ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

とびお教

2014年06月27日 | 思想・学問

 現在未開の民族の習俗と考えられている素朴な自然崇拝やシャーマニズムは、かつてどの民族でもみられたものと思います。

 東洋においては仏教や儒教がおこり、それらは廃れました。

 もっともわが国においては、なぜか仏教受容後も神道という形で残り、連綿と現在まで続いています。
 これはわが国の人々の精神性に、寛容とバランス感覚という優れた資質を生み出す素になったことでしょう。

 一方、西洋・中東ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教という、よく似た教義を持つ三つの宗教が隆盛を極め、彼らの道徳規範となってきました。
 その過程で彼らは自然崇拝やシャーマニズムを捨て去り、ために独善が生まれたものと推測します。

 ナチズムはキリスト教を否定し、古代ゲルマン民族の土俗的な宗教を復活せしめようとしましたが、敗戦により頓挫。
 当時、SS(親衛隊)将校のじつに99%がキリスト教を棄教したというから徹底しています。

 ヤハウェの3宗教では、最後の審判ということが説かれます。

 遠い将来、救世主が現れて、死者も含め、この世に存在した、あるいは存在するすべての人間は審判により天国行きか地獄行きかを決められるというのです。
 いわばこれらの宗教の道徳は、最後の審判を脅迫に使って維持せしめているとも言えましょう。

 イスラム過激派が自爆テロを繰り返すのも、それが善なる行為だと信じ、善を為せば天国への切符を手に入れられると考えるからで、欧米人が彼らの自爆テロをカミカゼと呼ぶのはお門違いも甚だしいというべきでしょう。

 私には最後の審判ということが、どうしても理解できません。
 それはほとんどお伽噺かSFと言うべきでしょう。

 しかし多くの預言者が、幻視を見たのか、お告げを聞いたのか知りませんが、似たようなことを言っているところをみると、もしかしたらそういうこともあるのかな、という気分にはなります。

 仏教では、地上での修行を積めば、仏となって涅槃に至る、と説きました。

 チベット仏教では、輪廻転生を繰り返し、しかる後、悟りを開いて涅槃に至る、と説きました。

 しかし釈迦入滅後、仏教は大きく展開し、主に中国で花開いた大乗仏教では、即身成仏(生きたまま悟りを開き、仏になること。ミイラになることではありません)、山川草木悉皆成仏(山や川、草木、あらゆる自然物には仏性があり、仏になれる)というところまで行き、わが国では大乗仏教の教えが一般的です。

 そこには地獄も極楽もなく、まして救世主による最後の審判などというおどろおどろしいことは全く想定されていません。

 悟りの境地とか涅槃というのは、全てを理解し、この世の苦しみ楽しみを超越した境地というべきで、いわゆる天国とは異なります。

 大乗仏典には、法華経に見られる観音様の超自然的な力を称える教えや、お釈迦様が教えを説いているとそれを祝福して地中から現れた地涌の菩薩など、SF的な要素も見られますが、それは一貫したものではなく、多分に暗喩めいたもので、最後の審判のような迫力はありません。

 人間が考え出すお話や宗教は、奇妙で不思議です。
 私が奇妙で不思議な物語を好むというより、世の中にあふれるお話は奇妙で不思議なものばかりです。

 それは一にかかって、この世が不思議で奇妙だからだろうと思います。

 すると必然的に、この世の真理を求める宗教もまた、不思議で奇妙なものにならざるを得ないでしょう。

 私はどの宗教も信仰していません。

 強いて言えば、様々な宗教や疑似科学、さらには神秘思想などをブレンドミックスして、自分なりに咀嚼したとびお教とでも言うしかないものを信じていると言えるかもしれません。

 そして当然ながら、教祖は私であり信者は私一人です。

 私はすべての人々が、自ら教祖となり、自分一人が信者という、宗教というよりもおのれの信念に従って生きる社会を夢見ています。

 それは自己を尊重し、自己を尊重するがゆえに他者をも尊重せずにはいられない社会であろうと思います。

 しかし、世界の宗教対立を思うと、そんなことは夢のまた夢という気もしますねぇ。

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