戦後、「賢い」ということが、多くの人に対して再びポジティブに捉えられるようになってから久しい。「賢い」ことが良いことなのか悪いことなのか、かなり世代間にしたがって偏りがあるように思える。
長らくヤンキー文化が台頭してきた部分も大きいだろうが、それ以上に、「オタク」と呼ばれる人たちのイメージの変革が各世代の人たちに与える「賢い」のイメージに影響を与えているように思える。
きちんと賢さを高めていかないと理解できない事柄を楽しむことができてしまうのがそもそものオタクなわけで、そのオタクが宮崎勤事件などの影響で「犯罪者予備軍」とイコールであったことがあったのだ。その時代を知っている人たちは、「彼らは何をするかわからない」というイメージがあるゆえに、「賢い人」は扱いにくい、関わらない方が良い、と思いやすいのではないかと思う。
一方で、今の若い世代では、むしろ「私ってオタクなんだよね!」と誰でもポジティブな意味で使う。一つのアニメや漫画やゲームを考えても、様々な解釈を与えることができ、楽しみ方を知っている人は尊重される。賢さを使って様々な解釈を与えて楽しむことに慣れているため、「賢い人」を良いイメージで捉えやすい。
ざっくり言ってしまえば、旧世代は「賢い人」をネガティブに捉え、若い世代は「賢い人」をポジティブに捉える。
なんとなく、そんな傾向があるように思うのだ。
だから、旧世代がジャッジする場(就職活動の面接とか)では、賢さを垣間見せた瞬間に、「マウンティングじゃないか」と捉えられたり、「揚げ足をとるな!」、「屁理屈だろ!」などと言いがちなのである。
若ければ若いほど想像するのが難しいが、人は、歳を取れば取るほど、価値観のOSをアップデートするのが難しくなる。10代の時に聴いた音楽が至上になりやすくなるし、20代で覚えた仕事のやり方から逸脱すると不安になってしまう。それらは年齢を重ねてしまうと固定化されてしまい、アップデートする取引コストを支払わないことを肯定化する論理体系に飛びついてしまうのだ。
賢さというのは、余裕がないと築かれない。
賢さを保って物事を進めていきたいなら、寝ないで一生懸命頑張るなんて言語道断である。しかしながら、旧世代は睡眠不足を良しとしてしまう。それは、個々人が賢さを保有していなくとも、とにかく目の前のことに最適化して無理して頑張ってさえいれば立場が得れた時代があり、その昔、立場とカネに最適化することの虚しさについて繰り返し議論していたことをすっかり忘れてしまっているからだ。今や、立場やカネを得たいと思うことは当然視されてしまっており、勝利主義の若者はそれを目指すことを疑問にも感じておらず、同世代から要請されている賢さを勝利することに躊躇いもなく使う。賢いことが要求されてこなかったおじさんたちは、ズルを見抜けず、平気でその話術とストーリー性に騙される。
騙されている自覚もないのだ。なぜなら、おじさん一個人としては気分が良い状態が継続するから。そして、その裏で無能呼ばわりされているとは、露知らず。
だからね、、真面目で賢さを有するあなたが、その方向性を見出す気持ちは、とてもよくわかる。純粋な気持ちは搾取しやすいのだ。
でも、どんな時でも、何かを行いたいと思ったら、一歩立ち止まって、俯瞰して観ようとすること。それを忘れないで欲しい。
間違いに気がついたら、間違えたY字路までUターンできること。それが賢さってもんだろ?
長らくヤンキー文化が台頭してきた部分も大きいだろうが、それ以上に、「オタク」と呼ばれる人たちのイメージの変革が各世代の人たちに与える「賢い」のイメージに影響を与えているように思える。
きちんと賢さを高めていかないと理解できない事柄を楽しむことができてしまうのがそもそものオタクなわけで、そのオタクが宮崎勤事件などの影響で「犯罪者予備軍」とイコールであったことがあったのだ。その時代を知っている人たちは、「彼らは何をするかわからない」というイメージがあるゆえに、「賢い人」は扱いにくい、関わらない方が良い、と思いやすいのではないかと思う。
一方で、今の若い世代では、むしろ「私ってオタクなんだよね!」と誰でもポジティブな意味で使う。一つのアニメや漫画やゲームを考えても、様々な解釈を与えることができ、楽しみ方を知っている人は尊重される。賢さを使って様々な解釈を与えて楽しむことに慣れているため、「賢い人」を良いイメージで捉えやすい。
ざっくり言ってしまえば、旧世代は「賢い人」をネガティブに捉え、若い世代は「賢い人」をポジティブに捉える。
なんとなく、そんな傾向があるように思うのだ。
だから、旧世代がジャッジする場(就職活動の面接とか)では、賢さを垣間見せた瞬間に、「マウンティングじゃないか」と捉えられたり、「揚げ足をとるな!」、「屁理屈だろ!」などと言いがちなのである。
若ければ若いほど想像するのが難しいが、人は、歳を取れば取るほど、価値観のOSをアップデートするのが難しくなる。10代の時に聴いた音楽が至上になりやすくなるし、20代で覚えた仕事のやり方から逸脱すると不安になってしまう。それらは年齢を重ねてしまうと固定化されてしまい、アップデートする取引コストを支払わないことを肯定化する論理体系に飛びついてしまうのだ。
賢さというのは、余裕がないと築かれない。
賢さを保って物事を進めていきたいなら、寝ないで一生懸命頑張るなんて言語道断である。しかしながら、旧世代は睡眠不足を良しとしてしまう。それは、個々人が賢さを保有していなくとも、とにかく目の前のことに最適化して無理して頑張ってさえいれば立場が得れた時代があり、その昔、立場とカネに最適化することの虚しさについて繰り返し議論していたことをすっかり忘れてしまっているからだ。今や、立場やカネを得たいと思うことは当然視されてしまっており、勝利主義の若者はそれを目指すことを疑問にも感じておらず、同世代から要請されている賢さを勝利することに躊躇いもなく使う。賢いことが要求されてこなかったおじさんたちは、ズルを見抜けず、平気でその話術とストーリー性に騙される。
騙されている自覚もないのだ。なぜなら、おじさん一個人としては気分が良い状態が継続するから。そして、その裏で無能呼ばわりされているとは、露知らず。
だからね、、真面目で賢さを有するあなたが、その方向性を見出す気持ちは、とてもよくわかる。純粋な気持ちは搾取しやすいのだ。
でも、どんな時でも、何かを行いたいと思ったら、一歩立ち止まって、俯瞰して観ようとすること。それを忘れないで欲しい。
間違いに気がついたら、間違えたY字路までUターンできること。それが賢さってもんだろ?