現在、世界の人口はおよそ70億人なのだそうです。
1900年にはおよそ16億人だったそうですから、怖ろしい勢いで増えていることになります。
一方、わが国をはじめ、先進国は減少傾向。
豊かな国で人口が減るのは不思議ですね。
人類にとっては永遠とも思える時間のなかで、今この瞬間に同時に生きているというのは、例え遠い異国の、会ったことも無い人であっても、強い縁があるのだろうと思います。
まして日本というマイナーな言語をあやつる1億ちょっとの人々は、まさに同胞。
その中でも家族や友人、同僚になって言葉を交わす人々というのは、奇跡のような確率の縁ですね。
そう思うと、身近な人も、そうでない人も、すべての人々が限りなく愛おしく感じられます。
一方で、戦争が絶えたことはなく、テロは頻発しています。
愚かなことですが、これが人間の限界なのでしょうか。
チンパンジーは、集団での戦闘を繰り返すのだとか。
一方、チンパンジーより少し小さいだけのボノボは、集団での戦闘を行うことはないそうです。
ボノボの特徴は、異性間でも同性間でも、疑似的性行為を頻繁に行い、親密さを増すことで、平和を保っているのだとか。
LOVE & PEACEを実践しているかのごとくです。
しかし、我々人類が、声高にLOVE & PEACEを叫んだところで、ボノボのようにはなれないでしょう。
悲しいかな、それが人間の本性。
ならばできることは、利害の調整くらいしかありません。
しかし、利害による戦は避けることができても、思想信条の違いによる争いは、なかなか簡単には避けられないでしょう。
損得勘定なら、痛み分けによる落としどころは見つかるはずです。
まして、第三次世界大戦みたいなことになれば、核兵器による共倒れは必至です。
共倒れは究極の損。
だからこそ、戦後最大の核戦争の危機であったキューバ危機をも乗り越えたのでしょう。
当時、クレムリンもワシントンも、全面核戦争を覚悟したと伝えられます。
思想信条の違いによる争いの場合、一方が、どんなに損をしても絶対に引かない、と覚悟した場合、相手方も引くことが出来ません。
厄介ですねぁ。
損得を第一に考えられる、冷静な人間を作る教育が求められる所以のものです。
私が小学生だった1970年代後半、ノストラダムスの大予言という本が流行って、テレビでも特集番組がたびたび放送されました。
当時は、1999年7月に人類が滅ぶ、という予言が、恐怖をもって語られることがもっぱらでした。
1999年7の月、恐怖の大王が天から降ってくる。
彼はアンゴルモアの大王を蘇生させ、その前後、マルスが正義の名のもとに世界を支配する。
うろ覚えですが、上記のような内容だったと思います。
アンゴルモアの大王という言葉が何を指すのか、今もって定説は無いようですが、マルス(火星)というのは、米国を指すとされています。
要するに何か恐ろしい事態が起きるらしいこと、その当時、米国が正義の名のもとに世界を支配している、ということが読み取れます。
恐怖の大王を、巨大隕石だと解釈したり、宇宙人だと言ったりする怪しい研究者がテレビで恐怖を煽っていましたね。
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小学生だった私は、1999年7月だと自分は29歳になっているのかと思い、遠い将来だと感じつつ、30歳まで生きられないのかと、本気で心配したことを懐かしく思い出します。
その後、近未来の設定で「1999年の夏休み」という、美少女ばかりが美少年たちを演じる、トランスジェンダーめいた倒錯的な映画が公開され、世紀末気分を盛り上げたりしました。
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しかし当然、1999年7月には何も起こりませんでした。
私は深く失望しました。
何か巨大なスペクタクルを期待していたのでしょう。
その後2001年に起きた9.11テロが上の予言のことで、時制の狂いは誤差の範囲とする珍説が登場しましたが、どっちにしても人類が滅ぶことは無かったわけです。
1999年からもう18年。
テロが頻発しているとはいえ、今も人類が滅ぶ気配はありません。
このつまらない現実を、淡々と生きていくしかないのだと思い知らされた一件ではありました。
そんなことを思い返していると、来し方を振り返り、深いノスタルジアの世界に引き込まれます。
8月で48歳になりますが、私は未だ、自分が何者にもなり得ていないと感じています。
仕事は事務職なので、異動があれば一から覚えなければならないことも多く、何かの専門家にはなり得ません。
広い意味で事務の専門家なのかもしれませんが、そもそも事務の専門家という言葉そのものが言語矛盾のような気がします。
事務なんて要するに何でも屋ですから。
その時々で、例えうつ病の底に沈んでいた時でさえ、復職支援プログラムに通ったりして、最善と思われる道を選んだつもりでいます。
しかし最近、右に行くか左に行くか迷った時、私は常に誤った道を選んできてしまったのではないかという思いを強くしています。
人生なんてうまくいかない、それは事実なのでしょうが、ノストラダムスの予言に怯えていた小学生の頃、私だけはすべてがうまくいくはずだと、漠然と思っていました。
強いてうまくいったことがあるとすれば、同居人と出会い、結婚したことでしょうか。
はじめて出会った26年前、私は22歳、彼女は23歳でした。
第一印象はお互い悪いものでしたが、付き合い始めると、趣味嗜好の一致に驚いたものです。
子宝には恵まれませんでしたが、喧嘩一つすることなく、今も仲良くやっています。
かつて、「黄昏」という映画だったと記憶していますが、老いた妻に、同じく老いた夫が、「しわの一つ一つが美しい」といった意味のセリフで、互いに老いた今こそが美しいのだと、老いを称揚してみせた場面に深い感銘を受けたことがあります。
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私と同居人も、素敵で美しい老夫婦になっていきたいものだと思っています。
精神科の主治医は、何よりも今、ハッピー感を感じられているかが大切だ、と諭します。
持って生まれた気質ゆえ、ハッピー感というものはほとんど感じませんが、それが感じられるようになることをもって、良しとしなければなりませんね。
いや、それ以上のことはあり得ないのでしょう。
もはや幼い頃のように、巨大なスペクタクルを望むでもなく、分かれ道での誤りを悔いるでもなく。
今日は馬鹿に暑い日でしたね。
しかし、ここ数年、明らかに暑さを感じにくくなっているように感じます。
真夏でも、半袖を着ることがなくなりました。
布が足りないような気がして、なんとなく不安なのです。
そういえば、老人は真夏でも暑さをそれほど感じず、ためにエアコンを使わずに熱中症になることがあると聞きました。
私は8月で48歳になります。
昔であれば人間(じんかん)五十年、なんて言って、アラフィフは老人の部類だったのでしょうが、今は50歳なんて普通に考えれば中年ですし、国会議員なんかは若手のような扱いをうけているようですが、自覚的にはずいぶん衰えたような感じがしています。
疲れやすくなったし、書類作成など、手を動かす仕事が面倒で仕方ありません。
体重は新人の頃とほぼ同じで、髪も黒々ふさふさなので、見た目の衰えはシミが増えたくらいですが、最近私を悩ませているのは、緑内障による左目の悪化です。
右目は正常なので、両目で見る分には右目がカバーしてそうでもありませんが、左目だけで物を見ようとすると、視野が極端に狭く、真ん中に黒い線のようなものがあって、難儀します。
右目も悪化したら、車の運転どころか、日常生活にも支障をきたすでしょうねぇ。
緑内障は目薬を打って進行を止めるくらいしか治療法がなく、現代医学では視力の回復は不可能なのだそうです。
一応治癒した頸椎椎間板ヘルニアも、再発が多いそうですから心配です。
そこで私は、これらの加齢に伴う肉体的、精神的変化を、老年の青春期と捉えようかと思っています。
子供が大人に成長する際、喉仏が出来たり、陰毛が生えたり、様々な変化が訪れて、少年少女は戸惑うものです。
気力、体力の低下も、目が悪くなったことも、首の痛みも、老化をこれから本格的に迎えるのだという、サインのようなものだと思えば、まさに老人の青春期の現れはないでしょうか。
そして、長い経験と、一種の諦念が、青少年を悩ませる青春の煩悶や性欲や、壮年期に顕著になる出世欲や名誉欲を消失させ、むしろ精神は安定するのではないでしょうか。
それにはいくつかの条件が必要になるでしょうね。
老人なりの健康さ、ある程度の経済力、さらには孤独を強く感じない程度の家族や友人などの交友関係。
これらがそろえば、衰えは感じたにしても、老年期を豊かにするものと思われます。
日本人の寿命は長くなりました。
還暦を派手に祝うのは、還暦まで生きることが難しかったからでしょう。
70歳の古稀は、人生七十古来稀なり、という古い言葉からきています。
70歳まで生きるのは本当に稀だったのでしょうね。
しかし今は、80歳なんてざらにいます。
老いて、様々な仕事や義務から解放され、人生の時の時を、できるだけ健康で迎えたいものです。
そうであってみれば、加齢による衰えのサインを見逃さず、治療を受けるなり、生活習慣を好転させる、今がチャンスなのかもしれません。
現役を終えた途端に死んでしまうなんて、払い続けた社会保険料がもったいないですからねぇ。
100歳までも長生きして、払った分の年金をとりもどしてやろうと思っています。
あんなじじぃ早く死ね、と言われるくらいの、しぶとい老人になってみたいものです。
長い一日。
長い一週間。
切ないばかりに短い週末。
これらを積み重ねて、人々は生きています。
生きるということの意味を問う暇もなく。
それは絶望に至る道なのでしょうか。
美的な存在・倫理的な存在・宗教的な存在。
キリスト教を深く信仰した哲学者キルケゴールは、人間の在り様をざっくり上の三つに分類しました。
私は西洋哲学には疎く、正確な理解ではないと思いますが、一時期、西洋哲学の書物を読み漁ったことがあり、その時のおぼろな記憶では、そんなようなことだったと思います。
多くの凡人は、美的な生き方に甘んじているものと思われます。
美的というと何やら高尚な感じがしますが、要は酒を飲んだりパチンコに興じたりする、平凡な生き方と考えれば分かりやすいでしょう。
かくいう私もそうです。
そこから一歩進んで、倫理的な存在があります。おのれの良心に従って、あれかこれかを選択する、意識の高い生き方です。
しかしキルケゴールは、美的な存在も、倫理的な存在も、やがて絶望=死に至る病の淵に立たされるだろうと予言しています。
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美的存在は虚無や不安などに襲われ、倫理的存在は自己の有限性に見舞われる、というのです。
で、宗教的存在として、単独の人間として、神の前に立つことこそ、絶望から逃れる道だ、というわけです。
そして、普遍的真理というものを疑い、自分だけの真理を求めるべきだと説き、絶対者としての神と結びついた時、人間の主体性が発揮され、自分一人の真理にたどり着くことができる、と考えたようです。
しかしわが国は多神教の国で、神社に詣でたり寺に参拝に行ったりするのが普通ですから、単独者として神の前に立つ、と言われても、戸惑うばかりです。
一方ニーチェは、キリスト教道徳を奴隷の道徳として、神は死んだ、という有名な言葉を残します。
キリスト教から解放され、力への意志に燃える人間となって、新しい価値観を創造する人=超人となることをこそ求めます。
ニーチェは現実世界を、何の目的もなく、意味もない、永遠の繰り返し=永劫回帰に過ぎないと考え、そのようなニヒリズムから脱するには、神なき世界を超人となって生きるほかない、と考えました。
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キルケゴールもニーチェも普遍的真理を求めたヘーゲル批判から出発し、正反対のようでいてじつはよく似た境地に達しました。
神と結びつき、自分だけの真理を求めるキルケゴール。
神を捨て、己を限りなく高め、超人となって主体的に生きることを求めたニーチェ。
神に対する態度は正反対ですが、求めている境地はよく似ています。
現代哲学はもっと複雑になっているようですが、多くの旧制高校のエリートたちは、これら超人なり、自分だけの真理なりといった考え方に心酔したやに聞き及びます。
これら実存主義と呼ばれる哲学の影響とは思っていませんが、私はかつてこのブログで、仏教や神道や各種思想のおいしいとこ取りをした、私が教祖で信者はいない、とびお教としか言いようがないものを信じている、と書きました。
それはもしかしたら、自分だけの真理、あるいは超人を志向する態度と似ているのかもしれません。
そんなことを夢想しながら、私は酒や物語に逃避する、美的存在でしかありません。
いつか私も発心を起こし、悟りを求めて激しい精神的運動に入る時がくるのでしょうか。
しかしその時も、仏教という主を持っていては、私だけの真理に到達することも出来ず、超人になることもできないような気がします。
やはり私は、先人の思想や宗教に頼ることなく、私の魂の深淵を覗き込み、そこから私にだけ重要なものを発見するしかなさそうです。
そんな面倒な作業を行う力がまだ残っていたら、の話ですが。
ようやっと、稀勢の里が横綱に昇進しましたね。
遅咲きと言われますが、三役までは超スピード出世でした。
大関になるときと、今回、横綱に昇進する際に苦労しました。
日本出身横綱の誕生は19年ぶりとかで、ずいぶんモンゴル勢に押されていました。
相撲の起源は古く、日本神話に遡ります。
天照大神が出雲に使者を送り、大国主命に国譲りを迫った際、大国主命は二人の息子が応じるというなら国譲りに同意する、と応えます。
二人の息子のうち、一人はすぐに応じますが、一人が力比べをしようと言って、使者と相撲を取り、使者が勝ったため、大国主命は巨大な宮殿を建設することを条件にして天照大神にこの国を譲ったわけです。
この宮殿こそが、出雲大社とする説があります。
で、その子孫が天皇というわけで、平たく言えば、高天原に住んでいた神々が、この国を分捕ってしまったということです。
しかも、その後、初代天皇である神武天皇は東征の名のもとに侵略を重ね、ついに本州は天照大神の子孫が支配することになったわけです。
「古事記」や「日本書紀」では、東征は露骨な侵略戦争として描かれますが、大国主命の息子と天照大神の使者は、単に相撲をとっただけということになっています。
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しかし私は、相撲というのは、大戦争を表す隠喩的な表現なのだろうなと思っています。
大戦争に敗れたわけでもないのに、簡単に国を譲るわけもありますまい。
嘘か真か、長い間、出雲大社には縄が打たれていた、という説があります。
天照大神に逆らったけしからぬやつ、ということでしょう。
おそらく天孫系と呼ばれる人々と、土着の人々は、民族が異なっていたのでしょうね。
やがて土着の人々は、蝦夷だとか熊襲だとか、はたまた土蜘蛛だとか言われて差別され、時には成敗の対象とされてしまいます。
今、わが国に住まいする人々の大半は、侵略者たる天照大神の系譜に連なる者たちであろうと思います。
勝者は敗者を駆逐するものですから。
わが国はもともと天皇家が支配する国ではなく、天皇家は侵略者の親分だったと考えると、神話時代の大戦は、今に至るもわが国の形を縛っているわけで、因果応報と言おうか、何事も原因があって結果があるのだなと、痛感させられます。
そして輝かしい勝利を収めた者たちは、力比べ=相撲を国技と認定するに至りました。
後に相撲は神道の神々に捧げる神事ということになり、わが国の伝統文化と解されるようになりました。
単なる格闘技やスポーツではなく、品格や威厳が求められる所以のものです。
それはそうでしょう。
天照大神こそが神道の最高神であり、この神様の大勝利を祝って神事を執り行うというのは自然な流れでしょうから。
そんな昔のことは関係なく、迫力満点の大相撲を私たちは楽しんでいますし、楽しめばよかろうと思いますが、ふと、相撲の起源となった神話を思い出して、慄然とさせられたところです。
稀勢の里関には、これら相撲の歴史を汚さぬ大横綱になってほしいものです。
キルケゴールは「死に至る病」で、絶望を罪と断じ、絶望こそが死に至る病だとしました。
そして絶望を脱するには、真のキリスト者でなければならない、とも。
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イスラム教では最後の審判は必ず訪れる、と警告し、アッラーへの信仰によって天国へと至ることを求めました。
浄土教では阿弥陀仏にすがることを薦め、禅宗ではひたすら座って瞑想することを求めています。
神道では清き明き心を良しとしました。
何が本当だか分かりません。
宗教的真実が一つなのだとしたら、一つ以外は嘘つきということになりましょう。
あるいは、仏教における門のように、どの宗教に入信しても頂きは一緒ということも考えられなくはありませんが、ちょっと無理筋のような気がします。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はほぼ同じような教義を持っていますが、一方で少しの違いに目くじらを立てて、殺し合いを続けてきました。
それどころか、キリスト教においてはカソリックとプロテスタントで争いをしていた過去があります。
まこと、信仰とは厄介なものです。
わが国では、檀家で氏子でクリスチャン、などと揶揄されるように、ほぼ無宗教という人が圧倒的多数に及ぶものと思われます。
しかし、寺に行けば手を合わせ、神社に行けば頭を下げて柏手を打つという態度は、一つの宗教に拘らず、広く人智を超えた物を敬うという、素朴な宗教的感情を表しているように思われます。
用明天皇は仏教伝来に際し、蘇我氏が仏教を、物部氏が神道をわが国の根本とすべきだとして争った時、自分は仏法を信じ、神道を敬う、といった意味の発言をして、結果、現在に至るまでわが国の人々は仏教も神道も同時に尊ぶ態度を取り続けています。
結果としては仏教を押す蘇我氏が勝利し、その後明治に至るまで、朝廷は主に仏教に染められることになりましたが、庶民は必ずしもそうではなかったということでしょうか。
結局のところ何も分からない赤子のような人類がとるべきもっとも誠実な態度は、どんな宗教をも敬い、一つに凝り固まることがないようにするしかないような気がします。
どの宗教にも、それぞれ良い点はあるわけで、おいしいとこ取りするのも悪くないような気がします。
それはヤハウェの3宗教を深く信じる欧米や中東の人々にとって、恐るべき無節操なのかもしれません。
あるいは地獄への道なのかもしれません。
パスカルの賭け、という理論があります。
パスカルは、神の存在を信じた場合、それが真実であれば天国に行け、嘘であっても失うことは無いのに対し、神の存在を信じなかった場合、それが真実であれば地獄行きという大損をするから、神を信仰することに賭ける、と述べています。
しかしこれは、宗教が世の中にキリスト教しか存在しなかった場合にのみ有効で、今、あまたの宗教の存在を知る我々にとってはあまりに危険な賭けだし、そもそもそんなことを言い出したら、何に賭けてよいかわからない、ということになります。
パスカルが生きた時代の制約なのでしょうか。
分かりません。
宗教は人を救うために生まれたのでしょうが、それがあまりに多数にのぼるため、何が真実だかわからない、絶望=死に至る病に、多くの人が罹患しているように感じます。
しかし私は、傲慢と言われようと、私が教祖で信者は私一人だけ、という名もない、宗教とも言えないような物を信じ続けるしかないように感じています。
それこそが、人智を超えた物を予感し、畏怖を抱き続けるということであろうと思っているのです。
法華経の中に、常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)という章があります。
法華経は大部の経典で、さまざまな、品つまり章立てがなされています。
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火宅、つまり火事になっているのに気付かず、燃え盛る家で遊んでいる子供をとおして、人類の在り様を描いた譬喩品や、観音様の力の偉大さを描いた観世音菩薩普門品などは、なんとなく知っているという人が多いのではないかと思います。
で、常不軽菩薩品。
これは不思議な話です。
常不軽菩薩は、特段仏典を勉強するわけでもなく、ただひたすら、誰に対しても、
「私はあなたを決して軽んじない、あなたは、菩薩としての修行を行ないなさい。あたながたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう」
と言い続け、時には逆にバカにされたと感じて怒り出す人もいるなか、ひたすらそれを言い続けるのです。
私は仏教を完全に独学で学びましたので、この品の正しい理解をしているとは思っていません。
しかし、法華経の中でそれほど重要視されていないと思われるこの品に、私は強く惹かれました。
すなわち、形式的な仏道修行をしなくても、ひたすら他人を尊重するという態度を貫くことは、如来(悟った人)への道だということでしょう。
人間、これがなかなか出来ません。
ほとんどの人は、他人を憎んだり妬んだり恨んだりするものです。
すべての人に等しく敬意を払うのは、山川草木悉皆成仏 (さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という壮大な思想に繋がるように感じられます。
人間のみならず、この世に存在するすべての物に仏性があり、成仏できる、という思想です。
もちろん、私にも嫌いな人はいますし、喧嘩をすることもありますし、人を恨んだり妬んだりします。
愚かな凡人にすぎません。
非常に読みやすい「日本語の法華経」では、常不軽菩薩をバカに出来ない菩薩と訳しています。
バカにしてよい人などいない、ということです。
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この、あらゆる人を尊重し、さらには山や草木をも尊重するという態度は、法華経の平等思想を端的に象徴しているように思います。
有名な宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、常不軽菩薩の精神を著しているとも言われています。
宮沢賢治が熱心な法華者であったことは有名ですね。
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雨ニモマケズ風ニモマケズ―宮沢賢治詩集百選 |
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私が目指さなければいけない境地だろうとは思いますが、そういう心境になることはまず無いでしょうね。
なにしろ私は、法華経を仏典というよりは、面白い読み物、一種のエンターテイメントとして読みましたから。
ですから、坊さんのように繰り返し読むことはありません。
20代の頃一回通読して、その後は興がのったときに、ぱらぱらと読み返すだけです。
窪田空穂は、我は神の造ったもの、精霊の宿る神殿で、限りなく重んずべきものである、と述べました。
それならば当然、ありとあらゆる人、植物、動物、山や川もまた、限りなく重んずべき精霊の宿る神殿ということになるでしょう。
不可能は承知のうえですが、私もまた、誰をも等しく重んじることができる者になりたいですねぇ。
その時こそ私は、輪廻の輪から抜け出して、涅槃に至る道を歩み始めるのであろうと思います。
金曜日のお昼休みを迎えました。
あと半日でお休み。
でも週末の天気はあまりよろしくないようです。
先週は田原町から浅草あたりを散歩しました。
その記憶は鮮明です。
しかし、時間は存在しない、という説を唱える人がいます。
つまり、人は常に、今、ここにしか存在し得ず、過去は過ぎ去っており、未来は想像しかできないので、過去も未来も、今、ここには存在せず、しかも人は今、ここにしか存在し得ないゆえに、過去も未来も無く、あるのは変化だけだ、という、屁理屈みたいなものです。
しかし変化があるということ、しかも常に変化し続けるのが現世である以上、変化こそが時間の正体であり、諸行無常と言うとおり、変化こそがこの世の本質だと思えば、時間が存在しない、とは言えないような気がします。
言えるとしたら、時間旅行は不可能(今の人間の能力では)ということだけなのではないでしょうか。
こんな思考を職場の昼休みに繰り広げるというのも、月曜日から金曜日まで出勤し、土日は休むという、ある種円環的な時間のなかで生きる私にとって、週末というのはその円環の区切りであるからかもしれません。
しかし、時間は、一日一日の繰り返し、一週間の繰り返し、春夏秋冬の繰り返し、のように、円環的に見えながら、じつは直線的なものであるでしょう。
同じ一日は存在せず、一年もまた然り。
私たちはただ真っ直ぐに、死に向かって突き進む直線的存在です。
突き進んでいながら、人は今、ここにしか存在し得ない、という悲劇を生きていると言えるでしょう。
愛おしく、甘美な過去は、思い出にひたることはできても、そこに戻ることは出来ません。
輝かしい未来は、想像することはできても、それを達成できるかどうかは分かりません。
何も分からないまま、今、ここを生きると言うことは、極めて困難で、しかも悲劇的です。
その困難な生を、多くの人は、特に意識することなく、ただ生きているだけです。
今、ここにしか生きられないという峻厳な事実を心の奥に銘じながら、私はただ、時を超える技術が生まれる日を夢想せざるを得ません。
SFなどでは易々と語られる時間旅行。
人間が想像できることは、必ず実現できる、なんてことを言う人がいます。
そうであるなら、時間旅行も必ず実現できなければならないことになるでしょう。
しかし時間が直線的なら、おのずとそれは不可能であることになり、私は深い絶望を禁じ得ません。
またもや辛い一週間が始まりました。
つい、なんで生きているのかな、という青臭い思いが頭をもたげます。
誰にも答えられない問いではありましょうけれど。
抹香臭い坊さんならば、仏教を学んで修行して、生きる意味を知りましょう、と答えるかもしれません。
バタ臭い西洋坊主なら、神の愛と天国を信じて今を生きましょうと答えるかもしれません。
いずれも、心を打ちません。
宗教では、この問いに答えることは出来ません。
答えたとしても、信仰を持たない者にとっては無意味です。
一つ言えるのは、金銭欲や出世欲、名誉欲を満足せしめようとしても、空しいばかりだということです。
欲望は際限がないので、いくらお金持ちになったところで、もっと欲しいと思うだけでしょう。
もちろん、食うに困るほど貧乏では、怖ろしく不幸でしょうけれど。
無ければ欲しいと思い、あればもっと欲しい、あるいは失うのが怖いと思うのがお金というもので、じつに厄介です。
もちろん私はお金が無い者の常で、お金持ちになれば人生面白おかしく生きられ、なぜ生きるのか、なんてくだらないことに悩まなくなるんじゃないかなと、考えている段階です。
しかし考えてみれば、お釈迦様はシャカ国の王子に生まれ、物質的豊かさを享受した末、29歳で出家しています。
持てる者であっても、根源的な疑問を持つことに変わりがないとは、いかにも面倒な生き物です。
で、結局のところ、なぜ生きるかと言えば、死ぬのが怖いから、としか言い様がないように思います。
死ぬほど生きるのが嫌になった人は、自殺してしまうでしょうし、現に自殺者は毎年わが国で3万人を超えています。
死の恐怖を越えてしまえば自殺するほど、世の中は苦しいのですねぇ。
で、私はなんで生きているのでしょうねぇ?
生きる積極的な理由はありませんが、死の恐怖を越えられないからですかねぇ?
秀吉ほど栄耀栄華を極めた人でも、辞世でおのれの人生を、夢のまた夢、と詠んでいます。
上杉謙信は49年の人生を振り返って、四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒、と喝破して見せました。
また、徳川家康は、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、と言いました。
いずれも、人生が虚しく感じられる物言いです。
老人性のうつか、と思うほど、老境に至って、なんだか憂鬱そうです。
私があとどれくらい生きるのか分かりませんが、やっぱり一盃の酒に酔うた程度の人生だったと嘆くんでしょうか。
なんだか暗澹たる思いに囚われます。
何も分からないまま、ただ目の前の仕事にかまけて時を過ごすなんて、ドラッグでラリッたまま時を過ごすのと大差ないように思いますが、それでも食うため、死の恐怖から逃れるため、今週も、目の前の仕事=バッドトリップしかしない麻薬、にどっぷりつかって生きる他なさそうです。
私もお釈迦様のように乞食坊主になる勇気があれば良いのですが。
秋もずいぶん深まって、今日は初冬の寒さです。
なんとなく、寂しい季節ですね。
叶わぬ夢と知ってはいますが、秋も深まってくると、隠遁への願望が心中深く湧き起ってきます。
俗にして髪なし、と半隠遁の旅の姿を自嘲したのは松尾芭蕉でしたか。
沙門にもあらず、俗人にもあらずとおのれを述べたのは、禅坊主でありながら和歌や漢詩、書をたしなんだ良寛でした。
宗教者というより芸術家ですね。
鴨長明も西行も、出家して隠遁しながら、精力的に芸術的活動にいそしみました。
秋は、私をしてこれら隠遁者、宗教者の仮面を被った芸術家の生き方に、憧れを抱かしめるに十分な力を持っているようです。
しかし、私はしがないサラリーマン。
出家して隠遁しながら芸術的活動に励むなど、夢のまた夢です。
それは路上生活者にまっすぐに堕ちていく道でしかありません。
せめては定年後の隠遁生活に希望を持って、まだ長い現役生活を乗り切るしかありません。
もし十分な蓄えがあれば、隠遁できるのに。
平凡な毎日をおくるなかでは、ひどい悪や、素晴らしい美を経験することはほとんどありません。
日常生活が退屈な所以と言えるでしょう。
日々を平凡に生きていると、素晴らしい美的体験や、逆に反吐が出るほどひどい悪に巡り合いたいという極端な欲求を持つことがあります。
それが、グロテスクなホラー映画や、美的な芸術を鑑賞したいという欲求に繋がるのでしょう。
たびたび指摘したことですが、私は、真実は嘘八百の中にしか存在し得ない、という予感を強く持っています。
自然科学はこの世の在り様を解明することはできても、在り様の真実を突き止めることは出来ません。
人文科学にいたっては、ほとんど思考の遊びに堕しています。
私が学問を信じない所以のものです。
文学作品などの芸術の分野は、端から真実の探求を捨て去り、おのれの直感や霊感の命ずるままに、美しいと思うもの、あるいはある見方を提示する作品を生み出していると言えるでしょう。
逆説的ですが、真実の探求を捨て去ったからこそ、真実に近づくことが出来るのだろうと思います。
私の精神性は、そういった嘘八百の世界に強いシンパシーを感じるように出来ているようで、そのためか現実社会で平凡なサラリーマンとして生きるのはかなり苦痛です。
仕事はどうにかこなしているし、そこそこ評価もされていると思いますが、職場では、どうも芝居をしているような気分が抜けません。
会議などで議論が白熱した場合、私もそれに参加してはいますが、いつも、どっちだっていいじゃん、としか思えません。
完全なダメ社員ですが、不思議なことに要領が良いらしく、ダメが出たことはありません。
私はおのれが器用に生まれたことを呪っています。
不器用に生まれれば、職場での芝居は破綻し、結果として野垂れ死にすることになっても、嘘八百の世界でだけしか生きられなかったことでしょう。
しかし私は、わずかな収入を求めて、退屈な芝居を演じ続けるしかありません。
経済的な破綻はやっぱり怖ろしいですから。
それは絶望的なことですが、僅かな光明が無いわけではありません。
定年退職して年金がもらえるようになれば、私は夢幻の世界の住人に戻れるでしょう。
学生の頃のように。
その時こそ私は私となって、私一人のために生きることが出来るでしょう。
一番恐ろしいのは年金制度の破綻です。
一生芝居を続けるのはかないませんから。
400年も生きるサメの存在が確認されたそうです。
400歳ですよ。
驚愕です。
で、大人になるのに150年もかかるそうです。
よく、鶴は千年亀は万年なんて言いますが、実際は鶴で80年くらい、ゾウガメで200年くらいの寿命だと聞いたことがあります。
400歳とは信じがたいですねぇ。
大阪夏の陣で豊臣家が滅んだのがおよそ400年前ですから、そんな昔からこの世を生き抜いているのですね。
犬の寿命は10数年と言います。
人間は80年くらい。
頑張っても100歳をやっと超えるくらいでしょう。
そう考えると、寿命というものが持つ意味も、なんだか空しい感じがします。
健康で長生きしたいというのは多くの人が持つ願望でしょうが、まさか150歳まで生きたいと考えている人はいないでしょう。
しかしそのサメにしてみれば、150歳なんてやっと大人になった青年と言ったところ。
ただ、宇宙のあまりにも長い歴史を考えてみれば、400歳も80歳も大差ありますまい。
まさに一睡の夢というべきでしょう。
その一瞬のような生を、私たちはほとんど無意味に過ごしています。
もっとも、何が無意味で何が有意義なのかはそれぞれの気持ちしだい。
金儲けこそ意味があると思う人もいれば、出世が生き甲斐という人もいれば、平凡な小さな幸せこそ人生の極意と思う人もいるでしょう。
人間、立って半畳寝て一畳。
その程度の住居があって、食うに困らなければ、まずまずと言うべきでしょう。
もちろん、私はそんな狭い家嫌ですが。
そうなると、それぞれが考える幸福を追求する他ありません。
で、私は本当のところ何を望んでいるのでしょう?
最近、それが分かりません。
食うに困らぬ収入があり、マンションとはいえ二人住まいには十分な広さの持家があり、良好な関係の同居人と日々を楽しく過ごしています。
ずっとこのままでいられればそれで良いのではないかという思いと、何かが欠けているという思いが交錯しています。
足りない何かとは、おそらく人が自己実現欲求と呼ぶものなのだろうなと、ぼんやり推測しています。
マズローは、欲求を以下の5つの段階に分け、最下位の欲求を生理的欲求と名付けました。
要するに食うとか寝るとか言うことですね。
①生理的欲求
②安全の欲求
③社会的欲求 / 所属と愛の欲求
④承認(尊重)の欲求
⑤自己実現の欲求
ある欲求の段階が満たされれば人は次の欲求を持ち、最後の欲求として自己実現の欲求が現れる、という理屈です。
コリン・ウィルソンは、自己実現の欲求が満たされた状態を、至高体験と呼び、この体験をこそ、人生の究極の目標と考えました。
![]() |
至高体験―自己実現のための心理学 |
由良 君美,四方田 剛己 | |
河出書房新社 |
やや宗教的な感じもしますが、例えば今行われているオリンピックで、最高の試合ができれば順位なんてどうでも良いと考えている選手の場合、最高の試合の末、最下位だとしても、それは至高体験だと言えるでしょう。
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものになることこそ、自己実現であり、至高体験です。
私もかつて、せっせと主に短編小説を書いていましたが、満足のいく小説が出来上がった時の喜びは半端ではなく、例えそれが誰の目にも触れなくても、一種の自己実現を、そして至高体験を味わったのだろうと思います。
今の私に決定的に欠けているものです。
ではまた小説を書けば良いではないかと言われそうですが、気力体力衰えた今、それは私にはあまりに酷というものです。
何か代替の自己実現の方法を見つけたいと切に願います。
働きながらでも続けられる、至高体験への道を。
400年生きるサメよりも、80年の人間で良かったと思えるような何か。
きっと何か、これからでも自己の可能性を探る冒険を始められるのではないかと期待しています。
人間と動物を分ける所以のものは、ひとえに人は自分及び身近な人、はてはあらゆる生き物がいずれ死ぬ存在だとしっていること、それゆえに葬儀を営むことになると言えるのではないでしょうか。
古く、葬儀はネアンデルタール人にまでさかのぼるとか。
その一事をもって、ネアンデルタール人こそは、人類の始まりと言えるでしょう。
自分や家族、友人が必ず死ぬということを、私たちは知識と知っています。
しかし、核家族化が進むと、実際に人の死に目にあうということがかなり珍しい経験になりました。
かつて2世代、3世代が同居していた頃、今よりも寿命は短く、死は実感としてはるかに身近であったことでしょう。
さらには、かつて死に関することは最も重要な思索のテーマでしたが、現代社会は死を忌避しているか、あるいは無視しているように感じます。
いつまでも元気で生きることを何より重要だと感じてはいないでしょうか。
誰でしたか、西洋の哲学者が、現存在としての人間は死を経験しておらず、死んでしまえば現存在ではなくなるので、実態として死を感得することはあり得ず、死は存在し得ない、みたいなことを言っている人がいました。
それは屁理屈だろうと、私は思ったものです。
わが国においては、武士などは名をこそ惜しみ、命を惜しむべきではない、という価値観が現れました。
そしてまた、生を一種の夢と見る死生観。
それを進めた、西行法師や鴨長明、兼好法師などは、無常観に囚われ、現世を夢幻と断じ、わびさびという美意識の中に、死への安心を求めたように思います。
無常の中の美にこそ、死への恐怖を克服する所以を見たのでしょうか。
そして現代。
少子高齢化を迎え、もはや死を忌避し、生の充実ばかりを求める考え癖は、許されないものになったように感じます。
葬儀屋は盛んに広告を打ち、安価で安らかな葬儀を提供し、もって小銭を儲けようと躍起になっているように感じます。
私はかつてうつ病に苦しみ、その頃、私にとって死は身近で、しかも魅惑的なものでした。
うつ病患者に自殺が多いことは有名です。
そして自殺者は、おのれ独りの死が、じつは一人だけのものではないことに気付いていないか、あえて考えないようにしていることが多いようです。
身近に自殺者が出れば、残された者は激しい精神的衝撃を受け、何年も立ち直れないことがしばしばです。
社会的生物である人間の死は、死者一人の物ではありえず、例え大往生であろうとも、必ず遺族や身近な人に大きな影響を与えます。
死を考える時、死という事態は生きている者にとって全く不明であり、考えても仕方がないことなのかもしれません。
しかし人間は、必然的に訪れる死を想わずにはいられません。
この悩ましい問題を解決する手段として、宗教や哲学が興ったものと思いますが、ほとんど盲信のように、ある宗教なりにのめり込まない限り、これは解決できません。
そしてある宗教を盲信している人々は、不気味なほど幸福に見えます。
謂わば幻想を信じることで、安心を得ているのでしょう。
私はそんな状況に陥ることに魅力を覚えますが、実行に移すことはできないでいます。
それは私自身をだますことになるからです。
ほとんどが無宗教の現代日本人が、共通の死生観をもって、死を怖れずに生きることはできますまい。
不明の事態に目をつぶって現世を楽しむことに心を砕くべきでしょうか。
私はおのれ独りの死生観を確立し、そこに安心を得たいと言う野望を捨てることは出来ません。
私は毎日車で通勤しています。
朝夕、車の中でラジオを聞いて過ごしています。
ラジオではよく商品の売り込みのコーナーがありますが、ほとんど毎日、手を変え品を変え登場するのが、ダイエット商品と若返りのサプリメントです。
両者は同じ根っ子を持っているに違いありません。
要するに、いつまでも若々しくいたい、という欲望。
この欲望を持つのは人間の、いや生物の本能とも言うべきなのかもしれません。
しかし、絶対に叶えられない欲望でもあります。
大体いくつ若く見られたら良いのでしょうね。
100歳が90歳に見えたところでどうということもありますまい。
60歳が20歳に見られるわけもないし。
で、この願いが行き着く先は不老不死ということになるでしょうね。
死にたくない、いつまでも若々しく健康でありたいと願うのは、気持ちは分かりますが、あまりにも切ないことです。
叶えられない願いを持ち続けることほど切ないことはないでしょう。
古くは秦の始皇帝が探させたという不老不死の妙薬。
くだって、「銀河鉄道999」の機械の体、「火の鳥」などの漫画。
誰も叶えたことが無く、物語の世界でそれを得た例があっても、必ず不幸になっています。
最近お気に入りのSEKAI NO OWARIは、名曲「不死鳥」で、死を、今を大切にすることが出来る魔法、と歌って見せました。
全くそのとおりだと思います。
私たちの遺伝子は有性生殖を選択し、それがゆえ、死は必然となりました。
親から子へ、子から孫へと、遺伝子は乗り物を新しく代えながら生きていきます。
まるで車を新車へ買い換えるようです。
であるからこそ、赤子の誕生は祝福されるのでしょうし、大人は赤子を見て可愛く感じるのでしょう。
己の遺伝子を縦につないだということは喜ばしいに違いありません。
私たち夫婦は不妊治療まで施しながら、結局、子宝に恵まれませんでした。
同居人、とっくに諦めているはずなのに、今でも子を授かることが出来なかったと、時折嘆いています。
ことほど左様に、人は自ら先祖の一人になる権利を得たいのでしょうね。
私はと言えば、男と女の違いもあるのでしょうか、心底子供が欲しいと思ったことはありませんし、むしろ気楽に生きるうえでは弊害だというのが本音です。
お釈迦様は出家前、子供ができ、ラゴラと名付けました。
後の羅睺羅尊者ですが、その意味するところは障碍、要するに邪魔者だと言う説があります。
出家の邪魔になると考えたのでしょうか。
それはさておき。
永遠の若さを求めることほど無意味で切ないことはありますまい。
それよりも、美しく老いることを目指すべきです。
それは肌艶の美しさなどではもちろんありません。
生きてきた軌跡を顔に刻んだがゆえの美しさこそ、真に美しいと言えるでしょう。
今週も一週間が終わりました。
金曜日の終業後ほど気分の良いものはありません。
この瞬間のために、5日間働いていると言っても過言ではありません。
これはサラリーマンなら大抵の人がそうでしょう。
昔、「月曜日が、待ち遠しい」というコピーのCMがありましたが、それはワーカホリックの変態というべきで、貴重種でしょうね。
私たち事務職は組織で動いており、我々という意識が強烈です。
それは業務を遂行するうえで必要な意識だと思いますが、それも過ぎれば全体主義みたいな、連帯責任みたいな、我=個を殺す考えにつながってしまいますので、さじ加減が難しいところです。
私はエキセントリックな性格にみられることが多く、我々を否定するような言動をして、叱られたり嫌味を言われたりすること度々です。
しかし私はそんなことは気にしません。
面と向かって言われれば反論すれば良いし、陰口ならば放っておけば良いだけですから。
しかし私は、我々を完全に否定したことなどありはしません。
我々を意識することは、倫理観の維持につながるでしょうし、共同体や組織の繁栄に必須です。
ただ、我々意識にも限度があるし、我という意識も我々以上に大切であると考えているに過ぎません。
そんなことを考えながら、根源的な疑問を持つことがあります。
じつは全生物は根本的に繋がっており、厳密な意味での我など存在せず、ただ我々だけが在るのではないかと。
集合無意識や仏教の唯識を持ち出すまでもありません。
例えば自己犠牲。
集団のために己を犠牲にすることはいつの時代、どの場所でも称賛されるべきことでした。
行き過ぎれば特攻隊みたいなものなってしまいますが、特攻隊の場合必ずしも一人の意志ではなく、周囲からの露骨な圧力があったやに聞き及びます。
特攻隊の英霊を誹謗するつもりはありませんが、我々の押しつけという感じは否めません。
それはそれとして、自己犠牲を美しいものととらえる考え方は普遍的な価値をもつものと思われます。
我を殺して我々のために、という。
ゆとり教育華やかなりし頃、個性が大切で、個性を伸ばす教育を求める風潮が見られました。
馬鹿げたことです。
個性を伸ばしたければ、逆説的ですが、個性を殺す教育を施すのが最も効果的だと思います。
殺しても殺しても飛び出してくるものこそ、個性であろうからです。
しかし個性なるものも、共同体のなかである一定の割合の人に出現する必要なものだとしたら、結局我は無く、ただ我々だけが存在するような気がします。
私は長いこと我ばかりを求めてきましたが、今に至って、ついに我々に埋没するほかないようです。
そしてそれは、もしかしたらとても心地よい、甘美な境地であるのかもしれません。