たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

30歳を超えてから初めて海外暮らししてみるメリット

2017-11-28 00:25:02 | Weblog
 「海外に行くなら、早ければ早いほうが良い」というのはよく言われますが、これは殆どの場合、英語などの外国語習得に特化した考え方だと思います。海外に暮らすメリットは英語だけじゃないのに、早ければ早いほうが良いなんて、本当にホントですか?!

 俺は30歳を超えてからアメリカのミネソタ州にポスドク研究員で暮らし始めましたが(現時点で満8ヵ月、初海外暮らし)、『案外、この年齢で初めて海外暮らしすることのメリットってあるんじゃね?』っと思っていますので、今日はそれを紹介しようと思います。今後増えるかもしれませんが、とりあえず、現時点で、ってやつね。

 特に、アメリカやミネソタに関係なく、「30歳前後に海外に初めて暮らし始める」なら普遍的に成り立ちそうだと勝手に俺が思うことについて、書いてみようと思います。

1. 英語ができなくてもナメられない

 「20代ならまだしも、30代から初めて海外だと、いくらなんでも遅すぎて、英語で苦労するんじゃないだろうか?」と普通に思うと思います。俺も思っていました。
 いやまぁ、そりゃ英語ができないと大変なことは多いんですが、、けっこう、こっちの人って、「待ってくれます」。これは正直、年齢の影響はあると思います。ただでさえ日本人は全員、童顔です。だから、最初は若く見えて、くわえて英語もできないから邪険にされることも多々あったのですが、自分の年齢と立場(学生じゃない)がわかると、途端に相手が待ってくれるようになることが多かったです。

 英語ができなくてナメられたほうが、ムカついて、英語力は伸びるとは思います。ですが、そんなことでいちいちイライラして、コミュニケーションをとらなくなってしまうのも危ないこと(俺のような性格だとその危険性のほうが高い)。だったら、多少のイライラを回避して、確実に相手が待ってくれる環境の中で、自分が知ってる英語を確実に話していくほうが、自分のペースで英語に慣れていけるかなぁと思うのです。もちろん、一長一短かもしれませんが、俺はこれはかなり大きなメリットだと思います。

2. 「英語が本質」だと思わなくてすむ

 けっこう、若くしてこっちに来て、その後、帰国している人などに見られるんですが、「英語=本質」だと勘違いしている人が多いように思います。
 「自分とは違う国の人、色んな国籍や色んな人種の人がいる国際色豊かなところでコミュニケーションする」ことのほうが本質に近いわけで、英語はそのツールでしかありません。さらに、コミュニケーションしてみて、「自分が何を得られるか?何を皆に提供できるか?」というほうが、もっと本質に近いわけです。

 大学の学部や院で留学をしてしまうと、「英語でそれなりにノリ良く喋れる」以外の武器を磨かないで実戦ばかりを繰り返していることが多かったりして、、それってぶっちゃけて言えば、意味が無いです。だって、「英語で、それなりに無難にノリ良く、それっぽく、議論できる人」なんて、この世にめっちゃ沢山いるわけですから。それよりも、「英語だけができない面白いヤツ」になっておくほうがマシだと思います。
 その点、ある程度年齢を重ねてから海外に行くと、これまでに日本で培った「何か」があるはずだから、それを武器にできる(俺の場合は、物理やそれで得られた思考力や、あと音楽の素養もコミュニケーションする上で役に立ってます)。そのほうが議論そのものも深まりますし、相手が自分に対して議論を求めてきてくれます。英語以外の武器がある状態じゃないと、英語を使って、国際色豊かなところで喋る意味は、あまりないですから、どちらかといえば、まず先に、英語以外の何か得意(特異、でもOK)なことや好きなことを武器として日本で蓄えておいて、それを海外で相手から引き出してもらうようにしたほうが、自分からいちいち話しかけなくて良いので、ラクですし、有意義ですよ。

3. 人生のリセットが可能だという事実を味わえる

 アメリカの大学に入った日本人の学部生達がよく言うのは、「日本の普通の大学を経験してみたかった」。
 これ、ほんとに、めちゃくちゃよく聴きます。

 おそらく「本当に日本の大学に入り直してみたいなぁ」と思ってるわけではなく、「同年代とだらだら過ごす、日本の大学生活、通称人生の夏休み、ってヤツを味わってみたかったなぁ」くらいの意味だと思います。日本の大学って、「同年代」って条件がかなり厳しくて、「誰でも入って良い」というわりには、18-22歳が暗黙になってたりします。
 つまり、日本の大学は、この時期に入っておかないと、後々、比較ができないわけです。ぷらす同様に、日本でそれなりの社会経験をしないと、海外で形成されている社会とも比較もできません。だから、年齢主義な日本と比較したいなら、10代-20代は日本で普通に生活してみたほうが良いような気がします。どーしても、先に海外に来ちゃうと、日本を想像で語るしかなくなってしまいますから。

 日本って根本的にダメだなぁと実感してから海外に来ると、あのシガラミや、あの人間関係を、すべて全部、無に帰すことができるのか、というのは、それなりの衝撃です。もちろん殆ど誰も人生を完全にはリセットしないとは思いますが、原理的に自分にはリセットしうれる、というスイッチを手にすることができるのは、人生を楽しく冒険しながら生きていく上で、そんなに悪いことじゃないように思います。そのためにも、「日本で普通に」というのも体験しておいたら?と思うわけです。

4. プライバシーを保持できる

 学生じゃなく30歳から海外に来るってことは、それなりの収入がありながら、ってことだと思いますが、、、どうなんだろう??
 これは、特にアメリカの場合になってしまいますが、高校生はホストファミリーが必須だし、大学生もたいていルームシェアしていたりします(まぁ欧州・アジア辺りなら同じようなもんだと思いますが)。で、引きこもり体質の俺としては、これのせいで「海外に行くのは絶対ありえない」と長年思っていたわけですが、30過ぎてると、一人暮らしでも全然問題ない何か困っても、カネの力で解決できる。あと、これは(今度は)男限定になっちゃいますが、おばちゃんと仲良くなっておくことで、日本人は顔が若いので「しょうがないわねぇ」になるし、「若い」と「大人」のイイトコ取りができます。
 この雑多な、何もかもが新しい環境の中で、一人の時間が確保できるのは、正直デカいです。そりゃ、24時間、外国人と暮らしてれば英語は上手くなるかもしれないけど、そのストレスに耐えられない体質の人もそれなりにはいると思います。ある程度年齢を重ねてから海外に来れば、この点を解消できます。

5. 日本のくだらない行事に欠席する大義名分が自然と得られている

 日本にはくだらない、でもめちゃくちゃお金がかかる、イベントが、何故か強制的に組まれていたりします。
 そうです。たいして親しくもないヤツの結婚式とかです。

 海外にいれば、「うわー、招待状来ちゃったよぉ」っということが、ありません。いっさいありません。「こいつ、そこまで仲良く無いし、、だいたい、この結婚、本当に好き同士っていうよりは、明らかに妥協だろ?行く必要あるか?!」などと悩む必要もありません。FacebookやらLINEやらで連絡が来ても、「ごめん、今年は、海外にいるんだよねー」と言えば、それ以上追及されることはありません。
 ちなみに、こっちに来るときに、互いに全然関係ない2人の友人から「結婚式から逃げやがったな」と言われました笑。これは、非常に大きなメリットだと個人的には思っています。だって、お金以上に、時間も無駄だし、苦痛だったりするんだもん。

 (ごめん他の国の事情は知らんけど)アメリカにも結婚式はありますが、3万円もご祝儀を包むのが普通!、それ以外に結婚祝いも!、みたいな、くだらない「普通」が存在していません。最新の平均初婚年齢は、男性が32歳、女性が29歳です。どうですか?30歳あたりに、1年でも海外にいれば、だいぶ貯金もうくと思いませんか?笑


 ・・・というわけで、5つ挙げてみましたが、いかがだったでしょうか?
 5番目は俺だけとしても笑、結構メリットがあるかなぁと思います。

 でも、英語がネイティブレベルでペラペラに話せるように絶対になりたい!、というのなら、さっさと英語圏に来るほうが良いと思います。・・・っま、そんなの、あんまり意味ないと思うけどさ。
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時間は解決してくれない?

2017-11-19 05:22:17 | Weblog
 たいして努力しなくても長く時間をかけることにより成果をあげる、というやり方がある。毎日毎日めちゃくちゃ頑張れば、そりゃ早く成果をあげられるかもしれないけど、それはある程度の成果で満足してやめてしまう可能性が高い。それよりも、毎日ちょっとずつ進めることで習慣化してしまうことで、ラクに成果をあげようというやり方だ。
 まぁ、ぶっちゃけ、このブログはそういう性質がある。たいして更新するわけでもないし、カテゴリー別になっていないから読みにくいが、さすがに12年もやっていれば、それなりに読まれる文章を書くことが可能になり、すでに何もしなくてもアクセス数を稼いでくれる文章がいくつかある。

 この「時間に委ねてしまう」というやり方は、ある意味、尤も確実な解決法の1つだ。悩みの多くは、「時間が解決してくれる」し、待っていれば解答は向こうからやってきてくれることも多い。
 たとえば、小学校の頃、友達が少なくて悩んでいた時期があるけど、今も友達は少ないがどうでもよくなってしまった。中学の頃、校則が厳しかったのが厭だったが、今ではすっかりどうでもよくなってしまった。高校の頃、中学時代にやっとできた友達の一人と長く喧嘩してしまったことに悩んでいたけど、今では極たまに連絡するだけで十分になってしまった。学部生の頃、何が「普通」なのかわからなくて極端に怖がっていたけど、どこかの時点で普通じゃなくても良いやと思ってから、ちょっとは「普通」がわかるようになり、把握していなくても気にしなくなってしまった。そして・・・。

 時間が解決するのはわかっていても、その時期に悩んでいたことそのものには価値があるし、、本当の意味で解決したかどうかはどれも怪しい。
 そして、時間が解決してしまうからこそ、この瞬間に解決しなくちゃいけないのだ、と思っていた。

 原理的にどうしても解決できない悩みほど、「時間が解決する」に帰着してしまう。実は、自分の力不足を、そう思いたいという気持ちに変化させてしまっているのかもしれない。

 現在完了形の悩みが時間によって解決されていく今、結局何もできなかった自分を小さく責めてみる。
 解決しつつあるのに、より心配になる直観は、、どうして?

 それは、わかりやすかった解決へのストーリーがわかりにくい現状へと変わることを余儀なくされていくからで、残念ながら何も解決していないのかもしれない。そうやって露にしちゃうことで、「そんなことない」と強がってくれる表情を狙って気持ちにフィードバックさせることくらいしか、できることがない。

 やっぱり、時間てーどじゃ、何も解決してくれねーのかもな。
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安易にShus(h)okuさせないで

2017-11-08 00:23:00 | Weblog
 面接など自分よりも立場が上の人に自分の動機や目的を語るときに、ストーリーをつけて語ることを求められてしまっているせいで、それ以外のシーンでも、語り口が何かの「わかりやすいストーリー」にいちいち収束させながら語ってしまいがちになってしまっている人が見受けられる。
 本人は無意識であることが多く、どんなに(面接などにむけて)演技だけをしているつもりでも、本当になってきちゃうから怖いなぁと思ってしまうんだけど。。

 自然科学の研究発表・論文では「こんな背景がありましてー、こんな問題点があるわけですけど、これを使ってこうしてみたら、こうなったので、まぁまだこーゆー課題はありますけど、俺のおかげでちったーマシになったんじゃないでしょうか?」って感じのストーリーで固定化されてるし、そもそも文章を書くという行為は「みんなはこう思ってるよね。でも、本当はこうだよね」ってストーリーにしがちだし、「私のどこが好き?」に対しても具体的なエピソードを交えながら内面と外見の両面を肯定化しながらストーリーを創るのが教科書通りの正解なのだそうだ。

 果たして、あらゆる行為や選択はストーリーに準拠すべきなのだろうか。それも「わかりやすい」という形容までつけて。
 もっと俺たちは自由で、もっとファジーで、もっとテキトーで、もっともっと本質的なのではないだろうか。

 そして、みんな、この「わかりやすいストーリー」にだけ着目し続けることを、努力だとかやる気だとかと名付ける。ほかのストーリーや曖昧さや「遊び」や「ゆとり」には目もくれず、ただひたすらに「わかりやすいストーリー」通りに言動できる人のことを「やる気がある人」と名付けたがり、努力していると評価したがる。
 アカデミックにいる年寄り世代の多くは、「ただひたすらに同じことを繰り返していたらセレンディピティ的な出来事が起きて、いつの間にかトップに立っていた」というハードワークが報われる系のストーリーを好むし、今の若い世代の多くはやたらに「上手い攻略法を自分だけ発見してしまって、システムや権威に最適化したら、成功しました」という最強の攻略本さえあればOKみたいなストーリーを好むし、文系の人事は「自分だけで頑張っていたら上手く行かなかったけど、コミュニケーション能力を使って仲間と一緒にやっていたら、上手く行くようになって自己実現できました」みたいな(さすが何もできない文系だけあって)他人任せなストーリーを好む。それを「やる気」や「努力」に還元したがる。

 俺が疑問視しているのは、そこに個人的な体験が入っていないのにも拘らず、相手に要求している点が、非常に気になる。

 たとえば、サッカー選手が、「まず、なるべく大きな夢を持ちましょう。なんでもいいです。そして、それに向かって、毎日毎日、努力してください。すると、必ず壁がやってきます。それでも諦めずに努力していれば、必ず夢は叶います」と子供達に言うのとは、話が全然違う。サッカーなどの成果がわかりやすい競技では、そういうストーリーで成り立つのだろうし、何よりも個人の体験から出ている言葉だから、重みが違うのだ。

 しかし、現在、ちまたに溢れている成功ストーリーやそれに即した「やる気」というのは、どこか空虚に感じてしまう。おそらく、多くの人が、自分がそういうストーリーに収束できていないにも拘らず、集団の圧力として他者に要求するからではないだろうか?

 そして、もっと問題なのは、そのストーリー通りに行動している自分について「自分のために努力をしているのだ」という、さらに上位のストーリーに置き換えたがる。

 ねぇ、誰かのために努力しちゃいけないの?それはやる気とは違うの?
 たとえば、誰かのためが60%、パズル的な楽しさが30%、あとの10%は自分でもよくわからないや、という選択や行動や活動の理由付けを、、きっと、その「誰か」は嫌う。「はっきりして!」ってね。それじゃあっと思って、60%を100%にストーリー化した瞬間に、「私にゆだねないで!」ってね。

 『今はまだ収束してしまいたくない』という本音を、どれだけ抱えていられるかわからないけれど、、だって、やっぱり、今は決定したくない。
 収束したくない者同士を、ある着地点でねじりながら収束していくのは、、、ホンモノ?それとも、ただの共依存??
 だって、、それが100人以上集まってしまえば、ただの集団圧力になりそうじゃない???

 暇つぶしの時間が長い期間の中で、ここから何かを見出すのだろうか?みんなが暇な時期にずっと無意味に「頑張ってしまった」ぶん、いま人生の夏休みを体感しているような日々に、曖昧な行方を楽しもうとする余裕を有難がっている自分に、ちょっとだけ安心しながら笑ってみる。
 ・・・そういえば、就職と収束って、なんか響きが似てるよね。
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貴女の優しさ

2017-11-05 02:52:33 | Weblog
 自分で選んだものじゃないからこそ、俺はラクに楽しむことができる。なのに、どこか虚しくなってくるのはどうして?
 思わず、「だって我慢できないもんね」と、貴女のあざ笑うかのような声が聴こえてくる。そんなことない!別にいざとなったら普通にも生きていけるし!!っと言い返してみても、「だったら、なんで、今もそんなに苦しそうなわけ?」とイジワルな声で返してくる。

 思い入れが特に強くないのであれば、ある程度の倫理観を提供し続けなくちゃいけない。そうじゃないと、自分だけ何かのズルをしている気がするから。
 でも、ある時点からいつの間にか打算的に動いちゃってる自分がいたりして、結局のところ、拘ることが無い分だけ、俺は何かの平均値を出すことは容易で、、でも、実力の半分も使わないで済んでいる現状に優越感を楽しんでいる自分も存在している。そんな短絡的な自分に自己嫌悪しながら、これじゃダメだったのにって反省する真面目な自分が追いかけてくる。

 そのすべてを見抜いたように、あえてそれっぽく元気を与えてくれるのは、、やっぱり、俺をどこかで揶揄っているわけ?
 それとも、どーせこういうのが好きなんでしょ?って決めつけていたりするのかな?

 「違うよ。どう声をかけたら正解なのか、普通にわからないの。だって、もう、貴方には違う世界があるわけでしょ?」

 ほら、そうやって、期待させ終わった瞬間に突然に突き放してくるから、本能的に素直になれなくなっていく。最終的に顕にしていなければ、いつだって違う解釈に逃げ込めるんだから。
 なんでもかんでも本当のことを言えば良いってもんじゃないし、なんでもかんでも事実を突きつけて、不安な解釈を捨てさせれば良いってもんじゃない。ファジーなままの、白黒つけないグレーゾーンが心地良いことだってあるのに。

 「でも、他人には、白黒はっきりつけさせたがるでしょ?」

 優しささえ含むその声色に、その場を逃げ出して泣きたくなる自分に気がつくと、一連の不安を別の問題に昇華させてあげたい気持ちに事実という名のスパイスを加えてみたくなる。
 実際、どこまで読んでいるのか知らないけど。
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