たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

なぜ若者に成長と即戦力を求めるか

2021-09-26 23:46:04 | Weblog
 昨今、若者にばかり成長を求め、なんやったら最初から有能なヤツはいないのかと探し続ける。自分自身で実力を高めて成長する気は一切なく、なんやったらすでに成長しきっている即戦力を求めていたりするのである。
 これはまさしく代理戦争の波が一個人にまで及んでいるんだなぁと思う。

 代理戦争といえば、ポケモンだ。
 ポケットモンスター、縮めてポケモン。これこそ、代理戦争をモデル化した最たるものだと思う。ポケモン達はトレーナーに理不尽にゲットされ、こき使われる。「な?お前も俺がポケモンマスターになるために頑張ってくれよ!」と、いきなり多くを求めてくるのである。

 彼らポケモンも大変である。。

 ……………………

 ヒトカゲくん、元気ないじゃん?
 いやー、最近はエサがなかなか取れなくて困ってるんですよ。リザードンさんは?
 まぁ似たようなもんだけど、かえんほうしゃで草木を焼き払って、焦げたきのみとか食べてるよ。
 さすがスケールが違いますね。
 
 環境には悪いと思うんだけどね。
 そういうことも考えているんですね。
 いや、まぁ、そろそろいい年齢だし、じき子供も生まれるし。
 え、おめでとうございます!そうなんですね!

 生まれてくる子供のためにも、環境を残しておかなきゃって思うじゃん。
 なるほど。
 そう思うと今の方法はどうにかしなくちゃなぁと思ってるんだけどね。
 背に腹はかえられないですもんね。
 そうなんだよなぁ。

 ヒトカゲの頃はよかったなぁ。食べる量少なくて良いし。
 進化は何かきっかけがあったんですか?
 ほら、カメールが大量に襲ってきた年があっただろ?
 あー、例の第二次カメール襲撃ですか。
 それで進化せざるを得なくて、必死で特訓したんだよね。

 さて、そろそろ、お腹すいたな。なにか探そうk。。

 「お、ヒトカゲとリザードンだ!」
 やばい、人間じゃん。ヒトカゲ、お前は逃げろ。
 「いけ、ギャラドス。なみのりだ!」
 うへ。
 「ヒトカゲはいらないな。即戦力にならないし。ギャラドス、とどめをさせ!」
 うう。。
 「リザードンにはそれ以上攻撃するな!ちょっともったいないけど、ハイパーボール投げちゃおう。リザードン、ゲットだぜ!(ぴっぴかちゅう)」

 「リザードン、君には炎タイプとしてだけじゃなく、ドラゴンタイプとしても期待しているよ!」
 いや、いきなりそんなこと言われても。。っていうか、子供に会わせてくれるんですかね。
 「そんな柔な攻撃じゃダメだろ!ドラゴンテールをもっと練習しろよ!そんなんじゃ、俺がポケモンマスターになれないんだよ!」
 そんなこと言われても、俺は炎・飛行タイプだからなぁ。。ああ、ヒトカゲくんは、大丈夫だったのだろうか。。

 「リザードン全然、ドラゴンタイプの技が光らないなぁ。やる気ないみたいだし。とりあえずボックスにとっておこうかな」

 ……………………

 突然、理不尽に代理戦争に巻き込まれ、主人の勝手な夢をかなえるために、手元におかれる。
 そして、主人がどんなに無能でも、主人にとって役に立たなければ見捨てられる。

 旧世代にとって、こんな風な環境が当たり前だと錯覚してしまったのは、いつからなのだろう。そして、彼らは口を揃えてこう言うのである。
 「それが嫌なら、自分がトレーナー側になればいいじゃん!」
 いや、、それって、お前らと同じようなクズになれってことやん。。自分の子供を中学受験という代理戦争に巻き込ませているような世代にはわからないのかしらね。

 自民党総裁選が話題だが、それもまた代理戦争の様相である。
 どこの派閥で誰が応援しているか。だから、私を支持してください、ってね。

 誰もがトレーナーに成り下がってはいけない。誰かに代わりに戦わせるのではなく、テメーが強くなれ。
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どうして世間は研究に厳しいのか

2021-09-23 01:43:22 | 自然科学の研究
 研究や大学院に対する社会の風当たりは非常に強いのが常なのだが、ここ最近のそれは異常なレベルにまで達している。それはなぜだろうか。

 そもそも日本人は「普通」であることを重要視する。そして、「普通」でないのであれば「スペシャル」でなければならない、という価値観が強い。
 「普通」とは、23-27歳であれば会社に出社し、働いていなければならない。そうでないなら、なんらかの「スペシャル」を要求するのが、大学院という特殊な環境以外に暮らす一般の環境にいる人達からの要請なのである。

 その「スペシャル」を、ある人は東京大学等の大学名に委ね、ある人は学振や論文などに委ねる。

 俺自身もそんなことは何度もあった。

 「え?今いくつ?」
 「25ですけど」
 「それで学生なわけ?」
 「はい」
 「ふーん。。それでどこの大学院行ってるの?」
 「東京大学です」
 「え、、、すみません」

 と、ここまでがテンプレートであり、博士課程の頃なんかは、こういったやりとりにすっかり慣れたもんだった。最後に謝ってしまうことで「私はあなたのことを、良い年齢になっているにも拘らず、ただの道楽で自分勝手に学生を続けている、ナメた人間だと思っており、完全にバカにしておりました」ということを伝えちゃってるんだけどね。
 それも、東京大学という言葉一つで「スペシャル」だと勝手に思ってくれて、謝ってくれて、下手したら尊敬してくれるのだから、ありがたいことこの上ない。と同時に、くだらないことこの上ない。

 学歴をはじめとした、自分の有能さを客観的に表すための「言葉」というのを得れば得るほど、自分よりも無能な人の指示を聴く必要がなくなる。
 特に”東京大学”という言葉は、自分の頭できちんと考え続けることを放棄してしまった人たちを、軽く一掃するだけの力を持っている。だからこそ、現所属であった場合に、この言葉を奪われることを、彼ら彼女らは必要以上に恐れるのである。
 論文があるかないか、それによって、職や奨学金が決まったりする。だからこそ、著者に入れるかどうか、著者に入ったとしても順番がどうか、という評価の問題が、常に各大学院生・各研究者の両肩にのしかかる。

 一般社会の「普通でなければスペシャルであれ」の要請は、アカデミックのみならず、社会で暮らす多くの理系研究者・技術者にとって、重くのしかかってしまう。
 「君たち理系は普通じゃないのだから、コミュニケーション能力が、きっと無いだろう。私たちが教えて差し上げよう」
 「研究をやっている人なんて普通じゃないのだから、資材をどこかに隠すかもしれない。普通の感覚を有している私たち社会人が、もっと徹底して管理しなければ」
 「どうせビジネスのことはわからないのだろうけど、儲かることをやるのが企業ですからね!」

 俺たちにとっては、お前らなんかスペシャルではないのだから、普通であれよ、という要求を柔和に伝えてくるのである。
 
 物事や内容を考えないまま、自分の思考力を高めようとしなくても理解できる事柄しか目に入らないようにして生きていけるように、少数派である理系社会に対して、多分に要請を課し、厳しく徹底的に管理する。すべては、無能なままに有能な人材をコントロールするためである。

 それらの強制力から守ってくれるバリアは、東京大学であり、学振であり、論文の数やIFであり、アカデミックポストであるのだ。

 ねえ、僕らは、そんなことのために、サイエンスを志したのだっけ?
 違うよね?もっと純粋な気持ちで、サイエンスを志したのではないの?

 勝つとか負けるとか、それを他者に使っている限り、絶対に本質的な事柄を掌握することはできない。小さいテーマをやっていても、大きいテーマをやっていても、勝敗を人間に委ねてはいけないし、委ねられたら弾き飛ばさなければならない。

 確かに僕らは、ファラデーやアインシュタインがやったことにくらべれば、クソくだらないことしかできないかもしれないし、「スペシャル」ではないかもしれない。
 けれど、たとえば、論文の著者の順番等で争っている暇が、果たして本当にあるのだろうか。ゴールに向かってシュートを打たなければ1点にならないのと同様に、きちんと自然現象が相手であると見定めて、やるべきことを淡々とやっていかないと。

 それが、理系として誇りがある、ということだと思うのです。理系よ、世間なんかに負けるな!
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