たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「タイミングが悪い!」

2010-11-30 01:33:48 | Weblog
 『うーん、もうちょっと、このぼかし路線で走りたいなー、って。』
 「いやいや、ありえないありえない。K君、いい加減、身の振り方を考えないとっ!」

 そろそろ、また、身の振り方を考える時期なのかなーっと思います。教科書的には。
 今回のGAMEも、自分の良いなーって思う方向で素直に動こうかなぁ、なんて、この不況の時代に思っちゃったりして。今楽しくて、未来も楽しめそうで、やっと、楽しい、って定義できる。この定義に従った意味での、楽しいほうに、倒れこんで行こうと思う。

 重要なことを決定するときは、いつも、自分の直観と気持ちで判断してきた。今度も、ただ、それだけを審査基準に選ぶつもりだ。スタイルは確立されているんだし。
 こうすると、時間依存性も、自分の中では、いっさい無くて、正解を選び続けることができる。
 ここまでの道のりは、全部、正解だった。いつだって、この道で通ってきて良かった、って心から思えている。あんなに不平を言ってた(る)じゃないか、と思われそうだけど、それは見込みがあるからで、見込みが無いなって思ったら、俺は、むしろ黙る。

 っというわけで、まだまだ、曖昧に、決定を先延ばしにしていたい。

 決定しようと思った時に、もし、もうすでに、賞味期限が切れてたら、それは、『タイミングが悪かったなぁ。でも、失った理由が、タイミング、ってことは、あんまり重要じゃなかったんだなー。』って判断できる。
 タイミングは、自分と相手と、合わせて、タイミング。だから、「タイミングが悪い!」ってどやされると、『こっちも、タイミングが悪いんだっつーの。』って思う。

 少なくともキレイゴト上では、相手と自分、お互いに、対等な土俵に立っていたいよね。
 相手が、個人だろうが団体だろうが。
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『頑張り過ぎ』って言わないでっ!

2010-11-29 02:00:37 | Weblog
 言葉がどれだけ人を狭く縛りつけ、楽しくなくしてしまうか、その脅威に押しつぶされそうなときもある。

 とにかく機械的に動いていれば、すごい言葉が得られるだろうと思って、一日一週間一ヶ月を、形式的に動こうとしている人は、沢山いる。休むことすら機械的になって、とにかく頑張ろう、って。
 そういう気持ちはとても素敵なことだけど、どこか暗くなっちゃうなら悲しい。言葉が得られたとしても、そういうことをすること自体、本来は、つまらないことだ、って思うくらいなら、何も掴めなかったとしても、色んな事に手を出して、楽しんでる分、得な気がして。

 どんなことでも、突き詰めてやっていれば、外部からの当たり前を忘れていってしまう。それが、専門家になる、ということなのだけど、専門バカまで行っちゃうと、意味無いよね。その研究を全く知らない人には自分の研究を説明できない、なんて、きっと、まだまだ全然軽傷で、もっともっと重症患者が、色んな世界に何人も溢れているのを目の当たりにしてきた。
 外側の人の意見に対して、きちんと聞く耳を持つことは大切だと思う。自分とは違う道を選んでいる誰かや、自分と同じ道だけど気持ちが外に向いている誰かに、話を聞いてもらったり、逆に話を聞いてあげたりすることは、突き詰めて、とにかく頑張る、ことよりも、大事かもしれない。

 頑張ることをやめてしまう、何もかもイヤになってしまう、っていう、最低ラインを切らせないためにも。
 だから、楽しめ!と言ってる割に、俺は、誰よりも、残酷な物理現象をナメてないと自負している。

 『今まで生きてきた中で、一番楽しいのは、いつだって今。』『あの頃は良かったなー、なんて、一度も思った事ない!』って、いつまでも心から言い続けることができるような頑張りをする教科書はきちんと存在していて、それは、どんなに真実を知るのが怖くても、すべての人に対して、聞く耳を持つことだと思う。
 色んな人と喋って、本当の意味で、自分を見失わないことも、1つの頑張り方なのだ。

 ただ、理解は出来るけど、納得出来ない。
 やっぱり、夏休みに毎日10時間以上勉強して、無理してぶっ倒れちまうような不器用なヤツが、実質的にも、精神的にも、受かって欲しい、と思う。

 だから、純粋な想いで貫いて頑張っているだけなのに、『頑張り過ぎ』なんて言わないでっ。
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輝いていた言葉を得てから

2010-11-28 03:34:42 | Weblog
 歩いてきた道程が人と違えば違うほど、そこに生じた本当の痛みは理解されにくい。

 誰も知らない環境の高校へ進学したときでも、浪人して大学生になったときでも、転学部したときでも、その変換点や、その言葉を得るために費やした頑張りのために、ツラくなることはなかった。周りが就活してる最中、自分は大学院に行こうって思ってるときも、周囲がほとんど選ばないような学問で大学院の研究室を選ぼうとしてるときでも、そういうときは、言葉が輝かしすぎて、頑張ることが辛くないのだ。
 だから、周囲と違う言葉を得ようとして頑張ったことが、何か自分の足しになっているわけもなく、そういうモノはキレイだけど、役に立たない。
 例えば、俺が『学部生時代、転学するために主体性を持って動き、色々な人に相談しながら、聞く耳を持つ大切さを学び、多角的に物事を考える力がつきました。』なんて言うと、すごく薄っぺらい。そんなん言うヤツは、経験から何も学べてないと思う。

 どんな事象の、どんな言葉でも、言葉を得てから、そこからやっと、本当のツラさがにじみ出てくる。

 まず、これまで輝かしかった言葉を、大勢の人間が掴んでいることを知って、大したことないと実感する。
 ずっと前は大学に通ってるってだけで、良いな~っ、て思ってた頃もあった。ちょっと前まで、早く分子生物学に関わる実験が毎日したいなーって、思ってた。大学生だとか分子生物学だとか、そういう言葉の1つ1つをかなり多くの人間が持っていることを実感として知らないから、輝いていたのであって、言葉を得て生活が始まるとすぐに、言葉が輝きを失う。
 終いには、こんな言葉を得るために今まで頑張ってきてたのかよ、バカじゃん、俺、当たり前の言葉を得ただけじゃん、って思うようになる。そういうことは、実際、今まで、何回もあった。

 次に、新しい場所の人達と自分の、「当たり前」におけるギャップで悩むことになる。
 ほんのちょっとしたことでギャップを感じることになる。誰かに「ほらー、1年生の頃に、力学概論で習ったじゃーん」と言われただけで、前の場所では力学概論じゃなくて力学Ⅰって名前だったなー、とか、1年生の頃は知らないんだよなー、とかね。細かくて小さいけど、一個の感情として、そんなもんだと思う。別に、このケースでは、扱ってる学問の内容は同じわけだし、名前と先生と場所が違うだけって頭ではわかってても、それでも不安になる気持ちが発生してしまう(俺だけ?笑)。

 この2つから学びとれるのは、新しい場所に移ったときには、その場所に早く適応し、そこでの持ち味を出す、即戦力が要求される、ってことだ。
 1秒でも早く、新しい環境に適合しようとする努力は大切だし、そうすることでまた、そこの場所でも仲間が出来る。単純に友達の頭数を増やすには、いつまでも前の場所を引きずらないようにすることが大切だ。

 ただし、それは、「実質的には」ってことに注意しておきたい。何も感情まですぐにその場所に変化する必要はないと俺は思っている。
 その場所での最低限のルールを守りながら、振る舞いはその場所に合わせ、心は今まで通りの自分もとっておくことが大切だと思う。じゃなきゃ、道を辿った意味がないのだ。

 新しい場所で、いろいろな現象を見ながら、色んな事件を目の前にしながら、その場所での「当たり前」に異議申し立てをするときは、感情にレンツの法則(変化を妨げる方向に作用する法則)が働いている。あからさまにオカシイことが起こっている中で、そんな変化を妨げる方向に誘導電流が流れ、気持ちにビビっと来る。
 そんな心の物理現象によって、今までの自分の場所と自分自身の常識をおおいに使って、正しいことを正しいと、言及しなければならないとき、そこでもやっぱり、変わらなければ良かった、ってちょっと思う。

 ただ、そこでのツラさは、自分自身の存在の意味と大きさが計測されるチャンスでもあり、あの時の自分にとっての大きな言葉、今得ている当たり前の言葉が、得られてしまった責任なのだ。
 言葉を得たら責任が伴う。輝かしい言葉は、そんな当たり前のことすら、忘れさせてくれるもんだ。

 読者の皆さんは、本当のところ、心から、そうは思えないかもしれませんが、それでも、言葉を得たり、場所を変えたりするメリットのほうが、カワラナイことよりも、ずっとずっと強いのです。
 多角的になれるし、より良い経験とチャンスに巡り合え、他人の気持ちを敏感に感じやすくなるし、もっと強くなれるし、稀少価値のある人だと思われることもある。作法さえ間違えなければ、ちょっと前までの自分の心をきちんととっておけば、ピペットマン握ってるだけで、楽しくて幸せを感じることができる。

 そして、何よりも、誰がホンモノっぽいか、時間依存性が無いっぽいのか、感覚が冴えていく気がします。
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求ヘルプ付加反応

2010-11-27 06:57:24 | Weblog
 助けたい、守りたい、という気持ちで想いの容量が占有されていく。系が、どんどん1成分に近づいていって、心がそれだけになってしまう。
 どんな行動でも、行動をし続けていくと、その行動が心にフィードバックして、よりいっそう、想いが強くなる。これはもともとの心がゼロでも起こり得ることだから、もともとの想いが大きくて多様性が無くなっていたなら、かなりの効果になるはずだ。

 心に多様性が無くなって1つの感情だけの占有状態になると、頭での解析力が上がり、判断がすべて思考になる。
 すべてが平均場近似され、凄まじい思考力が発揮できる。時間変化まで予測できるようになり、1週間1ヶ月のレベルではなく、もっと長いスパンでの求ヘルプ試薬を察知できる。

 長い時間の中で、大抵のことは、やってみなきゃわからない。でも、教科書レベルの事柄の中にも、絶対的な予知を要求されることはあるし、このままでは確実にこぼれてしまう涙に気がついたら、何が何でも止めたいと思うのは、心に多様性が無い割には、人間らしい気がする。

 変わる気が無いのを変えることはできない。聞く耳すら持ってないのに、何かを変えることは不可能だ。
 でも、一歩下がって、多体系で考えてみたときに、多くのことについて、不可能は可能になる。ここまでやれちゃうところが、感情が1成分に近づくことの怖さかもしれない。
 普段はあまりに複雑で、混沌としている求ヘルプ付加反応が、紙に書けるくらい単純化されてる瞬間が、未来も楽しそうだから、とっても楽しくて。

 さっ、もう一度。。まったく新しい調製法で始めよう!
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TOEICのための対策

2010-11-26 02:04:43 | Weblog
 TOEICが明後日に迫ってしまった。結局、直前しかやらなかったな。。
 なんつーか、追い込まれないとやる気にならねーのはダメだな、っと思う。いっそ、900点超えないと懲役1年、とかになったら、頑張れるのに(笑)。まぁ、あと、ガチの英語の実力が問われるような試験だったら、もうちょっと前からやる気になるのかもしれませんが、TOEICはどこまでいってもそうじゃない気がしちゃって。

 TOEICのための勉強、ってのは、あんまり好きにはなれないけど、対策することそのものを利用して一儲けしてる方々(主に、中村澄子さんですけど(笑))は、ちょっと尊敬します。それは、本人たちは楽しんでるんだろうから、いいなーって。
 エセ科学で儲けてるのは許せないけど、エセ科学を批判することで儲けるのは素晴らしい。同じように、エセ英語試験はムカつくけど、エセ英語試験の対策をして儲けてるのは尊敬できる。

 あー、なんか、着眼点が特殊過ぎるんだよ!、って意見が聞こえてきそうです。いつもなら、むしろそれが本質なんだよ!って思いますが、今回ばかりは正しいです。

 能書きはイイから、さっさと勉強しろよ、俺。『はーい。。』
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それでもGrasp ALL!

2010-11-25 03:34:29 | Weblog
 『人間なら出来る!』という言い方を俺はよくする。
 俺らなら全員ちょこっと頑張ればできてしまう、ってことを短く言ってるだけなんだけど、こういうのは、本当は稀少なことだって、ちゃんと解ってるつもりだ。

 『っま、別に、TAなんて、人間なら出来るし。』
 《いやいや、そうでもないよ?マジで、世の中の中高生は、マジでぇっ、学力低下してるからね。わかってないと思うよ?》
 『マジでー??例えば?』
 《例えば、一番ビックリしたのは、sinθあるじゃん?あれが、s*i*n*θだと思ってる子とかいるよ?》
 『それ、凄すぎるわ(笑)。でも、そういうのが世の中の大多数なんだろうなー。。』

 それくらい自然科学に興味が無い人に対して、自分の研究分野をどう説明するかを考えることは、大切なことだと思う。

 大切な思考はただ一点。いかに大好きなモノを崩して説明できるか?

 最近、俺の周りに多すぎるので一応注意しておきますが、時間をかけて長い言葉で喋れば必ず伝わる、ってのはナシです。そういう人は、本当の意味でのアウトラインを理解できていないし、全然、大好きなモノを崩せてません。相手は、いつまでも聞いてくれるような、くだらない主従関係にあるわけではないですし(主従関係があってもアホはアホだけど)、読みたくなくなったらウィンドウを閉じれるブログとは違います。
 そうじゃなくって、ゴールデンタイムのテレビ番組を一番に尊敬して、『人間なら出来る、全員好きなはずだ!』と勘違いしちゃうくらい大好きな、物理学や分子生物学やアカペラやバンドのことを、いかに崩して、誰かに伝えられるか?って思考練習は、いちいちイラっとするけど、大切だ、ってこと。
 手を動かせば誰にでも出来ることなんて、オリジナリティが無いと思わない?でも、誰にでも伝えることを考えてみた時に、割と、自分にしか表現できなくて、オリジナリティが生まれてくるんだと思う。

 基本的には、表現手法なんて何も要りません。特に研究者なんかは、喋るのが苦手なくらいがちょうどイイのかもしれません。
 でも、今の時代として、これだけ色んなモノが沢山溢れかえってるから、そうも言ってられないんだと思います。そうじゃないと、「みんなで」楽しむことができなくなりつつあるのです。

 【Kはどうして研究したいと思うの?】
 『好きだからじゃん?』
 【だから、研究の何が好きなの??研究して、なんなの?】
 『それは、最終的なことまで追求して訊こうとしてる?』【うん。】
 『んなら、はっきりしてる。人よりもちょっとイイ生活がしたいから。家にプールがあれ、とまでは言わないけど、素直な気持ちはそっちだよ。あとは、楽しみたいから。』
 【あー。】
 『そりゃ、音楽でも、遊びでも、そういうモノでも、きちんと認められて、お金になるなら、その方が良い。だけど、現実はそうじゃなくって、俺が好きなことの中で、楽しいことの中で、お金になりそうなのは自然科学だけだから、だからじゃん?』

 っと、誰でも解るであろう、削られた、3歩手前くらいの本音を言うほうが、

 『研究してー、学生の時に、何か努力したって経験が欲しいんです。』とか『追求し続けることが社会貢献になりそうだからです』みたいな、薄っぺらい正解っぽい言葉を心に飲み込まずに言うより、正しい気がするし、しかも、楽しい気がして。
 だって、フォーマルなことは誰でも本当はどうでもイイはずだし、だって、、

 『だって、どうだってイイじゃないですか、自然科学が、自然現象が、本当はどうなってるか?なんてこと、どーでも。それよりも、それをやっていくなかで、相手がどう思ったか、どう思ってくれているか、楽しいか、みんな最後まで楽しめそうか、とかのほうが、ずっとずっと大切だと思いません?』
 「うん。でも、、困らない?医療関係とかだったら?」
 『あー、それは、別っ!そこは別です。』
 「えーー、それだけ別、ってー、ズルいよー。笑」

 医療までの極限を取ってしまったら、そりゃ別だろう。
 でもでも、もし、医療や人の安全に関わる分野であったとしても、研究やってる人が冷酷で、傍にいる仲間を大切にして楽しんでやれてなかったら、医療だからこそ薄っぺらいし、少なくとも俺は信用できないな、って思うんだけど。
 だって、身近にいる(一緒に研究してる)人を大切にしてないのに、助けてないのに、目に見えないくらい遠くにいる誰かを助けようなんて、くだらないと思いません?

 楽しいということは、ある種、即物的だ。だけど、即物的から本質的に、楽しいは、変化しうる。
 即物的なことだったはずのことが、いっきに本質的に相転移した、あの瞬間があったからこそ、こういう発想が出てきている。実体験に基づいた意見であって、実質的な利益と相反できないくらい、本質(≒楽しいこと)以外はどうでもいい!、って思う経験も、必要っちゃ必要なのかもしれないな。
 銅で当てはまるなら鉄(=研究や開発の系)でも当てはまるはずだ!っていう、この銅鉄研究は正しいかな?

 なーに、どんなことをとことん深くやってたとしても、それを誰にでもわかりやすく短く説明して、なるべく沢山のみんなで楽しむことなんて、人間なら出来るさ。きっと。
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ヴァンパイア

2010-11-24 04:01:16 | Weblog
 とにかく自分に自信を持つ、ってのは割と大切かもしれない。
 何十人とか数百人とかの中で発言したり、個人に何か重要なことを言及したり、何か特異な行動をしたり、、自分に自信が無かったら、何もできない。
 だから、証が何も無くても、自分の手法以外、心や能力に対して、とにかく自信を持ってみることは、必要だ。

 ずーっとフォーマルさを求めて、それに対して時間で貢がされていると、習慣は何よりも貢がせ上手なので、潰されてしまう。自分に自信が無いから、集団に対してでも個人に対してでも求める最低ラインが異常に低くて、求められればOK!自分は情けなくてイイ!何をされても文句なし!!しまいには、全てを吸い取られて、何も残らない。。
 レールに乗っかり続けることに慣れ過ぎると、目の前の爆弾でコナゴナになりそうなことがわかってても、終には降りられなくなっちまうぜ?むしろ、一度、レールから落ちてしまった方が、その瞬間痛いだけで、あとはラクかもよ?

 ママゴト遊びの虚しい部屋で、レールの上に敷かれた道だけで思考した、散らかるホンモノちっくは、だいたいいつもニセモノ。こういうときの役に立たないインスピレーションは、もっと巨視的なモチベーションで打破しなきゃっ。
 でも、信じられなくなるのも怖いから、教科書に書いてある言葉の上澄みだけすくい取って、心に飲み込めないのに、そこに大きい理想を掲げてみたりする。まだ、その嘘やその場所での悪習を擁護しちゃって、信じることがホンモノ!、って強く具現化しちゃって。

 飾らないでっ、んで、そこからもう一歩の誠意が欲しい。ホンモノでも、飾ってると、見抜きにくいから!

 んなら、こっちが出来る事としては、やっぱ自分に自信を持って、心覗け、未来を見ろ、ほらっ、何が見えた??
 ニセモノだらけなら、走って逃げろ!

 (Janne Da Arcで、ただのアルバム曲な割に人気があるのが、この「ヴァンパイア」。
 色々ツッコミどころが多い曲なんですが、一番気をつけるべきは時間変化だと思います。1ばんから2ばんへ、時間が大きく進んでいます。それがよくわかる箇所は、サビで、「誰も見えなくて壊れてしまいそう」→「全て凍りついてコナゴナになりそう」の部分かなー。っていうか、ある意味、こんなにも即物的に完璧な女の子に、一度は会ってみたいもんですよね。ここまでの極限値は中々いないと思うんですが、違うんでしょうか。。
 して、この曲に限らないんですけど、俺にとって、youのギターソロは高速過ぎて、再現してみようとすら思わなかったです(笑)。)
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攻めさせる無難

2010-11-23 01:46:04 | Weblog
 無難とは、当たり障りなく危なくないこと、と定義されている。
 こういう行動ってのは、教科書をきちんと読んだ上で何か手にできるといった類いではなく、自分自身で実践しながら教科書を執筆していく中で学んだことを、そのまま行動する、ってことだ。もちろん、聞く耳を持って行動することはとても大事なことだけど、実践していない教科書を用いた思考は、むしろ足枷になる。
 リスクを極限まで減らして、教科書通りの行動するのは、かなり疲れるはずだ。

 基本的に、無難は2種類だ。「受ける無難」と「攻める無難」。

 「受ける無難」というのは、自分からは決して行動を起こさず、誰かが形成する空気の中で、確実に70点以上の解答を提出し続けることを言う。
 色々な種類の空気がある中で、こういう行動をいつもとっていくことは、とても難しいし、教科書作成には長い年月がかかると思う。その教科書を使いこなすともなれば、かなりの経験と、その経験から学びとれることを、教科書から派生する、まとめノートに書き留めないといけない。

 一方、「攻める無難」は、いつも自分から行動を起こして、自分で空気を形成し、その空気を円滑に廻し、確実に90点以上の解答を提出し続けることを言う。
 なぜ、「受ける無難」よりも配点が高くなっているかというと、それは「受ける無難」の30点分は、いつも「攻める無難」が拾っていかなければならないので、この部分は「攻める無難」のほうが難しい。
 しかし、いつも自分の空気にできるので、一種類、空気をマスターすればイイ点で、教科書作成にあまり年月を要しない。しかも、まとめノートもほとんど要らず、いつも自分の思い通りにできる単純さがある。

 もちろん、どちらの無難さも社会で生き抜く中では必要で、その集団の中で、ライセンスを持った、一番の熟練者が、それぞれの役をかってでることになる。
 ちなみに俺はあんまりどちらも得意ではないけど、どちらかというと、「攻める無難」のが好きだし、得意だと思う(この部分の異論は認めません(笑))。どんなことでも、あんまり努力はしたくなくって、手っ取り早い能力で、自分の思い通りにできる感が好き。
 努力ってのは、ある能力を得るために仕方なくすることで、努力そのものがしたいから努力する、っていうのは、ニセモノ臭が、ぱねーし(注;俺よりも遥かに言葉と能力を持った方のお言葉です)。

 集団の中で数人必要な「攻める無難」の役回りの人は、基本は、誰にでも対等に接する努力をしなきゃいけないし、話も同じ頻度で振れるようにならないといけない。
 その中で、好き、嫌い、どうでもイイ、の順で、少しずつ差別化を図ったりすることも必要だ。本当に解析力が素晴らしく高い人がやっと見抜ける程度に。
 当たり前だけど、「攻める無難」の方が「受ける無難」よりも圧倒的に数は少なくなる。だから、1対10くらいの戦いに慣れないといけないし、1人に見えてる相手も、本当は5人くらいいることも多いから、かなり解析力が高まらないといけない。

 この、どの人により攻めるか、という見地に立った時に、「受ける無難」から「攻めさせる無難」にtransferする奴がいる。
 こういう連中の思考に騙されない「攻める無難」を持っていたいし、本当の意味での、好き、嫌い、どうでもイイ、を見抜き続けないと、無難以外の特異な行動の大切さが浮き彫りにならない。

 何よりも無難であることが大切、ではないから。無難な中の、特異な行動や笑っちゃうくらい純粋な行動に、ホンモノが隠れている。

 しかし、「攻めさせる無難」のライセンスを持った方々に、ある意味では感謝している。
 なぜなら、「攻める無難」の教科書の共著者に入るのは、間違いなく「攻めさせる無難」の方々だから。
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世間体に負けないで

2010-11-21 02:08:19 | Weblog
 『ホッチキス、こわい。』
 <うーん、どうしましょう。。>《大丈夫、そういう時はね、テープで止めれば!》
 <良いモノ持ってますね!これなら怖くないでしょう?>
 『うん。』

 幼稚園の運動会、つけなきゃならないリポンを、みんなはホッチキスで止めて、俺だけテープで止めてもらった。
 こういうことは、何回もあったと思う。今、ぱっと出てくるのはこれくらいしか覚えてないけど、俺だけ何か違う形で認めてもらうことは、3月生まれだからか、小さい頃は特に多かった。
 そういえば、お弁当が包めなくて、同い年の女の子にやってもらってたときに「ここからは、けいくんにはむずかしいかな」って言われても、『そうなのかー』っと素直に思ってたことも、あったっけ。

 集団生活で上手くやるのに一番必要な知識は、自分はみんなと同じ、全員の中のひとりに過ぎないんだ、ということだ。自分だけ特別だとか、そういうことをチラっとでも出してくると、集団のなかで上手くいかない。それに対する何かの配慮が、周りから必要不可欠な状態で社会に出ることは恐ろしいことだと思う。

 「なんで、なんか勘違いしてるヤツが多いの?」
 『うーん、わからんけどさー、、まぁ、偏差値が高ければ高いほど、小学校から塾に行ってたヤツの割合が上がるじゃん。』
 「うん。」
 『するとさー、なんか誘われても、、〔ごめーん、塾だからー〕みたいなんが増えて、自分が特別であることが当たり前になっていくんじゃないかなー。どう?』
 「うん(笑)、あると思う。」

 自分の周りに2つの集団があって、1つ目(学校)に対する世間体と、2つ目(塾)に対する世間体とがかみ合わないとき、混乱する。でも、小学生くらいだと、結局どっちも、自分は特別ー、みたいになってきて、まだまだ抜け出せない。
 だからって、本当に特別なヤツもいて、そうじゃないと生きていけないんだから、仕方ないかも。大して違くないのに、みんなと同じ、になってしまうと辛いヤツは、周りに何人もいる。
 特別だって勘違いして、能力があるって思いこんで、それでホンモノになっていくことがほとんどだしな。。

 まったく別の視点を取ってみると、別に、集団生活で上手くやっていくことが、果たしてそこまで必要か?って疑問が湧いてくる。下手でも、やっていけてればイイだろ、ってことだ。
 むしろ、世間体をまったく気にしない強さを持った総括する人間の配慮によって、その人やその場所に信頼が持てるようになるし、感情に多様性を持って、楽しくなる気がするのだ。
 例えば、俺の場合だと、あそこで、<ホッチキスで我慢しなさい、みんなそうでしょ!>っというような正論&社会のルールをずっと言われ続けたなら、少なくとも、自然科学以外の系でも、いろんな視点から物事を判断する能力が持てなかったと思うし、それ以上に、気持ちがもっと小さくなっていたと思う。俺のためにどうにかしてくれようとしたから、信頼できるし、誰かに返そうと思える。

 『あーあ、大丈夫?熱いの??痛い?』
 【うん。いたい。】
 『じゃぁ、もう、今日は、その紙書かなくていいから、ちゃんと冷やしておこうね。アイスノン、このまんまじゃ冷たすぎるから、えーっと、タオルは…。』
 [いいなー、もうやらなくてイイのかよー。]
 『なら、おめーが火傷すっか?』
 [やだー。]
 『じゃぁ、しょうがないだろー?』
 [でもー。]
 『しょうがない、しょうがないっ!』

 人と違うことを認めたり、イレギュラーな事態に臨機応変に対応したり、変えられないことを受け入れてあげたり、世間体を気にしない強さを持って優しくしたり、、そんなことが、集団生活で上手くやっていくことよりも、ずっとずっと、大切だと思います。
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裏切り行為の相対性

2010-11-20 01:13:40 | Weblog
 対等な関係なんてありえない。常に、どっちが上?どっちが下?、って、そういうことをヒトは考える生物種だ。
 今日は、2人の対等な関係から摂動を加えて2つのエネルギー準位が与えられるときの2準位系2体問題について考えよう。

 下に属する者は上に属する者に素直に憧れを感じることができる。相手のことを、何の言葉も介在させずに、自分よりも上にいる人間だって本気で思っていると、かなり無茶なことでも許せてしまう。これまでの自分にとっては許せないことでも、自分たちの集団ではタブーなことでも、受け入れることが徐々にできていってしまう。
 最悪、不公平な理由で連結された言葉を勝手に切り離されたとしても、許せてしまう。ほとんど傷つかない。期待しなければ決して負けない、は、この辺にも登場する。

 「第一志望の大学と滑り止めの大学、落ちたらより悲しくなるのは、どっち?」
 『そりゃ、第一志望の大学じゃないですかー。』
 「違うよ。滑り止めの大学に決まってる。だって、第一志望の大学に落ちても、流石俺の第一志望!って思うだけだけど、滑り止めは確実に受かると思ってるのに落ちちゃうんだから。」
 『そっかー。』
 (そんなことも考えられない当時の自分がちょっと情けない(笑)。)

 裏切られた時に本当にショックなのは、相手のことを心のどこかで自分よりも少し下だなっと思ってた時だ。

 ランクが上の人が下の人と系を成す時、上の人の思考と感情には、いくつか場合分けが考えられる。まず、その下の人に特有な実質的価値があるケース。次に、時間依存性を考慮すると、きっといつまでもお互いに向上し合えるだろうから、その多角的な向上心に投資したい、というケース。最後は、ホンモノを感じているケース。
 3つ目は夢物語要素を残してるだけだけど(笑)、まぁ、3つ目と2つ目は、ほぼ同質だと考えて良いと思う。そして、ほとんどが、この2つ目のケースに由来しているはずだ。

 すると、上の人は、そこまで見出して、相手をかっていたのに、裏切られてしまえば、超ショック。
 裏切るまでいかなくても、ほんの些細なことで不満が出てきてしまう。他の仕事をしてただけで、誰かに同じ言葉をかけていただけで、許せない。
 そして、下の人は上の人に、対等じゃない!、っと啖呵を切ることになる。

 じゃぁ、誰とも上手くいかないことになっちゃいますけど??
 大丈夫、ちゃーんと、処方箋があります。

 それは、「背中で語る」ことを上の人が学び、下の人は上の人にアピールするんではなく、もっと純粋に向上していけば良い。
 どっちも、気持ちがギラギラしてるのを誇らしげに掲げちゃダメだし、なんでもかんでも口に出せばイイってわけでもない。行動やそれに内在するモノを見つめ見つめられるようにしないと。
 そうすれば、まやかしの利害関係不一致から脱することができる。実質的な利害関係など、どうでもイイ!、と思えるようになるはずだ。

 《なんでもかんでも本当のことさえ言えば、正直でお利口さん、って、飴玉でも貰えると思ったの??》

 正直なだけで投資してもらえるほど、世間は甘くないのです。
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授業中に何回言った??笑

2010-11-19 03:18:25 | Weblog
 確実に間違っているのに、具体的にどこが悪いのか見抜けないと、イライラする。
 なんか違う、って伝えてみても、伝えることを含めての賢さが足りないから、伝わらない。もっともっとコミュニケーションを取ってみたら変わって、わかってくる?

 長い時間を考えてみて、とにかく心を鬼にしてみることが必要かもしれない。
 その部分を殺せてしまうほど冷酷になるのは無意味だし、やっぱり治らないなら仕方ないんだし。想い出のような、昔の産物のようなモノが邪魔してくるのを超えて、よりよくあれ、っと本気で願うから、さよなら。

 あの結果が素晴らしいのも、あの瞬間がスゴイのも、その後の超スゴイそれぞれの可能性が秘められていたからだ。
 そのうちに、一人、また一人、と抜けていき、それぞれの場所で活躍をする。「チームだから強い」は、精神的なことにしか、作用しないから、それがよくある姿。

 ひとりぼっちになって暗い顔をしていたら、物理的に近い、今の周囲が、手を伸ばして「大丈夫?」っと言ってくれた。
 そういえば、たった今別れてしまった彼らも、初めの頃は、そうやって信頼関係を築いてきたんじゃないか。また、ここで同じように系を形成すればイイ。ゼロスタートだけど、ゼロスタートじゃないはずだし。

 だから、この笑顔も、創ってみた表情も、視線の動かし方も、いじり方もいじられ方も、冗談の質も、メールの書き方まで、前の誰かのモノであって、、それがフィードバックしてきて、嬉しかったり悲しかったり。
 前の環境からのExtrinsicEffectsが自分自身に内在していたことに初めて気がつく。いや、もしかしたら、この瞬間にこそ内在していってる、のかもしれない。

 そして、さらに月日は流れ、もう一度出会ってみた時、「時間依存性が無くって、やっぱり、ホンモノだな」って感じる。
 授業中に先生が「結局ー」って言った回数を数えて笑いをとっていた頃と、何もカワラナイな、って。
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完璧じゃないことを許し合おう

2010-11-18 01:22:11 | Weblog
 自分が持ってる力をフルに使って、タイミング良く上手い言葉を選んで語りかけたとしても、絶対に治らないな、っと思うとき、「言葉」を言葉でブレイクして、別の場所へ移動したくなる。
 何を言っても無駄だな、って思われないように、聞く耳だけは最後まで持っていたい。力をつけて絶対的な地位になったとしても、最後の最後まで、自分には人とは違う凄まじい能力がある、なんて大いなる勘違いをしないでいたい。
 今持ってる言葉も、これから持つ言葉も、家族と友達をはじめとした、周りの人達との協同研究の結果であることを、いつまでも忘れないでいたい。もっと言うと、ファーストオーサーですら無いと思うし。

 どんなに個人が能力を持ってたとしても、それだけで魅力を感じる、ってのは少ない。無難に振る舞う能力だろうが、計画を遂行する能力だろうが、ルックスだろうが、そんなことはどうでも良い。非常に低いレベルの最低ラインを超えていれば。
 じゃぁ、魅力の根源ってのはドコにあるのか?、ってのは、正直良く分からないけど、少なくとも、能力なんて無限大にあったとしても、それだけで好きになれるか、って言ったら、そういうわけじゃないな、って思うのだ。

 むしろ、完璧よりも少し崩れているほうが、好きになれるのかもしれない。
 一生懸命頑張っているのに不器用だとか、気持ちは多方面に向いてるんだけど、怖くって、なかなか行動を起こせずにいるとか、そういうほうが、人間らしいといったらちょっと違うけど、まぁ、好きになれるよね。

 だから、どんな人とどんな人、同士でも、決して諦めずに、良いところを探しあって、仲良くなろうと心掛けて欲しいな。相手も自分も時間変化していくんだ、って思えば、かなり人脈の幅が広がるはずだし。
 甘っちょろい演技力で、すべてを隠し、余裕ぶってる表情が切ないから、いっそ取っ払って。
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最後は繋げて

2010-11-16 23:33:24 | Weblog
 「はやぶさ」に約1500個の粒子があったらしい。電顕でやっとみれるってことは、ナノメートルオーダーの粒子ってことだ。
 ここまでの、運命的な道筋を考慮すると、かなり感動する。どれだけの人が手を震わせて実験をしていたか、想像するのも恐ろしい。俺なんか、たった一日潰して調製したリポソームですらFACSにかけるときにちょっと緊張するのに、、そりゃリスクヘッジは何らかの形でしてるだろうけど、それでも、緊張するだろうと想像する。

 ただ、やっぱり、こっからなんだろうなー、っと思う。結果が出てから、そこからが重要で、これは自然科学以外でもそのままだと思う。言葉を掴んで、結果が出て、そこからが本当の戦い。

 それは、解析をきちんとする、結果についての考察をする、って部分が1つある。
 解析するときの一番簡潔かつ正確な思考の流れは、いくつかの可変的な原因(変数x∈R、適当な初期値x0)を、間違いなく明らかな事実(関数f(x)、g(x)、…)に投げ続けて(do~while文)、Self-Consistentに解くということだ。値を投げ続け、自己矛盾なく返ってくるようになったら、その値(xn)が真実。因果関係のみで話を推し進められるほど俺は頭良くないので、これが一番っ。
 日常生活においては特に、このxnはもちろん、それぞれの関数も時間変化するし、そもそも適当な初期値x0では収束しない可能性もあるのだが、まずは、平衡状態を仮定して、今のxnを求めることが先決。そこから時間変化を考慮すると良い。

 これも大事なんだけど、それよりも大事なのは、いくつかの出てきた結果・解析に対して、次に繋がるような努力をすることだ。結果の善し悪しによって決まるように思われているがちだけど、そうじゃない。
 結果やその解析ってのは、いわばカードだ。このカードを上手く使えるか否かはあんまり重要視されないけど、すごく大事だと思う。架空の曖昧なジョーカーをちらつかせて誰かを焦らせたり、あえてエースを切って絵札で勝負してみたり。
 カケヒキ、、とも、ちょっと違う。ここでの思考は努力だと思う。

 カードを取りにいったら、使ってみること。それが結果を次に繋げることだ。

 何のためにそれをし続けるか?それは、敵をやっつけ、なるべく多くの仲間を集め、みんなで楽しむためだ。
 ここでいう敵は「残酷な物理現象」だ。自然科学の場合に限らず。

 敵のボスは「時間」であることは言うまでも無い。決して戻らないという点で、最も残酷な物理現象が「時間」だと思う。
 「はやぶさ」からとれた1500個の粒子を、もし、誰かが何かの間違えでバラバラにまき散らしてしまっても、決して、まき散らす前まで時間は戻らない。
 どんなに頑張ったとしても、時間だけは絶対に返ってこないのだ。

 だから、何事も、まず、心が先立たないといけない。色々な想いがあって、色々な人達がいての、総括しての心が一番大事で、それが失われてしまうくらいなら、実質的なモノを失った方が良い。

 そして、とにかく何でも良いから結果をだすこと。結果を出すことによって、人との繋がりがより濃くなり、笑顔になれる。

 最後は、結果を次に繋げること。結果で終わっちゃったら、先が無いわけで、それじゃぁ意味が無いから、結果をイイ意味で利用して、楽しみ続けることが大事。

 「まずは心から」「次に結果を」「最後は繋げて」

 この基本プロトコルを大切にしたい。
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次に結果を

2010-11-16 01:32:58 | Weblog
 強く自分の意見を言う。くだらない習慣をぶち破って、正論を言い放つ。
 こういうのをやる時、とっても気分がイイのは、大抵、相手が年上だからだ。だから、行動するときは細心の注意を払わないといけないし、見えてないところでの配慮の仕方は、誰にも教えない。

 『あー、ほら、俺、そういうの、全部ぶっちゃけちゃうじゃん。』
 「うん、そうだね(笑)。でも、高橋君のやり方って上手くて、ぶっちゃけられてるのに、あんまりムカつかないんだよね。」
 『それはそれは、ありがとうございます。笑』

 キワいとこでの歩幅やスピード、最後に相手を認める術、自分で言うのもなんだけど、こういうとこ一番得意かも。
 っで、俺自身、こういうのメンドクサイので、見込みがある系にしかやりません、最近特に。よーわ、全ての系、俺に不満を言われてるうちが華だってこった(マジ、何さま、この俺(笑))。

 過去に憧れた場所でも、どんなとこにいても、不満はつきないもんだ。そうあって然るべきだし、完璧さは、らしくない。
 あんまり、言っても仕方ない、とか俺は思わないと思われてるんですが、本当はそっちの感情の方がよく思っていて、何かを言わなきゃいけないな、行動を起こさなきゃな、って時は、見込みがあるときしかしないんだよねー。

 とにかく、何くそ!、っと思わないと仕方ないわけで、そんな感情のカケラもないのに、何を言っても言われてもダメダメ。マジで、言葉では何とでも言えるからね。
 負けたくない心がベースにあって、あとは、、もう、能書きはイイから、そろそろ結果らしい結果を出せよ。

 っと、今日は、あの、因縁の場所で、過去の自分に思っていたりしました。

 敗戦以来、無意識にか、訪れていなかったのですが、偶然にも、勝負の場所が共通になってくるってのは、毛色が変わっても、何かモってるもんがあるんでしょうか。
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まずは心から

2010-11-15 02:58:39 | Weblog
 【じゃぁ、何だったら、話してイイと思います?】
 『はぁ?知らんわ(笑)。もうちょっと、自分で、考えてみ。』

 数学を教えても、理科を教えても、教科書以上に上手に教えられるはずがない。
 「学校は、本の読み方を教えるとこであって、本の内容そのものを教えるところじゃない。」って言葉にもあるように、あくまで、その手法や解釈の手助けになるようなことしか、言及することはできない。

 だけど、教科書が存在しない分野の、教科書的な正解を、中高生はよく求めてくる。

 【…って、メールすればイイですか?】
 『だから、知らんって(笑)。でも、それじゃぁ、自分のことしか考えてないんじゃん?例えばさ、なんで、今、お前は、俺の話を素直に訊いてんだよ?』
 【??】
 『俺は、おめーの話を聞いて、その視点に立って、意見してるから、俺の話を訊いてるんだろ?これが、俺の話ばっかだったら、お前はとっくに帰ってるだろ?だから、あなたも、相手に対して、そういう風に、気遣いしなくちゃダメなんじゃないですか?』

 それは、俺が、今までも、きっとこれからも、自分の話をよく聞いてくれる人が周りに沢山いるから気がつくことで、偉そうに言ってみたけど、俺自身への言葉でもあった。
 ただ、部分的であって、俺はあんまり自分のことを話さないほうだと思っている。みんな、よく、そんなに自分のことをペラペラ喋ることができるなー、っと感心することの方が多いから。

 自分の話を聞いてもらいたかったら、それ以上に、相手の話を聞くことが大切。年齢、性別、職業等の何の言葉にも縛られない気持ちで聞いて、思った通りの感情と思考を、そのまま出すことが大切だ。

 でも、それは、あくまで、教科書であることに、留意しなきゃいけない。
 教科書的な解答の一番の欠点は、無難になりすぎてしまうことだ。あのとき、

 『っま、でも、それぞれだから。自分勝手に、自分の話しかしないで、ボールを投げ続けて、それで上手くいくこともあるかもよ?』

 っと、付け加えるべきだったな。(それっぽいことは言ったと思うけど)

 【どうしたら、こういうの、考えることができるようになるんすか?】
 『うーん、退屈だけど、、勉強すること、じゃないですかねぇ。』
 【そっかー、マジ勉強しなきゃなー。】
 『おっ、そう思うのは、マジで、イイ事だ。ほらほら、勉強してしてー。』
 【やっぱ、国語っすよねー?】
 『何でもイイと思うよ?必ず役に立ちます。っていうか、好きなのだけやりな。ひとつ得意になるだけで、だいぶ変わってくるはず。』
 【ホントっすかー。】
 『マジマジ。俺は、それにしても、やり過ぎちゃった気がするけど。』

 無理矢理勉強させることもできる。それはつまらないんだもん。やっぱ、心から、勉強する気になってもらわないと。
 あんま仕事しないけど、心を奪うってとこに関しては、キャバ嬢並かも?笑
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