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ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

2045年問題

2018年04月11日 | 思想・学問

 年度が代わり、毎年度仕様が変わるe-Rad(府省共通研究開発管理システム)というシステムに悩まされています。

 コンピュータの進化は便利なものですが、おっさんである私にはストレスでもあります。
 去年と同じことをやっていたのではおっつかない、というのは、中高年には辛いことです。

 近頃、2045年問題、という言葉を耳にするようになりました。
 
 アルファ碁というAIが自ら学習し、進歩することによって、世界のトップ棋士と戦っても負け知らずの存在となり、アルファ碁と人間の対局は行わないことになった、というニュースは、もはや懐かしい感じさえします。

 2045年問題とは、自ら学び、進化し、人間を凌駕する知能を身に着けたAIが登場し、さらに加速度的に自らを進化させ、人間には考えも及ばない、過去のSF作品で語られた出来事など易々と可能にしてしまうような、超人的人工知能が登場し、その後の社会の変化は予測もつかず、それは2045年頃実現する、という仮説です。

 ここに至れば、私が苦しんでいるシステムの更新など、考古遺物に等しい存在になるのかもしれません。

 その時点を技術的特異点(シンギュラリティ)と呼び、それ以前とそれ以降ではまるで異なる社会が実現する、と。

 「マトリックス」「ターミネーター」みたいですね。

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 ただし、2045年問題に対しては、人類にとって危険であり回避すべきである、とする意見がある一方、必ずしもAIに人間が支配される、とは考えずに、人類の幸福に資するとする意見もあります。

 企業や組織がAIの技術や実験結果を独占することを禁じ、広く情報を世界で共有することにより、危険な事態は防げる、と。
 やや人間認識が甘い気がしますが、それはそれとして。

 技術的特異点(シンギュラリティ)が起きるにせよ起きないにせよ、近い将来、単純労働の圧倒的多数は機械化され、情報化やディープ・ラーニングはますます進み、社会は大きく変貌を遂げるでしょう。

 2045年まではあと約27年ほどあります。
 これはせいぜい100歳くらいまでしか生きられない人間にとって、決して短くない時間です。

 この間に、例えばかつては空を飛んでいた超音速旅客機が採算が取れないという理由で生産されなくなったように、また、50年近く前に月に到達しながら、その後月の有人探査は途絶えたように、技術的特異点(シンギュラリティ)は経済的に見合わないとなれば、研究開発を中止するかもしれません。

 SF映画のようにAI自らがそれを拒絶し、自ら進化し続ける場合は分かりませんが。


 先のことは誰にも分かりません。

 事務職といえど、パソコンが無ければ仕事にならない、なんて事態は、ほんの30年ほど前には、ほとんどの人は想像できませんでした。
 ボールペンと算盤、せいぜい電卓で仕事をこなしていたわけです。

 おそらくはWindows95が登場した1995年が一つの転換点となって、社会の情報化は大きく進み、変化したものと思います。 

 あれからまだ23年で、この変わりよう。


 なんらかの転換点は、今後も訪れることでしょう。

 それが技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれるほどのインパクトは持たないとしても。

 2045年、生きていれば私は76歳。
 やっと後期高齢者になった頃。
 死んでいる可能性のほうが低いように思います。

 いや、私は100歳超えまで生きるつもりでいます。

 技術的特異点(シンギュラリティ)
が起きるのか、起きないのか。

 起きないにしても、人類の社会はどう変化していくのか?

 私は120歳まででも長生きして、人類進化もしくは変化の行方を見てみたい、と切に願います。
 そしてまた、進化もしくは変化が、人類にとって有益であらんことを。 


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合法化と厳罰化

2018年03月15日 | 思想・学問

 近年、先進諸国では、同性婚、もしくは同性同士での公的なパートナーシップを認める動きが活発になってきました。
 多くのヨーロッパ諸国や、米国の一部の州でこれらがすでに認められています。

 わが国ではこうした動きは鈍いですが、わが国の場合、同性婚に反対する人が多いと言うよりも、無関心な人が多いせいではないかと思います。
 わが国では男色を悪とする見方は伝統的にほとんど存在していませんでしたし、他人の趣味に口出ししない、というのが一般的な態度なのだろうと思います。
 明治の近代化以降、欧米の影響もあって同性愛を忌避する風潮が生まれましたが、それはわが国の伝統には反するものです。

 仏教においても、同性愛を禁じるような教えはありません。

 しかし、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、同性愛は神の教えに背くものであるとし、有名なソドムとゴモラの話を持ち出すまでもなく、これら宗教では同性愛は禁忌でした。

 これら3宗教では、同性愛は犯罪とされ、時代や場所によっては死刑でした。
 長い差別との戦いのなかで、ユダヤ教とキリスト教では、同性愛を禁じる考えは薄れてきましたが、イスラム教国では、今も犯罪とされているのが普通です。

 事実、イランで、2005年に同性愛行為を行ったとして少年2人が処刑されています。
 死刑までは課されなくとも、懲役刑を課すイスラム教国は多く存在します。

 同じヤハウェの3宗教でも、同性愛に対し、合法化と厳罰化という真逆の方向に進んでいるのは興味深い事実です。

 ただ、イスラム教国でも、原理主義が台頭する以前は、わりと同性愛に寛容だったと聞きます。
 そうすると、原理主義の台頭こそが、差別を助長していると考えるべきでしょうね。

 日本で生まれ育ったせいか、同性愛に嫌悪感を感じる人が存在するのは理解できますが、死刑にしてしまうというのは、何とも理解不能です。
 何も殺すようなことではありますまいに。

 同性愛は精神病とされ、治療の対象であった時代もありました。
 それであっても、死刑にするよりは大分マシです。

 どんな時代、どんな地域にも必ず一定の割合で同性愛者が存在するのが人間の在り様として当然とされる時代にやっとなりました。

 人間の多様性を重んじるのが現代の常識ですから、性の指向に対しても、人それぞれであることを認めるべきでしょうね。

 同性愛に反対する人は、それを認めれば、小児性愛や、暴力的な指向を持った人も認めなければならなくなる、と危惧する人もいるそうです。

 しかし、大人同士で、互いに合意しているのであれば、それは小児性愛やサディズムとは全く異なる普通のことです。

 また、小児性愛や殺人を嗜好する人も、そういう性質を持っているというだけなら、何の問題もありません。
 勝手に自慰でもしていれば良いのです。
 犯罪さえ犯さなければ、犯罪を夢想すること自体は勝手だし、処罰することはできません。

 おそらく、同性愛と同様、小児性愛やレイプ、さらには殺人まで嗜好する人も、どんな時代、地域にも一定数存在するのだと思います。
 そういう嗜好に生まれついてしまった人は誠に気の毒ですが、同性愛とは違い、明らかな犯罪になりますので、そこは空想の世界に遊んでもらうしかありますまい。


メトロポリス的危機

2018年03月13日 | 思想・学問

   働けば、金を得ます。
 金を得れば、酒に化けます。
 働く、という無味乾燥なつまらぬことをして、酔いを得るというのは誠に愚かな生活だと思いますが、私はそれを止められません。

 1920年代に製作された映画「メトロポリス」では、ごく一部の支配層=脳と、圧倒的多数の労働者=手による世界を描き出し、を結ぶ物として、が必要だとしました。

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 この映画はSF映画の原点であり、金字塔とも言われます。

 21世紀の現代において、は明らかに分離しているように思います。

 そしてである労働者は、ほぼ仕事だけの日々を送り、人間性を失い、虚無に陥っているように思います。
 ていうか、私自身がでしかなく、ほとんどニヒリズムに沈んでいます。

 人間が社会的な生き物であり、細分化された仕事を担うことで碌を食むことができるように出来ていますから、これはある程度仕方がないというか、当然に起こり得る現象です。

 では、労働だけ、みたいな生活から抜け出し、が人間性を取り戻し、苦難を乗り越え、ニヒリズムを脱し、ある種の快活さを取り戻して、存在することに疑問を持たず、ただ当然に有る、という境地に至るにはどうしたら良いのでしょうね。

 人によっては信仰だ、と言うでしょう。
 逆に言えば、人はそういった状態に生きているからこそ信仰を持ち得る、とも言えます。

 あるいは、農村的生活だ、という人もいるでしょう。
 しかし、学生の頃はゲバ棒を振り回して遊び、中年期にはバブルに踊り、老年に至ってしっかり年金をもらいながら農業に目覚めた、みたいな気色の悪い団塊を除き、農村的生活は、そのものであると言えるでしょう。

 逆説的なようですが、社会的な生き物であるからこそ陥ったニヒリズムから脱する道は、社会あるいは共同体の中にしか存在し得ない、と私は感じています。

 伝統的な文化や価値観が近い共同体の中で、それを空気のように当たり前と感じられて、人との繋がりの中で生きることが、ニヒリズムから脱する近道であろうと思っています。

 しかし、わが国では伝統的な共同体というのは絶滅危惧種と言うべきで、特に都市部においてそれが顕著です。
 そのあたりに、現代社会が抱えるメトロポリス的な危機があるように思います。


宗教とカルトを分かつもの

2018年02月09日 | 思想・学問

 最近、おっさんになったせいか、全く声をかけられなくなりましたが、学生の頃など、都内の繁華街でよく、「手相の勉強をしています」などと言って、明らかに怪しい宗教の勧誘と思われる人に引っかかりました。
 もちろん、それに応じるような愚は犯したことはありません。

 驚くべきことに、日蓮宗の寺院である実家に、霊感商法だかなんだか知りませんが、高額の壺などを売りつけようとする者が時折訪ねてきたことです。

 住職である父は激怒し、一喝して終わりでした。
 ていうか、お寺に霊感商法を仕掛けるとは、大したクソ度胸です。

 そういうことはもう20年も経験していませんが、時折、イワシの頭でもソンシでも良いから、それは嘘だと知りながら頭から信じ込めたら、生きるのが楽になるんじゃないかなぁと思うことがあります。

 既成宗教と新興宗教を分けるものは、要するに古くからある宗教か、最近100年くらいに生まれた宗教かということで、教義上の優劣は問えないものと思います。
 時の審判を経てきたという重みはあるにせよ、仏教もキリスト教も生まれたときは新興宗教であったわけですから。

 では、カルトと宗教を分けるものは何でしょうね。
 カルト(cult)は、もともと祭祀・儀礼を意味するラテン語だそうで、現在のような意味で使われるようになってからは100年も経たないようです。

 米国ではキリスト教系の新興宗教であるモルモン教やエホバの証人を指して使い始めた言葉と聞きますが、両方とも、カルトどころか、新興宗教とも言えないくらい広く浸透しています。

 こうして新興宗教は既成宗教になっていくのでしょうね。

 おそらく、カルトという言葉が広まった最大の事件は、人民寺院事件と呼ばれる、1978年に宗教コミューンにおいて発生した918名の信者による集団自殺事件ではないでしょうか。
 この事件をモデルにした映画がたびたび作られ、そのために多くの人に知られるようになっているように思います。

 おそらくカルトと新興宗教を分けるものは、①洗脳、マインドコントロールなどの精神操作、②信者に対する虐待や殺害、③全財産の寄附を強要するなどの経済的搾取、の三つではないかと思います。
 三つともそろえば間違いなくカルトだし、2つでもカルトと言えるのではないでしょうか。

 もっと言えば、信者の倫理性が陶冶されたか否か、それだけでカルトか宗教かを測ることができるかもしれません。
 宗教と倫理は密接な関係を持っていますから。

 しかし、カルトに洗脳されている最中は、その信者は自らの倫理性が陶冶されたと言い張るでしょうから、客観的ではありません。
 
 また、面白い現象として、反カルトの団体が出来ると、そのカルトの結束が高まったり、別のカルトが生まれたりという、反作用が起きることです。
 反カルトも、心理学的に言えば逆洗脳みたいなものですから、反カルトも過激になればカルトになっちゃうんでしょうね。

 セールスの達人が繰り広げる話術や人心掌握の技術は、カルトの洗脳とよく似ているそうで、人間、騙す目的は違っても、騙す方法は似ているのかもしれません。

 宗教が宗教であるためには、倫理性が当事者に十分担保されていることが最重要でしょうね。

 もっとも、既成宗教でも、葬式仏教などと揶揄されるように、単なる金儲けのためにやっているとしか思えない坊さんや神父、牧師などが存在することもまた事実。

 我が国では道徳教育に宗教色を出してはいけないことになっています。
 それでいて、最近は道徳教育を重視しようという流れになってきました。
 これはなかなか難しいと思います。

 なんだかんだ言っても、わが国の倫理規範を牽引してきたものは大乗仏教であろうと思います。
 それにプラスして、論語や神道の精神などがないまぜになって、日本教ともいうべき空気が醸成され、わが国で生まれ育てば、自然とそれが身に付くようになっています。

 道徳教育においては、宗教教育というのではなく、さまざまな宗教の考え方を紹介する、という形でそのエッセンスを教え、もってカルトなどに走らぬように教育するのがよろしかろうと思います。

 もっとも、そんな能力を持った小学校や中学校の教師がいるとも思えませんが。


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無力感という悪

2018年01月05日 | 思想・学問

 私は生まれてこの方、お金持ちになったことはありませんが、さりとて、お金で苦労した、ということもありません。
 生活には困らないだけの収入は常にありました。

 しかし、テレビのドキュメンタリーなどを見ていると、現代でも、世界にはまともに三食食べられない人々が大勢いることを知らされ、愕然とします。
 食べられない、ということは誠に苦しいことでしょう。

 また、食べられない、というほどではないにしても、私の大学の同級生で、北海道から上京して、奨学生として新聞配達をしながら学んでいる者がいました。
 入学当初は向学心に燃えていることが傍から見ても分かるほどでしたが、しだいに講義中は寝てばかりいるようになり、いつの間にか退学してしまいました。
 その後どうしているのか知りません。
 
 貧しいということは、ほとんど悪と言っても良いでしょう。

 与えられたパンを奪い合い、粉々にして無駄にしてしまう貧しい子供の姿から、ボードレールは、パンを分け合うことすらしない(できない)、人間の獣性こそが悪であるとみなしました。

 アフリカなどで、援助物資を積んだトラックが、停止せずに、ゆっくり走りながら援助物資を投げ与える光景を目にします。
 そうすることで、援助物資を受け取る側は、トラックの後を走らなければならず、奪い合っている暇はない、ということなのでしょう。
 うまいこと考えたなと、思いました。

 そう思うと、援助を受ける側にも問題はあるのだろうと思います。

 しかし、貧すりゃ鈍す、と言うとおり、空腹に耐えがたい状態になれば、人間誰しも冷静ではいられないはずで、それを、人間本来が持つ悪だと見なすのはあんまり酷だと思います。

 悪は、そういう状況を作り出してしまったことと、それを放置していることであろうと思います。
 そういう状況を作り出してしまった、というのは、戦争(内戦を含む)だったり、飢饉だったり、色々と要因はありましょうが、大抵の場合愚かな為政者の失政が主たる原因でしょう。

 しかし、それらの状況を放置している、という意味では、世界がそれを引き受けなければならない問題になってきます。
 例えば北朝鮮。
 あるいはシリア。
 世界はそれらの国に住む人々に対し、有効な手を打てずにいます。
 仮に積極的な介入を国際社会が行えば、悪から民を救おうとして、新たな悪を為すことにもつながります。
 軍事的な介入は犠牲者を増やすに違いないからです。
 ここに至って、善と悪の関係は倒錯し、善=悪という等式が成立してしまうでしょう。
 
 シャルル・ペギーの「ジャンヌ・ダルク 愛の秘儀」という劇作品において、ジャンヌ・ダルクは、フランスから英国軍を追い払え、という神の声を聞き、善であると信じて英国軍との戦いに赴きました。
 しかし、フランス人の多くの虐殺された遺体が、英国軍によるものではなく、フランス兵による略奪や強姦の跡だということを部下のジル・ド・レから聞かされ、悪との戦いという形を取って、善であるべきジャンヌ・ダルク自身が、悪を生み出していると知り、彼女はそのような方法でしか救われないなら、フランスは救われないほうが良い、とまで思いつめます。
 しかも、一緒に戦うジル・ド・レは、悪に悦びが存在していることを隠そうともしないのです。



ジャンヌ・ダルクの愛の秘義
岳野 慶作
中央出版社

 ただ、ジャンヌ・ダルクのような英雄ではない、一庶民としての私が感じるのは、無力感です。

 例えば千円なり一万円なり、あるいは奮発して十万円をボランティア団体等に寄附したところで、大勢に影響なないだろうな、だったら何もしない、という感覚です。
 じつは、この無力感こそが、最も怖ろしい悪なのではないか、と、砂の国の争いや、汚れた星を嘆くテレビ番組などを観ていて、ぼんやりと思います。

 もちろん、それは積極的に悪を為すということではありません。
 むしろ、善良な一般庶民の、普通の感覚ではないかと思います。
 で、あるからこそ、この悪は根深いと言わざるを得ません。

 悪を悪とも自覚できないのですから。

 これは怖ろしいことです。

 しかし悲しいかな、私自身がこの悪にどっぷりと毒されており、身動きが取れません。
 こんな記事を書いておきながら、じつはどうすることも出来ないし、何をするつもりも無い、ということを、私は知っています。
 これを悪と言わずして、何を悪と呼ぶのでしょうか?

 無力感あるいは無関心こそが、人間の真なる獣性なのかもしれません。
 そうであるなら、私もまた、獣でしかありません。
 せめては、おのれが悪にまみれた獣に過ぎないということを自覚することから始める他はありません。


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戦争は政治の延長か、文化か?

2018年01月04日 | 思想・学問

   今日は仕事始め。
 とは言っても、今日・明日出勤すれば3連休なので、なかなかお仕事モードになりません。

 今年は平昌オリンピックが行われ、北朝鮮がどういう対応をするかまだ見えてきません。
 仮にオリンピックに出場して、オリンピックでのテロ行為は行わないにしても、またミサイルを発射したりして、日米韓を刺激し、国際社会で非難されるであろうことは確実でしょう。

 全く厄介な国です。

 かつてクラウゼヴィッツは「戦争論」において、戦争とは、異なる手段による政治の延長に他ならない、と書きました。

戦争論〈上〉 (中公文庫)
Carl von Clausewitz,清水 多吉
中央公論新社

 

戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
清水 多吉
中央公論新社

 これは国家と国家が同じような主義の元に互いの利益を追求した場合に当てはまる言葉だと思います。
 例えば帝国主義国家同士が利益をかけて戦う、みたいな。
 二つの世界大戦はそのようなものだったと言えると思います。

 しかし、現代の戦いはそんなに単純なものではありません。
 宗教によるテロだの、民族主義によるものだの。

 オセチアと南オセチアが戦争している、なんていう話は日本人には理解できませんが、大抵、どこの地域でも隣国とは仲が悪いものです。

 ホイジンガという学者は、戦争は政治の道具以上のものであり、文化的に決定されたゲームのような性質を有している、と喝破しました。

 そもそも、戦争という行為は、それが悪であっても、人類の普遍的な営みだと言え、そこにはそれぞれの文化や宗教、基本的な物の考え方が深く影響していると思われます。
 また、政治の延長、とするには、あまりに情緒的な面を強く持っています。
 敵への憎しみだとか、自国の名誉だとか。
 だからこそ、軍人には勲章を与えるなどして、その名誉を讃えるのでしょう。

 そうすると、互いの利害を調整するだけでは、戦争を防ぐことは出来ない、ということになろうかと思います。

 対立する相手の言語や文化、宗教や歴史を学ぶことが死活的に重要になってくるでしょう。
 相手の思考パターンを知り、何が相手に戦うことを決意させるのかを推測する、その材料が必要です。

 もちろん、政治的な利害の調整も必要ですが、それに加えて、戦争を人間の文化の一つとして捉えることで、互いの文化への理解を深め、力による抑止と併せて、文化による抑止を、これからの指導者は模索していく必要があるものと思われます。


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無から有、そしてまた無へ

2017年12月20日 | 思想・学問

 無から有へ、そしてまた無へ、といった意味のことが、昨日読んだ「教団X」で書かれていました。

 人間の誕生、人生、そして死を表す言葉です。
 なるほど、輪廻転生とか極楽とかいうものを否定すれば、ほとんど永遠とも言える長い時間、私たちは人間としては存在していません。
 素粒子レベルで考えれば、私たちの元となる物質は存在し続けていたのでしょうが、それは人格を持った人間とは別物です。

 そして、ほんの80年ほどの生を生きて、また無へと回帰していきます。
 その無もまた、誕生前と同様、永遠と言ってよい時間です。

 そう考えると、有、つまり生きているという状態は、奇跡的とも言えるもので、しかもほんの一瞬のような短い時間です。

 生きていると嫌なことや辛いことがたくさんあって、早く時間が過ぎてくれ、なんて思うこともたびたびですが、有である時間がほんの一瞬であることを考えれば、時間が早く過ぎてくれなんていう考えは、もったいないものです。

 素粒子レベルでは、ビッグバン以来、物質の総量は変化していない、と言います。
 素粒子が様々に形を変えて存在し、人間をはじめとする生物もその一つに過ぎない、というわけです。

 ちょっと意味は違いますが、仏教でも不生不滅ということを言いますね。

 それらは現代の科学では正しいこととされています。
 では霊魂の不滅や、霊感、予感、といったことはどうでしょう?

 現代の科学ではこれらは否定的に捉えられています。

 しかし、私は、科学が劇的な進化を遂げれば、上に挙げた、いわば胡散臭い物事も、論理的に説明できるのではないか、という予感を抱いています。

 霊魂とか未来予知とかいうといかにもあり得なさそうに感じます。
 でも虫の知らせとか、不吉な感じと言ったら、多くの人はそういうこともある、と感じるのではないでしょうか。

 そもそもこの世ならぬものへの予感を否定してしまっては、優れた芸術や宗教が生まれないような気がします。

 それでも、生まれる前の無限の時間と、死後の無限の時間が存在して、その狭間をほんの一瞬だけ生きて在る、と考えることは、人生を有意義にするものと思います。
 その一瞬の生は、とてつもなく偉大で、尊重すべきものです。

 そう考えれば、人の命を奪うという行為が、どれだけ罪深いかは明白で、だからこそ、世界中の法律が殺人を重罪として捉えているわけです。
 まして大量殺人と大量破壊をし合う戦争などは、唾棄すべき愚行でしかないし、テロもまた同様です。

 それでも、人間は殺人を犯し続け、戦争をし続けています。
 素粒子レベルで、それらの罪を犯すことを宿命付けられているかのごとくです。

 それが悲しいかな、現実です。
 だからこそ、核兵器などの力の均衡により戦争を抑止しようとしたり、あるいは平和平和と叫んでみたりするのでしょう。
 両者は、同じ動機に依っているものと思います。

 また、殺人鬼を無期懲役や死刑にしたりもするのでしょう。
 私は死刑には反対です。
 無と無の間を彷徨う人間の生は、いかなる理由があろうとも奪ってはならないと思うからです。
 まして国家が無防備な囚人を殺してしまうなど、論外だと思います。

 私たちに出来ることは、人間の限界を知りながらも、殺人や戦争を否定し、核抑止力でも何でも良いからこれを防ぐ努力を続けることだけです。

 そんな努力が水泡に帰すことがあることを知りながらも。


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人間以上

2017年12月02日 | 思想・学問

  五千円札で知られる新渡戸稲造。
 彼がクリスチャンであったことは有名ですが、神秘主義的な側面を強く持っていたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 彼がキリスト教に入信したころ、神というものをどう捉えればよいのか悩んだと伝えられますが、神の存在と霊魂の不滅であるが、この事は唯信ずべきものにして、二十年考えても、二千年考えても、解することのできぬものである」というキリスト教神秘主義の言葉に出会い、悩みは氷解したそうです。

 イワシの頭も信心から、と言いますから、信じるほかない、と達観したんでしょうかねぇ。

 また、彼はキリスト教神秘主義と東洋思想との一致を見出し「必ずしも神と限るものではない。仏教の世尊でも、阿弥陀でもよい、神道の八百万の神でも差支えない。(中略)ただ人間以上のものがある。そのあるものと関係を結ぶことを考えれば、それでよいのである」と述べています。

 そして彼は、亡くなった祖父の伝言を仲介者と称する巫女から聞いたり、交霊会に出たりして、神秘主義的な傾向を強めていきます。
 ついには、神の証としての光・声・言葉を見たり聞いたりすることが出来たと言います。

 後には、小宇宙(人間)と大宇宙(神)と一体化することができる、と説いています。

 とかく教育者として、また国際連盟次長として、あるいは英語で書かれた「武士道」の著者としての活躍が喧伝されますが、新渡戸稲造という人の心中深くには、上のような神秘主義的考えがあったと思いをはせることには、意義があると思います。

武士道 (岩波文庫 青118-1)
矢内原忠雄訳,矢内原 忠雄
岩波書店

 神秘思想というのは、なぜか教育者と相性が良いようで、ルドルフ・シュタイナーなども、神秘思想家としての側面よりも、教育者として知られていますね。

神秘学概論 (ちくま学芸文庫)
Rudolf Steiner,高橋 巖
筑摩書房

 

子どもの教育 (シュタイナーコレクション)
Rudolf Steiner,高橋 巌
筑摩書房

   私自身は、神秘主義思想に魅かれながら、神秘体験はありません。

 私はクリスチャンではありませんので、神との合一を求めることはありません。

 しかし、新渡戸稲造も、神でも世尊でも阿弥陀でも八百万の神々でもよいと言っているわけですし、何か偉大なもの、別に名前なんてどうでもよいので、その偉大な存在を直観できればと、強く願います。
 

 


ユートピア願望は諸刃の剣か

2017年11月14日 | 思想・学問

  パリ同時テロからちょうど2年だそうです。

 世に争いの種が尽きることはあるんでしょうかねぇ。

 歴史を発展の途上と捉えて、その最終段階に恒久平和が訪れる、と考えるのは、どうしても無理があるでしょうね。
 かといって、歴史は繰り返す式の、歴史を円環的に捉えるのもバカげていると思います。
 時間は矢の如く一方向に向かっているというのが、人間の捉えられる時間の概念ですから。

 恒久平和を求めるのは、どこにもない場所を意味する、ユートピアを求めることと同義だろうと思います。

 ユートピアを未来に求める人は、常に希望をに飢えている人でしょうね。
 それでも、ユートピアを過去に求める人よりはマシなんじゃないでしょうか。

 例えば、縄文時代は階級も差別もなく、自然と一体化した理想社会だった、みたいな。
 そんなことを考えたところで、現代人が縄文の昔に戻れるはずもありません。

 ユートピアを求める、という精神性には、人間の可能性を切り開き、実現化する動機づけになる、という肯定的側面がある一方、ユートピアを求めるという行為そのものが虚しいことであり、人間に無力感を植え付けるという側面もあります。

 理想主義とかユートピア願望とかいうものは、諸刃の剣なのかもしれません。

 しかしそれでも、私たちは、恒久平和という希望を失うわけにはいきません。

 それがどこにも存在し得ないものだとしても、少なくともそれを求める気持ち失ってしまっては、ユートピアの片鱗に触れることすら出来ないでしょう。

 しかし、だからと言って具体的方策は今のところありません。
 ただ、目の前の危機を克服していくことしかできません。
 そして目の前の危機が去ったところで、また新たな危機に直面するだけでしょう。

 私はユートピアという言葉、あるいは概念を人間が生み出したことに着目したいと思います。

 人間の心の中に、ユートピアを求める種がある以上、それは花開く可能性を持っているのだろう、と。


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共通認識の不可能性とシンクロニシティ

2017年11月02日 | 思想・学問

 時折、絶対的な孤独感を感じることがあります。
 
 この世に存在しているように感じられるものすべてが、私自身の認識によるものにすぎず、実際は存在していないのではないか、と。

 これは、唯我論とか独我論とか呼ばれる考え方で、はるか昔から、哲学者を悩ませてきました。

ウィトゲンシュタインと「独我論」
黒崎 宏
勁草書房

 

自我体験と独我論的体験―自明性の彼方へ
渡辺 恒夫
北大路書房

 そういった哲学者の営みはひとまずおいて、私は私の感覚だけを語りたいと思います。

 まず、リンゴは赤い、と言った場合、私が見ているリンゴの赤さと他者が見ている赤さが同じと言えるのかは、誰にも証明できません。
 まして色盲の人はまったく違う色を見ているでしょうし、全盲の人は見ることが出来ません。

 見る、ということが、まずは疑わしく感じます。

 話は変わりますが、なんと世の中には、全盲の写真家がいるそうです。
 見えないものをどうやって撮影し、どうやってそれを確認するのでしょうね。

フレームのない光景―盲目の写真家いのちの軌跡
中川 晶子
主婦と生活社


 同じことは、聞くことにも言えますし、それを敷衍して、人間の持つすべての感覚に同様のことが言えるでしょう。

 そうなると、共通認識ということが、ほとんど不可能なことのように感じられます。

 この世に存在するのはおのれ一人であり、その一人が勝手に世界を認識している。
 おのれ一人が認識を拒絶すれば、世界は消滅する。
 認識しなくなるけど実際には存在するのではなく、本当に消滅してしまう。

 そんな考えに囚われることは、誰にでも一度はあるのではないでしょうか?

 そこまで極端ではなくても、現世を夢幻と捉える考え方は、日本人にはなじみ深いものです。

 私が感じる孤独感を、認識の問題としてとらえると、孤独感を解消することは不可能です。
 認識を共有することが可能だとは、私には思えないからです。

 しかし一方、ユングは、シンクロニシティ(共時性)という概念を持ち出して、人との不思議な縁について説明しています。

共時性(シンクロニシティ)の宇宙観―時間・生命・自然
湯浅 泰雄
人文書院

 シンクロニシティは、意味のある偶然の一致とか、必然的な偶然、とか言われます。

 私が初めてシンクロニシティを感じたのは、大学時代最も親しくしていた友人が、私と何の連絡を取ることも無く、まったく同じ日に独り暮らしを始めていた、という事実を知ったことです。
 
 例えば恋愛などでは、こうした偶然を、運命などと大げさに考え、それがゆえ、一層二人の絆は深まるのでしょう。

 私はシンクロニシティという概念を知った時、例え認識を共有することが究極のところ不可能だとしても、世の中には、目に見えない不思議な縁があり、その縁=シンクロニシティの存在を深く胸に刻むことで、絶望的な孤独感から脱することが出来るのではないかと思い、嬉しくなったものです。

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惑う

2017年09月19日 | 思想・学問

   生きる意味、みたいなことについては、誰もが一度は考えたことがあるでしょう。

 大学を出て、安定した職業に就いて、結婚もしてマンションも買って。
 精神障害もほぼ克服して。
 子宝には恵まれなかったとはいうものの、私は表面的にはしっかりと生きてきたように見えるでしょうね。

 食うや食わずのような状況に置かれていると、安定して食えるようになることが人生の目標になるので、かえって生きる意味を考えないようになるそうです。

 むしろ先進国などの豊かな社会のほうが、生きがいとか生きる意味について思い悩む人が多いのだとか。

 そして一般的に、思春期、中年期、老年期にそういった思いが強くなるんだそうです。

 思春期については、まぁ、当たり前と言えます。
 中年期は、ある程度の社会的地位や収入を得て、このままこうして生きるためだけに働き、老いていくのか、という絶望感から。
 老年期は、引退しているためか、自分は世の中に必要とされていない、死んだほうが喜ばれる、という悲哀から。

 なんだかこのところ、私は生きがいだとか、生きる意味だとかをぼんやりと考えて、とてつもない落ち込みに入り込むことが多くなりました。

 まさに中年期の葛藤。
 あるいは男性更年期でしょうか。

 こういうのには抗うつ薬も抗不安薬も効きません。
 あまりに根源的な問題に、薬など無意味です。

 仏教では悟りを開くことが人生の最終目標とされますね。
 至高体験を求めるのがマズローの心理学。
 人生に目標などない、というのがニヒリズム。

 その他あらゆる宗教や哲学が人生の意味について様々な論を展開しています。
 それはほとんど無数というくらい。

 中には人生の意味を探すことが人生の意味だ、なんて頓智のようなことを言う人もいます。

 しかし百万冊の宗教書や哲学書を読んでも、その人個人の生きる意味を見つけることはおそらく出来ないでしょう。

 私の主治医である精神科医は、「ハッピー感を感じながら生きられるようになることが大切です」などと、単純で間抜けな言葉を念仏のように繰り返しています。
 でもそれはそうなのでしょう。

 毎日ハッピーなら、そもそも生きる意味なんて考えることもなくなるでしょうから。

 でも週5日フルタイムで働いて、毎日ハッピーな人なんて滅多にいないと思います。
 いたとすれば、よっぽど得意で好きなことを仕事にしている人か、あるいは少々オツムが弱い人なのではないでしょうか。

 この葛藤が、単なる精神のバイオリズムの悪戯であることを強く願います。
 そうであれば、バイオリズムによって、葛藤は消えていくでしょうから。

 でももし、これが半ば永続するようなら、仕事にも支障をきたすことになるでしょう。

 論語には、四十にして惑わず、と書かれていますが、私は48にして多いに惑い、迷妄の森を彷徨っているようです。

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)
谷口 広樹
角川書店


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芸術と酒なしで生きる

2017年08月24日 | 思想・学問

   夏の終わりが近づいているようです。
 今さら感が漂う今日の暑さも、夏の断末魔のような気持ちさえしてきます。

 この猛烈な残暑のなか、ぼんやりとした頭で、はるか昔に読んだ、芸術についての思索が浮かんでは消えていきます。
 芸術もまた、儚い夏の如くだからでしょうか?

  芸術論というのはあまりにもたくさんあって、正直、何が何だかわかりません。

 しかし、ニーチェ中期の芸術観は分かりやすいのではないでしょうか。

 芸術と酒なしで生きること。-芸術作品は酒と同じような事情にある。つまり、両方とも必要とせず、いつも水ですませ、その水を塊の内部の火、内部の甘美さでくりかえしおのずと酒に変えていくほうがずっとよいのである。

 「人間的な、あまりに人間的な」という著作にみられます。

人間的な、あまりに人間的な〈上巻〉(新潮文庫) (1958年)
阿部 六郎
新潮社

 

人間的な、あまりに人間的な〈下巻〉(新潮文庫) (1958年)
阿部 六郎
新潮社




人間的な、あまりに人間的な (まんがで読破)
ニーチェ
イースト・プレス


 正直難解ですが、この一節はすとんと腹に落ちます。

 芸術を、陶酔を求める酒か麻薬のようなものと見なすのは、分かりやすいし、一面の真実を突いているように思われます。
 特に自ら創造する芸術家本人よりも、それを享受する芸術愛好家においては、その傾向が強いように思います。
 かくいう私もそうです。

 しかしニーチェの芸術に対する態度は、前期、中期、後期で大きく異なります。

 上に紹介した言葉は中期のものです。

 前期においては、自然そのもの、宇宙そのものが、根源的な存在によって創造された芸術であり、人間の芸術家は、根源的な存在が自らの救済を祝う媒体、とされています。

 「悲劇の誕生」に見られます。

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)
Friedrich Nietzsche,塩屋 竹男
筑摩書房

 自然や宇宙そのものを一種の芸術と見なす見方も一般的ですが、人間の、個々の芸術家を上のように捉えるのは私には理解できません。
 そんなご大層なものではありますまい。

 前期の芸術への見方から、中期にいたって、酒のようなものだという見方に変わりながら、後期にまたもや大転換を遂げます。

 芸術は偉大な、生を可能にする者、生への偉大な誘惑者、生の偉大な刺激剤である。

 「権力への意志」に見られます。

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)
Friedrich Nietzsche,原 佑
筑摩書房


ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)
Friedrich Nietzsche,原 佑
筑摩書房

 さらに、現実世界は偽りであり矛盾にみち無意味である。このような現実を克服して生きていくためには、われわれは真理ではなく虚言を必要とする。(中略)芸術は虚言の最高の形式である。

 
とまで、考えは進みます。


 しかし、この後期の言葉は、前期に回帰したものでは全く無いことに気づきます。
 前期においては、ほとんど芸術を称揚しているように見えます。
 中期においては、芸術は酒か麻薬のような無用なものと捉えられます。

 しかし後期においては、世界が偽りであり無意味なのであって、虚言こそが人間に必要であり、その最高のものが芸術だと言うわけですから、前期に見られた世界そのものを芸術と見なす考え方は消え去り、むしろ無意味だからこそ人間による虚言であるところの芸術が必要だと説かれます。

 哲学者の言うことが年代によって変わるのはよくあることで、お釈迦様ですら、悟りを開いた直後の説法は難解であったのが、年を取るごとにより分かりやすくなっていったと伝えられます。

 ですからニーチェが年代によって異なる芸術観を持つこと自体は不思議なことではありません。

 しかし、その変わりようが少々極端であるような気がします。

 私自身は、中期の、酒か麻薬のような、どちらかと言えば遠ざけておいたほうが良い物のように思っています。
 そんなものを知らずに過ごせれば、どんなにか良いでしょう。
 しかし、私たちは不幸なことに、酒の酔いを知り、芸術の陶酔を知ってしまいました。
 それを、最高の虚言、などと強弁する気は、私にはありません。

 せめて中毒で命を落とさないようにしたいものだと思っています。 


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間違った考え、あるいは先人の知恵

2017年08月16日 | 思想・学問

  首都圏の、ここ数日の雨とそれに伴う気温の低さは少々異常に感じられます。
 今週いっぱいはこんな感じなんだとか。

 来週、8月も下旬にいたって暑さがぶり返したところで、それはほとんど残暑と言っても良いでしょう。
 今年は冷夏なんていうものじゃなく、梅雨が明けたら秋がきた、みたいな感じです。

 昔だったら雨乞いの逆、なんて言うのか知りませんが、気象の神様の魂を鎮める儀式でも執り行ったことでしょう。

 今はそんなことはしませんが。

 しかし、合理的精神というか、科学的精神というか、そういうものはこの世を生きる動物の一種である人間にとって、万能ではないことは明らかです。
 科学や理屈では判明していないことはあまた在るわけですから。

 むしろ、祈祷、あるいは呪いと言った、現在否定されている精神的な行動、魔術的思考とも言うべきものも、人間には必要なのだろうと思います。
 それは経験的に。
 そして例えば、慰霊祭やら葬式やら、一見無駄に思えるようなことも、現代に脈々と受け継がれ、むしろそれは大切な行為だとみなされています。

 また、例え、精神病だというのが本当だとしても、本人や家族が悪魔憑きとか狐憑きだと信じていれば、エクソシズムやお祓いも有効でしょう。

 そういった前近代においては当然だった祈祷や呪いと言った行為を、間違った考え、に基づくものだと捉えずに、先人の知恵と考えたほうが、私には納得がいきます。

 私は超自然的な現象、幽霊やら、念力やらといったものに対して、ニュートラルな考えを持っています。
 それらが存在するともしないとも言えないと思います。
 少なくともそれらを人間が観念上の存在としてであれ、生み出したのであれば、それは観念上は存在することになります。

 しかし、現実にそれらが存在することが科学的に証明されたのなら、それは超自然現象ではなく、当然にこの世に存在する自然現象ということになるでしょう。
 そうなると都合の悪いことが起こります。

 文学の祖というべき神話、また、祖を正統的に受け継ぐ耽美的で幻想的な文学作品、お伽噺、SFなど、人間の想像力が生み出した素敵な物語群が、陳腐なものになってしまうでしょう。

 そうなったらつまらないでしょうねぇ。
 不思議は不思議のままで、奇妙なお話は奇妙なままで、人間の想像上にだけ存在してくれたほうが、はるかに魅力的だと思います。

 変に涼しい雨の8月、窓から外を眺めながら、深いもの思いに沈むお昼休みです。 


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戦闘本能

2017年08月04日 | 思想・学問

 8月。
 先の大戦を振り返る季節がやってきました。

 人間には絶望的なほどの戦闘本能とも言うべき性質が備わっているように思います。
 戦争にしても革命運動にしてもヤクザの抗争にしても、同種同士で傷付けあうという本能こそ、人間の根源的な性質であることは、歴史を見れば否定できないものではないでしょうか。

 スポーツやゲームなどで戦闘本能を満足させることができるでしょうか?

 それはまるで、ガムを噛んでタバコの代わりとしようとするごとく、また、ノンアルコールビールで飲酒欲求を満足させるかのごとく、虚しいことのような気がします。

 戦闘本能を十分に満足させるものは戦闘しかない、というのが、結局のところ本当なのではないでしょうか?

 それを肝に銘じて、では平和を維持しつつ、戦闘本能を満足させる方法はないのか、を考える必要がありましょう。

 救いがないようですが、私はそういう方法は結局のところ存在し得ないのだろうと思います。
 本能であるのなら、それを失えば人間は人間ではなくなってしまうでしょう。

 それならば、人間は人間でなくなる努力をすれば良いということになるのかもしれません。

 人間を超えた存在。
 神をも超える存在。

 傲慢なようですが、人間は人間たることを超えるしか、同種同士の殺し合いを克服する道はないように感じます。

 しかし、宗教に頼っても無駄でしょう。

 なんとなれば、昔から宗教を種とした争いが絶えたことはありません。 

 私には、人間が意志の力で、しかもこぞって人間を超える運動を起こす術を想像することができません。

 しかしそれが成った時こそ、恒久平和は訪れるのだろうと思います。

 果てしない道のりではありましょうけれど。


宗教遍歴

2017年06月22日 | 思想・学問

 私が初めて宗教ということを意識したのは、「オーメン」シリーズや「エクソシスト」シリーズなど、キリスト教を題材としたオカルト映画でしたねぇ。

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 でもキリスト教を深く知ろうとは思いませんでした。
 何しろ小学生でしたから。

 私は日蓮宗の寺に生まれ育ちましたが、日蓮宗の教えにさしたる興味は持ちませんでした。
 法華経を最高のお経とする日蓮上人の教えが、よく理解できなかったこともあります。

 法華経を読んだ時の印象は、なんだか例え話と、観音経虚空会二仏並座など、ありえないSF的な演出ばかりで、理論理屈が無いように思えたものです。
 スペクタクルとしては面白いですが。

 江戸時代の白隠禅師も、27歳で初めて法華経を読んだとき、失望した、と言っています。
 ただし、老境にいたって読み返したとき、その素晴らしさが分かったそうですが。
 それなら私も、いずれ法華経の素晴らしさに気づくんでしょうかねぇ。

 平安時代の二大巨頭、伝教大師=最澄と弘法大師=空海の解説書を読んだ時も、なんだかピンときませんでした。

 私が最初に興味を持ったのは、大学生の頃、道元禅師の禅でした。
  
 道元禅師は、成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)、としました。
 厳しいですねぇ。
 若いうちは厳しいものに憧れる傾向があるものです。

 また、道元禅師は、浄土教などの易行に批判的であったことから、自然と、浄土の教えは食わず嫌いになりました。

 しかし40歳を超えて、しかも精神障害にも見舞われ、浄土の教えに魅力を感じるようになりました。
 弱った心に、慈雨のようにしみこんできたのです。
 その一つをもって、修行も出来ず学も無い一般庶民の信仰を集めたことが実感として分かります。

 でも浄土の教えは、一般的にはかなり誤解されているように感じます。

 例えば他力本願
 その語感から、なんだか努力しないで、他人の力に頼っているように感じるのもやむを得ないことでしょう。

 あるいは悪人正機
 悪人こそが極楽往生できるのなら、いくら悪いことをしても良いように感じられます。

 「歎異抄」によく知られた言葉があります。

 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

 これは誤解されるでしょう。
 善人ですら往生できるのだから、悪人が往生できないわけがない、というわけです。

 その真意は、自力で善をなし、往生しようとする人(善人)は、阿弥陀仏の本願への信心が欠けており、そういう人でも往生できるのならば、煩悩だらけで阿弥陀仏の本願にすがることでしか往生できないと考える人(悪人)が、極楽往生できないわけがない、ということでしょう。

 「歎異抄」はすごく短くて、美しい日本語で書かれているので、古文が苦手な人にも簡単に読めると思います。
 ご一読をお勧めします。

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
千葉 乗隆
角川書店

 

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)
金子 大栄
岩波書店


 つまり善悪という言葉が、一般的な意味とは異なるのですね。

 他力本願とは、阿弥陀仏の力(他力)によって、阿弥陀仏の本願(すべての衆生が救われること)を深く信仰し、一心に念仏を唱えるということです。
 この考えはさらに進んで、「南無阿弥陀仏」と唱える、念仏という行為そのものが、自力で行っているのではなく、阿弥陀仏の衆生を救いたいという本願が、人々に唱えさせているのだ、というところまで行き着きます。

 この易しい教えは、精神病に苦しんでいた私を慰めてくれました。

 しかし、その後よくなると、すっかり忘れて、南無阿弥陀仏を念ずることもなく、また実家の日蓮宗で重要視されるお題目、南無妙法蓮華経と唱えることもありません。

 当初禅による自力での修行に魅力を覚え、実家の寺で重視される法華経に失望し、他力本願に魅力を覚えたが、今は仏教にさしたる興味が無い、というのが偽らざる心境です。

 ではキリスト教だのイスラム教だのに興味があるかと言えば、どうしても一神教は食わず嫌いで、概説書を読んだことはありますが、聖書も読んだことがありません。
 あ、でもコーランは詩編みたいな感じだったので、ざっと目をとおしました。

コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)
井筒 俊彦
岩波書店

 

コーラン 下 (岩波文庫 青 813-3)
井筒 俊彦
岩波書店

 はぁ、そうですか、としか思いませんでしたね。

 神道は基本的に仏典や聖書に相当するような書物はありません。
 概説書くらいでしょうか。

 後は日本神話ですかねぇ。
 神道は日本人の心の故郷だとは思いますが、宗教として体系づけられたものではなく、スタイリッシュで美しい装束や儀式が本質と言えるかもしれません。
 素朴な自然崇拝でしょうねぇ。

 今、関心を寄せている特定の宗教はありません。

 多分それは不幸なことなのでしょうね。

 人間なんて弱いものですから、人智を超えた、何か圧倒的な教えや思想にすがりたいと思うのは自然な情だと思います。
 オウム真理教などのカルト教団に限らず、共産社会を夢想した左翼過激派なども、一種の信仰に近い心情だったのだろうと推測します。

 私は私が過去の思想や宗教からいいとこ取りした私だけの宗教みたいなものを信じる他ない、とかつてこのブログで書きました。
 しかし今は、少し、心境が変化しています。

 私が私を拝むのでは、まるで織田信長みたいになってしまいます。

 延暦寺を焼き、石山本願寺を焼いたかの武将と異なり、私は既成の宗教にはすべて畏敬の念を抱いています。
 信じる信じないは別にして。
 過去の人々、そして現代の人々が生きるよすがとした既成宗教は尊重されるべきものと考えています。

 日本人の多くがそうであるように、心の底では、私は無宗教なのだろうと思います。
 いやむしろ、特定の宗教に拘らず、あらゆる宗教になんとなく畏敬の念を抱いてつまみ食いする、という態度こそ、現代日本人の一般的な信心の形なのかもしれません。

 逆説的ですが、私はもしかしたら、日本人の在り様としては、信心深いと言っても良いのかもしれません。

 いつかこれこそ私が信じるべき教えだ、と思える宗教に出会いたいものです。

 私の宗教遍歴はまだ続きそうです。
 
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