たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

未来中心主義

2019-09-02 00:35:48 | Weblog
 事実と思い込みは、いつだって連続的だ。
 過去のある事実は思い込みから出発していたり、思い込みが事実に変質してしまったり。

 だからこそ、俺らは、何かの記録を取っておきたがるのだ。本当にそうであったか、そうではなかったか。
 写真を見れば、その時の状況を思い出す以上に、その時の自分の気持ちをトレースせざるをえない。古いデータを見れば、その時の条件を思い出す以上に、その時の自分の目的を垣間見てしまう。昔のLINEを見れば、その時の関係性を思い出す以上に、その時に根差していたと思っていた当たり前を認識させられる。
 そして、気がつくのだ。「現在、こんなにも変わってしまった」と。もはや死んでしまった自分自身を想起し、変わってしまった結末に悲しんでいない自分自身を(想起した過去の自分が)悲観する。

 過去の思い出という名の「美」が現在の認識よりも超える事柄に価値を見出すことを過去中心主義と呼ぶのであれば、すべての時間固定的な取り組みは、想起し続ける過去に依存した前提であるがゆえに、常に事実から乖離しうる。
 そもそも、事実とは何だ?事実にそんなに価値があるのか?確かに存在していた過去の輝かしい風景とこれ以上ないほどに昂ぶった感情を、想起し続けられることは、容易く目の前にある利益を超えるのではないか?

 そう、俺らは、現在進行形で「ホンモノ」を見出すことは難しい。常に、終わってしまってから、「ホンモノ」かどうかわかる。
 ホンモノだと認識した場合、想起すればするほど、過去は美的に書き換えられていき、よりロマンティックに、より具体的に、より神格化する。これが、まるで自己の中心そのものが過去に置かれてしまった状態なのだと思う。
 そのシステムを現在にフィードバックさせてしまえば、原理的に現在が蔑ろになる。蔑ろになった現在は逐一過去になっていくから、時間を進めば進むほど、ダメな状態になってしまうのだ。過去を中心にしてしまうトラップはここにある。

 では、現在を中心に考えられれば良いのだろうか?
 「今」この瞬間だけがあらゆる可能性の収束値として存在しており、それ以外の時間は存在しておらず、常に現在が生成され続けると捉えることを現在中心主義と呼ぶのなら、今の自分のあらゆる感情は、まったくもって無根拠なものである。感情と思考が一致しない苦労に悩まされ続けることになるだろう。

 そう、俺らは、現在完了形で感情に大義名分をつけてしまいがちであるがゆえに、その唐突さを否定できない。
 ホンモノだと認識した瞬間に、直観しようとすればするほど、それが短絡的な欲望なのか、無意識レベルでの利己的な振る舞いなのか、そのすべてを超えた何らかの想いであるのか、原理的に区別ができないのだ。

 過去を中心に考えても、現在を中心に考えても、それぞれに圧倒的なデメリットがある。
 だとすると、残るは、未来がやってくることを信じ込み、未来の自分から想起される自分自身を常に演じてみる、という未来中心主義というのはどうだろうか、と思う。

 「後悔しない準備」のために現在および想起される過去が存在しており、収束するはずの未来のために現在に広く分布している可能性を減らしていくために、今を常に生きていく。この考え方の最大の弱点は、未来が存在することに何の根拠もないこと、そしてあらゆる感情を先取りしすぎてしまうために「気が早い」状態になりすぎてしまい、そのことが未来から想起されていた可能性の低下に繋がっていることについて、無頓着になりがちになる点である。
 しかし、現在進行形でホンモノを感じることができ、感情が唐突ではなくなるし、本能と気持ちの区別がつきやすくなる、という圧倒的なメリットが存在する。

 「未来の自分はこう思うかもしれないな」ということをフィードバックして決定をしていく、というレベルではなく、そのこと自体を中心にしながら決定を下すことは、なかなかに忍耐力と思考力を要求される。
 でも、しばらくは、そんな風に感じながら、この、事実から思い込みまでが曖昧な世界を楽しみたいと思っていたりする。
コメント
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