たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

大学以降の物理を伝える上で

2022-04-28 00:32:36 | Weblog
 俺が大学以降の物理をお伝えし始めて合計で半年以上経った。ネットで一般募集してそこでやっている内容だとこれまでで合計で10時間以上程度、これは最低限だろうという物理数学の内容を丁寧(なつもり)にお伝えした。
 正直、物理を誰かにお伝えすればするほど、「そりゃあ普段、話が通じないわけだ」と思うことが多い。それと同時に、俺が既に手にしているものを俺にとっての当たり前の事柄にしてくれた凡ての人たちに、自然と感謝している。

 学部生の頃(特に1年生)は、俺もよく「どうして大学の先生たちは予備校のように授業してくれないのか。大学なんて学生にとってはサービス機関なのだから、もっと授業の質を上げなくちゃダメだろ」と思ったものだ。
 しかしながら、いざ自分がその内容を伝える側になってみると、どうしたって予備校の授業と同じようにはできないなぁと感じる。実際、俺は高校理科と高校数学の教員免許を(こないだ失効するまでは笑)持っているわけで、大学時代と大学院時代と予備校で教えていたから、それなりには予備校のやり方というものもわかっているはずではある。けれど、そういう風にはならない。

 これが、「大学物理を教える」ということが本業になれば多少違うのかもしれないが、でもそれってあまり意味を為していない気もするのよね。だって、大学物理を日々使って研究して生きている人間が伝えるからこそ、どこが本当に重要かを伝えられるわけで、そうじゃないなら意味がない気がしちゃうのよね。高校までの教員というのは生活指導の観点もかなりあるからそれは意味が違ってくることなのだけど、、昔から「教えることそのものを本業にする」ということに強く違和感がある。
 自分自身、ピアノも音大生に教わっていたときのほうが上達した気もするし、音楽や美術を専業としてしまうと日常から乖離してしまうのと似ていて、お伝えする側が片手間であるからこそ、学ぶ主体がお伝えされる側になるわけでして。なんか表現しにくいけど。

 大学受験までの内容を伝える授業というのは、所詮、決まった試験時間があって、覚えるべきことを覚えており論理的に考えていけば絶対に解けるような問いを、どのように効率的に解くか、ということに集約される。
 しかし、大学以降の範囲を伝える時は、これではまずい。人類がまだ足を踏み入れていない、もしくは踏み入れかけている人間が極少数でその内容が(業界内外問わず)多くの人に浸透していないような問いに対して、どのようにアプローチすれば良いかということの礎を伝えていかなくちゃいけない。これはやり方が変わって当然なのだと思う。
 高校までの内容であれば教科書を熟読しなくても、多少の賢さがあれば、問題集のまとめ的な部分を読めば問題が解けるようになってしまうし、中学高校と俺自身もそのようにすることが学習だと思っていた。しかし、大学以降ではそれがまったく通用しない。大学に入るまで教科書を読もうともしなかった俺が、何度も何度も同じ記述を読んでやっと理解できる、ということが続いた。時に、写経が効果的である。そんなことは、高校の内容までではあり得なかった。
 そして、やっとの想いで理解できたことを、次のページからはめちゃくちゃ当たり前のこととして扱われることが繰り返される。ここに気がつくまでが大変で、大学以降の物理では授業は基本的にペースメーカーにしかなりえない、というのが行き着いた結論である。
 
 とまあ、自分のお伝えのやり方が拙いことを肯定化してみたわけだが笑、大事なのは伝えられる側が「自分で理解するしかない」という気持ちでいてくれることであり、伝える側がその価値を伝え続けることだと思う。
 魚を釣ってあげるのではなく釣り方を教えなければ教育の意味がない、というのは、大学以降も保存されている。これは非常にありがたいことだと思っている。
コメント
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