ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

悲劇

2015年12月31日 | 思想・学問

 平成27年(2015年)も大晦日を迎えました。
 これまでの一年一年がそうであったように、今年もまた、地獄のように長い一年でした。

 よく、時があっという間に過ぎるという嘆きというか言説を耳にしますが、あれは私には理解不能です。

 一年365日、ほんのわずかの楽しみはあるものの、圧倒的多数の苦しみと悪戦苦闘しながらどうにかこうにか一日をこなしているというのが私の本音です。
 そしてその日月の積み重ねの末に、長い一年が終わります。

 それを敷衍してみれば、おそらくは亡くなるまで、悪戦苦闘は続くのでしょうね。
 そうであってみれば、死は福音なのかもしれません。
 現世の苦闘から解放されるわけですから。

 世の中では様々なニュースを振り返る愚行が繰り返される日でもあります。
 確かに一つ一つを思い起こして見れば、多くのニュースがありました。
 しかしそれは過ぎ去り、記憶の底にしまいこまれるだけです。
 どんな大事件が起きたところで、人々の暮らしの基本は、食って寝て働いてという、つまらぬ日常があるに過ぎません。

 私はもしかしたら、物心ついて以来、カタルシスを心の奥深くで願っているのかもしれません。
 カタルシスを求める以上、悲劇的な出来事を求める他ありません。
 それも空前の悲劇を。
 それは詩的かつ美的でなければなりますまい。

 自然災害なのか戦争のようなものなのか分かりませんが、黙示的ともいうべき悲劇にこそ、精神を浄化する作用があることは、アリストテレスの指摘を持ち出すまでもありますまい。

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)
松本 仁助,岡 道男
岩波書店


 あるいはこのような精神性は幼稚なのかもしれません。
 またはテロリストの美学なのかもしれません。

 しかし殺人鬼が殺人により快楽を得、美を観、魂の解放を感じることを本能的にあるいは経験的に知っていて、それを続けざるを得ないのだとしたら、私の狂った魂が、黙示的ともいうべき巨大な悲劇を求めざるを得ないのは、当然のことなのかもしれません。
 


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