たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

理系就活の不条理さ

2015-02-26 23:54:27 | Weblog
 就職活動では、あなたが、どんなにフーリエ変換ができたとしても、まったく評価されない。
 理系ってだけで大学生以上ならみんなフーリエ変換できるわけだけど(すいませんが、フーリエ変換できない人は理系じゃないです笑。異論は認めません)、これってものすごく、粘り強くて根気がある証拠なのだ。だけど、何も評価はされない。

 「自己PRしてください」
 『はい、僕は粘り強さがあり、量子統計力学に対する理解だったら、誰にも負けないと思います』
 「量子統計力学ですか。私は文系なので。。なんだか難しそうですね。もう少し、わかりやすい例をだしてください」
 『そうですねぇ、もう少し基礎的なことでいえば、物理数学はほぼ完璧です』
 「はぁ。そうですか。なんだか、あなたの粘り強さがよくわからないですね」
 『例えばですよ。フーリエ変換ひとつ取ってみても、これを使えるって、とっても粘り強いと思いませんか?だってですよ、多くの文系学生が変数にただ数値を代入することさえできないのに、可積分な関数をきちんと理解していて、複素数を扱えて、連続性や空間の概念が知識としてあって、当然、三角関数などの基本的な関数をすべてマスターしてからでないと、フーリエ変換できないんですよ?それの理解の10倍くらい大変なんですよ、量子統計力学を理解するのは。僕は、ぜったいに粘り強さがあります。その粘り強さを御社に貢献していきたいのです!』
 「…」

 「えーっと、次の方」
 『学生時代は、テニスサークルの部長をしていました。私の粘り強さを周囲が認めて下さり、選ばれました』
 「それは素晴らしい。規模はどのくらいなんですか?」
 『30名前後です』
 「そうですか、なるほどなるほど」

 不条理なのが厭なら、残念なことですが、理系はやめときましょう。ちなみに、フーリエ変換できたからといって、研究の世界でさえ、無能な輩がひがんで、疎まれることすらあるんですから(笑)

 一学年、55万人いる大学生のなかで、フーリエ変換がきちんとできる大学生は3万人もいないだろう。30人前後のサークルなら一学年10人ほど。10人中の1人よりも、55万人中の3万人をとるべきじゃないのかな?

 まぁ、そんなことを言ってても仕方ないです。無能が搾取してるのが、この国の基本構造なのですから。

 見栄の張り合いのなかで、いかにして誤魔化すか?ということを前提にしてしまった場合、クソ真面目にやってるのはバカバカしくなる。一方で、ちゃんとした努力がこの方向性できちんとしたカタチで認められて自己実現できるって、理想だけはいつでも一人前で。

 でも、現実は、分数もできない、サークルで遊びまくって直前だけ媚び諂ってきた文系学生が東京本社勤務で、あまり遊べなかった、積分から逃げずに粘り強くコツコツ勉強して実験して頑張ってきた理系学生が地方にとばされる。

 何か打開策を俺らは見つけなくちゃいけない。理論系の学生が、俺はプログラミングができるだけの人間じゃねーんだよ、こんなに色々理解できるんだよー、といくら胸の中で思っていても、社会はあなたをプログラミングができるキモいヤツ、くらいにしか思わないのだから。

 そんな風に思ってしまう評価側に俺は何も期待していない。
 ほど遠い幸せだけど、純粋な心を忘れずに、どうか見捨てないでね。

Every Little Thing - Rescue me
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レゾンデートルの創発

2015-02-25 00:58:23 | Weblog
 『俺はそこまでの不幸を背負っているわけじゃないから、考えが本質的に違うかもしれないけどね』
 「いや、むしろ不幸を背負わないで、同じ思考に達するならそのほうがいいだろ」
 『そーぉ?不幸を糧にできるわけだから、経験するに越したことはないでしょ?』
 「不幸は、どこまで行っても、ただの不幸。無い方がいいに決まってる。幸せなままで考えが未成熟ならそれで良いし、幸せな状態でいながらでも、思考力だけでそこまでの発想に至れるならそれがベストだと俺は想う」

 研究の世界で生きていくためには、自分の専攻と得意分野がしっかりあったほうが安心する。あらゆることの分業化がここまで進んでしまった現代だからこそだったのかもしれないが、それに伴っていつしか年功序列の名のもとに、肝心の研究内容そのものを深める時間を割いてまで、言葉で館を創ることのほうが大切な潮流になってしまった。
 理系の研究世界に少しでもいれば、「論文の書き方」だとか「申請書の書き方」だとかのみが重要視され、いかにして都合よく「書けるか?」こそが大切であるということを、ドヤ顔で語る教員と博士課程の学生が多すぎて、うんざりすることだろう。

 研究のための研究が量産化され、価値が無い研究が分野と精緻さで防御することで成り立ち、相互評価を意識するから媚び諂うことが正当化され、自分の分野とレゾンデートルを守るためだけに、平気で他人を傷つけて、若者の貴重な1年以上の時間を無駄にしたりして、弱者をいじめ続けることが(他の社会に比べて)習慣化している社会がアカデミックなのかもしれない。
 自分のレゾンデートルを人工的に創発することは、即ちいじめである、という基本的原理をよく理解すべきだ。そのいじめに耐えられて、はじめて、研究の世界で生きていけるのだ、それくらいじゃないとダメなのだ、というそれっぽい論理を語る愚かさは、いったいどこから来るのだろう?

 「でも、高橋さんにしてるわけじゃないでしょ?」
 『だからこそ、信じられないんです。少なくとも、俺以外の誰かに対しては、そういう状態になっちゃったら、必死で止めはしないんだな、っていうのは、ただの事実ですから』
 「だから?」
 『だから、少し今後の接し方を考えなくちゃいけない。だって、いじめっ子と一緒に、ものづくりするわけにはいかないですから』

 「逃げるんやな?」
 『どうですかね。僕は僕の道を常に選ばないですから』
 「後悔はないんか?そんなんで」
 『まぁ、僕はあなたと違って、いじめられたら学校変えりゃいいじゃねーか、って軟弱側なのかもしれませんね』
 「そんなんじゃ、いたってどーせ勝てないからな。出てけ出てけ(笑)」
 『いや、勝つか負けるかでいったら、僕が勝つことが必然です。能力も無いくせに、誰かを傷つけることで自分のレゾンデートルを創発してるようなヤツらに、どんなふうにしても僕が負けるわけがありませんし、その負けを一生を通じて、ずっと感じながら生きていくんでしょうね』
 「逃げるくせにエラそうなこと言いなや。それをも変えてしまう元気はないんか?みてみーや、それがないのが、俺とお前の違いなんじゃ」
 『もちろん、変えても良いですよ。彼らがそれを心から望んでいるならね』

 「望んでいますよ、高橋さん。絶対に。心のどこかで」
 『そうかもしれないね。でも、この系は、もう、俺の役目じゃない。他の誰かがやってくれればそれでいい。露わに俺の存在を望まれれば話は別だけど、それはもう、絶対にありえない』
 「それでいいんですか?それを乗り越えた先に見える景色があるかもしれないじゃないですか?」
 『いや、不幸は、どこまで行っても、ただの不幸。その先には何も見えないさ。それよりも、この不幸を強いられながらも、考えないようにすることでどうにか成り立っている孤独な優しい人と一緒に、もっと別の絶景を観てみたい』

 必ず、より良くなる。どんなことをしていても、どんな風にやっていても、全員みんな、必ず、より良くなるだろう。
 だから、研究の世界も、絶対に、今の最悪の状態を脱し、表面上の成果ではなく、きちんとした進捗が認められるようになり、みんなで仲良く楽しく笑顔で、研究できる日がくるはずである。

 研究の世界の未来は絶対に明るい。そう信じられるのは、みんながみんな、自然科学を大好きな気持ちが何よりも勝っているからだと俺は想う。
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気持ちの微分

2015-02-24 01:54:26 | Weblog
 気持ちがどの程度あるかというよりも、その気持ちが今後上昇していくか、それとも下降していくかを指標に、あらゆる行動は決定されていく。いわば、気持ちの微分係数が正になるか負になるかこそが大事であり、どんなに大きな気持ちを抱いていても下降し始めたら、上昇し始めた小さな気持ちにすら勝てなくなってしまう。

 こういう論理が露わに各々の気持ちに多く成り立つからこそ、世の中から浮気と不倫と略奪はなくならないし、志望動機にやる気と粘り強さのみを主張することが許されるし、その理想の描き方では原理的に絶対に到達できない大目標と展望を研究発表でドヤ顔で喋ることができてしまうのである。
 気持ちを微分で語るのは良いけど感情のクロスオーバーは許さない、というのは俺の個人的な意見だが、それは俺が許せないだけであり、俺以外の他の誰がどういう評価基準を自分に課して生きていくかは完全に自由であるから、クロスオーバーだろうが共存だろうが、原理的に成り立ってしまうのだろう。

 気持ちに対する評価基準をその微分係数だけで考え、クロスオーバーをとことん許すのであれば(許さざるをえない状況ならば)、自分を成り立たせるために演技する力は必須だ。でなければ矛盾する自分自身を感じる瞬間、人は硬直してしまうだろうから。演技力をつければつけるほど、あらゆる評価基準を設けて自分を成り立たせることができるようになり、それら幻の自分自身が生成され、いつしか勝手に暴走し始める。幻の暴走に運悪く巻き込まれるのは、Cグループであり、若者であり、専門家でない人であり、とにかく弱者だ。
 だけど、どんなに誰かの幻の暴走に巻き込まれて、傷ついて、失って、そのせいで誰も信じられなくなって、ひきこもって、心底暗くなったとしても、、最も傷ついているのは、幻を暴走させている本人なのだ。他人事になってしまった自分自身は、自分であるはずなのに、責任をとることがもはやできないのだから。。っと、優しいあなたなら、無理矢理に解釈して、そんな風に想えたりするのかな??

 2月もそろそろ終わり。もうすぐ気温の時刻に対する微分係数が正になる季節がやってくる。ある意味最も暖かい季節の訪れの根本を、やはりその微分係数として感じることで、ちいさい数理をみつけることができる。
 桜染めのこの季節は別れを感じる季節。演技をするのも現状維持としてのトカゲのしっぽ切り、意見と称して露わに誰かを否定するだけの言葉を吐いたり、逆に何をしても無駄だと感じきっている、ここまで落ち込みきっている暗い環境のなかで、笑いながら観察できるのは、ここまでの極値からの復活を期待しているから?それとも愛想をつかせきってるから?

 いいえ。誰かを信じ抜くことで、あらゆる自分が1つになっていき、ホンモノとして収束したとき、時間依存性のない状態が確実にあり得るということを、深く信じているから。
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バズるブログの書き方?

2015-02-23 02:06:29 | Weblog
 そういえば、こないだ一日だけだけど、「星野君の二塁打」の記事のアクセス数が「タートルトーク」を超えた。
 いやー、ホントに書いてアップしてみるまで何がヒットするのかわからないのが、ブログの面白いところです。まぁ、「星野君の二塁打」については、たぶんどっかの大学でレポートでも出てただけだと思うけどね。俺のページやって来ても、レポートに役立つ情報はないはずですので(というより、このページ、役に立つ情報は何もありません笑)、釣ってしまって、申し訳ない。

 確かに最近、ヒットさせようと思ってる記事は(「星野君の二塁打」含め)、あるやり方で書くことによって、この一年くらいで飛躍的にアクセス数は伸びている。
 それは、こんな内容を書こう!、と思ったら、それに関連するキーワードをgoogleで検索しまくるのである。そして、上位10件に書いてあるものをすべて読み、それを繰り返して、書いてある情報を把握する。書いてある情報が把握できたら、自分が持ってる情報や考え方や気持ちについて、まだ情報がないものを中心に書けばよい。みんながキーワードでひっかけて来そうな言葉をタイトルに入れて完成。ここまでやるとgoogle検索で10位以内に入らないほうが難しいです。
 ちなみに論文もscholar使って、こうやったら良いと思います。

 で、問題は、こんなん流行るだろ?って思ってたテーマでも、全然流行らないのはよくあること。
 研究関連って、ホントに予想以上にアクセス数のびないので、本当に日本国民全員が必ず一回は扱ってるようなことを選ぶとアクセス数は上がると思います。まぁ、俺は、ブログをバズらせることだけが目的でブログ書いてないので、毎回これやるんは遠慮しときますけど。

 そうそ、一般受けをまったく狙ってない、何書いてんのか分からない系(笑)で、誰かの気持ちをそのまま文章化してみようとしたときに意外とヒット数が上がると、スゴいムカつくんだよね。(なんやったら俺の考え方を否定した内容を書いているのに、、)俺ってやっぱりマジョリティーじゃねーのな、って凄く分かるから。

 そんなわけで、とりあえずバズらせるだけなら、俺は何を書いたらいいかなぁと思っていたりしるのですが、そんな内容を募集します!どーせ誰もコメントくれないだろうし。俺が書けそうなことで、バズりそうな内容があったら、(優しく)教えてね。

 俺の得意な分野は、、理系の研究、大学、ディズニー、J-POP、音楽、読書、ラーメン。その辺です。全部にわかだけどね。あ、ってか、にわか叩きしてんじゃねーぞ。どーせ全員、どんなことでも、にわかなんだから(笑)。
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私の幻を愛したの

2015-02-22 03:55:23 | Weblog
 愛されることが許される最低条件って何だろう?
 自分に自信があること?私が私を好きなこと?他の誰からも愛されていないこと?今までに奪われていないこと?相手を愛していること?きちんと忘れていること?

 考えれば考えるほど、私には資格が無いなって思ってしまう。大前提がなんであれ、彼はきっと、それでもいいのだ、そんなことはどうでもいいくらいに貴女は素晴らしいのだ、と私を都合の良いように解釈してしまう幼さがあるだろうし、それを肯定化する考えに至るだけの体力も残っていない。
 それ以上に、そんな根本的なことをつい考えてしまったことで私にとって厭な結論が導かれちゃったら怖いから、何も考えない。期待しなければ傷つかないし、考えなければ真実を知らなくて済む。

 だからこそ、責務をすべて私以外に帰着し、だってあんな風に私を裏切ったじゃない?、どうせ貴方もそうなんでしょ?、と、まだ幼い彼に、幼かった彼を、、いえ、幼いと私が勘違いしていた幻の彼を、重ねてしまう。彼にはいっさいの罪はないのに。
 そして、その程度のことを分かっている私は、少なくともバカではない、というところに自分の存在意義を見出してしまう。

 誰よりも貴方のために、早く悪い夢から目覚めて欲しいと心のどこかで想っている。きっと、幸せの選び方は他にもたくさんあるし、疲れきっているせいで、貴方は、私の幻を愛している、、と結論づけてみて。

 そうなれば、私は、今の虚偽の涙ではなく、本当の意味で、笑いながら泣けるから。

 ………

 何が軸になった時、どんな条件がそろっているなら、気持ちを伝えていいのか、あの人はきちんと教えてくれたのに、今の自分は、それを裏切っているんじゃないか、って、とても不安になってしまう。

 俺自身は、誰に何をアドバイスされたとしても、彼女の良さを完璧に掌握しているし、彼女自身が正しさの領域から侵略をし続けてはいないんだ、と信じている。
 だけど、客観的な事実として、貴女を肯定できない。それは、あの人が教えてくれたプロトコルであり、その感謝を裏切ることは本当はできないけれど、あの正しすぎるやり方には記述が無いのだ、"経路に依らず、結果オーライ"という時間依存的な条件を。

 信頼関係のわりに距離が近すぎる彼女の歩幅に、今は躊躇いながらついていく。肩がぶつかって、手が触れたとき、、何を持って正しいのかを考え続けることを余儀なくされたのだ。
 ここからは自分で結論付けなくちゃいけない。どうせ、あの人に話しても、そんなん、みんなにやってるに決まってるじゃねーか、と言うだけだ。

 幻を愛しているだけなのだから離れなさい、という正しすぎる意見は百も承知。それを超えて好きなんですよ、という言葉は、きっと、あの人には伝わらない。

 『それがお前の答えか。がっかりだよ。まだまだ思考力が私に達していない。小説の主人公になりきるほどの重度の中二病患者である、幼い私は、そんな結論を君に用意してはいない。天才的な人が先天的にできてしまうことを、後天的な努力として説明することが得意な私は、迷わないことが唯一のメリットである、ひとつしかない道、というやり方において、何かを傷つけてしまう心を熟知している。その対象はもちろん、他の人の心に限らない。私にわざと強く厳しく大きくでることで、私を表面的に傷つけながら自分自身の内面の本質を傷つけてしまうような優しいバカのことを、私はとても大好きなのだから、なおさらさ。だから、誰かを好きなことで自分自身が傷ついている君の行動について、いかにより良くするかのプロトコルを、他に私は持っている。しかも、厄介な無理ゲーを強要する、あの人と違って、君はそれを素直に享受できる状況にいる。私の考えは…。』

オリビアを聴きながら / 川嶋あい

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遥か時を越えて

2015-02-19 01:47:10 | Weblog
 どの基準の何をもってして評価したら良いのかを自分にいつも問うべきである。
 何をもって上手いと思っているのか?どうだったら優秀だと思うのか?どういう思考があれば賢いと評価するのか?

 もしかしたら、考えるのがめんどくさくて、ありきたりで手っ取り早いだけの評価基準を、心のなかで至上だと決めつけていない?それ以上に最悪で、ただ自分が来た履歴を肯定化するための評価基準を設けてしまっていない?
 (大学の先生など)責任ある立場でないなら、まぁ、大きな制度についてまでは考えなくてもいいけど、誰であってもきちんと、身のまわりの人や自分自身については、何をもって優秀とみなすのか?、という評価基準は常に問い続けなくちゃいけないと思う。

 能力とは形のないものだから、評価をいかにするべきか?と常に心に思っていないと、本質を見失ってしまうだろう。くだらないことに膠着するがゆえに、大切なことを見失っていては、時間がもったいない。自分がどうしたら納得しえるか、どうならば自分が満足できるかを、自分自身のみに問い続け、何が大事なのかを抱き続けることが大事なのだ。
 逆に言えば、こういう感覚さえ持っていれば、いつの時代でも確かな論理と生き延びる術が存在していることになる。だから、今ある価値基準や、みんながよく口にしている評価基準に執着しすぎないことである。

 ありきたりな価値観からきちんと抜け出し、論理的に正しく、自分の心が納得できる価値に気がついたとき、遥か時を越えて、伝わるべき想いが、きちんと伝わり続けていくのだと思う。

 その鳴鐘を自らの手で響かせる、その瞬間は、きっと、お互いに思っているほどには、遠くない。
 本質的に、同じ気持ちでいるなら。

ゴスペラーズ 永遠に -LIVE-
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不承不承の精神

2015-02-17 01:32:56 | Weblog
 1つ嘘をつくと、その嘘を取り囲むように様々なことを誤魔化さなくちゃいけなくなる。
 誤魔化し続けることが習慣化すると、どれをどのように誤魔化したのかがわからなくなり、孤立するしか術がなくなっていってしまう。

 嘘は自分への虚栄心の現れであるから、小さなプライドを守るための嘘であるなら、つかないほうがそりゃ良いだろう。まるで自分はその嘘に本当に価値観を持っているかのように振る舞い、それを相手に押し付けていく。相手も傷つくし、自分も傷つく。そして、その嘘に使われる人も傷つくのである。

 でも、自分を大きく見せるため、そんな自分を成り立たせるために、多くの人は、多かれ少なかれ、嘘をつくだろう。そして、その嘘を守るため、自分には本当はこういう価値観があるんだぞ!と相手に魅せるため、誤魔化すだろう。
 それ自体は、悪いことではないような気がする。なぜなら、自分の中に、分裂した自分が複製されるだけだからだ。自分が常に1つの自分として成り立たせなくちゃいけないと思うのならば辛いだろうけど、別に、すべての自分を自己矛盾なくしなくても良いと俺は思うのだ。そこまで考えず、もっと気楽に、こういう側面の私、こういう部分の俺、ここのところが得意な自分、というように、いくつも自分を持っていて構わないと思う。

 そうすれば、自分の中の誰かが失敗しても、自分がすべて傷つくことなんてないし、自分の中で過剰に責任を取らなくても済む。

 そう、、ウソをついてもいい。虚栄心からのウソなら可愛いし、俺は、だいたいのウソは見抜けるから。
 ただ、その嘘をすべて成り立たせるように息苦しくならないように注意した方がいいとは思うのだ。

 虚栄心がなけりゃ、本当の自分が露呈し過ぎたせいで傷つき、すべての自分が倒れてしまうことだって、そりゃぁ、あるだろう。すべてが厭になって、完全に投げ出したくなって、なにもかもを諦めてやりたくなることは、俺もしょっちゅうある。

 でも、そんなとき、すべての自分に、冷静に、訊いてみるのだ。
 高橋くん、K君、高橋先生、ばんちょー、たかはしけい、高橋さん、etc...、俺の中で立ちあがれるヤツ、いる?

 どんなことがあっても、一週間あれば、誰かは立ちあがれるだろう、と達観視してる俺自身は、気持ちでぶつかってる限り、どんな現実に直面し、どんな帰結に達しても、少なくとも俺自身は原理的に失敗しないことをよく知っているのだろう。だとしたら、俺がどうしたいか、どうすべきか、答えは簡単にわかるはずだ。

 いや、、論理で推し進めて誰かを傷つけてしまっても、気持ちを押し殺して無理に誰かに好かれようとしても、何もかも厭になって引きこもっていたとしても、諦めても、逃げても、どうでもいいやって居直っても、、任意の人生は原理的に失敗しないはずである、と俺は想っているぜ。
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時間を超える技術

2015-02-15 02:15:03 | Weblog
 汎用性の高い技術を生み出すためには、それだけ根気と思考力が必要だ。
 その汎用的なモノを多くの人が使うようになれば、何かの技術を誰でも簡単にマスターできるようになるし、さらに高度な開発をすることだって可能になる。

 しかし技術の向上は、その行為を行うための一人ひとりの思考力を奪ってしまうこととのトレードオフを避けることができないことに注意せねばならない。新しく確立したばかりの汎用的な技術は、常に、どんなことにも適応できるほどの絶対的な思考力によって基盤が作られている。例えば誤作動を起こした時、例えばそれでは対応できないようなことをしたい時、それらに対してどのように達成すればよいかの基礎づくりを汎用的技術はすべて奪ってしまうわけだ。

 それをも超えて有用であると世間が認める時、初めて新たな技術は確立されていく。

 そんなわけで、我々は、これだけの文明的な社会に所属しながら、誰1人、自力でマッチ1つ、まともに作ることができない。
 のくせに、マッチで火をつける程度のことには、なんの価値も認められないほど、周囲に技術がありふれている現状であるのだ。だから、技術に関して、多くの文系の人達が傲慢さを持ってしまうのである。

 技術に関する傲慢さを多く持ちすぎているかどうかは、少し話をすればすぐにわかる。
 なぜなら、技術に対する評価基準としての傲慢さを放つ人というのは、フォーカスする対象1つひとつがトリビアルであることは当然と見做す一方で、それら技術や原理の1つひとつが適応できる範囲についてのトリビアルさについては過敏に懐疑性を示す態度でいる存在であるから、非常に分かりやすいのだ。その態度が政治的価値観ではなく個人の論理性から本当に見出されたものであるならば、そのような典型的な枚挙主義かつ他人任せな態度かつ技術者を見下した感性では、少なくとも理系としての心得が欠如していると言わざるをえない。

 何かの技術というのは、真に自分の目的に則していなければ進捗されず、後から裏付けされた大義名分は脆弱であり、本当の意味で、自分自身がいかに何をどの程度学べるか、というところに尽きるからこそ進捗していく。

 俺は、この期間で、自分が一番欲しかった技術を手にすることができたのであろうか?汎用的な枠組みとしての絶対的な思考力を向上させることをやめただけの対価は得られたのだろうか?

 迷いながらもイエスと答えられる自分を感じながら、心が素直になっていく。

 結局のところ、天命は良い方向に向かっている。あのとき、俺が駆け出していったなら、たぶん本当の意味で救うことはできなかっただろうと今では思う(だからといって、正当化する気はないが)。
 しかし、今は違う。今なら、いくらでも対処の仕様がある。様々なカードを切ることで、その最悪な環境下から脱出させられる。

 そして、少なくともある意味では、あの頃繰り返し俺が口にしていた、時間を超える、ということが実現できたはずだ。
 結果的には終わっていった関係性そのものが、時間を超えるために、いくつものヒントを残してくれた。それは俺がこの技術を手にするために確実に必要だったことだし、自分の自信にも繋がったし、決して伝わらない感謝をここまで抱くのは初めてかもしれない。

 確かに汎用性が高い技術を生み出すことは、周囲にとって惰眠を貪ることを肯定化してしまうリスクが生じる。それでも、俺は、その地平線の向こう側の存在を感じながら、地平線そのものをいつまでも眺めていたいと、そう思う。

 それは、きちんと楽しむ、ということを、いつも変わらずに、最大の目標として掲げているせいであるはずだ、と自負している。
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理想理論

2015-02-12 02:01:11 | Weblog
 どんな理想の描き方ができるかで、その人の評価はある程度決まってくる。
 かなり浮世離れしている理想であれ、かなり現実的すぎる理想であれ、それを語る当人が心に飲み込んでいる限り、素晴らしい思想へとなりうるものだと俺は思う。

 そして、その想い描いた理想、心の中だけにしまっている夢は、もっとどんどん他人とぶつけあわせなくちゃいけないとも思う。それは、お互いの理想をより良いものに格上げする意味もあるし、お互いの理想を現実にする意味もあるし、自分たちの理想にする意味もある。
 この視点でぶつかりあうべきであり、他人を蹴落としたり、一泡吹かせてやるために、何かを発言すべきではない。そんなことを繰り返していれば、自分の理想そのものの価値を降格させ、どんどん他人が離れていき、理想と現実は乖離してしまうだろう。

 例えば、俺は多くの理論研の人の主張は、浮世離れしすぎていると感じる。現実的にコメントが的を射ておらず、実験としてありえない理想を空々しく響かせていることが多いからだ。
 しかし、理論を大切に思う人達すべてが、逆に、実験可能でかなり現実と近い理想を基にする主張しかしなくなってしまったら、それこそ自然科学は終焉だと思う。これは俺の我儘がかなり過ぎるところではあるが、理論を志す者は、自分の理想の世界をきちんと大切にしていてほしい。それこそが、次の実験デザインやモデルデザインに効いてくるかもしれないからだ。そして、それは俺が自分自身に課していることでもある。

 つまり、浮世離れしているとびっきりの理想を主張するのであっても、現実的にすぐに生産性のあるコメントをするのであっても、根幹である「相手をより良くしたい」という気持ちがあれば、めちゃくちゃ素晴らしいものづくりを創れるし、自分の理想や夢も高みに向かって行ける。逆に「相手を蹴落としてやりたい」という気持ちでいれば、どんなことを言ったとしても、自分に甘く他人に厳しい意見となり、自分が偶然に知ってる知識自慢をしたり、いきなり感情的になったりして、みんなも自分もより厭な気持ちになる。そして、理想を描くことができなくなり、目が死んでいくのだろうと思う。

 安心して欲しい。あなたの理想は紛れもないホンモノであり、別に誰かを蹴落とさなくても、十分に必要な資質を兼ね備えていると、俺は確信している。
 俺が軽蔑し、バカだなぁと思うのは、ものごとをややっこしくすることで自分の実力を誇示したり、他人を蹴落とすことで自分の能力や地位を安全なものとしようとする、非常に滑稽で愚かな態度そのもののみだ。

 そんな苦しい世界で、いっさいの愚かな態度をしないことは、非常に難儀で不可能に近いことだとは思うが、それがきちんとできている人は確実に存在している。俺よりも遥かに苦しく辛く独りぼっちで、生きていくために誰かを無理に見下しても仕方ない環境なのにも拘らず、決して、他人を蹴落としたりしない、むしろみんなを勇気づけるような、そのような態度が、俺は大好きなんだ。

 俺は自分自身の理想や夢の描き方には、実は自信があまりない。他のみんなのほうが、遥かに素晴らしい理想を持っているし、資質や能力も高いと思っている。

 だから俺は、あなたの理想を常に肯定し続けると誓う。どんな困難があっても、どんな苦しい状況であっても、どんなにみんなに裏切られ続けても、俺だけは最後まで、あなたの理想と夢を肯定し続ける。
 それが俺の理想だ。
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When the time comes, nobody's gonna stop me.

2015-02-11 02:49:58 | Weblog
 「同じ実験を繰り返すな!」というのは実験研究における基本中の基本だ。この概念がわからなければ本質的に実験の研究を進めることはできないと俺もそう思う。

 一見すると、確実なデータ数を精密に稼ぐためには、たくさん同じ実験を色々な条件ですべきなように感じる。しかし、そのやり方を良しとするのは、非常に短絡的だ。そんなことを主軸にやっていたら、何も本質的な進捗はしないし、データではなくゴミ情報ばかりが増え、ゴミ情報を基に、虚偽を含む内容、もしくは、まったく無意味なたくさん実験したから認めてくださいというような価値観で発表してしまうのが関の山だ。
 そして、ゴミ情報に誤差論を適応しても、ゴミはゴミなのだから、自分にとって都合のいい大衆がお互いさま精神で受け入れてくれたとしても、それに対してそれっぽい尤もらしいことを言ってみても、無意味なのは明らかであろう。

 どんな価値観の実験をするんでも、まずは、何かわからないけど、とにかくやってみました、というところからスタートする。そこから数々のトライ&エラーをするとき、だいたい自分や周囲から出てくる改善策というのは、時間がかかるものばかり。その時間がかかる追加作業をすべて受け入れ、いくつも増やしていれば、(どんな立場の誰でも)時間は限られているのだから、どんどんどんどん時間が圧迫されていく。早朝から深夜まで実験しているのに、まだ追加しなくちゃいけない、というように、条件と技術ばかりが増え続ける。

 だからこそ、「同じ実験を繰り返すな!」なのだ。

 より良い追加作業をきちんと追加するためには、論理でこれまでの作業の中から無意味な作業のみを見極めて、それを思いきって省く勇気が必要なのだ。だから、まったく同じ実験をしていてはいけない!
 ちょっとでも、数十秒でも良い。もう少し短縮できないか?、ここを省略できないか?と考え続けることが大切なのである。例えば、俺は、二回目以降の条件が決まった実験では、バッファーなどを調製するときに、なるべくピペットマンで吸い取る量を動かさないような濃度の中間ストックを逆算して用意してしまう。たった、これだけで、これからのすべての総時間を換算すれば1時間以上はゆうに短縮しているはずである。

 そして、完全に実験系が決まりきったら、データ数を稼ぐために実験を繰り返せば良い。
 その場合も、同じ実験を繰り返してはいけない。試薬の置く場所、使う容器、(ゼミなども考慮した)時間帯、あらゆることで改善点がないかどうかをチェックしながら実験すべきである。なぜなら、実験というのは、決して高尚なことではなく、ただの作業に他ならないのだから!
 ただし、繰り返しの実験をしたときに、変えて良いところと、絶対に変えちゃいけないところは、論理的にきちんと考えられていなくてはいけない。それは系統誤差によって既定されている。だから、例えば、生物系の実験をほぼ毎日している人で、ピペットマンの最大許容誤差のオーダーを(なんとなくも)知らない者は、やる気が無いのだな、とどうしても思ってしまう(絶対量として、だいたい1/100は信用できない、と覚えておけば良いと思う)。http://www.technosaurus.co.jp/categories/view/262

 というわけで、必然的に、おもてにでてくるデータは、全データに対して数十%以下になるはずである。これくらいになっていない人の実験結果について、本当のところ、俺はいっさい価値を感じていない(もちろん、素晴らしいですねぇ、くらいの演技はしますけど)。
 しかし逆に言えば、それくらいのことで、より良い劇的な変化として、素晴らしい実験結果は簡単に得られるのである。

 そう、、俺は、一日も早く、有意義な一日を迎えられるような変化を、今は遠くで、願っている。
 有意義な一日を迎えるためには、ルーティンな生活から脱して、何を引き算すべきかを考え、それを勇気を持って省き、さらには、より良い追加作業と入れ替えなくちゃいけない。これは実験と同じだ。

 俺のフルパワー、観たことないじゃん?
 他人に対してだって、スイッチが入って、本気でより良くしようと思ったら、あっという間だぜ?そのときは、誰が止めたって、それを止めさせない。

 そのためには、まずは、「同じ実験を繰り返さないこと」だと思う、お互いにね。
 より良くしようという気持ちが、きちんと共発現するならば、お互いの別々の価値観、お互いの別々の夢を、同一時空間上で受け入れ合え、一緒に叶えていけると、俺はそう想っている。
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あったかいんだからぁ

2015-02-10 00:20:56 | Weblog
 たった、あったかいんだからぁ、だけでよくここまで流行るよな。マジで世の中よくわからない。まぁ、確かに、面白いんだけど。
 というわけで、今日は、俺の好きな、あったかいんだからぁ、のカバーを集めてみました。まずは、元ネタのクマムシのネタを観ておきましょう。

あったかいんだから~ クマムシ


 ちょっと驚いたんだけど、このネタって2013年にすでにやってるのね。最初にやってから流行るまで2年もかかるのかよ。いやー、ホントに、繰り返し言うことって大事ですね。繰り返し言うことで、一気に流行るポイントが来る、、かもしれないんだね笑。
 俺がこのネタで一番面白いなって思うところは、「お風呂あがりのアイスの最初の一口」のとこです。あったかいんだからぁ、、確かにちょっと(心が)あったかそうだけど、いやいやそこは冷たいだろ、ってなる。そのめんどくさい思考回路そのものが面白いよね。

 さて、カバーですが、まずは、やはり、アカペラから、

【歌ってみた】 クマムシ / あったかいんだからぁ♪ - ハモネプ Ver.


 やっぱ字ハモが多いのがイイですよね。そして、終盤「お風呂あがり~」からはベルトーンになって、また字ハモ。いいね、流石だね、アカペラわかってるね、マジ、この構成、素晴らしい。
 俺、こういう終盤のアクセントの付け方大好きなんです。例えばピアノとかも同じで、最後のCメロとか、Aメロ(2)とかを、1オクターブ高くして弾くのとか、大好きです。この短い時間でよくアクセントがつけられています。

 そして、次は、踊ってみた、かな。

クマムシ/あったかいんだから~remix 踊ってみた


 ダンスってのは、リズムと歌詞の構成に合わせて、その音が表現していることを身体全体で表現することが基本だと思いますが、これはその基本に忠実です。リズムに合わせるところはきちんとリズムであわせ、歌詞に準ずるところはきちんと歌詞に準じています。そして、全体として、クマムシの気持ち悪さの裏側にある本当の可愛さを、上手く体現している気がします。
 特に、はじめ(5カウント目はじまり)から5エイト先の5~8カウント目で、スープを掻きまわす仕草は、歌詞リズムともに完璧なマッチです。こういう振りつけは、本当に音楽が好きな人、ダンスが好きな人じゃないとできません。そして、シンプルでめちゃくちゃ単純だけど、こういう振りを合わせるのは意外と難しいと思います。

クマムシ『あったかいんだからぁ』バンドアレンジしてみた


 まず、こいつらは衣装が正解(笑)。よくぞ短い歌詞を、ギターソロのアレンジでここまで仕上げました。そして、ギターソロからのピアノ伴奏。チョーキングからのピアノ!!超好き!、わかってるね、音楽わかってるよ、この構成!笑
 俺ダメなのよ、こういうの、もう無条件で好きになっちゃう。例えばシティーハンターの「get wild」のラストとかもそうなんだけど、バンドのうるさい感じ→ピアノ綺麗な感じ→超うるせー盛り上がろうぜ、みたいな構成に、めちゃくちゃ弱くて、大好きになっちゃう。ただ、ボーカルのボリュームがもう少し欲しいかなとは思いました。

 さて、ここまで紹介してきましたが、実はこのネタを初めて聞いたときから、SMAPの「笑顔のゲンキ」を思いだしていたんですが、それを思ってる人は多いみたいで、それを動画にしちゃってる人もいます。

【全部俺】笑顔のゲンキ あったかいんだから【ふるくとうす】


 もともと笑顔のゲンキは好きなんですが、こうやってやると、あったかいんだからぁ、って、マジで、笑顔のゲンキのパクリだな(笑)。
 俺も多重録音で一人アカペラでもやってみようかなぁ、マジで寂しいですが(笑)。やったことないんだけど、マイクと音源とパソコンあれば、これでも俺、絶対音感の端くれなので、なんとかできそう。

 あー、こういう記事って、最初は持つんだけど、きっとクマムシが廃れていくように、この記事のアクセス数も下がっていくんだろうなぁ。。
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遠い日のメロディー

2015-02-08 03:10:28 | Weblog
 正しいことを貫いていくときには、必ず何か障壁が生じる。それは他人に対して迷惑になってしまうということゆえの障壁であり、決して自分の能力の問題だけではない。
 つまり、他人に迷惑にならないようにという部分を優先させると、どうしても自分に対して誤魔化さないとやっていけなくなってしまうのだ。

 あらゆる環境、価値観、尺度の違いから、本人の頑張り以外のところでの能力差は簡単にできてしまい、結局のところ、努力や本人の意思などは殆ど関係無く、ただの運や最初からの才能によって、能力は既定されてしまう気がする。

 その事実に謀反を起こすなら、システムを上手く利用するしかないし、他人にいっさい感謝もしない我儘さを持たなくちゃいけないし、実際にそういうヤツが成り上がっている。
 俺はその事実を直視することは耐えられなかったし、その現実から目を背けて、理想ばかりを語っている世間知らずに愛想を尽かしたのだと思う。

 「なんで俺が君の前から姿を消したか、わかる?」
 『ああ、もちろん』
 「流石だな。今や、Aグループ東大生だからな」
 『いや、俺は今も、Aグループでも東大生でも無いよ。どうしても相対的にそう見えてしまうんだったら、俺のことを、DQNに成り下がった、まだ学生やってんのかよ、って見下せばいい』
 「カワラナイね。こちらがひっそりと誤魔化している心の中だけの言葉を、簡単に具現化してしまうデリカシーの無さ」
 『俺らは友達だろ。仲間だったろ。思ったこと、考えたことを、そのまま口に出して、いったい何が悪い?』
 「親しき仲にも礼儀あり、という言葉、知ってるかなぁ?まぁ、君に言ってもわからないね、一生」
 『そうやってすぐにそれっぽい格言に逃げて、それが通じないとなると、関係を断絶しようとする姿勢は関心しないな。しかし、今は逃げられないぞ。何故なら今は、お前が立ち上げてくれた"俺の頭の中"で会話しているのだから』
 「君の生き方は、大勢の人を犠牲にしているってこと、君は気がつかないの?君が君らしく振る舞えば振る舞うほど、自分が厭になって、自分がいかに誤魔化しているのかを直視せざるをえなくて、こんなにも辛いというのに。そして、君は、君の自分勝手な理想と妄想を貫き続ける手法をいつまでもとらせてもらえているほど支えてくれている人達に、感謝もしていない」
 『それはそうだな。俺は、今も昔も、単純に薄っぺらい言葉で、皆さんのおかげです、皆さんに感謝しています、などと何かにつけて唱える輩は嫌いだから』
 「不公平だとは思わないの?君が理想を貫く一方で、なんの援助も受けられずに泣いている人や日々に絶望している人がいる」
 『人生はそもそも不平等で残酷なもの。だからこそベルヴィ』
 「その言い回し、俺に対するアテつけか?」
 『その通り。お前がいかに誤魔化すようになってしまったかをお前自身が認識することこそが、新しい、より良い一歩を踏み出すのだから。それにお前は俺を勘違いしている。俺は、理想を貫きたくて理想を貫き続けているわけではない』
 「じゃぁ、なぜ?なんで、どこかで止めて、収束しておかなかったんだよ?」
 『それは、、今は瞬間的に自分で自分を誤魔化しているかもしれないけれど、心の奥底でそれが間違っていることを認識し、その上で、まだ未熟な俺なんかに賭けてくれている人に、申し訳ないからだよ。後に彼ら彼女らから嫌われたとしても、いっさい無視され続けても、俺は彼ら彼女らの支えがあったからこそ今が成り立っているわけで、俺の純粋な部分に賭けてくれた気持ちそのものを裏切ることは俺にはできない』
 「それなら、なおさら、どこかで止めるべき。何事もほどほど。君に賭けてくれた当人を君の理想によって破壊するかもしれないんだぜ?なんで君は、君と同じ名前の登場人物と同様に、向上し続けるということを最大の善とするの?」
 『いや、そんなつもりはない。そんなに大それたことは考えてもいないけど、、でも、その賭けは、賭けてくれた当人を破壊してでも、絶対に勝たせなくちゃいけないことだと俺は思っているのだと思う』
 「危険だな」
 『何とでも言え。必ず切らせてはいけないラインを、俺の傍にいる限りは絶対に切らせないことは俺が保証する』
 「そうか、それなら俺は、無難に現実を観るという一見安全そうな価値観に身を置き、そのチャンスを自ら放棄したということか」
 『チャンスなんて、いくらでも転がっているさ。また今度、同じ試合のフィールドで、正々堂々戦い合おう。頑張ってればもう一度出会えるはず。そうすれば、少しは、良かった、って思えるはずだ』

 あれから長い時間が経って、その間に離れた人もたくさんいる。裏切られたこともたくさんあった。
 だけど、君と見つけた楽園に、裏切られたことはない。音楽や学問そのものは、いつでも純粋であり、そこに誤魔化しを感じさせてしまうのは、いつだってアーティスト自身、研究者自身なのだ。

 TOKIO - 遠い日のメロディー
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ゲーム大好き

2015-02-07 00:46:57 | Weblog
 いやー最近毎日やってるんですが、「ドンキーコング リターンズ 3D」がマジで面白すぎる。そして、マジで難しすぎる。まぁ、2年も前のゲームなんですが(Wii版だと5年前?)、3DS面白すぎだわ。マジで。
 ゲームで久しぶりにこんなにはまってる。毎日定期的にやっちゃうんだよね。時間決めてるから途中でやめるけど、これ時間無制限でやったら、いつまででもやってると思うよ、俺。もうねぇ、芸が細かすぎるのよ。背景きれいだし、音楽とシンクロとかあるし、トロッコは相変わらず面白いし、よくぞここまで色々考えてくれました、っていうものづくりの仕方をしてる、任天堂は。

 俺、定期的にゲームはやるほうなんですが、ゲームは本当に色々な能力を補ってくれます。ドンキーコングみたいなアクション系は思考における瞬発力とか決断力を鍛えてくれる。これは、実験で瞬時の思考力を要求されるとき(一ヶ月に一度くらい訪れる)、つまり、いかに意味のあるデータを得るかを瞬間的に考えなくちゃいけないときに役に立ちます。

 ゲーセンのアンサーアンサーにハマってた頃に(地元のある集団と会えば必ずやってた時期がありました笑)、自分がこのくらいの時間で思いつくだろうという思考のフィードバック機構を得ましたが、それは大きな学会や大きな講演会で超有名人にオフェンスする際に役に立っています。どーでもいいカンファレンスでは、質問の機会を簡単に得ることができますが、人数が多くてみんな手を挙げるような有名人の講演だと、そうはいきません。(それでなくても、年功序列に気を使って、年配の先生のどうでもいい無難なオフェンスを優先的に拾いあげ、学会を内輪感なぁなぁ感で済ませようとする、点数稼ぎのクソ座長は多いのに)
 しかし俺は、手を挙げてから質問内容の言葉を構成できるので(手を挙げてから考えているわけではない!)、他の人よりも遥かに早く、しかも確実に、オフェンスすることができるのです。

 ゲームって、本当にいろんなとこで役に立つなぁ笑

 それにしても3DS面白い。
 理系は、3DSやりましょう。必ず。そんなどうでもいい実験や計算は、一度止めても死にゃーしません。ゲームほど良いものづくりの仕方で、がっつり理系チックで、みんなに行きわたってるモノは、俺は他に知りません。これほどのものから、学ぶことはたくさんあるはずです。

 実は俺はポケモンXYが一番やりたいのですが、、まぁ、またバカにされるので、まだやめときましょ。

 そういえば前に研究室でディズニーランドに行ったときのこと、"かくれんぼ"のアトラクションに並んでいるとき後輩とDSでポケモン対戦やってると、お母さんと2人で並んでいた小学生の男の子が対戦に入ってきたことがあって、3人でポケモンしたことがありました。
 ライオンはウサギを狩るときでも全力を…の精神は流石の俺でも小学生相手には出てきませんでしたので、わざと負けてやると、その子はとても喜んでいる様子でした。一通りポケモン対戦をやり終えると、本来の目的であるアトラクションのなかのゲームへと入ってく時間が訪れました。すると、すぐ後ろに並んでいたはずなのに、その男の子と俺らはだいぶ離れてしまいました。

 アトラクションが終わった後、俺らはしばらく、その男の子を待っていることにしました。ブーと同じように"バイバイ"と一言告げるために。
 実際、かなりの時間、待った。その子が俺らの前に姿を現し、俺らが"バイバイ"と告げると、彼のお母さんが会釈し、肝心の彼は、「誰だっけ?」という表情をしながら、あっけらかんと、ポカンとした顔をしていました。

 その顔を観ながら、俺は、いや、俺らはきっとこう思った。。彼を待っていて本当に良かった、と。
 ゲームは素晴らしい。こんなことが起こるキッカケを有しているものづくりを、俺らもしたいもんだなぁと思う日々である。

Nintendo 3DS Christmas present reaction


Pokémon Y Birthday surprise!
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自ら死を選ぶということについて

2015-02-05 01:43:26 | Weblog
 Life Phenomenon \ Non-equilibrium Statistical Thermodynamics ⇔: Theory Unique to Life

 という論理式を念頭に置きながらでないならば、生命科学・生物学を理学の意義として研究する意味はない。つまり、物理現象からのアノマリーとして生命現象を観つめながら「生命とは何か?」という問いに明確に答えたいという気持ちを持っていなければ、理学の1分野としての生命科学・生物学というのは、まったくもって意味のないものだと私は考えている。
 実のところ(といっても私の周囲の人は全員知っていることだが)、私は「生命とは何か?」ということについて非常に面白い試みだとは思うが、それ自体にはあまり興味はない。確かに人並み以上には興味があるし、これに情熱的に取り扱う人達を尊敬はするが、「生命とは何か?」ということそのものは、非常にどうでも良いと思っている。

 しかしながら、私の周囲の情熱的かつ有能な諸君の意見を総括すると、私には、生命現象特有の理屈、というのがなんとなくわかる気がしている。

 生命の古典的な定義は、私がいつも挙げている4つ(自己複製、エネルギー代謝、入れ物、進化する力)がディフェンス力が一番高いのだが、これはあくまで性質を言っただけであり、決して本質ではない。それを統合するような「何か」を皆求めているのだ。
 さらに、生命とは可塑性かつ頑健性がある、との意見もあるが、これも的外れである。それはソフトマター一般に現れる特性であり、生命固有の性質ではない。
 各要素はそれなりのヒント(パズルのピース)にはなっているのだが、これらを統括する何かは何だ?と探ってみると、私には「進化・学習」というキーワードが一番手っ取り早く理解できるのではないかと思う。こう考えてみたらどうだろう?

 進化 - 変化 =: 意志

 自己複製とエネルギー代謝と入れ物の性質は、広い意味での自己保持を成り立たせている。それ自体は単なる物理現象として扱えるだろう。進化とただの変化の違いはなんだろう?と考えてみると、それは「より良くなる」ということだ。だとすると、「より良くなる」というのはどういうことか?という話になる。それは、より可塑的で頑健的で、自分たちをより長く持続させるということである。そこには何か意志のようなものが働いているように思えてくる。
 進化というのが長い時間スケールを示すものであるがゆえ気に入らないなら、次のように考えても良い。

 学習(情報) - 履歴 =: 意思

 こちらは、もっと時間スケールは短く済む。より良くなりたいから生物は有益な情報を学習するのであり、単なる履歴現象との違いは、「より良くなる」こととはこの履歴である、と評価している意思の存在である。

 「意志」でも「意思」でも、(私にとっては至極)どうでも良いのだが、特に意思ということを実験的に示すためには、「動き」そのものに着目する他ない。なぜ、こういう環境変化には可塑的で、こういう環境変化には頑健的なのか、、それは内在する自我が支配する意思そのものの存在ゆえであり、生物種全体で感じとる意志がそれを決定づけているからだ。それを自然科学のなかで示そうと思うなら、「動き」そのものの生命固有性に着目することが唯一それっぽいと私は感じる。

 人だって、意思があるからこそ、誰かと交わることで自己複製を行い、食物を得ることでエネルギー代謝を行い、自分固有の領域を守ろうとする。それらを維持し意思を保ち続けるために、周囲に同調しなくてはいけないから可塑的になり、集団のなかでの自分のレゾンデートルを守らなければならないから頑健的に振る舞う。
 その階層構造がもっと大きいのが進化や意志であり、生物種固有の成り立ちを多様性のなかで維持しようとするのだ。

 だから、私には、生命とは意志や意思を持っているモノと想えてならないのだ。



 俺の周囲には定期的に自ら死を選びたいと考えている者が何故か現れてくる。
 彼ら彼女らがどのような経緯でそう想うかはそれぞれなんだけど、共通しているのは、自分の理想とかけ離れた現実に絶望し、本来すべては無であると思いこんでいるところにある。

 そういえば俺も小さい頃のある瞬間、『これって、全部、なに??』と思ったことがある。『これは、ぜんぶ、いったい、なんなんだろう?』と非常に怖くなって、夜眠れなくなることが間々あった。
 確かに、無であることが普通のことだし、そっち側を基準にするならば、今自分がこんなにも辛く苦しいのだから、それをすべて無かったことにすればラクになるし、しかも、この不可解で有限な世界に残る者たちに何かの示唆を与えられる可能性があるならば、これはいっそのこと、今すぐに死んでしまえばいいのかもしれない。このように考えていたりするのだろうか?

 もし、このように考えているならば、非常にバカである。

 俺らはその通常である無を、ものすごく長い間ずっと味わってきた。確実にもう一度、全員が絶対に無に戻る。絶対に人は死んでしまう。それは明らかなのだから、この迷い込んでしまった奇妙な世の中を、思う存分冒険した方が楽しいじゃないか、と思えてくる。楽しもうと行動を起こす意思は我々人間には備わっているのだから。
 もし、楽しもうとする意思が無いのだとしたら冒険心がないわけである。いくら無が通常であると悟ったとしても、俺らの学習はこの世しかないのだから、無に向かって冒険することは、この世で無謀に生きることより遥かに怖いことであろう。

 だから、俺は、自殺をしてしまうバカが、納得はおろか、理解すらできないのだ。

 俺も死にたいと思ったことくらいは何度かある。しかし、そう思えば思うほど、だったら大胆に生きてやろうじゃないか、死ぬってくらいまで考えられたのだから、ムカつく相手にここまでは発言できるよな、みんなの前でも堂々とこういった理想的な振る舞いを取れるよな、もっとガンガンにチャレンジできるよな、だって、死ぬってことまで思えたのだから、笑われようがバカにされようがどうだっていいじゃないか、どーせ最後には全員死ぬのだから、無が普通なのだから、と自分を本当の意味で客観視することができるようになる。
 本当の意味で自分を客観視する手法をきちんと学習すると、本当の意味での自分の意思が創発される。この有益な情報こそが、自分をより可塑的かつ頑健的にしていき、それらが大きな履歴として現れ、次第に意志として後世に伝わっていくのだ。

 「動き」こそが生命を創る、などとは、俺はまったくそうは思わないが、あまり深く考えずに、とにかく遮二無二、(それこそ)死ぬ気で行動してしまうことで、生きる意思そのものが、より強く生産されることは間違いないと思う。

 だとしたら、自殺したいと考えてしまったバカなあなたは、自らの意思を明確に掴む前兆が起きているわけで、実はものすごく成功する可能性が高いのかもしれないね。

 そして、そういう人が、定期的に俺の周りに来ることは、決して悪いことではないように思える。
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何が大事かを考えることが一番大事

2015-02-03 00:12:09 | Weblog
 ゆっくり考えて欲しい。これは俺が大好きなあなたに唯一要求することだ。

 物理学の最大のウィークポイントはすべてを質点系で考えてしまうことにあり、幾何学的構造の重要性を曖昧にしてしまう。
 化学の最大のウィークポイントはすべての変化は分子間の電子移動によって起こると考えている点にあり、場やマクロからの要求を御座なりにしてしまう。
 生物学の最大のウィークポイントはすべては幾何学的な構造によって起こると考えがちであり、枚挙主義的な価値観に終始する点にある。

 これらのウィークポイントは、原理原則として、則決断できるようにするために生じてしまっている。真理という子どもは恥ずかしがり屋で、そっと根気よく多角的に手を差し伸べ続けなければ、現れてくれないというのに。
 にも拘らず、第一人者的な尤もらしい人が、尤もらしい表情で、尤もらしいことを言う。それに対して、何も考えずに、へーこら従っていてはいけないのだ。

 原理は単純だからこそ原理であり、決断は瞬間だからこそ決断なのだ。
 しかし、あなたには、このことはゆっくりしっかり色々補いながら考えて欲しいと思っている。

 あらゆる角度から未来を想定して欲しい。そして、あなたにとって、より良い未来が見えた時にだけ…。

 すべてを平等化して質点系として考えても良いかもしれないし、何かの流れや移動として考えても良いし、枚挙主義的な価値観、権威的な価値観、能力的な価値観など、それらすべてを包括して書きだしても良いかもしれない。

 あなたにとって何が大事かを考えることが一番大事である。

 それは必ずしも、俺がすでに想定した、はっきりと心に決めることができた、より良き未来と重なる必要はない。むしろ、まったく異なるほうが良い。
 その異なった理想的な未来どーしを、周りのみんなも含めて喧嘩しながらも寄り添い、お互いに達成させることこそが、ホンモノだと俺は思っているから。

 目をゆっくり閉じて、、、あなたにとって、より良い、明るい未来が想定できるかなぁ?

それが大事(大事MANブラザーズバンド)/スキマスイッチ×亀田誠治
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