たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自分の足で歩こう

2014-01-29 23:54:03 | Weblog
 自分の足で歩くには、それなりの覚悟と根性がいる。
 今まで他人の運転で道を進んできて、自らの能力が高いと勘違いしてしまった、その生半可な気持ちで、主体性を持とうとしてしまえば、あっという間に、他人の運転で道を進んでいる者に追い抜かれてしまうだろう。

 だから、主体性があるべきだと自分に課すならば、驕りがあってはいけないし、常に本気でなくちゃいけない。自分が進むべき道を創ることについて、少しでも手を抜くことは許されないし、自分が世界で一番バカだと思って努力しなくちゃいけない。
 そこまで準備していても片手間に作業している人間に論破されてしまうことだってある。圧倒的な論理性を構築するためには、綿密な準備と信頼関係のある仲間とのディスカッションが必要不可欠で、ホントに、生半可では、すぐにまた、先人が運転する車に乗車したくなってしまうだろう。

 前提に戻ろう。果たして、そこまでして、主体的であること、自らの足で、自ら道を創りながら歩くことは、大切なことなのだろうか?

 少なくとも俺ら、大学院にまで来て研究に従事している者としては、何かしら自らが主体的にやりたいことがあって来ているはずだ。だから、一時の忠義はありえても、それが長年続くようでは、いけない。
 いやいや、研究なんて関係なく、すべての人生は主体的であるべきで、忠犬になるのは一時的でなくては、生きている意味が無いではないか。

 主人の命令に従順な犬タイプが、いつまでも主体的にならないイイワケとしてよく用いるのは、「社会だから」「大人として」。
 大人として社会に参加するということは、忠義の心以外の気持ちを捨て、自らの希望を諦めるということの言い換えではない。生きていくために必要なカネを得るために、毎日自らを殺していくならば、愚の骨頂。"When will my life begin?"

 自分の足で、自ら道を創りながら歩くのは、確かにコスパーが悪いことなのかもしれない。
 けれども、主体性を持つということは、「my life」を「our life」にするための唯一の確かな一歩なのだ。

 他人の用意した道を他人の運転で通過することで、自らの足で歩いた気になることよりも、本当に自らの足で歩くことを決意し、自らの道を創り、それで躓きながら前に進んでいくほうが、人生として価値があることだと俺は想う。

 そしてその姿勢こそが他人を感動させ、最終的には本当の意味での信頼関係を掴みやすく、好かれるべき人に好かれるのだ。
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闘っている相手の正体

2014-01-28 00:23:04 | Weblog
 優しい人間が月日と大金を搾取され、それを平然と姑息な人間が自らの存在を維持するために正当化する。
 俺はこういうありふれた構造が嫌いだ。そして、この構造に隠れている、一見するとわかりにくい自分勝手を発している人間が、嫌いだ。

 強いて言うなら、俺は、このような、俺が嫌いな人間と戦っている。

 残念なことに俺には慧眼さがあるゆえ、こういう人間を見抜ける。それを指摘すれば、慧眼さのカケラも持ち合わせていない人から、「我々はずっとこうやってやってきた」「なんでそんなに文句ばっかり言うの?」とうるさがられる。
 俺は至極当然のことを指摘しているだけなのに、なんて損な天賦の才だろう(笑)。

 俺が、その集団のなかの悪習的な物理法則にとらわれないのはワケがある。俺には、とても信頼している人が、いろいろな場所にいて、その数が、普通の人間よりも圧倒的に多いからだ。
 慧眼さの源は、きちんと信頼関係がある友達の多さ。だからこそ、常に、真実という恥ずかしがり屋の子どもを上手に根気強く引っ張りだすことが可能になるし、こんなところでブログを公開することができる。

 いじめられている側の人間および傍観者は、自らが不当に搾取されていることに、心の奥底では、実は気がついている。それを引っ張りだす方法はいくつかあるけれど、その実験操作をしてみると、やはり外の世界が正しいんだ、って気がつくことができる。
 まぁ、いじめっ子側の人間も、実は物理法則につられて仕方なく搾取している場合が多い。カッコウが変温動物からの形質進化をもろに受けているせいで体温調節が不可能で、卵を一定温度で温めることができないから、托卵をするのと同じで、いじめっ子も、いじめることは、物理的に仕方のないことが多い。怠けようとして托卵するのではないし、悪意を持っていじめを行うわけではないのだ。

 だから、自然現象との戦いと人間関係の戦いは、常にイコールであって、それらが独立なんてことは、論理的に、ありえないのです。そんなんじゃ、まだまだ、思考力が甘いですよ。

 そう、闘っている相手の真の正体は、どんなときでも、物理現象そのものだ。

 「でも、そうやっていって、お前がその中の全員から嫌われちゃったら、どうすんの??」
 『ずいぶん心配性だね。そうなってしまったら、この場所から出ていくだけじゃん。』

 行くアテなんざ、いくらでもある。俺が行きたいところに道はできるし、それは俺が決めることではなく天命だ。
 俺は常にこうやって移動してきたし、これからもそうなる。そう思っていれば、自然と正しい論理が出てくるのだが、その源は、(精神的および実質的に)周囲に存在してくれている信頼関係のおかげだ。

 ずっとずっと、真っ直ぐさを貫き続ける。もしも、それで嫌われたなら、その場所から出ていくべき運命。
 っま、所属している限り、義務は果たすけどね。
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理系の敵は理系?

2014-01-27 01:32:38 | Weblog
 いまの日本では、よく知ろうともせず、その世界を覗いてみることもしないのに、人類には無価値なものだ、と決めつけることで、それらを理解することができない無能さを隠すことが推奨されている。

 これらの行為は、お互いに壁を作ってしまい、扉を開いていないことに起因している。

 こういうことがenhanceされているのが、理系の構造だ。
 すべての研究のタイトルが長すぎること、多くの企業の研究施設が地方にあること(よく、実験するから研究所は都内には置けない、というイイワケを訊くが、それはオカシイ。ならば、東京大学は、なぜ都内に存在出来ているのだろうか?)などで、実際に示されているように、前提知識無しでは理解できないくらいに細分化されてしまい、よその人が何もわからなくても業界や分野のなかで完結していればイイ、と考える理系が多数になってしまった。

 一般化することを恐れすぎて、知らないこと、その人にとって高級過ぎて理解できないことについて「細かい」と揶揄して、その世界を覗きもしないバカに「意味があるのか?」「役に立つのか?」と言わせるようなシステムそのものに問題がある。

 その世界に飛び込んでいるならいざ知らず、何も知ろうとせず、もしくは何も理解しようとすらしていないヤツに、それらの必要不必要を語る権利は無い。
 はっきり言ってしまおう。統計的に、多くの文系に理系を評価する権利は無いし、多くの理系が自分以外の他分野の理系の研究を評価する権利を、残念ながら、有してはいないのだ。

 しかし、その構造を理系みんなで守ろうとしている。理系の敵を理系に定めておけば、ラクだからね。女の敵は女、のように感じる瞬間が多いのと同じで、早い話、理系も悪いのだ。
 だから、他のゼミや、他分野のセミナー、よその研究室のミーティングになってしまえば、意見をまともに言えないことを自ら理解している、壁に閉じこもってばかりの理系崩れやダメな集団を「有能」扱いするんでしょ?

 「それでも構わないんですよ。だって、そういう構造でも、一定数、優秀な研究は浮き上がってきますから。」

 バカが。数打ちゃ当たる、セレンディピティーをハナっから期待する構造が、こんなところにも根付いているとは。そのせいで、(言葉のまま)死んでいる人間が、どれだけいるか。
 人殺しの構造を推進している社会構造、それがこの日本という国の現状なのかもしれない。

 もしも俺が教員になってしまうことになったら、俺は、理系教員でありながら、自分の生徒を理系にさせないような教育を中高生に施す。
 だって、自分の生徒を、死なせたくはないからね。そして、俺はそれに本気で取り組む。俺がそれに本気で取り組めば、日本から可哀相な理系を一人も生み出さないようにできるだろう。それが何を意味するか、わかりますよね??

 このまま理系同士で壁を作り続ければ、(少なくとも)日本の研究は、必ず崩壊する。
 嘘だと思うなら、いまの日本の音楽の世界を観てみろ。こんなにも凋落し、その勢いはとどまることを知らない。壁を作り続け、分野のなかでなぁなぁな評価をし続け合っている無能な理系は、ヘビメタしか聞かない!、アカペラしか認めない!、と決めつけているマニアックな音楽ファンと、何もカワラナイんだぜ?

 それを食い止めるためには、自然科学の研究の未来を明るく、楽しく、みんなで創っていくためには、「壁」ではなく「膜」を意識し、他分野に恥ずかしがらずにどんどん足を運ぶ気持ちが、一人ひとりの気持ちのなかに創発されることが大事。

 非常に当然だが、「壁」つまり孤立系を作れば、動的な構造はいずれ破綻する。数学的にはエルゴード性が、物理学的には等重率の原理が、それらを定めている。非平衡と掲げているわりには軽率ですね、そんなこともきちんと理解できていないんですね。これは比喩ではありませんよ?
 この問題の発生は、あなたが壁を作ったときから必然であり、それを取り除くことが問題解決の第一歩なんですよ。

 他を完全にシャットアウトする「壁」ではなく、物質のやりとりをセレクションする「膜」を取り入れ、そのシステムを高く評価することこそが、理系の敵が理系ではなくなる唯一の方法であると、俺は思う。
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Winds blow

2014-01-25 01:04:57 | Weblog
 その笑顔の中にあった居場所を捨てて、違う空の下で聞くslow jamsは、確かに切ない。
 能力的に何もできなかったあの頃と、能力的に何かできる気がしても実際には何もすることができない現状とが、記憶が消えないために同時に存在している今は、もっと多くのエンタングルメントを抱えているのかも。

 沢山の人の中に自分の身を置かせてもらうことで、少し広すぎる心の空間を埋めていく。お互いの覚悟によって成り立っている哀しき現実は、俺にとっては、楽しくも輝かしく素晴らしい日々であるけれど、時間を超えるために行ってきたということを忘れたことは一度も無い。
 だから、時として影って、闇の部分を享受しながらも、賢明に前を向こうとしていく。

 風が吹いているなかで、世界が終わる気さえしてしまった、あの決断は、俺がしたの?それとも…??
 このBiosphereがいずれ凋落してしまうのかどうか、なんてこと以上に大事だと感じていたのだから、ホンモノ?

 ホンモノしか許さない、厳しい判定基準のなかで、、叶うならば、もう一度。

Winds - 久保田利伸
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環境のせいにしましょう

2014-01-24 02:10:15 | Weblog
 どんな環境であったとしても、自らのエネルギーを持ってして、自己実現していけるくらいの実力がなければ、強く生きてはいけない。環境が悪い、なんてーのは甘えであって、劣悪な環境下やどうしようもないくらいヒドイ状況や呼吸するのさえ厳しい条件を強いられているのであっても、真理の追求をやり遂げられないなら、少なくとも研究者として、半人前なのだと私は思う。

 だから、悪い環境に身を置いていると感じるなら、その事実そのものを尊く想うことが大切だ。
 そういう気持ちの一つひとつに気がつけば、一度こもってしまった心を取りはらって、再起していくことができる。どんな環境であっても、そこに身を置くこと以上に、その環境を作ることのほうが遥かに難しいことは、とうの昔に、私が経験したことだ。だからこそ、この程度の苦難なら乗り越えていって欲しい、と願っているのだ。

 しかし、精神的負荷があるthresholdを超えてしまえば、再起不能となってしまうという論理を検討してみたことはありますか?

 もはや本来のやる気に満ちあふれた自分を閉じ込めてしまうしか術がない、という状況は、実際には存在する。確かに最終的には、どんな状況でもやっていけなきゃダメだけど、そう思えるだけの気力を奪われ続けている時間依存性を考慮せずに、理想論だけ押し付けるのは乱暴すぎやしないですか。
 それにね、その時間、その瞬間、確実にイヤな気持ちになるようなところを、わざわざ選ばなくてもイイでしょ。例えば、いじめを容認してしまい改善が観られない環境にわざわざ身を置いて、そこで論理を発揮するなんて、気持ちにとってよくないし、実は論理にとってもよくないのだ。

 もう一度、あの頃の輝かしい汗を戻すためには、自発的な何かを期待していてはいけない。
 手を差し伸べる側は、切先を相手に向けてしまった分、いま、自分自身に切先を向けることを恐れちゃダメよね。そんなんじゃ、戻せない!

 俺がまだ観たことない本来のあなたに戻すためなら、俺は、何にだってなるし、何だって実行する。そのための能力が足らないなら、能力をつけて実行し、必ず、基の状態を引き戻す。

 堂々たる宣戦布告は、物理現象、特に、再起不能を超える非平衡状態遷移へのチャレンジ。
 これは、俺と物理現象の勝負。

 まずは環境のせいにすることから。そこから始めてみたらイイと思う。
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優しさの剣術

2014-01-23 01:30:14 | Weblog
 言葉はその存在だけで誰かを傷つける。その刃を何に向けていくか、何には絶対に向けてはいけないか、よくよく考えていかなければ、取り返しのつかない事態になってしまう。

 意識として、切先を物理現象そのものに向け、柄頭は我々ヒトの側に向けるようにする。それだって振り回しているうちに誰かを傷つけてしまうことは多いし、自分の言葉のせいで溢れだしてしまった紅血を目の前に、そっぽ向いてしまいがちだ。
 たとえ本当のことであっても、厳しい現実としての真実であり、その責任は術者ではなく当事者に依るものだとしても、術者によって切られてしまったのなら、一瞥であっても懺悔の念を表すべきなのだと想う。

 何かのほんのちょっとした間違いで相手の状態が悪くなってしまったのなら、原理的に絶対もとに戻すことができる。誤解は解けても言葉は残ってしまうのだが、論理的に解釈されうるのであれば、病理学的に言えば、心に住みついた悪性腫瘍に対しての抗がん剤になりうる。

 そのような言葉は優しさと賢さを同時に発現しなければならず、自分自身を切りつける可能性すらある逆刃刀になるのかもしれない。
 しかし、それほどの覚悟が無いのならば、誰かを助けるなんてことは、できないのだ。

 くだらない雑務や、出席しているという事実だけが重要な会合に対して、時間を費やしているうちに、大切な純粋さは削られていき、助けられる、、いや、助けなければならない煌めきが失われる。んね?そういう覚悟があるのか?ということ。これは俺自身に訊いていることでもあるのだけど。

 すべての事柄は、いずれは一点に収束する。取り残していた問題も、連続性の中で育まれてしまった問題も、すべて。
 そのときに、また、どのような人が傍に残ってくれ、どのような人がいなくなるのか、、それを決めるのは、俺ではなく、周囲の善意だ。

 その舞台を、確実に積み上げていくように、正しいことを見つめ、可能なことを達成し、不可能なことを可能にするだけの剣術を得て、この賭けにみんなで勝っていきたいという想いが胸中に湧き上がっている。
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滅びゆく王国のなかで

2014-01-22 00:14:33 | Weblog
 自らの無能さを露呈させないために、自らの王国を造っていく。
 王国を狭く閉じられた空間にしてしまい、逆らえば呼吸さえ許されない環境を造ってしまえば、本当の能力を得ていかなくても、その中でキングとして君臨することが可能となり、社会的ステータスも得られる。

 そのような王国は、いずれ凋落し、滅びる運命にある。しかし、それは遠い先の話。まだ関係無いや、ってね。

 無能な人間がカネを無駄に使うため、やる気のある、(時に)優秀な若者を排除していき、やる気の無い、忠誠心に富む若者から搾取する。そんな具合に、無能さが3世代以上かけ巡ってしまったことで、無能さが助長されている今のこの世界に、もう、救いの見込みは無いのかもしれない。
 俺が(どんなことを専門としてきても)基礎的だと考えていることの多くを、俺よりも輝かしい言葉を持つ人や、有能だと讃えられている人の多くは、まったく理解していなかったりする。それは、彼ら彼女らにそもそも理解できるだけの能力が備わっていないということでは決してなく、彼ら彼女らがそれら基礎を理解する必要はまったく無いと考えているから理解できないのである。即ち、学部一年生レベルのこと、、いや、高校の数学や理科すら何も理解していなくとも、忠義の心を持つことの方が遥かに重要視されているということなのだ。

 そして、専門用語に専門用語を重ね、それらを用いることが当たり前のように振る舞うことで、自らの実力を虚偽し、本質的に何の意味も無いことを語るバカも増えていく。
 本当に賢い人は、どんな階層の言葉でも、その数珠繋ぎを繊細に行うことで、正しく現象を理解できるというのに。

 そういう賢さを持ち合わせている人でさえ、その賢さを道徳に使える能力を兼ね備えている人は、稀だ。
 なんと、荒んだ、夢も希望も無い、世の中であろうか。

 俺は危険すぎる賭けに出てしまっているのかもしれない。やっぱり確率は五分五分。
 賭けに勝つためには、コマンダーの能力のある人間が、コマンダーになることが必須。俺自身が指揮官となり、束ねていくしか、勝つ術は見えない。助けてくれる人は、周囲にきちんと存在しているのだから。

 ま、自分がより良くするために、まずは自分が上に立つ!と考えること自体、無能さを助長させるから、気をつけなきゃいけないけどね。
 だとしたら、解決方法は、正しいことだけを見つめることに帰着される。それが可能な環境と空気を創ろう。

 引くに引けなくなってしまって、ムリヤリ俺の粗を探そうと努力する無能さを、滅びゆく王国のなかで、笑って受け流すくらいの力量が欲しいかな。それが真のキングとして、要求されることだと想う。
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気持ちの問題

2014-01-20 01:04:03 | Weblog
 相手の未来のことを想う優しさを「厳しさ」と呼ぶ。

 でも、今の世に溢れている、いわゆる「厳しさ」は、ただ上の者がストレス発散するためであったり、システムの駒として生きていくことを強いるものであることしか無い。
 日本が本来持っていた、古き良き「厳しさ」は、とっくの昔に崩壊してしまっている。

 その原因は、残酷な物理現象にある。

 それは、重力の存在であることもあるし、エネルギーの関係性がコントローラブルでないところに起因していることもあるし、「生命とは何か?」について人類の理解が足らず人は死んだら生き返らないことであったり、時間の圧倒的な支配から逃れられないことでもあるだろう。
 我々は常に残酷な物理現象から逃れられない。だからこそ、自然現象でモノづくりをしている我々は、全員、物理学について深く理解をしておかなきゃいけないし、それを怠ってきてしまったから、大切な仲間を失うことになってしまったり、ドロップアウトを余儀なくされたり、心が荒みながら何年も同じ行為をすることを強要されてしまうのだ。

 未来の可能性を奪ってしまう「厳しさ」はもはや「優しさ」ではない。その見極めができる必要が俺にはあるし、それを失敗してしまった人達にどうやり直しをするかの手がかりをプライドを傷つけずに上手に与えることができる能力が、本当の意味でトップになるにあたって、俺には必要なのだ。

 優しくするためには能力が伴っていなければいけないのだろうか?
 俺はこういう疑問を生じさせないような環境創りをしなければならない。一生懸命に優しさを発現しようとしている人を絶対に無碍にさせないくらいの物理学の理解が欲しい。

 ときに、怒りをあらわにし、突き放したり、机を強く叩いたりすることも、必要なことはあるのかもしれない。
 しかし大抵の場合は裏目にでる。その平衡値がよくわからないならトップの資格はないし、それを間違ってしてしまったときや、それを下の誰かがもっと下の誰かにしたときに、いくらでもやり直しをすることができるような環境とシステムを創ることが、トップとしての能力だと想う。

 外に対して恥ずかしくても、仲間の気持ちを守る。そのなかで、必要な言葉を選んでいけば良い。
 ホンモノを削って世間体を気にするなんて哀しい。2人で徐々に世界に挑戦すれば良いし、仲間を増やして、より良くしていけばイイ。

 残酷な物理現象は、ほとんど、気持ちの問題に帰着することで、改善へと進捗することができる。

 残酷な物理現象のせいで、仲間の誰かの希望が落っこちてしまったときに、優しく拾ってあげられるような関係性と、その優しさの発現の大変さを見つけたときに、気遣ってあげられる関係性を、常に目指していこう。我々は、それができているし、これからも続けていけるように頑張ろう。

 今は論理性やデザインや赤の他人の意見よりも、まずは、自然科学をみんなで楽しもうとする気持ちが大事なのだ。

赤ちゃんと僕 ep19 「おなかペコペコ事件」
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未来としての今

2014-01-18 06:24:15 | Weblog
 どうしてあのときスイッチを押さなかったのか、なんで言葉にしてあげられなかったのか、って悩むこともあるけど、問題に直面してみると、その理由が心底わかってしまったりする。
 過去になればなるほどモノゴトは美化されていくし、ダメな部分や無理な部分をすっかり忘れてしまう。だけど、物理現象として、それらはいつまでも存在しているし、もしかしたら、解決される日を待っているのかもしれない。

 なんの結果も証明も無かった頃、淡い空気感のなかに確実に存在していた確固たる想いは、かなり優秀な人でなければ、見抜くことはできなかっただろう。それなのに俺は、その確固たる想いを自らに向けてのみ発動し、結果的に、確率密度函数は収束して、ただ一点にだけ捉えられることになった。
 自分の力を自分だけに向けていくつもりはないのだが、あの頃はただ自らの無力感でいっぱいだった、とも言える。

 『今だったら!』って思うことが本当に多くなった。こうなることを恐れてはいたけど、この賭けに打って出るしか術が無いとも思っていた。
 今だったらこんな方法もあるし、手段としてこういうことも考えうるし、って実質的な面で色々考えることができるけど、根本的な問題は精神的な部分にあるのであって、それが実質的な面で補強されうるのかどうかは今もよくわからないし、また問題に直面したら、何かの物理を想いだすのかもしれない。

 時間が経って、変わっていくことが恐ろしいのか、それとも何も変わっていないことが恐ろしいのか、俺にはもうわからなくなってしまった。端的に言ってしまえば、どちらも恐ろしい。俺はどうせビビりだ。

 どうにでもなる、っと他人任せにしている今の問題は、いざとなったら俺が最前線に飛び出して本気を出してしまえば、簡単に解決されると思っている。
 でも世の中には、どうにもできない問題もあって、それも世界中の誰かなら解決されうるのかな、、…なんて考えている、「そういうのがダメなんだよ」ね?、きっと。

 実質的な面が足りないから、ということをイイワケに、本質的な精神に立ち向かわなかった罪は重い。
 その不利益を、他の誰にも背負わせないように、未来としての今のなかで、できることを繰り返していく覚悟はある。
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限りない夢を

2014-01-15 23:20:13 | Weblog
 モノづくりとして至上のときは、参加者それぞれが各々の能力を交換できうる場面を感じ取ったときである。

 これは遠く幼いころから夢みているほどの本当の信頼関係がなければ達成されない。メンバー誰かの能力を自分が伝承し、自分の能力を誰かが伝承し、それをモノづくりの中に入れ込んでいく。
 まぁ、逆に言うと、こういうことを入れることができなければ、チームとしては二流だと思う。入れ込まない限り、誰かが得して、誰かが損している関係でしかないからね。

 この視点に立ったとき、パートチェンジをD'Ark〜en〜CielやP'UNK〜EN〜CIELという名でやってるL'Arc〜en〜Cielが、素晴らしいと思う。
 なかなか、できるもんじゃないけど、実際にできているグループは存在する。平等さや面白さを確実に入れ込んでいるからこそ、このグループは長続きしているのだし、楽曲も素晴らしい。

 成功しているバンドやグループは、必ずこの視点が存在する。
 能力を持ち寄って、それでどうにか組み合わせて良いモノを創ろうとするのは、実はコスパーが悪い。だって、そのモノづくりは、メンバーそれぞれが成長できないからね。なんも意味が無い。

 少し時間がかかってしまうんだとしても、少しイカレタと思われても、メンバー全員の気持ちを守りながら、楽しく、そして、それぞれが成長できるようなモノづくりにこそ、価値がある。 

 慣れ切ってしまっているはずなのに、自分を大きく見せようとしている自分に気がつくと、この信頼関係へのガチさと特異性に気がついていく。
 そんな哀しい目をしないで、、限りない夢を運命に変えていこう!

P'UNK〜EN〜CIEL - HONEY


L'Arc〜en〜Ciel - HONEY
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ただひとつの天意

2014-01-15 00:12:27 | Weblog
 今の日本の自然科学における研究世界は、主体的に取り組むことを侮蔑している。

 既存の理論と定石プロトコルを作業として繰り返し、すでに成果がでていることに、どのようにそれっぽく誤魔化して落とし込むかを考える人こそが有能であり、その分野内で成り立つ都合のよい論理構築を発展させる人、およびそれを遂行してくれる作業員こそが、この国に必要であると俺以外の全員が考えている(そうでない者は、手を上げたまえ笑)。

 あらゆる分野をマスターした場合に、新たな実験系や新たな理論が必然的に創発されうるものであっても、広く詳しく自然科学を学習した者があまりにも少ないために、それを正しく評価できる人材はおろか、理解できる人材すら存在しなくなってきている。
 まぁ、仕方のないことだ。みんな、生きていかなくちゃいけない。存在を否定されては、生きていけない。だからその分野のなかで従い、だからいつも通りの論理に落とし込み、安心感を得て、それを、なぁなぁな研究者同士の関係の中で、なぁなぁに評価し合う。

 俺も生きていかなくちゃいけない。だから、最善へ向かうため、俺の切り札を使う宣言をしたに過ぎない。

 ただ、俺が、こういった、上からの命令と既存の分野に従順な犬タイプ達へ、何かの不満をぶつけるのは、お門違いだとも思っている。

 なぜなら、俺自身が、それを望んでいたからだ。『言われたことをコツコツやるだけで普通は報われるはずなのに、どうしてこの環境では、それが叶わないのか!』と怒鳴ったことすらある。
 しかし、今となっては、あの環境は、少なくとも、主体性がある者を排除しスキルアップしやすくする、というカタチで、結果的に、俺のような研究を主体的に取り組む人間を推進していたとも言える。

 もはや、俺には、何が正解で、何が不正解か、判断がつかなくなっているのかもしれない。
 それは実質的で能力的なことについての正解不正解が判断できないという意味だ。

 俺が望んでいるのは、「ただひとつ」。
 優しさを優しさで覆いかぶせることを繰り返しながら、みんなで楽しく、ものづくりができれば、それでいいのだ。

 そして、俺は、もう、誰にも、それが素晴らしいかどうか、実現可能かどうか、を訊かない。訊いても、くだらない論理や、現実だと称する諦めが、返ってくるだけである。どんなとき、どんな場面でも、俺が心の中で叫んでいるのは、常に、『優しさが欠如し過ぎている!』という事実なのだが、その意を汲み取る慧眼さは、一番それらが残っているはずの研究の現場にすら、一切存在しない。
 だから、俺は、天に訊いたのだ。「賭け」は、天意や運命を教えてくれる点で、優れている。その手法を、俺が知らねーわけじゃねーんだぜ?

 俺が天に訊いたのは、俺の望みや俺のスタイルが、正しいかどうかではない。それらが正しいのは自明だ。
 俺が訊いたのは、お互いに傷つきやすいまま、優しさをやり取りし合いながら、楽しく、冷酷な真実を多角的に見つめ、残酷な物理現象と戦っていく、このスタイルは、21世紀初頭という今の世に、必要か否か、のみである。

 必要でないなら、消え去るのみ。ただそれだけのことだ。
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クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-

2014-01-14 02:37:01 | ディズニー
 今日は東京ディズニーシーにある人気アトラクション「タートル・トーク」でクラッシュに秀逸な質問をすることを考察してみようと思う。

 このアトラクションでは、ファインディング・ニモに出てくるカメのクラッシュと大勢のゲストが対面して、話をすることができる。ここでクラッシュへの質問タイムがあるのだが、なかなか特異的で面白い質問をするのが難しい。なにせ、芸人の千原ジュニアでさえ、クラッシュと絡むのは難しかった、とすべらない話で告白しているほどだ。

【すべらない話】2013.6 千原ジュニア 亀のクラッシュ MVS


千原ジュニア ウミガメのクラッシュとのお笑い対決!?


 しかし、俺は今やオフェンスの神。実は俺は今まで、面白く価値があり意味のある質問ができないことを悟って、タートルトークの会場であるコロンビア号で、一度も手を天につき上げた事が無いのだが、次にシーに行った時のために、今一度ここで、クラッシュへの質問を考えておこうと思う。

 オフェンスをするには相手の話の流れを掴むことが大切、それがオフェンスの基本だ。タートルトークの流れを確認しておこう(以下ネタばれ注意)。

 「お前たちー、最高だぜー!」「うぉー!!」のやり取りを練習する。→親子を見つけて「訊く」「答える」ことの大切さを確認する→泳ぎが得意なヤツとの会話→質問2~3つ→クラッシュの海での拾いものネタ→ドリーとクジラ語。
 中間~後半にある質問タイムが、こちらからオフェンスできる唯一のチャンスであるが、クラッシュのディフェンスは完璧で、何を言っても面白おかしく返してくる。

 子どもからのよくある質問は、「何才ですか?」「食べ物は何が好きですか?」「何して遊ぶのが好きですか?」などだ。これらの質問は、子どもが手を上げやすい質問だから、大人がとってしまってはいけない。
 一方の大人は、「付き合ってる人はいますか?」「どうしたら結婚(彼氏・彼女が)できますか?」などの結婚・恋愛ネタばかり。これらはすべてクラッシュのパートナーであるシェリーへと繋がってしまうだけだし、自分のことや自分の友達のことを訊くのは質問者本意でありすぎるのでイイ質問とは言えない(それでもクラッシュは面白くしてくれるけどね)。まぁ、学会やセミナーでの知識自慢の質問と似てるかな。

 大切なのは、向こうの価値観、向こうが得意なことの中から、みんなの楽しさを創発するような質問をすることだと思う。
 クラッシュは、地上のこと、人間のこと、教養的なことは、いっさい知らない。しかし、海のことやカメのことについては、とても詳しいので、こういうことのなかから質問をすると、会場のゲストみんなの理解や楽しさに繋がると思う。

 逆に質問してはいけないタブーは、システム上のことや深刻すぎる質問。例えば「俺らをどこから見てるんですか?」「毎回ゲストの相手をしていて疲れないですか?」「離婚しようか迷っています。」など、子どもの夢と希望を壊すような質問をすれば、その会場にいる子どもたちの夢と希望は確実に壊れてしまう。
 いくらクラッシュが「なんでも質問していいぜ。大人も遠慮すんなよー。」と言ってくれていても、ディズニーで夢を壊すようなことはやめよう。

 これらを考慮して、質問を考えているのだが、なかなかイイのが浮かばない。
 ホントにクラッシュってディフェンスが完璧だと思う。

 俺『お前たち最高だぜ―、うぉー!、って、カメのなかなら、どこでも通じるんですか?』
 (予想される)クラッシュ「え?少なくとも俺の周りのウミガメ達には通じるぜ??なんだ、たかはしけいは、この挨拶に、何か不満があるのかい??」
 『ないですけど。』
 「不満がありそうだぜー!!ごめんな、今日は我慢してやってくれ。面白い質問だったぜ、ありがとうな。」

 『カメは進化論的に重要な分岐点になったと我々人間は考えているのですが、カメとして、その意見、どう思いますか?』
 「…知らねえよ。なんだか、難しい言葉ばかり使うな。っていうかさ、進化、ってなんだ?」

 ダメだ、、普段のオフェンスがいかにサイエンス的なものかを物語ってくれる。
 もっとシンプルに、もっと、みんなで楽しめる、質問が、どうして思いつかない。

 『逆に、僕らが、クラッシュ、最高だぜー!!、ってやりたいんですけど、うぉー!!ってやってくれますか?』
 「なんだ、たかはしけいは、俺に憧れてたのかー。もちろん、いいぜ!」

 なんて、どうかな??うーん、永続的に考えるようにしよう。笑
 ついでに、USJのターミネーターにいる客いびりにも、どう対抗すべきか考えておこう。

 っま、クラッシュへの質問は、子どもに任せとけばいいんだけどね。俺も今のオフェンス力の根源的なところはディズニーランドにあるし、それを未来のオフェンサーに託すのも、大切なことだと思う。

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相手のスタイルを

2014-01-12 02:42:37 | Weblog
 明確な成功体験以外の方法で、何かを達成しようとすることは、なかなか難しいのかもしれない。
 手を動かしてばかりになっていたり、頭で考えてばかりになってしまったり、それっぽい言葉を自分勝手に使って誤魔化しながらストーリーを造ってしまったりする、その原因は、その方向性での成功しかプランニングが立てられないことにあり、結果として全体の不利益を生じさせてしまう。

 まぁ、それを成功したことも無いようなことにまで持ち込んで、他人に強要してきたりすると、流石にやっぱりバカだなーっと思わざるを得ないんだけどね。

 よくわからないけど、なんか、それで成功しちゃった、というのは、実は一番怖いことなのかもしれない。
 プログラミングでもエラーが表示されるのは幸せなことで、むしろ間違ったままなのに回っちゃって、正解かどうかの判定がなかなかできない、ってほうが怖い。

 本当は明確な指示者がいたから上手く行ったのに、そこをきちんと考慮できずに、行動しまくって手を動かしてただけで成功しちゃったと勘違いしてしまっているから、手さえ動かしていれば成功できる、という考えになり、そこからさらに転移して、手さえ動かしてれば安心、となってしまった。
 本当は実際に行動してくれる人がいたから上手く行ったのに、その配慮がきちんとなされずに、頭で考えまくってあらゆる他人の行動を一例だと捉え、包括してさえいけば成功できる、という考えになり、そこからさらに転移して、考えることこそが本質、と決めつけてしまった。

 何が問題の本質なのかを見極めようと思った時に、自分の習慣から脱して物事を捉えなければ、本質的な問題の掌握はできない。
 相手の価値観を単に認めるのではなく、様々な価値観を自分の心の中に落とし込みながら、一緒に問題に対してアプローチしていく。そこまでしているのだったら、必ず成功するはずなのだ。

 だから、きっと…、、安心している。

 行動することも、考えることも、みんなにとってわかりやすい言葉で表現することも、全部、何かのモノづくりをするなら、大切な側面。
 自分がどれが得意なのか、どのスタイルをとっているのかを理解しながら、相手のスタイルも尊重していくことが大切。

 確かに、パートは常に固定した方がラクだし、能力的な役割は分担しつくしちゃうほうが簡単だ。
 でも、それらに優劣があるのだとしたら、それをプレイヤー間でどうにか平等に持っていこうとすることこそが、共同で作業するときにおける、まとめていく、ということだと俺は思うのだ。

 とりあえず、もう一歩、頑張ってみようぜ。
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負けたくない賭けと勝たなければならない賭け

2014-01-10 00:58:06 | Weblog
 人生は常に二者択一。赤か黒か?勝つか負けるか?生きるか死ぬか?

 新年早々のこの賭けに勝てるかどうか、それは俺にもわからないけど、俺はいつだってこういう勝負に勝ってきた。
 この賭けに持ち込むことで、俺の今まで築いてきた能力がどれほどあるかの評価が冷徹に下るし、何よりも、俺らはどこまでできるのか?を定量化することができる。
 時間が絶対的に支配する空間上に創った、この巨大なモンレアルに持ち込めることは、俺と、ひとつ昔の信頼関係にとって、天意なのかもしれない。

 「そういうことなら、僕はこのバンドに所属し続けるべきか、今一度考え直さなければならない、、かな。」
 『え??なんで?』
 「時間をとれないのは仕方ないとしても、この重要なライブに挑戦できないなら、それは他と比較して"1"にはなれないじゃん。」
 『なるほどね。いや、むしろ、そこまで考えてくれていたことが嬉しい。"3"の"1"であるなら、決定は明らかだと思う。他のみんなは、どう??』

 タイムリミットまでにベストを尽くすのは当然。そこまでしてダメだったら、運と環境が悪かったのだから、また1からやり直せばいいし、もしも、現実的に、経済的に、それが不可能なら、他のことに力を注げばイイ。
 この賭けに負けるのなら、それはまた天意。俺の助けを、もっと別の他の場所で、待ってくれている子どもたちがいるのかもしれない。そのための教員免許だしね。

 ただし、世の中には、ベストを尽くしただけでは、自らの気持ちにイイワケがつかないこともある。人の命や人生に関わるような時には、絶対に失敗できない。
 絶対に賭けに勝たねばならない緊張感は、もう味わいたくは無いが、目の前に存在しているならば、見逃すことはできない。

 「Kくん、それは絶対にできないよ。だって、リスクがある。」
 『リスクはある。でもそれをカケヒキ計算するのがリスク論であって、得られるベネフィットは莫大だろ?』
 「絶対にできない。こういう場合、リスクがある以上、絶対に選んじゃいけないんだ。僕はそれをやって、一度、失敗している。それは耐えられない。」

 助ける、ということを思考することは、普通の思考力とはまったく違う。今できることを考えながら、何もイイワケをせずに、自分自身として、とか、ヒトとして、とかではなく、物理的に可能な限り、助け続けなければ、助ける、にならない。

 『いま、こうして、このステージに立てていることを幸せに思います、、よね(笑)?これまでずっと、そして昨日まで、ここにこうして立てるかどうか、わからなかったですから。』

 このシャンスサンプルに勝てる見込みは、今、これを読んでいる、あなたにかかってるんだぜ?
 負けたくない賭けに確実に勝つ方法は、勝たなければならない賭けに勝つことから始まる。その意味、わかっていますよね??
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"Fallin'" of Beyond

2014-01-07 01:53:54 | Weblog
 時間と能力の大きさを定義できる完備なベクトル空間内で、相手が未来に創りうる能力の可能性を分布したベクトル場を冷徹に見破ることができる人間こそが、研究者であり教育者である。逆に言えば、それができなければ、どちらになることもできない。
 前にも何度か書いているが、研究と教育はまったく同一の作業だ。私は研究はできるが教育はからきしダメ、と自己分析して開き直っている研究者まがいの人間は、結局のところ、研究もできない。っというか、そんなヤツは大義名分から言っても、大学にいるべきではなく、研究所に行くべきなのだが。

 時間変化していくこのベクトル場は生徒と後輩の数だけ存在し、それらをどのように捉え、どのようにより良い方向へと導き、自らの合格へと昇華させるか。この作業は、研究計画を立てるときと、まったく同じ思考を使う。
 相手が未来にその能力を得ることができるギリギリのラインを狙って、より良きを提示していく。こうしていくことこそが、相手にとって失礼にならず、さらにモチベーションも下げずに、魚の釣り方を教えることができるのだ。

 このような機関を求めることはもはや難しい。
 ならば俺自身が創ってしまうより他ないではないか。

 「有名になりたいの?」
 『いや、どうですかね。そういうわけでもないんですが、そうとらえることもできるかもしれません。』
 「私はね、別に、無名で、誰にも認められずに、山奥でコツコツと実験できればそれでいいと思うんだけど、それじゃ、ダメなの?」

 確かに。別にどこかに発表したりしなくても、何かを理解して死ぬのと何かを理解しないで死ぬのとじゃ、根源的に違う。ただ、その論理に落とし込むには、俺らは若すぎるとは思いませんか?
 それに、すべての信頼関係は、我々自身をダメな方向へ落とし込んで、そこで系の存続を成り立たせるために構築されるべきではなく、純粋な気持ちとして社会貢献のために構築されるのだから、やはり本当の意味での研究と教育を提供できるシステム作りを考えないと!

 つまり、2人で落ちていくだけの関係がホンモノであるはずがなく、2人で社会に貢献していくような姿勢を取れることこそが、手っ取り早いロマンティックなどではない、ホンモノなのだと思う。

 そうするためのメソッドは、いくらでもそのあたりに転がっている。最大の問題は、それほどの理想を、少し無難さを切り捨ててまで達成させる意志が、みんなにあるかどうか。

 それに飽きたら、いつでも、出ていく覚悟はできている。
 ほらね!予想通り「ターニングポイントは2年後」だったでしょ??
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