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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

刹那滅

2014年01月10日 | 思想・学問

 帰り道、車の中でラジオを聴いていたら、季節外れのクリスマス・ソングが流れてきました。

 題して、「サンタと天使が笑う夜」

サンタと天使が笑う夜
DREAMS COME TRUE
Epic Records Japan Inc.

 

LOVE GOES ON・・・
エピックレコードジャパン
エピックレコードジャパン

 その中で、一生一度しかない、今年のクリスマスというフレーズが印象に残りました。

 

 それはそのとおり。
 
 しかし、何もことはクリスマスに限ったことではありますまい。
 
 思春期を迎える13歳の春の一日は一生一度しかなく、17歳の盛夏の一夜も一生一度しかなく、22歳、そろそろ人生を真剣に考えなければならない春の日も一生一度しかありません。

 不惑などと言いながら、惑いに惑うのが凡人の常である40歳の誕生日も一生一度しかありません。

 すなわち、私たちが生きている毎日は、一生一度しかない一日の連続で、さらに敷衍するなら一瞬一瞬が、一生一度しかない刹那です。
 生まれては滅びを繰り返す刹那滅こそが、人生の本質と言えるでしょう。

 だからその日その瞬間を大切に生きましょうなどと、馬鹿げた説教を垂れる気はさらさらありません。

 大切に生きるということの解釈にも依りますが、人は大抵毎日を雑事にかまけて暮らしています。
 その雑事こそが社会を成り立たせているのであり、雑事を誠実にこなすことが、じつは刹那滅を生きるありとあらゆる生物の宿命だと言えるでしょう。

 刹那滅の大半は、食うことを目的として費やされます。

 肉食獣であれば狩り、草食獣であれば草を食み、なおかつ肉食獣からの攻撃を避けること。

 平時において人間は収入を得るために大半の時間をさき、戦時にあっては戦うことを本旨とするでしょう。
 どちらも生き残りを賭けた戦いであることに変わりはありません。 

 その切ないばかりに愛おしい一瞬を思うとき、私は沈黙せざるを得ません。

 その沈黙は、もちろん哲学的なものでも文学的なものでもありはしません。

 ただ一つ、私は生きとし生ける者が、一様に背負わされた業とでも言うしかないものを思って、悲哀の情に駆られ、沈黙するのです。

 この悲哀は、何も仏教徒だけでなくても、この世で多少の経験を積んだ人なら誰でも理解できると思います。

 刹那滅とそれに伴う業による日々の生活を思うとき、私は無条件に、善人であれ極悪人であれ、同時代を生きる人々、過去を生きた先人たち、そして未来を生きる子孫たちのすべてに、限りない愛情を感じます。

 過去世・現世・未来世を生きるすべての人々に、幸多かれと祈らずにはいられません。

 それにしても、ポップスの1フレーズから、このような憂愁に囚われてしまうとは、私もよほど因果な質に生まれついたものだと嘆かずにはいられません。

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追悼 コリン・ウィルソン先生

2013年12月11日 | 思想・学問

 昨日の新聞、死亡欄に、小さくコリン・ウィルソン先生が逝去された旨を伝える記事が掲載されていました。
 享年82。

 私は小さな記事を見つけて、衝撃を受けました。

 その死よりも、扱いの小ささに。

 私にとっては高校から大学にかけて、最も興味深く読んだ思想家の一人だったからです。

 先生は貧しい家庭に生まれ育ち、中学卒業と同時に工場労働者となります。
 しかし、ほどなく職を辞し、大英博物館に通いつめて思いのたけを執筆。
 この間、野宿生活を送っていたと伝えられます。

 実存主義哲学に基づき、社会の常識の中で生きることが出来ず、社会秩序の外に身を置く芸術家らを取り上げた「アウトサイダー」が大ヒット。
 
 後に怒れる若者たちを生み出すきっかけになったとも言われています。

アウトサイダー(上) (中公文庫)
中村 保男
中央公論新社



アウトサイダー(下) (中公文庫)
中村 保男
中央公論新社

 以来、先生は様ざまなジャンルに興味を示し、多くの評論、小説を手がけました。

 先生は正統的なアカデミズムの世界に身を置いた経験が無いことから、いわゆる正統な学者からは蛇蝎の如く嫌われていましたが、そんなことは関係なく、興味の赴くままに、オカルト研究や心理学研究、右脳の研究、殺人鬼の研究などを繰り広げました。

 タイトルの付け方も秀逸で、例えば右脳研究では「右脳の冒険」・「フランケンシュタインの城」などがあり、わくわくしながら読んだものです。

フランケンシュタインの城―意識のメカニズム (Mind books)
Colin Wilson,中村 保男
平河出版社



右脳の冒険―内宇宙への道 (Mind books)
コリン・ウィルソン,中村 保男,Colin Wilson
平河出版社

 人間の能力の限界と可能性を探った、「サイキック」

サイキック―人体に潜む超常能力の探究と超感覚的世界
梶元 靖子,コリン ウィルソン,Colin Wilson
三笠書房

 また、心理学者のマズローと親交が深く、その影響か、心理学的なアプローチで人間の幸福を論じた「至高体験」など、じつにエキサイティングな作品群でした。

至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦
河出書房新社

 特に「至高体験」は、今や臨床心理士などメンタルヘルスに携わる人には必読の書と言っても過言ではありません。

 昨夜は20数年ぶりに古ぼけた「フランケンシュタインの城」「右脳の冒険」などを読み返し、先生が求め続けた人体の謎、脳の謎、幸福感はどこからくるか、などを考えさせられました。

 心からご冥福をお祈りします。

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あそこの分かれ道で

2013年12月10日 | 思想・学問

 今日、無事3本の会議を終えて、帰宅しました。

 疲れますねぇ。

 熱い湯につかり、今、粗末なつまみでウィスキーのロックをちびりちびりとやっています。

 明日は日曜出勤の振替でお休み。
 一息つけます。

 サラリーマンは時間を切り売りして禄を食んでいる生き物ですから、何より自由な時間を持てることが嬉しいですねぇ。

 そのうえ今日は冬のボーナスが振り込まれたのですよ。

 一時期に比べると金額は落ちましたが、それでもやっぱり嬉しいですねぇ。

 まぁ、そのためにつまらぬ仕事に耐えているわけですが。

 つまらぬ中にも小さな喜びがないわけではありません。
 懸案事項がうまく片付いたとか。

 しかし強欲な私は、小さな喜びを生きがいにして、日々の晩酌を楽しみに生きるのは耐えられないと思いながら、もう22年間もサラリーマンを続けてしまいました。

 さだまさしに、「主人公」と言う歌がありました。



 時をさかのぼるチケットがあれば、欲しくなるときがある。あそこの、分かれ道で、選びなおせるならって、という歌詞が、40代半ばを迎えたおじさんの私には心にしみます。

 しかしそれは、絶対に不可能なこと。

 その時々に、これが精一杯と思って選んできた結果が今なのですから、過去の自分を貶めるようなことはしたくありません。

 今さらどうしようもない過去は過去として、今日と明日のことだけを考えて生きていくしかありません。

 過去は過ぎ去っており、明後日は遠い未来なのですから。

主人公~さだまさしクラシックス
花井悠希,林そよか
コロムビアミュージックエンタテインメント

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メタ認知能力

2013年12月03日 | 思想・学問

  メタ認知能力という言葉を最近知りました。

 メタボリック症候群のメタとは何の関係もありません。

 Metacognitiveの略だそうです。
 新しい言葉なので、和訳は難しいですが、相対的に、とか俯瞰的に、とか言った意味になるようです。

 主に教育学者や教育心理学者などが唱え始めたそうで、メタ認知能力が高いと、大人になってからの収入や社会的地位が有意に高いそうです。

 どう定義づけられているかというと、

 ① 能力を監視する知識
 ② 知っているということを知っていること
 ③ 認知していることの認知
 ④ 自分の理解していることを理解すること

 となるそうです。

 平たく言えば自分の能力や知識を客観的、かつ俯瞰的に自覚する能力ということになりましょうか。

 これは国語や算数などの授業科目の優劣以上にその後の人生に大きな影響を与える能力で、就学前からの家庭での教育や、就学後は学習に対する保護者の態度によって決まるとされ、先天的、遺伝的な才能はほとんど関係ないとか。

 就学前においては、ルールは守るとか、人に親切にする、とか言った基本的な道徳を教え込むことによって、就学後は、学習に対して過干渉でも放任でも駄目で、子どもが何が分からないかを自分で考えさせ、背中を押す程度の態度で接することが、最も効果的だそうです。

 わが国では今、道徳を授業化しようという動きが進んでいます。

 鉄は熱いうちに打て、と言いますから、なるべく頭が柔らかい幼児のうちから道徳教育を行うべきでしょう。

 なるべく就学前の、幼児の頃に家庭において基本的な道徳を教えることが重要で、小学生になってからでは遅きに失した感がありますねぇ。

 人間、自分が認知する自分、他人が認知する自分、客観的に見た自分の3つの自分が存在すると言いますが、メタ認知能力の最終的な目標は、3つの自分が一致することかもしれませんねぇ。

 翻って私の認知能力を考えると、どうもメタ認知能力は相当低いような気がします。

 私は傲慢なまでの自信家ですから、他人から見たら滑稽に感じるでしょう。

 しかし40代半ばまでそうやって生きてきてしまったので、今さら変えようがありませんが。

 だから収入も少なく、社会的地位も低いのかもしれません。


 この概念が広く社会に浸透し、全世界でそのための教育を行うようになったら、世界は変るかもしれません。

 そうなるには100年やそこらかかるとは思いますが。

メタ認知的アプローチによる学ぶ技術
Alberto Oliverio,川本 英明
創元社

 

メタ認知―学習力を支える高次認知機能
三宮 真智子
北大路書房

 

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霊的存在

2013年11月24日 | 思想・学問

 夕刻、マンションの一階広場で、奇妙な老紳士を見かけました。
 2秒ほどで消えてしまったところをみると、霊的存在であったのかなと思います。

 私は時折、そういう存在を見かけます。
 しかし、恐怖を感じたことはありません。
 なぜならそういう存在には物理的な力を行使する能力が無いからです。

 思うに、この世を構成する存在は、我々生きている者だけではなく、霊的存在も含まれると思います。

 ビッグ・バンでこの世が生まれたという説を信じるならば、霊的存在もまた、その後に生まれたはずです。

 また、クロマニヨン人とかネアンデルタール人の幽霊を見たという話を聞いたことがありませんが、落ち武者の幽霊を見たという話は聞いたことがありますので、幽霊にも、この世に残れる寿命があるのだと思われます。

 しょせん、誰にも分からないことです。

 私の少ない経験から言って、幽霊と呼ばれる存在は怖くありません。
 気味悪くはありますが、物理的な力を発揮することはできませんので、むしろこちらがしっかりしていれば、幽霊が生身の人間を怖れるのではないかと思います。

 人間必ず死にます。

 死んだならば、死を自覚して次なるステージに進むのが圧倒的多数だと思います。
 しかしごく一部に、恨みだとか愛だとか、あまりにも強い感情を持った者が、自分が死んだことを認められず、今生に残り、残ったとはいうものの何も出来ず、ただ気配で人を驚かすしかなく、ますますいらだちを募らせるのではないかと思います。

 今生を生きる私たちが出来ることは、いつ死んでも、自分は死んだんだと受け入れられるように心がけることでしょうかねぇ。

 そうは言っても、今生を生きる我々が、本当に実在しているのか、霊的存在があやふやな存在なのか、誰にも分かりません。

 たとえ幻であっても、ただその日その日を、誠実に生きるほかありますまい。

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道徳の授業化

2013年11月24日 | 思想・学問

 近頃一流ホテルやデパートなどに出店する高級レストランが食材を偽装表示していた事件が次々に発覚し、責任者は判で押したように、「知らなかった」だの「偽装表示ではなく誤表示だ」だの、醜い言い訳を繰り返しています。

 ささやき女将で有名になった船場吉兆はその後廃業においこまれましたが、吉兆嵐山本店は今、1人あたりの客単価が世界一高いことで知られています。

 また、ある京都の老舗の料亭の女将が、客に「これほどの味を出せるのだから、支店を出したらどうか」と勧められ、「屏風と食べ物屋は広げたら倒れますのや」と応えたと聞きます。

 個人が商いをしている店があんまり店を広げれば、主人の考えが行き届かなくなるということでしょう。

 逆に、大手チェーン店などは、細かいマニュアルを作って社員を教育し、どの店に行っても同じようなサービスを提供できるように努力しているようです。

 結局、倫理規範や道徳の問題に行き着くでしょうね。

 400年も前、江戸時代の儒者は、商売は商人と客が互いに利益になるように行うべきで、人を損させて儲けようとするのは商人の道に反する、と説いています。

 商人には商人の、農民には農民の、職人には職人の、役人には役人の守るべき道徳律があり、もし、違法行為以外は何でもあり、と誰もが考えたなら、人を規制する法律は際限なく増えてしまい、この上なく生きにくい社会が現出するでしょう。

 それを避けるためにも、違法ではなくても道徳律に反することはしない、という意識を多くの人が持つことが肝要でしょう。

 しかし、それはじつは人間と言うよりも動物として難しいことも事実です。

 人間も動物も欲望があり、欲望は際限がありません。

 100億円の資産があっても、人はそれを150億、200億と増やそうとするでしょう。

 欲望と道徳律が調和するのが理想ですが、えてして欲望が勝ってしまうものです。

 先ごろ道徳を正式な授業にしようという政策がだされ、その方向で動いているようですね。

 問題は何を教えるか。
 ある識者は偉人の話を並べれば良い、と意見を述べていました。

 私はそうは思いません。
 偉人とはなんびとを指すか不明だからです。

 何も新しく考え出すことはありません。
 昔やっていたことを復活させればよいのです。

 まずは日本人の倫理規範を培ってきた「論語」を教えること。
 さらに、大乗仏教を優しく噛み砕いて教えること。
 その後、神道清き明き心清浄を重んじる精神を神話を使って教えること。
 余裕があれば百人一首あたりを丸暗記させること。


 要するに、かつて日本人にとって必須の教養だったものを復活させるだけで、小中学校の道徳の時間など、すぐに足りなくなってしまうでしょう。

 心配なのは、それを教えられる教師がどれだけいるかということですね。
 教師の道徳教育から始めなければならないかもしれません。

 道は長そうですねぇ。

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生きがい

2013年11月20日 | 思想・学問

 人間というのは強欲なもので、衣食住に困らない豊かな社会においては、生きがいだとか生きる意味だとかを考えだし、ひどい場合には衣食住に困らない恵まれた境遇にありながら、生きがいや生きる意味が分からない、などと言って自殺する者さえいます。

 豊かな社会が必然的に引き受けねばならないリスクであるかのごとくです。

 概ね人は、思春期において初めて生きがいとか生きる意味とかを考えます。
 しかし就職して忙しく働くうち、そのような問いを忘れてしまうものです。

 次に中年にいたり、家庭を持ち、職場でもそこそこ出世し、それなりの収入を得ながら、それでも幸福感が感じられないと、再び生きがいや生きる意味を考えるようになります。

 さらに引退し、これが自分の仕事だ、というものを失った老年期にも、そのような疑問を持つようです。

 哲学者や文学者、宗教家や精神科医などが、それほど星の数ほど生きがいや生きる意味についての書物を残しています。

 しかしおそらく、それらの書物をいくら読破したところで、生きがいや生きる意味を見出すことはできないでしょう。

 この問いには普遍的な答えはなく、七転八倒の苦しみの中で、おのれ独りで考え出すしかない、困難な問題だからです。

 ただ、一般的にあてはまる答えはあるものと思います。

 自分がやりたいことが義務である場合、大抵の人はそもそもそのような疑問を抱くことなく、幸福に生きていけるように思います。

 逆に言えば、自分がやりたいこととは別の義務(それは生きるためには仕方ないことですが)を負っている場合、人は生きがいや生きる意味とは何かを考えずにはいられなくなるのでしょう。

 それは何もプロ野球でスター選手になりたい、などという大それたことである必要はありません。

 本人が、例えば看護師となって病人を助けたい、とか、小学校で子どもを教育したい、とか、そういったことで十分です。
 さらにはビル清掃の仕事に就いて、ビルが綺麗になることがやりたいことであり義務である、ということでも良いでしょう。

 要は本人の感じ方の問題に過ぎません。

 そんなことを書きながら、私自身、やりたいことと稼ぐための義務が乖離しており、就職して22年、まるで他人の人生を仮に生きているような感覚を感じ続けています。
 おそらく引退するまで、それは続くものと予感しています。

 一方、そもそも人生に意味など無い、というニヒリズムと呼ばれる考え方がありますね。

 それは一見真実のように見えますが、結局のところやりたいことと義務が一致しない者が言いだす愚痴にしか聞こえません。

 私は躁転の危険があるからと、私にとって最も興味深い、物語を生み出すという行為を精神科医から禁じられています。

 毎日毎日飽きもせずブログを更新し続けているのは、その欲求不満からだと自己分析しています。

 私は精神障害発症以来、生きがいだの生きる意味だのを考えることはなくなり、精神的に健康であることが、生きる意味になってしまいました。

 一種の思考停止ですね。

 しかしそれは、私に思わぬ幸福感をもたらすことになりました。
 人間、合理的な理由により思考を停止するのは、楽に感じるように出来ているようです。

 かつて米国で黒人奴隷を解放しようという動きが起きた時、最も反対したのは当の黒人奴隷だったと聞き及びます。

 そういう意味では、私は今、奴隷の幸福を生きているのかもしれません。

 もし生きがいや生きる意味が分からず煩悶している方がいたら、それを求めることこそが生きる意味なのだと心得て、精いっぱい苦しんだら如何かと思います。 

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2013年11月17日 | 思想・学問

 気付いたら、一日が終わってしまいました。

 休日の時間の流れとは、切ないばかりです。
 
 私は今、夕飯を終え、焼酎で良い感じになっています。
 この酔いが私にわずかな慰めをもたらし、その反動として、時間を奪います。

 私は40代半ばを迎え、なんだか全てを諦めてしまったような気分に襲われています。
 それと同時に、自殺願望という狂気を孕んだものとは別に、死は恐るべきものではないのではないかと思うようになりました。

 なんとなれば、人は必ず死ぬように出来ていて、それをむやみに怖れることは、人生をつまらなくするように思うのです。

 私はそれぞれの年代において、馬鹿な遊びを楽しみ、年相応の愚かな行為を楽しんできました。

 しかし今、その場しのぎの遊びを楽しむ時期はとうに過ぎました。

 静かに、人生の終わりを考えるべきでしょう。

 現在の寿命を思えば、やや早過ぎるのかもしれませんが、私は何しろせっかち。

 生まれる時も、予定日より二か月も早く出てきて、未熟児だったため、乳を飲む力が無く、母はスポイトで無理やり私に乳を飲ませ、あまりに体重が軽いため、八百屋などで使う量りを買ってきて、毎日私の体重を計り、私が成長することを願ったそうです。

 残念なことに、私は神のうちと言われる7歳をとうに越え、40代半ばまで生き延びてしまいました。

 スポイトで無理やり乳を飲まされたせいか、私は牛乳が嫌いで、中学までは給食で出されるためにやむを得ず牛乳を飲み続けましたが、中学卒業後、現在に至るまで牛乳を飲んでいません。

 牛乳を止めて、もう30年もたちます。
 今後も飲む気はありません。

 大体牛乳というものは、子牛が飲むもので、人が飲むものではありますまい。

 それらのことが、私の死生観に影響を及ぼしているものと思います。

 牛から乳を奪うことは嫌、栄養があるからといって嫌いな物を食うのは嫌、運動は体に悪いし、これ以上痩せるのは嫌。

 嫌なことばかりです。

 してみると、私は人並みの寿命はあるのかもしれませんが、特別長生きすることは無いでしょう。

 それなら少々早くても、自分の終わりを考えなければなりますまい。

 武士道とは死ぬことにみつけたり、とほざいたのは「葉隠」においてでしょうか。

葉隠 (講談社学術文庫)
小池 喜明
講談社

 

葉隠 (まんがで読破)
山本 常朝,バラエティアートワークス
イースト・プレス

  それは何も死に急ぐということではありますまい。

 必ず死ぬ人間というものの冷徹な現実を思うとき、私たち一人一人は、その最後を早くから覚悟しなければならず、それには40代半ばは必ずしも早いとは思えないのです。

 人間にとってまったく不明である死という事態。

 それを忘れてつまらぬ仕事に時間を割かれる今の自分を、恥じずにはいられません。

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正しい歴史認識とは?

2013年11月16日 | 思想・学問

 近頃の韓国の朴大統領の子ども染みた言動は目に余りますね。

 はるばる欧州や米国、ロシアに出かけていってわが国が正しい歴史認識を持たないかぎりわが国とは会談もしないと、告げ口してまわっているようで、諸外国も正気の沙汰とは思えない言い草に、あきれ返っているようです。

 例えばベトナムとカンボジアは伝統的に仲が悪いとか、セルビアとクロアチアはかつて戦争をし、今も鋭く対立しているという話は聞きますが、片方が世界を回って悪口を言い続けるなんて、聞いたことがありません。

 私たち日本人が、カンボジアとベトナムやセルビアとクロアチアとの歴史がどうなっているかなんて、全然関心が無いのと同様、欧州諸国や米国から見れば、日本も韓国も同じような所にある同じような国で、どういういきさつで日韓関係が冷え込んだかなんて興味ないでしょうに。

 まぁ、あのおばちゃんがそんな馬鹿げた言説を世界に広めれば広めるほど、韓国の愚かさが強調され、わが国を利することは確かなので、大いにやってもらったほうがむしろわが国にとっては美味しい話です。

 韓国在住30年のドイツ人大学教授は、韓国人に「外国人相手にウリ(我々)と言う言葉ばかりを使って15分韓国人が熱弁を奮ったら、外国人は逃げ出すだろう」と、韓国人に根拠の無い感情的な発言を控えるよう呼びかけているそうです。

 そもそも正しい歴史認識なるものが、かつて存在したことがあるのでしょうか?
 あるいは逆に、正しくない歴史認識が存在したことがあるのでしょうか?

 韓国の大統領が言う正しい歴史認識とは、現在の韓国政府が考える歴史認識ということだと思います。

 しかし例えば、お父さんの朴大統領時代の評価をめぐって、韓国国内で論争が起きていますし、同じ民族の韓国と北朝鮮とでは、近現代史の歴史認識が一致することなどあり得ません。

 また、韓国は朝鮮半島と中国の国境地帯の歴史をめぐって、それが朝鮮の歴史なのか、中国の一部の歴史なのかをめぐって、論争を繰り広げています。

 1人わが国のみならず、隣国全てと歴史認識を共有することが出来ないでいるわけです。

 それはつまり、それぞれの国がおのれの歴史認識こそが正しく、他国が間違っていると考えるからでしょう。

 さらには、同じ国内でも、思想信条の違いによって歴史認識は異なります。

 王政こそ正しいと認識していた歴史が、革命が成功すれば、王政などは否定すべき過去だと変貌を遂げるわけです。

 また、同じ地域に住む同じ一人の人間であっても、帝政ロシア時代は皇帝を崇拝し、ソ連になったら途端に帝政ロシアを否定し、不幸にも長生きしてソ連が崩壊したら今度は民主的な価値観に転向したりすることはよくあることです。

 卑近な例では、かつて左翼運動に血道を上げていた若者が、就職して途端に自民党支持に回ることなど、枚挙に暇がありません。

 要するに、今現在持っている歴史認識は、国や団体によって違いがあっても全て正しいし、また、時代の変化によってそれは容易に正しくない歴史認識に変わるわけです。

 そう考えると、歴史認識とは、現在の個々の価値観を示すものに過ぎず、未来永劫正しいことも、正しくないこともあり得ないと言えるでしょう。

 だからこそ歴史学者は、実証を重視するわけです。
 そうはいっても歴史学者も時代の子ですから、現在のそれぞれの社会の価値観から逃れる術は持たないはずです。

 宗教でも思想でも、それだけが正しいと深く信じ込んでしまえば、それ以外の価値観や歴史認識は否定せざるを得なくなります。

 そこで、自由民主主義という考えが生まれ、違いがあっても互いに尊重し合おうということになったわけです。

 たしか韓国も米国と同盟を結ぶ自由民主主義国家を名乗っていたような記憶がありますが、私の記憶違いだったでしょうか。

 英国のチャーチル元首相は民主主義について、「最悪の政治体制だ。ただし、過去に試みられたすべての政治体制を除いて」と、名言をはいています。

 民主主義は民主主義を唯一の正しい価値観だとは思わず、かなりひどいけど比較的マシな政治体制程度にしか考えない、冷静な価値観をもたらしました。

 必然的に、冷静な思考から、絶対に正しい価値観や歴史認識など存在せず、できる事は互いの相違を認めて尊重し合い、利害が衝突したならよく話し合いましょう、ということだけだという現在の大人に求められる冷めた態度が肝腎だと気付かなければ、他国から相手にされなくなるでしょう。

 貴重な民主主義国家同士の隣国である賢明な韓国国民におかれましては、世界はどう出来ているかをよく見極め、損得勘定もして、さらには自由民主主義の真髄を考察すれば、自ずとどう振舞うのがより得かがお分かりになるものと思います。

 簡単なことです。
 西欧や米国、日本など、この100年世界を引っ張ってきた国の真似をすれば良いのです。

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猿芝居

2013年11月13日 | 思想・学問

 年相応、という言葉がありますね。

 子どもには子どもの、思春期には思春期の、学生には学生の、若い社会人や中年の中間管理職にはそれ相応の役割があり、悩みがあるというわけです。

 近頃、そのことを実感します。

 40代も半ばになってそんなことを感じるとは、遅きに失した感がありますが、独身を貫き、趣味や恋愛など、若者の特権と言うべき楽しみを永遠に楽しもうという勘違い中年男女が急増している今、私は少しマシかなと思います。

 言わば現世は、誰もが年相応、身分相応の猿芝居を演じ続けることによって成り立っています。

 それを拒否して自分探しという不毛な精神上の旅を続ける者もいますが、それは食えるあてがあってこそ出来ること。
 一般的には食うために、嫌でも猿芝居の世界に打って出て、その芝居を続けなければ食えなくなるという恐怖ゆえ、猿芝居を続け、気が付いたら老境に差し掛かっていた、というのが本当のところなのではないかと思います。

 猿芝居から抜け出す才能が無い者は、ジャンボ宝くじなどに夢を乗せ、芝居なしに生きられる将来を夢見るのでしょう。
 私もまた、必ずジャンボ宝くじを購入する愚か者の1人です。

 幸福とは一体どういうことなのでしょうね。
 
 心理学者のマズローは、衣食住の心配が無く、社会的にも成功した場合、自己実現という欲求が生まれ、これを充足させることが幸福であると説いています。

マズローの心理学
フランク・コーブル
産能大出版部

 また、在野の評論家、コリン・ウィルソンは、晴れた休日の朝の気分を例に、至高体験というものを人は誰でも経験しており、至高体験を自在に感じられる境地こそ幸福であると説いています。
 また、至高体験こそ自己実現であるとし、先行するマズローの理論も取り入れています。

至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫)
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦
河出書房新社

 なんだか脳内麻薬を自在に放出出来る感じがして怖ろしいですが。

 しかし、極東の島国に生まれ、骨の髄までこの島国の文化伝統に浸かりきって生きてきた私には、至高体験だとか自己実現だとか言う、結局はおのれの欲望を満たすための方便に過ぎない理屈には、どうしても納得できないでいます。

 「方丈記」で有名な鴨長明は、「発心集」という著作を残しています。

 要するに、発心を起こして仏門に入った様々な例を紹介し、発心を勧めているわけですが、ご本人は望んだ役職に就けずに京都郊外に庵を結んで、発心した風を装いながら、祭りがあれば都に出かけ、事件があればやっぱり都に出かける俗物ぶりです。
 大体発心して庵を結ぶというのに、なんだってまた都に歩いて行ける所をえらぶのでしょうねぇ。

方丈記 発心集 歎異抄 現代語訳
三木 紀人
学灯社

 かの西行法師も、

 世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ 我が身なりけり

 という俗物らしい和歌を残しています。

 わが国の先人の言葉を見れば、猿芝居を止めようとて止められぬのが人というものであるかのごとくです。

 しかし私は、それを知りながら、明治期に流行った高等遊民のような生活を、出来ることなら明日からでも始めたいと思うのです。

 しかし、そう思い続けながら、仕事を続けて22年近くが経ってしまいました。

 これからも、ジャンボ宝くじやLOTO7などに儚い夢を乗せ、猿芝居に幕を下ろす夢を持ち続けるより他、生きようがありません。

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死と宗教、あるいは、詩と真実

2013年11月12日 | 思想・学問

 今日も今日とてクソくだらない会議があり、腹の底では馬鹿馬鹿しいと思いながら、求められればさも重大事のような顔をして発言を繰り返しました。

 人間が生きるということ、それぞれの業界でのルールを守り、糞真面目そうな面をして、芝居を繰り返しているかのごとくです。

 そして今、わずかな夜の時間を焼酎のロックで心を休めています。

 人生にとって究極的に重要なのは、詩と真実、そして、死と宗教の問題であるに違いないと思います。
 さらに言えば、死という意味不明な事態の究明。

 しかし、それら究極的に重要な、人であれば誰でも知りたいと思うことだけは、絶対に知り得ないように出来ているのが冷厳な事実です。
 知り得ないと知りながら、それを求めてしまう人々は、嘘でも良いから宗教をでっち上げ、それを信じることによって、精神の安定を得ているものと推測します。

 私は長い精神障害の苦しみから脱出し、最後の病気休暇から職場復帰し、そろそろ4年近くが経とうとしています。
 その間、私の魂は激しく動揺しながらも、どうにかこうにか日々の業務をこなしています。

 先日の精神科の診察では、主治医から、「そろそろ抗うつ薬を完全に切りますか?今でもすでに気休め程度の量ですし」と言われましたが、完全に切るのは不安だったので、今年度いっぱいは今までどおりの薬で様子を見たい、とお願いして、そのとおりになりました。

 主治医から診て、少なくとも抗うつ薬は必要ないと思ったのでしょうねぇ。

 一時期、抗うつ薬・抗不安薬・睡眠薬など、一回につき13錠、一日40錠ちかく飲んでいた薬が、今は1日1錠まで減りました。

 それ以外に、頓服の抗不安薬は不安な時に飲むように、と貰っていますが、ほとんど飲みません。

 ほぼ精神障害は脱したものと思われます。

 精神障害をほぼ脱した今こそ、詩と真実、そして死と宗教の問題について、深く考えてみたいと思う今日この頃です。

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新興宗教

2013年11月06日 | 思想・学問

 今日は大本教の開祖、出口なおの忌日なんだそうで。

 幕末にうまれた出口なおは裕福な家に生まれながら父親の放蕩により没落、嫁いだ先では11人の子宝に恵まれますが、3人は夭逝、残る8人も、5人は自殺、2人は犯罪者となって終身刑、1人は精神障害を発症してしまいます。

 誠に不幸な境遇ですねぇ。

 50歳を過ぎて、出口なおは神懸りを経験するようになります。

 56歳の時、「艮(うしとら)の金神(金光教の神)、元の国常立尊(大本教の本尊)」と宣言する神と出会う霊夢を見たと伝えられます。
 その翌年、旧正月の5日、本格的に「艮(うしとら)の金神」が神懸り、出口なおに神懸りした艮の金神こそ、この世界を創造・修理固成した元の親神である国常立尊であるというのです。  

 出口なおです。

 大本教では、この日、現在の2月3日を開教の日としているそうです。

 神懸りから正気に戻った後、まず13日間の絶食と75日間の寝ずの水行を行います。
 同居していた娘に、なぜか村の各場所に塩をまかせる等の用事を頼んだと伝えられます。
 こうした奇行は周囲から「狸か狐がついた」と思われ、当初は大目に見られたようですが、やがて放火犯と間違われて警察に拘留され、釈放されるも自宅の家の座敷牢に40日間押し込まれるはめに。

 入牢中に出口なおは、神に「声を出さないで」と頼んだところ、神は「ならば筆を執り、神の言葉を書くがよい」告げます。

 出口なおは、落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「御筆先/おふでさき」となるわけです。
 彼女は読み書きができませんでしたが、日が暮れて、部屋が真っ暗になっても、書き続け、自動書記により、亡くなるまで20年間あまりで半紙20万枚を綴ったというから驚きです。

 ほとんど平仮名で記された内容は、「さんぜんせかい いちどにひら九 うめのはな きもんのこんじんのよになりたぞよ」「つよいものがちのあ九まばかりの九にであるぞよ」という痛烈な社会批判を含んだ終末論的なものでした。のちに、平仮名を漢字に置き換えて娘婿・出口王仁三郎が発表したのが「大本神諭」です。

 大本教は当初金光教の一部として活動しますが、その革命的、反文明論的、反天皇的で尖鋭な思想から、金光教から分かれ、国家から弾圧されていた時期もありました。。

 また、女性であった出口なおを、変成男子と呼んで中身は男と見るなど、独特の教義を持っています。

 後にエスペラント(世界共通語)に共鳴し、コスモポリタン的な思想をも併せ持ちつつ、現在も熱心な信者がいるようです。

 また、生長の家は元々大本教から出ており、生長の家から出た幸福の科学にまでつながる、元祖新興宗教とでもいうべき存在です。

 なお、正しくは大本教は付けず、大本と名乗っているそうです。

 19世紀末、フランスでは、「神様に会いたければパリの路地裏にいくらでもいる」と、新興宗教の多さを揶揄したとか。

 しかし元をただせば、キリスト教も新興の邪教として迫害されましたし、仏教も生まれた時は新興宗教でした。
 それらが後世に残り、既成宗教に成長したから正しく、現在生まれつつある新興宗教がまがい物だとは誰にも言えないでしょう。

 ただし、金儲けを専らにする宗教は新興宗教であれ既成宗教であれ怪しいと思ったほうが良いに違いありません。

 坊主丸儲けだの葬式仏教なんて言われる現代日本仏教も胡散臭いものです。

 究極のところ、教祖一人に信者一人であったとしても、その二人が心底救われるなら、一代で途絶えたとしても、それは立派な宗教であると思うのです。

大本教祖伝 出口なお・出口王仁三郎の生涯
伊藤 栄蔵
天声社

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走馬灯

2013年11月02日 | 思想・学問

 小雨がぱらついているようです。
 気付けばすっかり秋も深まってきました。

 そのせいか、世の無常をいつも以上に感じ、あの人は今、みたいな感じでネット・サーフィンをしてみました。

 清水健太郎は覚醒剤や業務上過失致死などの罪で7回も有罪判決を受けながら、今も娑婆でライブをやったりVシネマに出たり。
 これから会社を作って映画製作をやりたいそうです。
 旺盛な人ですねぇ。

 田代まさしは現在服役中ですが、同じ雑居房から出所したヤクザの組長が、誰も本人だと気付かぬほど痩せ衰えていたと証言しています。

 海部俊樹元総理は現在引退し、大正琴協会の名誉職などを務めているとか。
 変に二枚目だった民社党の大内啓吾は、現在83歳で存命だそうですが、一切メディアに出てきませんね。
 銀座の老舗旅館で生まれ育った江戸っ子で、しかも二枚目だったことから、老醜をさらすのを潔しとしないのかもしれません。
 しかし、往年の二枚目が堂々と老醜をさらし、老いるということの意味を若い者に教えるほうが、潔いように思います。

 よく、臨終に際し、その人の人生が走馬灯のように蘇る、という話を耳にします。

 走馬灯回り灯篭とも呼ばれる、江戸時代の夏の風物で、要するに影絵が灯篭のまわりを回るという仕掛けのようですが、たいそう幻想的で美しかったようです。
 今となっては廃れ、見たことがある人はごくわずかなのではないでしょうか。
 私も見たことはありません。

 こんな感じです。

 
今わの際に自分の人生が走馬灯のように蘇るのだとしたら、例えば80歳で臨終を迎えた者は、客観的には一瞬だとしても、本人の意識としては最後の瞬間に80年分の時間を要することになるのかもしれず、そうだとしたら死ぬのは苦しいでしょうねぇ。


 40代半ばの私ですら、これまでの人生を詳細に繰り返すようなことは、気が遠くなるような大事業です。

 また、走馬灯のように蘇った人生の最後の最後、臨終を迎えたのなら、再び走馬灯のように人生が繰り返されるのかもしれません。
 そうなると生きている者には一瞬でも、死に行く者はその一瞬に同じ人生を意識の中で半永久的に何度でも繰り返すことになり、それはすでに地獄に落ちたのと同じようなものでしょうねぇ。

 時間とは何か不明である以上、生きている私たちの一瞬と、あの世に向かう者の一瞬とが同じであるほうが不思議だと思います。

 そしてまた、人は必ず死ぬのに、誰も死後どうなるのかは分かりません。
 不明であるからこそ人は死を怖れ、あるいはこうあってほしい死後を信じ込んで自殺的なテロに手を染めたりできるのでしょう。

 太古、人類の寿命は30年くらいであったと言われています。
 栄養や衛生の状態が悪く、医学も薬も存在しなかった頃は、当然だろうと思います。
 だからこそ人は15歳くらいから生殖に励み、30歳くらいで孫がいるという状態だったのだろうと想像します。

 現代でも、アフリカの一部地域では平均寿命が40歳を切っているそうで、そうだとすると私はとうに死んでいても不思議ではありません。

 また、お隣、韓国は他国由来の物を自国が起源だと主張したがる悪癖がありますが、あれなど切ないばかりに愚かしいことです。

 文明が生まれてせいぜい5,000年。

 起源というなら、ミトコンドリア・イブ
 16万年から20万年前にアフリカに存在したとされる人類共通の祖先です。

 彼女も朝鮮半島出身でしょうか。

 結局のところ、ビッグ・バン以前はどうなっていたのか、というところまで行ってしまいます。

 もし宇宙が全体で巨大な一個の生命なのだとしたら、宇宙もまた悠久の時を過ごした後、臨終を迎え、走馬灯のように宇宙の来し方を振り返るのだとしたら、私たちが今生きている現在が、果たして進行中の現実なのか、宇宙が死の床で何度も繰り返している走馬灯の一瞬に過ぎないのか、根源的な不安に駆られてしまうのです。
 

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天才と凡才

2013年10月22日 | 思想・学問

 世の中には常人には計り知れない実力と運を持っている人がいるんですねぇ。

 楽天の田中投手

 今年は負けなしの24連勝で、クライマックス・シリーズも最後に登場して見事に押さえました。
 その姿は威風堂々として、もう誰もマー君なんて呼べません。
 こういう人にはメジャー・リーグなどに行かず、日本プロ野球界に骨を埋めて欲しいものです。

 この人の後ろには、何万人、何十万人という、高校野球などで地元では負けなしの大投手でありながら、プロを目指した途端、広いプロ野球の世界のレベルに追いつかないと知って諦める人や、諦めきれずに30歳を過ぎてもプロ・テストを受け続ける人がいるんでしょうねぇ。
 そしてそういう人は、ある程度野球を知っているからよけい、田中投手のような人の凄まじさが分かってしまうのでしょうね。

 中途半端な才能があるというのは、不幸なことです。
 「アマデウス」サリエリを思い起こしてみれば明らかです。

アマデウス [DVD]
F・マーレイ・エイブラハム,トム・ハルス,エリザベス・ベリッジ
ワーナー・ホーム・ビデオ

 それは野球であれ、芸能であれ、芸術であれ、なんでもそうです。

 私もかつてプロの小説家を目指し、せっせと書いていたことがあります。
 仲間内では、プロになれるとしたらとびおだけだ、なんておだてられ、現に出版してくれた出版社もありましたが、世の中は広いようで、私の才能は極めて中途半端であることを知らされました。

 その上双極性障害を発症するや躁転の危険があるからと、精神科医に小説の執筆を禁じられてしまいました。

 創作するという行為は異常なことで、自分が世界を作っているような気分になって感情が高揚するというのはむしろ普通で、それが脳内麻薬を分泌せしめ、芥川龍之介「戯作三昧」滝沢馬琴に託して描いたように、三昧境を彷徨うことになります。

戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)
芥川 龍之介
新潮社

 つまらぬ物でも、創作している本人は神様になった気分で三昧境に遊んでいますので、出来の良しあしは、創作の快感とは関係ありません。

 ただし、三昧境から醒めれば、ひどい二日酔いの朝のような、自己嫌悪に陥ること必定です。

 だからこそ、才能が無いことに気付くわけです。

 ずば抜けた才能を持つ一部の天才を除けば、中途半端な才能は人生を不幸にするように思います。

 それならいっそ、自分は何の才能もなく、人並み程度の仕事に小さな喜びを見出して生きるのだ、と最初から思えたほうがよほど幸せです。

 少年少女は身の丈に合わない将来を夢見るもので、それはそれで年頃の幸せですが、30歳を過ぎたら諦めが肝腎であるように思います。

 世の中は圧倒的多数の凡才が支えているのですから。
 

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メランコリー親和型性格と情報革命

2013年10月02日 | 思想・学問

 私は長く、悲哀や憂鬱が続く精神障害に苦しみ、最近、大分良くなりました。

 しかし思い起こしてみると、精神障害発症前から、いわゆるメランコリー親和型性格と呼ばれる特徴を物心ついた時から持っていたように思います。
 すなわち、几帳面、完璧主義、気が利きすぎる、環境の変化に弱い、などです。

 西洋において、古代にはメランコリーは否定されるべき悪しき性格特徴でした。
 しかし、古代ローマにおいて、唯一、アリストテレスだけは、断片的ではありますが、メランコリー親和型性格を、天才の必須条件である聖なる狂気と呼んでこれを肯定しています。

 その後も長くメランコリーは忌避されてきましたが、例えばシェイクスピア「ハムレット」のように、常に憂愁に囚われている貴種を主人公としたり、さらにはロマン主義がにわかに起こり、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」など、メランコリーを正面から扱う芸術運動が勃興し、それは美術においても音楽においても見られる現象です。

新訳 ハムレット (角川文庫)
William Shakespeare,河合 祥一郎
角川書店

 

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)
高橋 義孝
新潮社

 

若きウェルテルの悩み (まんがで読破)
ゲーテ,バラエティアートワークス
イースト・プレス

 その後それらの芸術はカウンター・カルチャーから、むしろメジャーな芸術へと変貌を遂げていきます。

 それは多分、産業革命などの近代化が生んだ副作用なのでしょう。

 産業革命以降、人々の生活は大きく変わりました。
 農業や漁業のような第一次産業に携わる人が減り、非人間的とも言うべき工場労働やサラリーマンなどの職種に就かざるを得ない時代がやってきた、ということですね。

 うつ病患者は特に勤め人に多いと言われていますね。
 時間を切り売りして安い賃金で働くことがいかに健康を害するか、分かろうというものです。

 今やむしろメランコリー的要素が無い芸術作品を探すほうが難しくなってしまいました。
 いよいよ現代人は病膏肓に入ると言うべき状態に陥ったのかもしれません。

 倉橋由美子は、これらを神経症の芸術、と呼んで忌み嫌い、擬古典的な美的世界の復権を叫びましたが、もはやそんなことは夢のまた夢。

 言わば人類総メランコリー親和型みたいになってしまっているのですから。

 おそらく現在進行中の情報革命は、産業革命以上に劇的な変化を人間精神にもたらすでしょうし、すでにもたらしつつあります。

 ネット上で見られる誹謗中傷やイジメなどは、ほんの始まりに過ぎないのだろうと思います。

 どういう風に人間精神が変化していくのかはまだ誰にも分かりませんが、それがメランコリーを誘発あるいは巨大化させるものでなければ良いと、心底思います。

 しかし私の直感は、情報革命の果てにはメランコリーの肥大化どころではない、人間精神の荒廃が訪れるものと危惧しています。

 そういう私自身、職場では一日中パソコンを使って仕事をし、帰宅すればこうやってパソコンに向かって記事を書いているわけです。

 私は120歳までも生き続けたいという欲求を持っています。
 情報革命が行き着く果てを、この目で確かめたいのです。

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