畏れ多くもかしこくも、今上陛下にあらせられましては、本日、80歳の誕生日を迎えあそばされました。
80歳といえば、傘寿。
傘の略字、仐が八十に見えることによると聞いたことがあります。
15歳を表す志学や40歳を表す不惑などと異なり、特に意味はありません。
これはおそらく、かつて、80歳まで生きる長命の人はごくわずかで、年齢による役割を求められることがなかったためと推量します。
定命は天の知るところ、人の知るところではありません。
知ってしまえば、死刑判決を受けたようなもので、怖くて日々の雑事をこなすことが出来なくなるでしょう。
しかし、どう頑張っても120歳を超えて生きることは不可能であろうということくらい、子供でも分かっていること。
さらに、圧倒的多数の人々は90歳を迎えることが出来ません。
また、私は就職して22年目になりますが、同じ職場で現職のまま亡くなった先輩や後輩は7人を数えます。
二人は自殺、五人はがんや脳梗塞などの病気です。
病気のため定年を待たずに退職した人となると数え切れません。
彼らがその後どうなったか、知りません。
そう考えてみると、還暦を迎えることがき出来ない人もけっこういるのだとわかります。
私の定命がいくつなのか、当然わかりませんが、40代も半ばに近づいていることから、おそらく半分は過ぎているのだろうと思います。
寿命を意識するのはまだ早いのかもしれません。
しかし、激しいうつ状態にあった時、死は極めて親和的に、私の背後に寄り添っていました。
誰が言いだしたのか、
四十五十は鼻たれ小僧、七十八十は花盛り、九十でお迎え来たならば、百まで待てと追い返せ
という戯れ歌がありますね。
これは奇跡的な長命の人にしか当てはまらない、現実社会ではありえない一種のファンタジーだと思いますが、こういう気迫でもって生きよ、という警句なのだろうと思います。
死神と添い寝していたようなうつ状態ももはや遠い昔になりました。
私は今なら、死神を寄せ付けない気迫を保ち続けることができるように思います。
もし近寄ってきたなら、百まで待てと追い返しましょう。
そしてまた、今上陛下にあらせられましても、百まで待てと追い返しあそばすことを祈念いたします。
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