その八丁堀時代、本当に最後の昼食は、15時頃に底抜けの空腹を抱えて腹いっぱい飯を食って締めくくり、となった。今では華の銀座を職場にする身(笑)となったけれど、お昼は「安くて量が多くて14時過ぎてもやっている」店を思い出しながら再訪している、といった状況。結局のところ、八丁堀時代と食生活は、そんなに変わっていないようである。
八丁堀の事務所の裏口を出て、首都高に沿った車の抜け道のような通りをやや行ったところに、その『キッチンスイス』の小ぢんまりした店舗がある。キッチン、という言葉には洋食のランチの店、といった印象があるように、ここも白とピンクの天幕が鮮やかな、町の洋食屋さん、といった明るい雰囲気の店である。
店頭には写真入りのフライメニューが掲げられていて、揚げたてのコロッケやカツ、ジューシーなハンバーグなど、どん底の空腹時にはヨダレものの誘惑だ。近くには銀座の洋食の重鎮的存在の煉瓦亭もあるけれど、ほとんどのメニューが1000円以下という値段とボリューム、さらに通し営業で中途半端な時間でもやっているという点では、普段使いの勝手のよさではこちらに軍配が上がる。
そして揚げ物の各種盛り合わせと並び、種類豊富なのがカレーである。ハンバーグ、コロッケ、オムレツ、エビカツなどトッピングが色々と揃い、ルーはハヤシも選べる。しっかり食べたいときに御用達の定番メニューで、トッピングはその時の気分、というか腹の空き具合により様々。最後の晩餐ならぬ午餐に選んだのは、空腹ランクAの際にのっけるコロッケカレーだ。自動券売機で食券を購入して、店内に入ってこれまたいつもの窓際のカウンターへ。目の前の小ラックに入ったチラシには、トッピングや大盛りの割引券がついていて、いつも愛用させてもらっていたが、今日を限りにもうもらう必要もないと思うと、ちょっとセンチメンタルな気分になってしまう。
この店、そもそもは銀座にある「グリルスイス」の姉妹店で、「キッチン」はここのほか築地にも支店がある。本店は創業昭和22年というから、生粋の銀座老舗洋食店なのだ。各種フライをおかずとしたランチや、トッピングに工夫を凝らしたカレーがメインと、品書きには正統派の洋食メニューがずらり。中でも店の目玉料理はカツカレー、と書くと、ずいぶん無難な料理と思われるかもしれない。実はこの店、日本のカツカレー発祥の店としても知られている。
今からさかのぼること60年ほど前、「スイス」の常連だった巨人軍の千葉茂選手が、「ロースカツとカレーと別々に食べるのは面倒だから、一緒に盛って出してくれ」とのひとことで生まれたのが、カツカレーだとか。一般的にまかない飯や、品書きにはない常連客のみぞ知る「裏メニュー」などが、店の名物メニューになることがよくある。ここのカツカレーも、もとは大食いのプロ野球選手がオーダーした、常連向けの融通メニューだったようだ。
ちなみに千葉茂氏とは、野球の神様・川上哲治と同時代に活躍した、巨人軍の名2塁手である。ニックネームが「猛牛」で、猛牛がトンカツのっけたカレーをガツガツ食らう、というのも思えばユーモラスだ。洗練されたスポーツマンライクなスタイルの野球選手が増えてきた中、豪放磊落だった古き時代のプロ野球選手を、彷彿させるエピソードでもある。
千葉カツカレーは上ロースを使用。ほか元祖カツカレーもある
考案者?から名前を取った「千葉さんのカツカレー」は、こんもり山盛りのご飯の上に揚げたてのカツがドン、その上にたっぷりルーをかけまわし、さらにキャベツやポテトサラダも同じ皿に一緒盛りと、かなりのボリューム。特に注文と同時に揚げ始めるカツの評判が高く、カツカレー以上に「カツ」がおいしい、とも。自分はこのカツカレーは、そのボリュームに押されて食べずじまいで、この日もお気に入りのコロッケカレーとカップスープで頂きます。
ここのカレーは刻んだ野菜をじっくり煮込み、しっかりと寝かせているため、具がとろけてほとんど形がない。挽肉の粒がたくさん入っていて、見た目はキーマカレー風。色も真っ黒で、香辛料を多用した本格的なカレーを思わせる。食べてみると辛さも香りもさほど際立っておらず、割と平坦でのっぺりした味わい。野菜がベースのためかやや甘くドロリと濃厚で、揚げ物にかけてかじるとこれがよく合う。カラッと揚がった衣に程良い甘みとほんのり辛さが加わり、中がホワイトクリームのコロッケとは相性ぴったり。ひょっとして、ご飯用ではなく揚げ物のソース用の味付けか? と思ってしまうほどで、カツカレーの人気もちょっと想像がつくか。
割と底抜けの空腹の時に訪れた際も、ボリュームともったり重いルーのおかげで、たまに食後に胃が少々もたれることもあったほど。この日は引越し荷物を朝から運んでしっかり腹を減らしてきたので、難なくコロッケとともに平らげた。普段はデスクワークばかりだから、たまの肉体労働のおかげで食が進んだのかもしれない。
店内のカツカレーの由縁の貼紙には「カツカレーは即戦力だ」との、千葉茂氏の言葉が。そういえば銀座へ仕事場が移転してから、ここまでしっかり食べられる店は、まだ見つかっていない。これからのわが昼飯、空腹時の頼もしい即戦力となってくれるのは果たして、どこの店になるだろうか。(2007年6月8日食記)