日曜日の夜が憂鬱なのは、3歳の幼稚園の頃から今、44歳のサラリーマンに至るまで、全く変わりません。
もう40年以上、平日はどこかに通う生活を続けているのですね。
生きるためとは言え、愚かなことです。
人に限らす、生きとし生ける生き物は、食うか食われるかの、苦しい生活を強いられています。
そこで人間は、哲学や宗教などを考えだし、生きている人間の生きる理屈を考えだしたのでしょう。
最後の審判だとか、成仏だとか、それぞれに宗教によって救いは異なります。
しかし私は、究極のところ、仏教もキリスト教もユダヤ教もイスラム教も、同じなのではないかと思っています。
どの宗教も、人間の魂を救うことを最終的な目標にしています。
私はもちろん、生まれ育ちゆえ、仏教、特にわが国で花開いた大乗仏教を深く信じています。
しかしだからと言って、他の宗教を信じる人々を排斥する気はありません。
私が大乗仏教に帰依するのと同様、キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でも、おのれの生まれ育ちによって、帰依する教えは異なるでしょう。
しかし私は、人間が人間であるかぎり、ありとあらゆる宗教が、全て人間一人の幸福を願うという意味で、全く同じだと思っています。
そうでなければ、多様な人間を救う道が複雑であることになり、それは人間が多様であることを認めるという当たり前のこととは別に、多様でありながら本質的には同一であるべき人間というものを救う道があまりにも多数存在することにってしまいます。
私は、仏教であれキリスト教であれユダヤ教であれイスラム教であれ、その教えの細部に違いがあるにせよ、究極的には人を救うという大目標に違いは無いと思っています。
要するに、仏教に禅門があり、浄土門があるごとく、ヤハウェの三宗教もまた、ある種の門であると考えれば、その根本は同じであると思います。
その小さな違いをことさら問題にし、あまつさえテロなどの殺人行為にいたるのだとすれば、それは人間の愚かしさを示す証拠に過ぎず、人間の本質を見誤った愚行であると言わざるを得ません。
私はイスラム過激派であっても、宗教が持つ共通の、そして最終的な目標を、長く話し合えば、理解してもらえるものと信じたいのです。
私は保険証の裏に、死して後、臓器は一切提供しない旨の意思表示をしています。
あの世とやらが不明である以上、死して後、臓器が無くて困るということがあってはいけませんから。
免疫学者にして文筆家でもあった東京大学の多田富雄名誉教授は、脳死を題材とした新作能を残しました。
題して、「無明の井」。
脳死状態に陥った男が、その意に反して心臓を摘出され、ある女に移植される話です。
この能では、男ばかりか、生きながらえた女もまた、他人の心臓を得て生き残ったことに深く苦しみます。
ある旅の僧が、仮寝をした涸れ井戸の側で、土地の者からある昔話を聞きます。
嵐で瀕死の状態となった漁師の男の心臓が、命の尽きかけた娘に移植され、彼女は生き永らえ、男はそのまま死んでしまいます。
娘は人の心臓を取って生き永らえたことを罪と感じ、懺悔の一生を送ったというのです。
この話を聞いた僧が二人のために祈っていると、心臓を取られた男と移植を受けた女の亡魂が現れます。
自らの屍を求めて彷徨っている男は、心臓が取られるさまを再現します。
魂は黄泉路(よみじ)をさまよひて、命(めい)はわづかに残りしを、医師ら語らひ、氷の刃、鉄(くろがね)の鋏を鳴らし、胸を割き、臓を採る。恐ろしやその声を、耳には聞けども、身は縛られて、と。
さらに続けて、われは生き人か、死に人か、と自問するのです
ぞっとするような、壮絶な場面です。
一度は生き永らえた女も、ともに業苦に沈むさまを見せつけます。
そして二つの魂は、僧に供養を願って闇に消え失せるのです。
脳死となればどうせ死んだも同然とばかり、生きられる可能性がある患者にその臓器を移植しようという理屈は分かります。
現実的には、極めて真っ当な判断なのでしょう。
しかし人の死というもの、我々生きている者にとっては全く不明の事態です。
そのような不明の事態を前にして、その命が完全に尽きる前に、殺害におよんで他人の命を助けるということが、倫理感に照らして正しいとは、とても思えません。
もちろん、脳死のドナーから臓器を移植することによって、元気になる患者にとっては、誠に喜ばしいことではありましょう。
私自身、臓器移植でしか助からない病気に冒されたなら、一日千秋の思いでドナーの出現を待つでしょう。
しかしそれは、全て生きている者の理屈。
脳死状態の人には意志を述べることすらできません。
ましてあの世がどうなっているかなど、世界中探しても答えられる人は存在しないでしょう。
そういった脳死にまつわる死生観の問題を、「無明の井」は鋭く投げかけ、観る者を困惑させます。
医者には医者の正義と理屈があり、ドナーを待つ患者には切ないばかりの生への執着があります。
それを否定する気はありません。
しかし私は、一個の生命体を構成する臓器を、まるで機械の部品のように移植するという考え方が、どうしても納得できないのです。
生命体はそれ自体で自己完結しているはずです。
人それぞれ体質があり、病気になりやすい人もいればそうではない人もいます。
ことは健康問題にかかわらず、その精神、霊性、能力など、ありとあらゆる力が、おぎゃあと生まれた瞬間からその人に付いて回り、ついには早死にや長寿など、人の寿命をも左右します。
病に苦しむ人々には酷かもしれませんが、私はそれぞれの人が背負った体質や精神、霊性などを甘受すべきものと思っています。
そのため、私はどうしても脳死を人の死と認めることが出来ないでいます。
限りなく可能性は低くても、脳死の人が健康を取り戻す可能性は否定できますまい。
それなのに殺害に及び、機械の部品のように臓器を取り出されたのでは、死者は浮かばれません。
私のような考えは現代医学から見れば馬鹿げた時代錯誤に思えることは承知しています。
しかし、一種の信仰のような思いで、私は脳死を人の死と認めることも、臓器移植も認められないのです。
それは言わば神の領域とも言うべきで、人間がそれを成すことは、あまりに傲慢に思えて仕方ありません。
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能の見える風景 |
多田 富雄 | |
藤原書店 |
お昼休みには消費税増税の話でひどくネガティブな記事をアップしてしまいました。
で、最近米国でポジティブ心理学と呼ばれる分野が流行していることを知りました。
平たく言うと、成功すると幸福になる、のではなく、幸福な状態だと成功する、という逆転の発想を体系化したもののようです。
四半世紀も前、英国のコリン・ウィルソンが提唱した「至高体験」との類似が感じられますが、ポジティブ心理学では幸福な状態に脳を持っていく具体的な技法を開発したことが特徴でしょうか。
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至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫) |
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦 | |
河出書房新社 |
ポジティブ心理学の研究で、
① ありがたいと感じる3つのよいことを書き残す
② 自分と関わる誰かにポジティブなメッセージを書いて渡す
③ 机の前で2分間の瞑想をする
④ 10分間のエクササイズをする
⑤ 24時間で最も意義深い経験を2分間で日記に書く
などが有効であることが判明しているそうです。
さらに、最も脳に幸福感をもたらす方法として、非常にシンプルな方法を提唱しています。
すなわち、人助け。
ポジティブ心理学の創始者の一人である米・ミシガン大学教授のクリストファー・ピーターソン博士は、ポジティブ心理学のエッセンスを一言で表すと、The other is matter、であるそうです。
つまり、他者のことが重要である、ということです。
他者との関係性が幸福感に高く相関することがわかっているということですね。
当たり前のような気がしますが。
20世紀初頭に、E・メイヨー、レスリーバーガーらがホーソーン実験というのを行って、作業の効率化には人間関係が良好であることが非常に重要である、との「人間関係論」なる論文を発表し、欧米人はびっくり仰天したと伝えられますが、日本人ならはるか昔から子どもでも知っている当たり前のことです。
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メイヨー=レスリスバーガー: 人間関係論 (経営学史叢書) |
経営学史学会 | |
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してみると、ポジティブ心理学なんて大仰な名前を付けてはいますが、我々日本人にとっては誰もが知っている当たり前のことを体系付けただけのような気がします。
そうは言っても脳を幸福にするための上の5つの技法、試してみようかと思います。
何事も否定的に捉え、憂愁の世界に生きている私が、少しでも幸福になれるのであれば、たいへん結構なことですから。
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ポジティブ心理学入門: 「よい生き方」を科学的に考える方法 |
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世界でひとつだけの幸せ―ポジティブ心理学が教えてくれる満ち足りた人生 |
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スタンフォード大学の超人気講座 実力を100%発揮する方法―――ポジティブ心理学が教えるこころのトレーニング |
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生命の起源が奈辺に在るか、それは多くの人々にとってまことに興味深い謎でしょう。
神様が7日で創造したということを信じるのは楽ですが、それは石頭とも言うべきで、どうぞご随意にと言う他ありません。
はるか昔、地球上の物質が様々な化学変化を繰り返し、海の中で原始生物が生まれたと、私は思いこんできました。
しかし、原始の地球上には生命が誕生するために必要な物質が欠けており、地球外から隕石などに付着して生命誕生に必要な物質が運ばれ、地球に生命が誕生したするパンスペルミア仮説を唱える学者が何百年も前から存在していました。
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生命の起源を宇宙に求めて―パンスペルミアの方舟 (DOJIN選書36) |
長沼毅 | |
化学同人 |
この仮説は長い間顧みられることはありませんでしたが、近年、この仮説が正しいのではないか、とする論文が立て続けに2本発表されたそうです。
生命誕生には、ホウ素と高度に酸化されたモリブデンという2つの物質が不可欠だそうですが、原始地球にはその存在が確認できず、長い間謎とされてきたそうです。
ところが最近、火星の無人探査機から送られてきた火星の物質から、この2つの物質が豊富に検出されたとのことで、火星からの隕石がこの物質を運んできたことによって地球上に生命が誕生したのではないか、という論文が発表され、にわかにこのロマンティックな仮説が注目を浴びているようです。
また、別の論文で、生命誕生に不可欠なリン塩酸という物質について、原始地球に豊富に存在していたが、固形の状態で、水に溶け難い性質を持っているのに対し、火星から発見されたリン塩酸は水に溶けやすく、原始地球の状態を再現した生命誕生の実験では、上記2つの物質と合わせ、火星からの物質では生命誕生の萌芽が見られるのに対し、原始地球由来の物質だけでは、生命が誕生できるとは考え難い、との結論を得たそうです。
また、火星にはかつて水が存在したと考えられる痕跡が続々と発見されているとか。
もちろん、それを持って火星に生命体が存在したとまでは言えません。
しかし、種々の実験や発見から、地球の生命体の起源は火星にあるのではないか、という仮説は、説得力を持つようになったことは確かだと言って良いでしょう。
ただし、私が思うのは、もっと根源的な疑問。
地球の科学者が生命誕生に不可欠だと考える物質は、本当に不可欠なんでしょうか?
人間の浅知恵で、どうしてそんなことが言えるんでしょうか?
私は生命というものを、もっと広い意味で捉えています。
植物はもちろん、鉱物も一種の生命体であろうと思います。
さらに言えば、宇宙に存在する物すべてが、一種の生命体なのでは?
わが国の大乗仏教が辿り着いた地平に、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)、という考え方があります。
人間や動物のみならず、草も木も、山も川も世界を構成するあらゆる物に仏性があり、この世は仏性の現れである、とする考え方です。
親鸞上人は「唯信鈔文意」のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すと説けり」と述べています。
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唯信鈔文意 (現代語版) |
浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 | |
本願寺出版社 |
このように、仏典からは逸脱しているとさえ言える、全ての物は、動物であれ植物であれ無機物であれ、仏性を有し、成仏できると考えるのは、わが国では一般的であり、しかもこの国に生まれ育った人々は、仏教を知らずとも、なんとなく、感覚的にその思想を理解することができます。
日本人の心性に合っているのでしょうね。
そのような思想をバック・ボーンに持つこの国で生まれ育った私にとって、火星もまた、山川草木の一つ。
山川草木とは、宇宙そのものを表す言葉だと思います。
そう考えると、生命の起源を追究すること自体が、仏性から程遠い、無意味なことに思えて仕方ありません。
人間にはどうしても分からないことが、あまりにも多いのですから。
世の中に差別の尽きる日は来ないようです。
男女差別、人種差別、貧乏差別、身分差別。
なんと愚かしい。
もちろん私も、差別意識が無いとは言えません。
気付かぬうちに、様々な差別を行っていることでしょう。
しかし私が許せないのは、「自分は差別などしない、そんな人間ではない」などとほざく阿呆どもです。
おのれの心の底を見つめなさい。
必ず、差別の芽があるはずです。
現に、私に差別的発言をほざいた上司は、私が弁護士を立ててまで、その非を責めた時、「叱咤激励であって、差別ではない」とほざきよりました。
新聞をにぎわす暴行事件を起こしたスポーツ指導者が言い訳する言葉と全く同じです。
私は、その上司に教育を施し、人の世はどうなっているかを教えるため、弁護士を立て、上司を責めました。
結果、謝罪文と賠償金100万円を手に入れ、さらにハラスメント防止規定の制定をすることで合意しました。
謝罪文と賠償金は期限までに届きましたが、ハラスメント防止規定はじつに期限から8か月も過ぎてやっと制定されました。
その8か月の間、私はじりじりとした思いで待ち、もはやこれまでと、弁護士に報告し、弁護士から催促させたところ、わずか一週間でハラスメント防止規定は制定されました。
全く馬鹿にしています。
私がいくら催促したところでなしのつぶてだったところ、弁護士の電話一本で制定されるとは。
現代社会の常識が通じない、愚かな上司ですねぇ。
今度の年度末でその阿呆上司も職場を去りますが、その任期中、職場の秩序を滅茶苦茶にし、その上司の取り巻きと思われていた多くの人々が捨て台詞を吐いて職場を去って行きました。
あれから6年、今となっては、私が気が狂ったと思った職員たちも、やっと、私の正義を理解し、阿呆な上司の阿呆さ加減に気付いたようです。
あまりに時間がかかりました。
そのせいで、私の昇進は遅れに遅れ、私の直属の上司は私より6つも年下です。
しかし、私の圧倒的な知識と経験に怖れをなして、その年下の上司は私にビビりまくり、哀れなほどです。
でも私は全く後悔していません。
私は正しいことをやったと、誇りに思っています。
私は、誰もが自分に自信を持ち、大傲慢で生きられる世の中が現出することを夢見ています。
すべての人が自信満々で、大傲慢で生きればよいのです。
それが、全ての人が幸福に至る唯一の道です。
私はしがないサラリーマンですが、総理大臣であろうと天皇陛下であろうと、私の前に出ればひれ伏すに違いないという大傲慢を維持しています。
そうでなければ、人は生まれながらにして平等だなどと、言えないものと信じています。
日本人、特に関東人の美意識には、不思議な感覚があります。
江戸落語の大成者、三遊亭円朝師匠の戒名は、無舌居士と言うんだそうですね。
しゃべるのが仕事で、しかも大名人と言われた師匠の戒名が、無舌居士。
舌が無ければ話すことはできません。
噺家の最後の境地が無舌だとしたら、話芸とは何なのでしょうねぇ。
相撲でも、大横綱、双葉山は、69連勝という破竹の快進撃を続けながら、70連勝が叶わなかった日、知人に「我、未だ木鶏たらず」と書き送っています。
木鶏は動くことができません。
何しろ木彫りですから。
しかし闘鶏では、木鶏の動じない姿勢を最高とします。
双葉山も、木鶏の境地を目指していたのですねぇ。
また、役者を褒めるのに、「上手くなったねぇ、何しろ芝居をしないもの」なんて言いますね。
役者は芝居をするのが仕事なのに。
また、嘘か真か、故古今亭志ん生師匠は、晩年、高座で眠ってしまい、かえってそれが客に受けて語りぐさになったと聞き及びます。
全ては、名人の域に達したならば、泰然自若として、何もしなくても自然と名人の業がにじみでる、ということでしょう。
このような美意識は、武士道に見られるように思います。
時代劇なんかで、凄腕の剣士が果たし合いをする時、お互い動かずに何分もにらみ合って、互いの気迫や力量を探りあい、勝てないと思った剣士の額から、にわかに冷や汗が噴出し、ついには腰が抜けたようになって「参りました」なんて言うシーンがありますね。
結局戦っていないのですよねぇ。
戦わずして勝つ、ということでしょうか。
カンフー映画なんかではこうはいきません。
これでもか、と言うほど長時間戦って、もう飽きた、と言う頃、やっと勝負が決まります。
どっちが良いかは好みの問題でしょうが、やはり私は日本人ですから、日本的美意識を現わす時代劇のほうがお好みですねぇ。
しかしサラリーマンではそういうわけにはいきません。
事務であれ営業であれ技術職であれ、きちんと頭と体を動かして、成果を挙げなければなりません。
机に向かってひたすら気迫をみなぎらせたところで、手を動かさず、書類も見なければ、いずれ解雇されてしまうでしょう。
因果な商売ですねぇ。
最近ようやっと、ゆとり教育の弊害が広く国民の間に浸透し、教科書も厚くなり、ゆとり教育は崩壊しました。
私はゆとり教育が始まった頃から、まずい風潮だと思ってきました。
知識の詰め込みは良くない、自分で考えて、個性を生かせる教育をすべきだと言うのですが、基礎的な知識が無いまま考えろと言われても、それは独善にならざるを得ません。
また、個性の無い人間はいない、という掛け声のもと、個性的であれ、という意見もありました。
しかしそれは、個性と言うより性格と言うべきでしょう。
真なる個性は、個性を殺すような教育を受けてこそ、それを跳ね返して飛びぬけてくるものです。
まして教育というのは、一般社会でまともに役立つ、普通の人を作ることが目的です。
他人を尊重できて、きちんと社会情勢に興味を持って、礼儀正しい、普通の日本人です。
エキセントリックというか、個性的な人間は作るのではなく、勝手にそうなるのです。
かつて、大正時代くらいまでは、日本人の教養と言えば、仏書漢籍や国文学が基本でした。
夏目漱石や森鴎外などの明治の文豪は、方や英国に、一方はドイツに留学して西洋の教養を身につけましたが、その精神の核となっていたのは、古来からのわが国の教養であったに違いありません。
その後、デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエルの略)などに代表される西洋の知識が旧制高校生などの間で大流行し、少しづつ、わが国古来の教養は廃れていき、戦後は見る影もありません。
寂しいことです。
旧制高校生というと、旧帝国大学に進み、高級官僚やエリート・サラリーマンになる、というイメージがありますが、尾崎放哉などのように、保険会社の社長にまで上り詰めながら、30代でそれを投げ出し、乞食同然の暮らしをしながら、一種のコスモポリタンのような自由な精神を持って生きた人もいます。
夏目漱石の小説に登場する、旧帝国大学を卒業しながら就職せず、実家の援護で遊んで暮らす、高等遊民と呼ばれる人々も、一種のコスモポリタンでしょう。
そう考えると、官製のエリート養成機関であったはずの旧帝国大学は、国家にとって仇となる可能性があるコスモポリタンをも養成していたわけで、懐の深い大学群だったのだろうと思います。
翻って、現代のエリート・サラリーマンや高級官僚はどうでしょう。
私にはいわゆるキャリア官僚と呼ばれる文部科学省のエリートの知り合いが何人もいますが、彼らの知識もまた、西洋流に偏っている気がします。
彼らの記憶力や知識の量は凄まじいものですが、日本人の核となる部分が抜け落ちているような気がします。
国際会議の場などでは、タフな交渉を厭わない日本のエリートが、夜のレセプションなどで、外国人からわが国の古典的な文化や芸術、歴史などを尋ねられ、答えに窮するという噂はよく耳にします。
自国のことを知らないようでは、外国人に馬鹿にされても仕方ありませんね。
ゆとり教育廃止に伴い、この際、江戸時代以前に行われていた漢籍の素読や、和歌の丸暗記、仏教教育などをも、大胆に復活させるべきだと考えています。
明治以降、わが国は西洋に学んで西洋の長所を取り入れることにばかり熱心で、わが国の長所を忘れ去ってきたように感じます。
ただ、多分、今の教師にそれを教える能力を持つ人はほとんどいないでしょうねぇ。
それならば、坊さんや、定年退職した仏書漢籍や日本古典に詳しい大学教員に小学校の非常勤講師になってもらい、これを復活せしめたら如何でしょう。
教育は国家百年の計と申します。
皮肉なことに100年前に行った、西洋に学べ、という教育は、今、見事に当たってしまいました。
次の百年を見据えて、是非ともわが国精神文化の核となる重要な教育を復活せしめるべきでしょう。
わが国においては、戦国時代にサンフランシスコ・ザビエルが耶蘇教を伝えましたが、ついにわが国にその教えが根付くことはありませんでした。
当時の宣教師の日記に、「日本人は他のアジア人と違い、日本人は極めて好奇心が旺盛で、天文の話などを熱心に聞きたがる、しかし、神の話には関心を示さない」と嘆いています。
宣教師は当然、神様の話を日本人に広げたかったものと思いますが、日本には八百万もの神様がおわしまし、そこに1柱くらい加えようがどうということは無いというのが、当時の日本人の素朴な感情だったようです。
今もなお、日本人は耶蘇教に転じる人はごくわずかで、実家の宗旨を知らなくても、とりあえず仏教徒であるという意識だけはあるように感じます。
実家の宗旨を知らないことは、責められてもおかしくないように思いますが、私は逆に感じます。
仏教は東南アジアの上座部仏教(小乗仏教)も、北東アジアで花開いた大乗仏教も、その根本は同じだという認識で一致しており、そこが小さな宗旨争いを繰り返す耶蘇教やイスラム教と大きく違っています。
実家の宗旨を知らなくても、大きな意味で仏教徒であるという自覚があれば、それは立派な仏教徒であろうと思います。
わが国の伝統文化の根本には大乗仏教があり、その深い意味を知らずとも、日本で生まれ育った人々は、知らず知らずのうちに仏教的価値観を身に付け、それを根本的な道徳律としてその生涯をおくります。
面白いのは、それを自覚していないのに、いつの間にやら仏教的価値観に基づいた行動をとってしまうこと。
仏教はあまりにも幅広い思想を持ち、しかも嘘も方便と言うごとく、苦しんでいる人を救うためには、嘘をも厭いません。
きわめてプラグマティックな宗教です。
浄土門にしても、禅門にしても、あるいは法華経にしても、すべて入り口が違うだけで、涅槃を目指すという最終目標は変わりません。
一方、キリスト教をはじめとするヤハウェの3宗教は、神様が7日で世界を作ったことと、最後の審判に関しては、絶対に譲りません。
一種のSFです。
それなのに、小さな違いをことさら問題視して、耶蘇教徒にいたっては、イスラム社会に十字軍などを送り込み、殺し合いを続けており、今もなお、イスラム原理主義者はキリスト教国家にテロを仕掛けています。
なんと愚かな。
なぜ小さな違いをことさら問題にし、争うのか、我々日本人には不思議で仕方ありません。
私たちなんちゃって仏教徒に出来ることは限られているようで、じつは大きなものだろうと思います。
なんちゃって仏教徒が、信仰について深く知らぬまま、幸せな人生を送っているその姿を世界に示すことが、そのまま宗教対立の愚かしさを示すことになるでしょう。
宗教に関して無節操と言われる日本人。
しかしその無節操には、限りない寛容が含まれていることを自覚し、世界に宗教的寛容の大切さをメッセージとして送り続けることが、寛容な国に生まれた日本人の使命であるように思えてなりません。
近頃インターネットで、韓国面に落ちる、という言葉を時折見かけます。
これは要するに、韓国人の激しい反日行動に対して、日本人もまた、韓国人のように激しく韓国を貶めたりけなしたりする言論を行うことを指します。
韓国人のように感情的にならず、冷静に、理性的に物事を見ようというメッセージが込められているものと推測します。
もちろん、「スター・ウォーズ」シリーズで、ジェダイの騎士が誘惑にまけてジェダイから外れ、悪に染まる様を、暗黒面に落ちる、と表現したことのパクリです。
善悪という観念はなかなか難しいものです。
例えばキリスト教では神様の存在を認めますが、すると当然悪魔の存在をも認めなければならず、悪魔は強大で怖ろしく、この世は神と悪魔の永遠の闘争と見なされます。
しかし、悪魔の親分は元はと言えば神様に仕えていた天使の中でも最も格が高い大天使だったわけで、神様は部下に反乱を起こされ、これの鎮圧に未だ成功せず、テロ攻撃のようなものにさらされ続けているということになるのではないでしょうか。
日本神話では、天照大神の使者が天から降りてきて、日本を治めていた大国主命に国を譲れと迫り、大国主命と長男は相手方が強大であることに怖れをなし、しぶしぶ国譲りを認めたが、次男がこれを潔しとせず、使者と相撲をとり、次男が敗れたために次男も国譲りを認めざるを得なくなった、とされています。
神話ですから、はっきりしたことは分かりませんが、おそらくは侵略してきた軍隊と土着の人々との間で激しい戦争が起こり、それを相撲と表現しているのではないかと思えてなりません。
嘘か真か、古代においては大国主命を祀る出雲大社には縄が打たれていた、という説を聞いたことがあります。
それだけ、天皇家の祖先とされる天照大神を祀る伊勢神宮を心の寄り心とする古代の支配者となった人々は、出雲系の人々の反乱を怖れていたのでしょうねぇ。
ただ、神話では、大国主命はスサノオの子孫とされており、スサノオは天照大神の弟神ですから、天孫系も出雲系も、元を正せばイザナギ・イザナミを祖とする親戚ということになっており、ここに日本神話誕生の秘密の装置が隠されているように感じます。
戦ったとはいえ親戚だ、というわけです。
普通、神社では、二礼二拍手一礼を正式な作法としますが、出雲大社では拍手を4回打つそうです。
作法の違いに出雲大社に許されたわずかな矜持を感じます。
天皇家が天照大神の子孫とされているように、出雲大社の宮司は代々大国主命の子孫とされる人が就いてきました。
ここでキリスト教と大きく異なるのは、天孫系も出雲系も互いに相手を悪だなどと決め付けることなく、ほぼ同化していったこと。
これを近代にいたって、大日本帝國は朝鮮半島と台湾に行おうとしました。
台湾では大いに成功し、今でも老人などは流暢な日本語を話し、日本精神を懐かしく語ります。
長いこと台湾独立運動の闘士だった金美齢は、独立を諦め、大陸に占領されたら中国人になってしまい、それだけは絶対に嫌だと、最近日本国籍を取得し、台湾系日本人を自称して、日本精神の復活を唱えています。
なんと台湾では細々と祖国復帰運動なるものが続いており、祖国とは日本のことだそうで、驚いちゃいました。
日本精神という言葉、わが国では聞きなれませんが、台湾の老人は子や孫の教育の際や、役人の汚職事件などが発覚した際、この言葉を持ち出すそうです。
勤勉で真面目で嘘はつかず、人には親切にする、というのが日本精神の大雑把な意味らしいですが、それは人類すべてが遵守すべき普遍的価値に過ぎないような気がします。
一方朝鮮半島ではいくら教育を施し、インフラを整備しても同化することなく、帝國憎しの感情を募らせ、今に到ります。
わが国は韓国面に落ちることなく、冷静で理性的に彼の国と対さなくてはならないと痛感します。
イスラム社会では、先日ラマダーン(断食月)が終わり、今祝祭の大宴会を各地で開いているようです。
そして、8月10日と言う日は、イスラム教の開祖、ムハンマドが、初めて神の啓示を聞いた日とされています。
西暦610年のこの日、ムハンマドの前に大天使ジブリールが現れ、啓示を与えられたのだとか。
単なる商人だったムハンマドは、当初何が起きているのか理解できず、ひどく怯えて、奥様に窮状を訴えたと伝えられます。
しかし、神からの啓示が続き、やがてムハンマドはこれを正しい教えと信じ、啓示をそのまま書き起こした「クルアーン」を著し、布教に専念します。
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『クルアーン』―語りかけるイスラーム (書物誕生―あたらしい古典入門) |
小杉 泰 | |
岩波書店 |
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聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観 (講談社現代新書) |
大川 玲子 | |
講談社 |
私たち東洋人から見ると、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はどれも似たような教えだと感じます。
天地創造や最後の審判などの根本教義がほぼ一緒です。
違うのは、救世主(メシア)の考え方。
ユダヤ教は未だ救世主(メシア)は現れておらず、今後現れると考えます。
キリスト教はもちろんキリストが、イスラム教はムハンマドが救世主と考えます。
面白いのは、イスラム教はキリスト教を頭から否定しているわけではなく、キリストを救世主が現れる前に何人か登場する預言者の1人と解釈し、イスラム教はユダヤ教・キリスト教が発展して成立した最終形だと思っていることですね。
檀家で氏子でクリスチャンと揶揄される私たち日本人は、宗教に寛容で、宗教対立が基で戦をしたことはほとんどありません。
しかしムハンマドと言うのは過激な人で、「人を殺すのは良くない。しかし、アッラーの神を信じないのはもっと良くない」とかぬかして、自ら軍を率いて異教徒と戦っています。
キリスト教も、十字軍など、ずいぶん宗教戦争を戦いましたが、開祖キリストが自ら戦ったという話は聞いたことがありません。
わが国には信仰の自由があり、何を信じてもご勝手ですが、私の個人的な感想を言えば、この世は神様が7日で作ったとか、最後の審判では死者を含めて全人類が裁かれるとか言われると、あんまりにもべらぼうな話で、なんだか白けてしまいます。
それはSFですか、あるいは統合失調症による幻視ですかと、聞きたくなります。
私は既成の宗教を信仰していません。
私が信じるのは、仏教や神道、国学、儒教などが混然一体となった日本教とでも言うべきものに、私なりのアレンジを加えたとびお教としか言い様が無いものです。
そういう意味では、私は教祖であり、たった1人の信者です。
何もそれを体系だて、布教しようとはさらさら思いませんが、思考の遊びとして、東洋の宗教の良い所どりをし、自分好みにアレンジして独り悦に入っているというのは、なかなか楽しいものです。
これからは織田信長のように、鏡に写る私自身を拝んで暮らすとしましょうか。
昔から、情けは人のためならず、と申します。
他人に親切にすれば、めぐりめぐって自分の利益になる、ということでしょうか。
このたび、概ね誰にでも親切な小学生とそうではない小学生に対する友人の態度の違いに関する研究成果が発表されました。
それによると、いつも友人たちに親切に接している子供に対しては、友人たちも親切に接し、しかも親切な友人を持った子供は、その親切な子供だけではなく、他の子供にも親切に接するようになるそうです。
素晴らしい正の連鎖ですねぇ。
最近、暴力を受けて育った人は自分が親になると子供に暴力をふるうことが多いとか、負の連鎖の話ばかりでしたから、久しぶりに良い話を聞きました。
子供に限らず、誰もがそうでありたいと思います。
私には子供がいませんが、私は親から叱られた記憶がほとんどなく、当然手を上げられたことなど一度もありません。
そのため暴力に対するハードルが極めて高く、さらには争いごとを好みません。
ただし、喧嘩を売られた時は別です。
売られた以上、買うしかありません。
かつて私に暴言を吐いた上司に対し、弁護士を立てて公文書による謝罪と損害賠償を求め、謝罪文と損害賠償100万円を勝ち取ったときなどは、売られた喧嘩に過剰に反応した好例です。
喧嘩であっても、その場で怒鳴り合いをするのではなく、その場は大人しく引き下がり、現代の社会通念に従って、最も効果的に相手にダメージを与えるのが私のやり方です。
職場では派手にやったわけですが、ごく幼い頃の兄弟げんかを別にすれば、家族や親族、友人と喧嘩したことなど、一度もありません。
同居人とも、一緒に暮らして15年、一度も喧嘩したことがありません。
身内と喧嘩しなければならない理由など、何一つありません。
同居人は小学生くらいまで、かなり激しい躾というか虐待に近い扱いを受けてきたそうで、「もし子供が出来たら、殴ってしまうかもしれない」、と不安がっていました。
幸か不幸か、いない子を殴ることはできませんし、いない子に悩まされることもありません。
もちろん、子の成長を見守る喜びもありませんが。
しかし、我が家はお互い正規雇用で働く共働き。
それに特別子供好きというわけでもありません。
夫婦漫才のように、競ってつまらぬ話をし、相手を笑わせ、笑ったほうは「参りました」、と頭を下げるのが私と同居人の流儀です。
私には9つ下の弟がおり、赤ん坊から幼児、小学生くらいまで、ずいぶん可愛がり、そのせいか進学も就職も私の意見を素直に聞いてくれました。
不思議と、弟は父や兄とは激しく言い合ったりしていましたが、なぜそうなるのか不思議でした。
子育てとはこんな感じ、ということを、年の離れた弟の存在が、私に教えてくれました。
概ね、私の子供時代は幸せであったと思います。
今も、客観的には幸せなんでしょうねぇ。
堅い仕事について30歳で4LDKのマンションを購入し、車通勤のためラッシュの苦しみもありません。
気の合う女性と二人きり、気ままに暮らしています。
しかし、主観的にはなかなか苦しい日々を送ってきました。
精神障害を患いましたし、少年時代から抱えている根源的な闇は、今でも折あらば隙あらば、私を苦しめようと待ち構えているかのごとくです。
この世に60億の人がいれば、60億とおりの悩みや苦しみがあるはずで、100%幸せだ、なんて言う人はほとんど存在し得ないし、存在すればそれは少々オツムが弱いのでしょう。
情けは人のためならず、という言い古された言葉を改めて心に刻みたいと思います。
以前、このブログで神聖かまってちゃんというイカレタ、しかしなかなか素敵な歌を披露するバンドを紹介しました。
近頃の韓国をみて、上の歌を想起しました。
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楽しいね |
ワーナーミュージック・ジャパン | |
ワーナーミュージック・ジャパン |
サッカー日韓戦で、わが国を誹謗中傷するような政治的横断幕を掲げたり、竹島に今にもわが国の軍隊が攻めてくるとでもいうような不安を煽ったり、韓国はまるで日本が大好きでかまってほしいかのごとくです。
ぶぅぶぅ文句を言いながらじつはかまって欲しくて仕方が無い神聖かまってちゃんの歌を思い起こさざるを得ません。
隣国で、しかも両国とも漢字や儒教などの中華文明から強い影響を受けた同じ北東アジアの国なのに、その国民性は大きく異なります。
よく、韓国の文化を称して、恨の文化、と言われます。
某日本人学者は、伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望、と説明しています。
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恨の文化論―韓国人の心の底にあるもの (1978年) (イ・オリョン文化論シリーズ〈1〉) |
裴 康煥 | |
学生社 |
一見、ニーチェが言う、ルサンチマンに似ているようにも感じます。
ルサンチマンとは、被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいることで、この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった道徳であり、しかも怨恨でもある、と言われます。
![]() |
道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫) |
永井 均 | |
河出書房新社 |
![]() |
ニーチェ道をひらく言葉 (智恵の贈り物) |
野田 恭子 | |
イースト・プレス |
しかし、韓国を見ていて思うのは、恨というのはルサンチマンほど明白な概念ではないのではないかということ。
韓国は古くは中国に朝貢し、その保護の下に発展しました。
近代においてはわが国に併合され、わが国への同化を強制されました。
戦後南北に分かれて独立を果たしますが、それは韓国人自らが勝ちとったものではなく、米国を始めとする連合国がわが国を打ち負かしたために得られた偶然の産物のようなもの。
つまり彼の国は有史以来、一度も自力で自存自立の国として立ったことがなく、その哀しい歴史が、上下関係への不満という意味だけではなく、悲哀や怨恨、自己憐憫、他者(特に日本)への強い対抗意識などが混然一体となって、非常に複雑な感情に支えられた負のパワーを生ぜしめ、恨の文化を支えているように感じます。
一方わが国には、和ということを大事にし、恨みがあっても水に流すとか、戦いが終われば敵も供養する敵味方供養とか、恨みを持続することを良しとしない文化が存在します。
また、武士道などの高い道徳律や、花鳥風月などの自然を愛でる優雅さを持っています。
このことは、この国に生まれた全ての人にとって、誠に幸福なことです。
私にも何人か韓国人の知り合いがいますが、彼らはみな礼儀正しく、紳士的で、むやみにわが国を責めるようなことは決して口にしません。
それは何も彼らが希望して日本に居住しているからというだけではなく、もともと韓国人1人1人が、おそらくは礼儀正しくて紳士的なのだろうと想像します。
ただし、それが国家としてのアイデンティティに関わる問題になると、身にしみついた恨の文化が頭をもたげ、マスコミや政治家が過剰に大騒ぎし、なんでもかんでも日本が悪い、と言いだすのでしょう。
問題を単純化するのは楽ですから。
そうなってしまってはもはや話し合いの余地はありません。
大人の社会では、感情的になった時点で、もう負けです。
常に冷静に、Yes but、という態度を貫かなければ、馬鹿にされるだけです。
したがって、先祖がえりのように中国へ接近し、信じられないような屁理屈でわが国を責めている間は、一切相手にせず、無視し続けるしかないでしょう。
現に安倍政権は、無理に韓国との首脳会談を求めない、と明言しています。
それでよろしかろうと思います。
わがままな幼児のようなかまってちゃんは、放っておくしかないのです。
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冴えない週末の朝を迎えました。
業務出張で高知くんだりまで出かけ、安宿でこれ以上無いほどしけた朝飯を食えば、冴えてるはずがありません。
明日の朝飯はホテルのバイキングはキャンセルして、喫茶店かファミレスにでも行こうかと思います。
あれではエサ場というべきで、食事とは言えません。
4,000円で朝食付きというのはおかしいと思いましたが、納得です。
今日はこれから、高知県立大学でイベントです。
ホテルから歩いて15分ほどだそうです。
明日は高知県立歴史民俗資料館に立ち寄って意見交換してから、山奥の呪いの村にある市民館でイベントです。
今回のテーマは呪いなどの民俗学的研究なのですよねぇ。
市民館には路線バスすら通じておらず、レンタカーを予約してあります。
そんな山奥でやるだけで、禍々しい雰囲気が漂うのかもしれません。
四国というと、呪いというイメージがありますね。
昔、「死国」というホラーがありました。
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四国八十八か所のお遍路を逆回りで回ると、死者が蘇るという話を信じて歩く女の話でした。
もともとその手の話はお好みですが、仕事となると呑気に楽しんでばかりはいられません。
無事に乗り切りたいものです。
そろそろ出発しますか。
40代半ばに達し、時の流れの残酷さに気付くようになりました。
人は必ず老い、死んでいきます。
こればっかりは、どんなに権力を握ろうと、金をもうけようと、誰にも訪れる問題です。
そのことを歌って、沢田研二の「時の過ぎ行くままに」は、あまりにも切ない名曲でしょう。
亡父は、雪のちらつく浅草寺の五重塔が良く見える病室で、その命を終えました。
亡父は常におのれのダンディズムを大切にし、そのことは幼い私にも分かるほどでした。
そしてそのダンディズムに殉ずるかのように、ほとんど苦しむこともないまま、モルヒネで痛みを取って、静かに、逝きました。
私は死ぬ時まで格好つけやがって、と思いながら、家族の前では平静を装いました。
しかし、自宅マンションに帰って、同居人を前に問わず語りに亡父との思い出を語るうち、涙枯れるほど、泣き続けることになったのでした。
私の邪悪と亡父の悪を、私たち親子は気付いていたのだと思います。
邪悪と悪が分かちがたく結びついた時、その関係性は限りなく深いものにならざるを得ません。
そういうわけで、私と亡父は、母にも兄弟にも親戚にも理解不能な、奇妙な関係性を築いていたものと思っています。
今、亡父は涅槃に至ったのでしょうか。
あるいは、長い中有の闇を彷徨っているのでしょうか。
さらには、どこかに転生を遂げたのでしょうか。
誰にも分かりません。
しかし私は、亡父のような死に方を望みません。
私は、若い者が震え上がるような、苦痛に満ちた死を、若い者に見せつけて、困苦の末に亡くなりたいと思っています。
それが、死に行く者が生きている者にできる最大の教育であろうと思います。
人が死ぬということ、生易しいことではないということ。
そういう意味では、ダンディズムに殉じた亡父は、死に行く者の重要な役割を放棄したものと思います。
私には亡父ほどのダンディズムを持ち合わせていません。
それならいっそ、私は七転八倒の苦しみのなか死ぬしかない老人の姿をさらすことによって、若い者の死生観を育てたいと思っています。
ブリジストン美術館から帰って、読みかけの村上春樹の新作を、少し、読み進めました。
日本の古典文学と、それらに基づいた近現代の文学に親しんだ私には、村上春樹は西洋かぶれの、奇妙な文章を書く人としか思えません。
しかし、真実の文学は言語を超えると言うとおり、彼の鼻につく文体に不快感を覚えつつ、つい、読んでしまうのです。
全くの力技としか言いようがありません。
もうあと100ページというところまで読みましたが、晩酌で濁った頭でこれ以上読むのは作者に失礼かと思い、読むのを中断しました。
村上春樹の小説の多くがそうであるように、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」もまた、まっとうな現実を生きるまっとうな主人公が、摩訶不思議な世界にとらわれていく過程が描かれ、読者たる私は、またこの手かと気付きながら、呆気なく作者の策に落ち、物語に夢中になっています。
おそらく、長いわが国の文学史の中でも、稀有な物語作者であると同時に、自覚しているかどうかはともかく、どうしても逃れられないわが国文学の伝統を背負っている文学者であると言えるでしょう。
英語に堪能で、米国のペーパーバックで小説作法を学んだと言ってはばからない作者ですが、その小説に抜けがたいわが国古典文学の影響が見られるのは、多少とも日本の古典文学を学んだものなら、誰でもわかることです。
だからこそ、村上春樹はノーベル文学賞の候補になるのでしょう。
石原慎太郎が繰り返し言う、「真にナショナルなものでなければ、真にインターナショナルにはなれない」という言葉を、深い滋味を持って、思い出します。
そうであるならば、私もあなたも、すべてはそれぞれに年齢と同じ歴史を背負った歴史的存在。
何も歴史とは、100年前、1000年前のことではありますまい。
昨日のこと、もっと言えば、10分前のことも歴史であり、それらが積み重なったはるか昔のことが、学問的に歴史と呼ばれます。
今日私がブリジストン美術館に出掛け、特定の絵画に目を奪われたことも、明日からの仕事に戦々恐々としてアルコールの酔いに頼んでしまうことも、私という小さな人間にとっては、大きな歴史の一環であるに違いありません。
すべての人が、歴史の中心にいるということを自覚して、おのれと他人の人生を尊重することが、現代を生きる私たちに出来る唯一のことだと思うのです。