たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

逃げ場を失うことはチャンス

2012-08-31 01:10:11 | Weblog
 相手の選択肢を無くせば無くすほど、自分の思い通りに人を動かすことが可能となる。
 系を掌握してしまいたいなら、相手の選択肢を奪う行為をバレないようにバレないように気をつけながら、奪っていけばイイ。下手な人だと公平性の中に埋めることしかできないけど、そうじゃなくって、個々人で逃げ場を奪って、それに気がつかせないように公平に振る舞うことは可能だ。

 逃げ場を全く無くしたときに、どう飛ぶか?
 それが、その人の本質を露呈させる。

 諦めかけている人には、あえて逃げ道を一つだけ用意してあげる優しさをみせる。
 それに乗ってきてしまったら、本格的に諦めるサイン。

 気がつかないうちに、相手の逃げ場をなくしていて、勝手に怒っているときもある。でも俺悪くないし、って。嘘ついてるわけでも、その人の状況を考慮して無いわけでもないし、物理学的に正しいことだろうと考えて、ただ解いてるだけ。
 時間はかかるけど、飲み込めて、次できることが算出されるなら、それでイイ。だけど、手っ取り早いからって、安易に「正しさが人を傷つけることもあるんだよ」なんて教科書通りの方程式に落とし込まないで欲しいよね。

 自分のやり方や手法やスタイルや考え方の修正が迫られる時間帯、それはチャンスだ。むしろ俺は、それに気がつかせてくれた方には感謝するんだけどなぁ。っと、俺自身も、今こそ、変える時間帯?笑

 今できることから理想までの道筋を樹形図にして書けたなら、それは、今はまだ実質的な成功をしていなくても、成功と言って良い。あとは実行するだけだから。
 逃げ場を失った、ってことはチャンスだ。自分のスタイルや主義などを変えさえすれば、それだけで、成功する可能性があるのだから。

 それが難しいから、成功は、なかなか起きない。
 変わることを恐れず、それは「逃げ場を失う」という逆変換を通すと、正しいことを言うことを恐れないことに変わっていく。難しいけど、とにかくこの2つを留めてはいけないのだと思う。

 時間を超えるためにはね。
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多角的な楽しさの中で

2012-08-28 00:42:51 | Weblog
 多角的な能力をつけるためには、必要なことから逃げないことが大事だ。必要なことってのは、自分の心によって決められている価値観であり、自分が所属している分野や習慣に依らないものである。

 本当に必要なモノを、必要な瞬間に、きちんと選択肢として、選び続けるのは難しいことだ。でも、それが出来れば、実験量が圧倒的に少なくて済む。もちろん、その分考えなければいけないけど、短い人生、実行するってことが少ないほうが、楽しめると思うんだよね。
 必要なことで自分が出来なかったら、周りに訊けばイイ。それがパサパサ出来るようにならないといけないし、いちいち自分のモノにしていかないといけない。

 こういうことを繰り返していけば、新しいことが怖くなくなる。正確に言うと、怖いっという気持ちが少なくなるって感じだけどね。新しいことに対して、気持ち的に、削り方が少なくて済む能力は高ければ高いほどイイ。そして、いずれは、多角的な能力となるのだ。
 最低限、仲間や味方やパートナーには、これくらいの能力を持っていて欲しいし、自分自身も常に、一生、死ぬまで、そうであり続けなければならないし、この能力を向上しようとし続けなきゃなと思う。

 歳をとれば、経験を重ねれば、自分の知ってる範囲や専門分野の知識だけは積まれてくる。だけど、その分、自分が全く知らない範囲について、恐れるようになる。
 この恐れは、賢ければ賢いほど、地位や学歴が高ければ高いほど、増していってしまう。過去にはできた、というくだらないプライドが邪魔をするから、学がない者に比べて、学がある者は逃げ場がないのだ。だから、年功序列によって、押さえつけるようになってしまう。

 この負の連鎖をどうにかしなきゃいけない。俺はやっぱ不器用だから、ずっと一生、多角的な思考力を上げていって、新しいモノを理解し続けるしか術を知らないし、そうしていくしか方法は無いと思っている。実際に、そうしている年配の人は成功しているし、心から尊敬している。

 何故能力を上げたいかといえば、それは、俺の能力が足りないがために、変えられなかったり、関係性を保ち切れなかったことに対して、罪悪感を持っているから。
 その部分に対して、真っ直ぐ行動できないのは、邪魔なプライドが、くだらない負けたくないって気持ちが、これ以上迷惑をかけたくないって気持ちが、俺だけにあるのか、お互いにあるのか、それともみんなにあるのか、わからないけど、それを感じる時は、どこか切なくて、直視できない。

 望みは、ただ一つ、わかっている。淘汰されていった集団全体に対して、個人に対して、まったく違う想いを抱きながらも、また、いつかのように笑い合えること。
 それは、決して遠くない、明日にでも起こり得る、近い未来であるのにも関わらず、そうはならない。いつだって、「絶対に負けたくないから」。

 でも、もう、どんな想いであっても、とりあえずは、笑い合えてしまうほうが、楽しいんじゃない?って想いながら、今日はまだイイや、って自分達を誤魔化していく。

 新しい中に、古豪な笑いが内在するとき、本当に楽しくなっていくって理想を、頭でわかっていても、心がそれを許さないから。
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忘れ咲き

2012-08-26 04:49:34 | Weblog
 いつだって変わりたくはないから、いつかの想いが返ってくることもある。
 でも、時間はどんどん経ってしまっているから、何もしようとしないし、身を任せてとにかく他人事のようにして。

 もしも…なんてことを時に考えるのは、傷つけて傷つけられているから。どんな状況になっても動じないように準備をしていて、それでいて動じてしまうと、ちょっと嬉しくなったりもして。まだ動じれるだけの想いがどこかには残っているのかも、って思ったりもするから。だけど、すでに新しいほうが居心地がよくなってしまって、それの繰り返し?

 どんな感情も押し殺そうと思えば押し殺せるし、ホンモノだと決めつけてしまえばホンモノになっていく。意志によって、感情を制御できちゃうから上手く行かないのかも、って頭では分かっていても、感情を制御しないだけの勇気も無くて。
 その誤魔化し方は、その時期にもやってる。空とか木々に目をやって、興味がそっちにあるフリをして、オフェンスすることも、時にきちんとディフェンスすることも避けていってしまった。忘れ咲きを期待しようとしてしまう今も、あての無い想いなのに振り返ってしまいながらも、誤魔化し続けて。

 変わらなければイイのに、カタチあるものを求めなきゃイイのに、っという理想も、孤独や躊躇い弱気が押し寄せるから、どうでもよくなっていってしまう。
 これで良かったんだ、と強く思っている自分もいるけど、それは納得しようとしているだけなのかな?

 そして、終に結果至上主義でサチりながらも、こうなってしまうことを一番怖がっていた自分を思い出して、切なくなる。だけど、またそんな気持ちを押し殺す、の繰り返し。

GARNET CROW - 忘れ咲き (Wasurezaki)
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He who believes and is baptized will not be saved…?

2012-08-24 01:25:43 | Weblog
 世の中はいつだって不条理だし、表面的なことが大好きだ。
 だから、正直者はバカをみる。

 その系の中、その集団の中で、必死にコツコツ頑張っているだけではダメ、とかそういう言われ方をする。非常に誠実で真面目な者が、言われたことを生真面目にやってきた者が、損をしてしまうような社会ではいけないんじゃないかな。。

 その集団そのもの、その分野そのものがダメで、そこに所属していてはいけなくって、所属しているだけではいけなくって、そんな危惧の仕方をしなきゃいけないのは当たり前のことだし、必要なことだとも思う。だけど、本当の本心からすれば、甘いまんま、幼いまま、傷つきやすいままでも、イイじゃないか、って自分に対しても他人に対しても思っている。
 戦いたくないし、変わりたくないし、移りたくないから。

 ただ、能力として、俺はその危険察知が敏感だし、場所を変える能力も高いだけ。偶然、ラッキーで、縁があって、どうにかなってきている。この能力やラッキーさを誰かに強要してはいけないし、押し付けてもいけないから、だから、その系の中で、正直者がバカをみないようにすることを一番に考えながら、行動しなきゃいけないのだ。

 それは、これまで切り捨てて来たすべての集団に対しての罪滅ぼしのつもりなのかも。

 ほんのちょっとでも、あと一歩だけでも、って、系を、真面目で優しい人に有利になるよう変えたいと思ってきたし、実質的にいくつかは役に立ててきたとも思う。だけど、いつだって劇的に変えることはできないし、その能力が無いなら、余計なことしないでよ、って力の抜き方が上手い人間に思われる。

 そして何よりも辛いのは、時間さえ経ってしまえば、俺の年齢さえ上がってしまえば、あの頃と、こないだと、大してカワラナイ能力のまま、とても簡単に集団を大きく変えることが出来てしまうことも、切ない。
 だからこそ、その部分を、直視しない、直視してはいけない。今できることだけを考えなきゃいけない。

 正直者が、真面目な人間が、バカをみないような集団へ、損しないような集団へ。
 ズルすれば良かったじゃん!、自分の理想を捨てて上の人の言うことを聞けばよかったじゃん、そしてその先の未来には逆に、言うこと聞かなきゃよかった、自分の理想を捨てなきゃ良かったじゃん!、って思わないような集団へ。

 そうしていけば、多くの人が、Cグループのイイ部分である真面目さと、Aグループのイイ部分であるコミュニケーション能力の高さを、本当の意味で、同時に持ち合わせることが可能となって、様々な問題解決に繋がる。
 今のAグループとCグループのキメラを創っていくことが、集団全体を劇的に変えるひとつの指針なのかもしれない。
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思考の体力をつけよう

2012-08-22 02:08:14 | Weblog
 AならばB。AだからB。BはAより成り立つ。
 自然科学はこれらの論理的思考によって形成を保っている。だから研究者は論理力を高めなきゃいけないんだけど、ただ高級なA→Bをやってるだけならただの知識の域を出ない。このA→Bを、逆を考えることも含め、何ステップ踏めるか、が実力を測る上でのひとつの指標となる。

 理系なら4ステップ、文系なら3ステップくらいは、最低でも持っていて欲しいよね。ちなみに、高校生以上ならその人の所属を問わないし、学問だけに限定した話じゃない。
 知識をバラバラにして覚えていたり、受験勉強の弊害からか(という言い方は俺は普段しない。受験自体が悪いんじゃなくって、受験対策している予備校やテクニック、そしてそれらをバカの一つ覚えのように受け入れてきた人が悪い。)、ワンステップでパブロフ効果のようにパサパサ話を展開しようとする人は、記憶という面では優秀であるのかもしれないが、そんなんじゃ新しい発想は出てこない。

 っていうか、理想を言うなら、思いつく限りは、ずーっと、ステップを踏めるくらいじゃなきゃダメ(とにかく、思考を停止させない!)。
 こういうことがどれだけできるか?の指標としての、いわば「思考の体力」をつけていかなきゃだよね。

 まー、これだけじゃなくって、ややっこしいのは、誰かが思考の体力を使って創った「お話」をフルに覚えている人もいる。これもただの暗記だから、こういうのも頼り過ぎてはダメ。
 例えば、この完成された「お話」を他人に対して問答法で伝えることはできない。そのストーリーに沿わない限りは認めない、ってのは無茶だ。だって、あなたは覚えているけど他人は覚えていないのだから。なのに、試験で穴埋めを使う出題者の中で、単に「お話」しか覚えていなく、思考の体力について無頓着な大学教員も多い。
 っていうか、あなたもこの内容を覚えてしかいないでしょ?、沢山ある試験範囲の中でここだけ抽出してきて、そんなの公平なの?、ってかなり多くの先生方に発言してきた気もするしね(もちろん、この時期が必要、こういうことも必要なこともある、というのは認める。だけど、遅くとも高校生までで卒業すべきだろう。日本はアイディアで勝負しなきゃいけないのに、大人がこんなことをずっとしていてはいけない。)。

 この「お話」を覚えているだけで、「理解」なんて言葉を使ってはいけない。
 理解ってのは、複数の「お話」を自分で組み合わせたり、自分なりの言葉を使えたり、自分でお話を構成できるだけの力があって、初めて理解と言えるのだと思う。
 だから、「これ1冊で○○学は理解できますー」なんて言ってる人は、ありえない。ただ覚えているだけでしょ?最低でも2冊は必要で、同様の箇所を読みこんだり、コンセンサスをとりあったり、一方を否定したりして、自分のものにしていくのが本当のやり方。

 A→Bが確約されるならまだイイ。この矢印が確率的であっても、思考の体力を使って考え続けなきゃいけないし、確率を加味しながら別の方向性も考えて、樹形図みたいなんを創れた時に、初めて未来が予測できるし、系を掌握できる(それをするため情報が必要だから、基本的に人生は情報戦なのだと思う)。
 そういう意味で、俺は、理論は実験(実行)に先立つ、と考えている。

 これが人間に内在する、外部とのやり取りに直接的に作用する部分の半分。「頭」だけの世界。
 これとは別に、「心」もあって、違う系で成り立っているから、それだけでもヒトって面白い。
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こなしてる感と守ってる感

2012-08-20 01:35:09 | Weblog
 勝ち負けを気にしない人なんていない!、と言っても過言ではないと思う。
 どんなに気にしていなく観えたとしても、他人と比べてどこかの勝負では勝っていたい、って思っているのが多いし、そっちのが自然だ。

 その負けたくない勝負について、誰かのためにリスクを冒せるときに、初めて、「助ける」とか「守る」とかそういう言葉が使えるんだと思う。そうじゃない限りは、「こなしてる」。
 言葉は大きく違う印象を受けるけど、「助ける」のと「こなす」のとは、根源的には同じものであるべきだ。よーわ、「こなす」程度で大多数の人間にとって有益に作用させるほどの能力がなければ、いざというときに「助ける」ことなんてできないから。

 指を鳴らす程度、片手間にこなす程度で、心が澄んでる誰かの何かの役に立てるなら、いつだって喜んで行うくらいの心の余裕を持っていたいよね。実際、その作業の最中でも学習することは沢山あるし、その学習されたことをガチの系に活かせれば、と考えている。
 ほんのちょっと笑顔で褒めながら話してみたら、ちょこっと自分の負けを認められたなら、たった少し手を差し伸べるだけで、ものすごく助かるんだとしたら、そのコスパーは半端無く良い。

 ただ頑張る、なんてきっとダメ。人生は情報戦だ。その情報の中から、一番コスパーの良いモノを選びだして、そこに対して全力を尽くして努力する。短い人生、それしか手段は無いと思ってきた。
 でも、ここへ来て、それ以外の方法もきちんと存在していることを知ることができた。本気で想いの容量が大きく、その心が優しさで溢れると、目の前のことにきちんと一生懸命になっていさえいれば、結局は一番イイ道を通ってこれるのかも、っと終に信じ切ることができるかも?

 もちろん、ラッキーとか、ついてないとか、そういうのはある。でも、あれほどの能力と可能性と助ける感に溢れていれば、ただのラッキーで片づけるわけにはいかない。
 まだまだ、知らなきゃいけないセオリーが沢山あるんだなって思う。改良の余地はあれど、ついに、俺が高校の頃から知ってる最高の助け方を超える手法の一端に出会えているのかもしれない。

 まぁ、かといって、すぐに使えるはずもなく、理論が開拓しきっていないから、使用するわけにはいかない。
 今できることをとにかく考えて、今の系に貢献していくこと以外、術は無い。

 そして、どんなに間接的であろうとも、多くの関数fを介しながらも、今、ちょこっとでも変化させられることを良い方向へ導けたらと思うところもある。

 そういったことができるかできないかこそが、俺の一番気にする、勝ち負け。

 いつまでも守られていてはいけない。
 そんな中でも、搾取させないように、守りかえさなきゃね。
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本当のアウェーで

2012-08-16 03:47:32 | Weblog
 自分にとってのアウェーで、経験を積むことは大事だと思う。
 勝敗は問わない。大抵の勝負は長いんだから今勝てるかどうかはどうでも良い。そうじゃなくって、本当の相手や納得させなきゃいけない人達はココなんだ、って認知することが大事だし、勝負って頭さえ持っていれば、それだけで掴み取れるものがある。
 当然だけど、アウェーだから自分はとりあえず従います、ってのはダメダメ。ある程度は、そこで本気で戦おうとしないと、本当の能力はつかない。

 その場所では、不条理なこともきっとある。こっちのが正しいのに、自分の考えのが成長できるのに、って。
 だけど、俺にとっては、不条理であっても、押し付けようとしてこられるほうが、本気になれて良いのかも。結局、慣れ合いになったり、誰かに任せっきりになったり、怖がられたりしても、イイ事はあんまりない。仲が良いのはイイことだけど、少しピリっとする時間帯が存在していないと能力がつかないから。
 不条理に対して、自分の思考力から正確に反論することができて、初めて、自分のセオリーが完備性を高めていくんだと思う。

 インタラクションが無いよりも、不条理な中でも、インタラクションが多い方が、成長できる。
 そのほうが意見も言いやすいし、主張しやすいし、結果、仲良くなることも早くできる。

 っま、、…って考えてる俺が、何も意見を言わなくなったら、その集団は色んな意味で終わってるってことなのかな。

 変える!って一言で言えば簡単そうだけど、すべては持久戦だ。
 いつだって一歩一歩。特別な日が大事ってわけじゃなく、毎日のなかにターニングポイントがあって、それを逃さずにどれだけ前に出れるか、だと思う。
 どんなに特別な日を設けても、日々のなかのターニングポイントを大切にできないのはダメだし、かといって、特別な日の存在をナメきっても良くない。

 本当の意味でのアウェーで、新しいアウェーで、どれだけ変えることができるか、ここからもう一度立ちあがって、勝負していかないといけないと思う。
 成長のために、能力向上のために、、そして何より、そうなる兆しが存在していると思うから。

 そんな風に考えられるってことは、余裕があるってことだけどね。
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小さな光

2012-08-15 01:31:00 | Weblog
 どんな人間関係だって、その上の信頼関係を得るためには、いつかは秘密や曖昧さを突破しなきゃいけない。
 それは、俺がちっぽけでとても弱いから、秘密を秘密のままにすることが怖いからだけど、それを超えるために、キタナいずるい方法を使ってしまうこともある。

 お互いに傷つきたくないし、汚れたくないし、きれいなまま、自己実現していきたい。ある程度の犠牲、のある程度を、相手側にばかり押し付けてしまって、嘘をついたりして、大切な最終ラインを忘れてしまう。
 だったら、曖昧なグレーゾーンや秘密は、そっとしておいたほうが良かったのかも。秘密を明かすためのカードを切った瞬間に、入念に用意していたイイワケや美辞麗句や作り話を語りだして、並べれば並べられるほど、悲しくなっている表情に気がついてはくれないし。

 あんなに、即物的なことはもうどうでもいい!、って心の中で叫び続けていたのに、一転して、即物的なことくらいは勝っていたい、に変わり始めたら、終わりの始まり。
 秘密や弱い部分なんて、大抵は、大したことじゃない。ただ、実際には大したことじゃなくても、それを当の本人が大したことだと思っていることが、大したことなのだと思う。
 そして、その歩み寄り方のさじ加減を間違えてしまえば、一気に失ってしまう。繰り返し。

 だけど、俺はやっぱり幸せ過ぎると思う。色々な意味をこめて…、、途切れないから。
 間違いだらけでも、投げ出したいほどつまづいても、くだらない表面的なことばかり重要視するような環境でも、信じることに疲れてしまっても、いつかはきっと報われて、楽しくなる、って信じさせてくれる人が、周りにいる時間帯が途切れない。
 なんて幸福なことだろう。

 一過性じゃなければもっと良いのに。。それだって、いつかはきっと報われる。その兆しは、もうすでに、今現在あるじゃないか、っと新しい信頼関係の中で肩を叩かれる。
 それがたとえ小さな光でも、進むべき道を求めている。

 (久々の歌紹介記事は、日之内エミのミニアルバム「VOICE」のなかに入ってる「小さな光 feat. AZU」。歌い方の幅が広い二人ですが、女性デュオとしてとてもよくまとまっていて、スゴイ。やっぱこれくらい相性が合っているものを聞いていたいなっと思います。
 ちなみにアコースティックver.も好きです。)

日之内エミ - 小さな光 feat. AZU
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自分の価値観を信じて

2012-08-13 05:42:21 | Weblog
 本当は、価値観って、ヒトってだけで、みんな共通だと思う。
 AグループもCグループも、アジアもヨーロッパも、理系も文系も、男も女も、子供も大人も、みんな共通の価値観を持ちえる。

 理系と文系が共通の価値観を持ち得るのにも関わらず、なぜ、化学だから、とか、この研究室では、等という、その下の階層でさえも共通の価値観が決して持ちえないかのような、愚かでバカなディフェンスの仕方を大の大人もしているかといえば、ヒト-ヒト間でインタラクションがあるからだ。だから、最初はみんな持っていた理想が信じ切れなくなってくる。
 そのインタラクションを考慮し、もう一歩先の議論をしているのにも関わらず、そうやっていうけどさー、現実はー、みたいなことを言っていてはダメだよね。
 だって、新しいことを発見すること以上に、学問領域を新しく創ったり、広げたり、まとめ直したりするのが、研究なんだから。

 そして、こういう現象は研究だけのことではなくて、一般の生活にも関わってくることだと思うし、同じような理論構築をもっともっと意味があることに応用できると思っている。
 ただ単純に生きるのではなくって、下の世代であればあるほど、よりよく、もっともっと自分たちが今も未来も楽しいようにしなくちゃいけないわけだから、Aグループの人とは価値観が違うしー、とか、Cグループはまぁ、そういう人達じゃん、とか中高生が言うと、俺は必ず否定するように仕向けている。

 【私はー、普通の、っていうか、なんかほら上の人?、そういう人達とは違う価値観だからー。】
 『あー、でもさぁ、そういう人達と喋ったら、意外と自分と同じで普通だったりしねぇ?』
 【そうだけど、私は、あーいう風には行動できない、っていうか。】
 『そうそ。そこ行動できない部分が、ヤツらは行動できちゃうから、分かりあうのって、難しいんだよね。』
 【そー。】
 『何かのきっかけだと思うけどね。きっかけさえあれば、普通に喋れるようになるし、意外と簡単に表現できるのかもよ?』
 【えー、無理でしょー、たぶん。】

 ≪でも、カワラナイ、っていうか、あーやって脅してこられると、俺、めんどくさくなるし。。≫
 『ちょっと待って。それは直接自分のことじゃん?そこは、自分の価値観を押し付けなきゃダメだよ。相手も本当はそう思ってるんだから。まず、その脅しが正式には効かない、ってちゃんと知ろうとしてる?』
 ≪えー?どういうことですか?≫
 『学校には、学校であり続けるための、ある程度の制約がある。その制約を超える脅しは効かない。』
 ≪まじっすかー。。≫
 『インターネットの時代なんだし、そんなことすぐ出てくるはず。あなたはAグループ寄りで社交性はあるんだから、もう少し、理詰めを強くして、自分の意見に完備性を持たせないとね。』
 ≪完備性ってなに?≫
 『…。頭よくなれ、ってことだよ。笑』

 その学校の、そのクラスの小さな社会が、そのまま大きな社会に反映される。
 だから、俺にとって超くだらなくても、本人にとって大きい不条理や不愉快は、超えさせないといけないのだ。

 何をすべきか、きちんとわかっている。それこそ、中高生の頃から。
 心が綺麗で、真面目で、不器用なせいで、損をしている人を助け続ければ良いのだ。所属を問わず、あらゆる手段を使って。

 ただし、勘違いをし続けてきたけど、そういう人を即物的に自分と対等な立場にしてはいけないし、しようとしてはいけない。よーするに、助けるべき人や助けている人の中からパートナーや仲間を選んではいけない。
 それじゃぁ、きっと、ただ言葉を得るだけで、ホンモノの関係にはなりえない。そんなんじゃ、いずれはきっと、俺だって、言葉に騙されるようになっていってしまう。

 だって、価値観がみんな一緒ってことは、心は、ヒトってだけで、綺麗だってことだし、真面目さや器用さは能力だから誰でも得られる。
 だとしたら、出会った時から、心があって、能力があって、タイミングもあうことのほうが、命を運ぶことになるのだと想える。

 それは最初からわかっていたけど、どうしてかな。所詮、俺も、習慣依存の感情に流されてしまっていることが多いのかも。

 でも、そんな自分の、相手の、気質に気がついているからこそ、常に、それぞれ違う道を選ぶことで、互いに少し大人になれる気がしていた。それなのに、別の習慣が一般性を高めて、引き離してしまう、いつも。

 『常に、習慣かどうか、ってのを考えることは大事だと思いますけど。。』
 「習慣?趣味とかってこと?」
 『あー、違います。よーするに、観たくもない真実を観た時に、今までずっとそれを選んできたから、それを否定したくない気持ちが働いてしまって選んでいるだけなのか、それともその真実を超えてもガチでホンモノだから選んでいるのか、ってことです。その2つの切り分けって、結構、難しいんですよね、自分の中でも。』
 「あー、なるほどね。。…。っていうかさ、高橋君って、なんで、そんなにホンモノじゃないといけないの?」

 ばーか、そっちのが楽しいからだよ。
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Tu casa mi casa

2012-08-10 04:38:59 | Weblog
 これだけ沢山変わっていくと、自分でもどこが居場所か分からなくなる。
 どこでも完全に受け入れられようとしないし、かといって、時間を超えて状況を変えるほどの能力も無いけど、多角的には動けるから、こういう感じになるのかな。
 まぁ、便利っちゃ便利なんだけど、ちょっと寂しいよね。

 一つのところに集中しすぎない、他のことも対等に扱って、それから、そのたった一つの大切な部分の素晴らしさをハッキリさせることが大切だと思う。どう考えても、同じ場所にい続け過ぎて、失敗しているケースの方が多いもんね。
 その集団全体がまったくもってダメダメで、全部で落っこちちゃうことを不安にならないのが不思議。

 だって、俺の身の回りでなら、細かい研究分野はもちろんのこと、分子生物学、素粒子、有機合成、などの分野全体として、それやってるヤツは全員ダメ、ってなることも全然ありうると思うし、もっと言っちゃえば、理系ってだけで全員ダメってなる時代が来るかもしれない。
 もっともっと危機感を持って、その分野が消えてしまうことも考えながら、動かなきゃいけない。

 このような全体としての情熱を持ち合わせながら、前進して、助け合える集団はきっとあるはず。
 だから、変わっていってしまうし、変わっていかなきゃいけなくなってくる。

 『あるはずじゃないですか、安住の地は。』
 「ないよ。何甘いこと言ってんの。」
 『笑』
 「創って下さい。」

 最終的にはきっとそうなる。決して遠い未来ではなく、予想よりも意外と近い未来だと思う。

 それまでは、それぞれの場所でホームを感じられれば良いのだ。
 っそ、安住の地が現在存在してないわけではなくって、局在していないだけなのだと思う。
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絶対零度と超高温

2012-08-09 05:25:16 | Weblog
 何らかの方法でバリアを創る時は、きっとリアルから逃げたい時だ。
 最終ラインでは自分自身を傷つけさせないために行っているバリアも、最上級は絶対零度か超高温になる。

 大義名分や天邪鬼はバリアとしては常温。そういうバリアを創り続けてしまうことは問題なんだけど、これら常温で起こるバリアは、リアルにきちんと影響して相互作用すら生むから、今となっては問題にならなかった、っと想える。
 だけど、あるポテンシャル以上に距離が離れてしまえば、低温側か高温側かにシフトする。

 超冷たい態度で自分を守るか、周りに沢山の人をおいて表面的に笑いながら自分を守るか。
 能力さえあれば、どちらの状態もとりうる。自発的対称性の破れ、みたいなもんで、どちらをとるかは、状況や場合によって、まちまち。しかも、その状態を自分自身が認知すると、きちんとGoldstone bosonも現れて、自発磁化の場合と同じで、まさにフォノンが計測できる(笑)。

 高温のバリアがホンモノになっていく日を期待している自分に気がつくと、いつもどこかで待っているから最後の瞬間に上手く行かないんだよ、って自覚させられて、、でも、まだまだ本当に状態を変化することは難しいみたい。
 負けたくないからしてしまう行為を許し合えたなら、こんな風にならないのかもしれない。ごめんね、そこまで大人じゃなくて、、まだ時間を超えられないみたい。

 能力さえあれば!っと思った事もあったけど、俺は、能力を向上させながら、気持ちは時刻tに対して不変であるように働かせるから、切なかったり辛かったりの気持ちはカワラナイ。

 即物的に勝っても意味が無い。やっぱり、能力や賢さは、仕方が無いからつけるものであって、そこに過度な期待をしてはいけないんだな、っと思う日々です。

 温度の定義は分子運動の運動エネルギーの総和。だから、低温には限度があって、高温には限度が無い。
 その物理現象にだけ、ちょっと期待しているのは、悪くないよね?
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勝つための弱み

2012-08-06 03:21:01 | Weblog
 『うーん、だって、理詰めでずーっと考えていけば、人間なんて、みんなイイ奴だと思うし。』
 【えー、それは高橋さん、純粋すぎですよ。】
 『そうか?』
 【まぁ、それが理想っちゃ理想ですけど、絶対わからないじゃないですか。】

 人と人の相互作用が、その人自身や関係性をダメにしていくのは、とってももったいない。
 見栄だったり、つよがりだったり、どこかほかの場所で認められたいから?無意味にバカにしてみたり、本当の部分で信じきれていないから即物的なモノで確認したり安心したり。

 そのままで繋がっていたい、って気持ちがあるからこそ、失わないようにして、自分を大きく見せたり、強がっているのに、その時間帯が長過ぎるから、まるで勝つことこそが目的だって勘違いしだしちゃって、最終的に失ってしまったり、不器用なのが人間らしいのかも。

 『ほら、俺ら、観えない部分、このへんでやってる勝負、すごすぎじゃん?』
 「笑。それ、言っちゃうんだ?」
 『なんかさー、お互い超スゴイ飛び道具ばっかり使ってて、俺のかめはめ波がクリーンヒットして、あー、やりすぎちゃったーって近づいていくと、ねらったように、絶対避けられないくらいデカい気功波打って、いつも倒してくるよね。』
 「うん。笑」

 また誰かと、あえて相手が攻撃しやすい部分を見せて、攻撃させたときに、狙いすましたように勝ちにいく手法を使ってまで、楽しんでいられるならイイのに。

 最初はきっとそれでイイんだけど、、なんていうか、最初っから信用できないから、難しいんだよね。
 即物的からホンモノへと変化させる手段を知らな過ぎるから。

 っま、そういうことも、研究するのは楽しいから、いっか。
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やめさせないと!

2012-08-03 01:38:54 | Weblog
 お互いの価値観を認め合う、って言葉で言うとキレイだけど、どこか寂しくて、、それだったら、どこかに消え去ってしまうリスクを背負ってでも、ぶつかりあえた方が、その瞬間も、帰ってからも、幸せな気がする。

 でも、確実に存在している、ある一線を超えてしまえば、切なくなっていく。
 もうこの価値観なんか要らない!、そんなくだらないことはどうでもイイ!、とにかく!!、という想いが強くなればなるほど、二体系がself-consistentに解けていくのだ、と思いきや、あくまでも現状維持のままだったりする。

 価値観が違いすぎて切なくなる、ってことは、実は解けていない。解けていない問題に気がついただけだ。
 ここから、どのようにして解いていくかは、その2人の力量による。

 AグループとCグループ、量と質、理系と文系、物理と化学、バラードとロック、どこの変数で切り分けても同一の人なんていないし、いたとしても、それはそれで面白くない。違いがあるからこそ、面白いのだし。
 価値観の大きな違いに直面した時、やめさせないと!、って、想い続けられて、受け入れられていくのであれば、もしくは、やめさせないと!、って、想われ続けて、受け入れられるのであれば、やっと解けていくのかも。

 ね、価値観を認め合う、なんてことが、いかに薄っぺらいか。
 それは、ただ世慣れていくことの一時的な処方箋に過ぎないのだと思う。

 ラーメンズ 「やめさせないと」 1/3


 ラーメンズ 「やめさせないと」 2/3


 ラーメンズ 「やめさせないと」 3/3
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Fragileness-Destiny Interaction

2012-08-01 01:35:05 | Weblog
 繊細だったり、傷つきやすかったりすることは、平均的にはイイ方向へ作用することが多いと思う。
 自分を大切にしたいってことだし、その純粋さを失わないようにしながら、現実を受け入れていけたら、ベストだ。

 だけど、時に、その傷つきやすさが、行動力を阻むことになる。こういうことは日常的に起きてしまうことだし、仕方ないことかもしれないけど、かといって、何かを売りたくは無い。
 その脆い心のままじゃ、楽しむことはままならないとしたら、少し、受け入れるキャパを大きくしようとする努力が必要なのかもしれないよね。

 ただ、それが無いから、何かが起こらなかったり、何かが失われてしまったとしても、それはそれで、また、仕方のないこと。だって、原理的に、そういう繊細さを含めた気持ちで引き合って、その繊細さゆえに失うのだとしたら、それは紛れもない運命であるから。

 レ点をつけて、命を運ぶ。
 ホンモノのカケラを失った代わりに、得ている、今はまだ即物的な笑顔が新しいホンモノに変わり始める?

 あの相対的な負けは、いつかと同様、やっぱり絶対的な勝ちだったけど、結局のところ、いくらノーベル賞やフィールズ賞を受賞したとしても、相対的に勝たなければ意味が無いんだと思う。
 だからこそ、今、その中で、できることを考えなきゃ。あと。。

 繊細さを残しているからこそ、今回は、ユーグリッド幾何空間的にほぼ同一であることに、運命の存在の一端を期待したいと思っている。
 何もなければ、っと思う気持ちも共存しているけど。
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