キルケゴールは「死に至る病」で、絶望を罪と断じ、絶望こそが死に至る病だとしました。
そして絶望を脱するには、真のキリスト者でなければならない、とも。
死に至る病 (岩波文庫) | |
斎藤 信治 | |
岩波書店 |
イスラム教では最後の審判は必ず訪れる、と警告し、アッラーへの信仰によって天国へと至ることを求めました。
浄土教では阿弥陀仏にすがることを薦め、禅宗ではひたすら座って瞑想することを求めています。
神道では清き明き心を良しとしました。
何が本当だか分かりません。
宗教的真実が一つなのだとしたら、一つ以外は嘘つきということになりましょう。
あるいは、仏教における門のように、どの宗教に入信しても頂きは一緒ということも考えられなくはありませんが、ちょっと無理筋のような気がします。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はほぼ同じような教義を持っていますが、一方で少しの違いに目くじらを立てて、殺し合いを続けてきました。
それどころか、キリスト教においてはカソリックとプロテスタントで争いをしていた過去があります。
まこと、信仰とは厄介なものです。
わが国では、檀家で氏子でクリスチャン、などと揶揄されるように、ほぼ無宗教という人が圧倒的多数に及ぶものと思われます。
しかし、寺に行けば手を合わせ、神社に行けば頭を下げて柏手を打つという態度は、一つの宗教に拘らず、広く人智を超えた物を敬うという、素朴な宗教的感情を表しているように思われます。
用明天皇は仏教伝来に際し、蘇我氏が仏教を、物部氏が神道をわが国の根本とすべきだとして争った時、自分は仏法を信じ、神道を敬う、といった意味の発言をして、結果、現在に至るまでわが国の人々は仏教も神道も同時に尊ぶ態度を取り続けています。
結果としては仏教を押す蘇我氏が勝利し、その後明治に至るまで、朝廷は主に仏教に染められることになりましたが、庶民は必ずしもそうではなかったということでしょうか。
結局のところ何も分からない赤子のような人類がとるべきもっとも誠実な態度は、どんな宗教をも敬い、一つに凝り固まることがないようにするしかないような気がします。
どの宗教にも、それぞれ良い点はあるわけで、おいしいとこ取りするのも悪くないような気がします。
それはヤハウェの3宗教を深く信じる欧米や中東の人々にとって、恐るべき無節操なのかもしれません。
あるいは地獄への道なのかもしれません。
パスカルの賭け、という理論があります。
パスカルは、神の存在を信じた場合、それが真実であれば天国に行け、嘘であっても失うことは無いのに対し、神の存在を信じなかった場合、それが真実であれば地獄行きという大損をするから、神を信仰することに賭ける、と述べています。
しかしこれは、宗教が世の中にキリスト教しか存在しなかった場合にのみ有効で、今、あまたの宗教の存在を知る我々にとってはあまりに危険な賭けだし、そもそもそんなことを言い出したら、何に賭けてよいかわからない、ということになります。
パスカルが生きた時代の制約なのでしょうか。
分かりません。
宗教は人を救うために生まれたのでしょうが、それがあまりに多数にのぼるため、何が真実だかわからない、絶望=死に至る病に、多くの人が罹患しているように感じます。
しかし私は、傲慢と言われようと、私が教祖で信者は私一人だけ、という名もない、宗教とも言えないような物を信じ続けるしかないように感じています。
それこそが、人智を超えた物を予感し、畏怖を抱き続けるということであろうと思っているのです。