特有のそばなのである。

へぎそばは名の所以である、「へぎ」という杉板で作った角盆に盛られており、U字型の単位ごとにそばが小分けされている。箸に引っ掛けてつゆにひたして、ひとまとまりをズッ、とひとすすり。クキリコキリと軽快な歯ごたえの後、舌触りがとてもなめらかで、ややヌルリと感じるのがふのりの効果なのだろうか。そばというより、何がしかの海藻をそのままつるつるやっているようにも感じられ、雑穀の引っ掛かりがなくスルリストンと喉から落ちていく、不思議な食感のそばである。

へぎそばのローカル魚的要素は、水運ではなく地場産業に所以がある。長岡市の南に隣接する小千谷市の工芸品「小千谷縮」の生産において、織糸の強化や仕上げの形成にふのりを用いていた。それをつなぎにしてそばを打つことで、独特の歯ごたえと舌触りが出されているという。この店の味の秘訣は、石臼挽きの粉と、ていねいに選別した天然物のふのり。ちなみにふのりの含有量が多いほど、なめらかかつ腰が出るのだそうだ。内陸に位置する小千谷の染物職人の食ながら、むしろ日本海の漁師そばのような感じな気もする。