自分の足で歩くには、それなりの覚悟と根性がいる。
今まで他人の運転で道を進んできて、自らの能力が高いと勘違いしてしまった、その生半可な気持ちで、主体性を持とうとしてしまえば、あっという間に、他人の運転で道を進んでいる者に追い抜かれてしまうだろう。
だから、主体性があるべきだと自分に課すならば、驕りがあってはいけないし、常に本気でなくちゃいけない。自分が進むべき道を創ることについて、少しでも手を抜くことは許されないし、自分が世界で一番バカだと思って努力しなくちゃいけない。
そこまで準備していても片手間に作業している人間に論破されてしまうことだってある。圧倒的な論理性を構築するためには、綿密な準備と信頼関係のある仲間とのディスカッションが必要不可欠で、ホントに、生半可では、すぐにまた、先人が運転する車に乗車したくなってしまうだろう。
前提に戻ろう。果たして、そこまでして、主体的であること、自らの足で、自ら道を創りながら歩くことは、大切なことなのだろうか?
少なくとも俺ら、大学院にまで来て研究に従事している者としては、何かしら自らが主体的にやりたいことがあって来ているはずだ。だから、一時の忠義はありえても、それが長年続くようでは、いけない。
いやいや、研究なんて関係なく、すべての人生は主体的であるべきで、忠犬になるのは一時的でなくては、生きている意味が無いではないか。
主人の命令に従順な犬タイプが、いつまでも主体的にならないイイワケとしてよく用いるのは、「社会だから」「大人として」。
大人として社会に参加するということは、忠義の心以外の気持ちを捨て、自らの希望を諦めるということの言い換えではない。生きていくために必要なカネを得るために、毎日自らを殺していくならば、愚の骨頂。"When will my life begin?"
自分の足で、自ら道を創りながら歩くのは、確かにコスパーが悪いことなのかもしれない。
けれども、主体性を持つということは、「my life」を「our life」にするための唯一の確かな一歩なのだ。
他人の用意した道を他人の運転で通過することで、自らの足で歩いた気になることよりも、本当に自らの足で歩くことを決意し、自らの道を創り、それで躓きながら前に進んでいくほうが、人生として価値があることだと俺は想う。
そしてその姿勢こそが他人を感動させ、最終的には本当の意味での信頼関係を掴みやすく、好かれるべき人に好かれるのだ。
今まで他人の運転で道を進んできて、自らの能力が高いと勘違いしてしまった、その生半可な気持ちで、主体性を持とうとしてしまえば、あっという間に、他人の運転で道を進んでいる者に追い抜かれてしまうだろう。
だから、主体性があるべきだと自分に課すならば、驕りがあってはいけないし、常に本気でなくちゃいけない。自分が進むべき道を創ることについて、少しでも手を抜くことは許されないし、自分が世界で一番バカだと思って努力しなくちゃいけない。
そこまで準備していても片手間に作業している人間に論破されてしまうことだってある。圧倒的な論理性を構築するためには、綿密な準備と信頼関係のある仲間とのディスカッションが必要不可欠で、ホントに、生半可では、すぐにまた、先人が運転する車に乗車したくなってしまうだろう。
前提に戻ろう。果たして、そこまでして、主体的であること、自らの足で、自ら道を創りながら歩くことは、大切なことなのだろうか?
少なくとも俺ら、大学院にまで来て研究に従事している者としては、何かしら自らが主体的にやりたいことがあって来ているはずだ。だから、一時の忠義はありえても、それが長年続くようでは、いけない。
いやいや、研究なんて関係なく、すべての人生は主体的であるべきで、忠犬になるのは一時的でなくては、生きている意味が無いではないか。
主人の命令に従順な犬タイプが、いつまでも主体的にならないイイワケとしてよく用いるのは、「社会だから」「大人として」。
大人として社会に参加するということは、忠義の心以外の気持ちを捨て、自らの希望を諦めるということの言い換えではない。生きていくために必要なカネを得るために、毎日自らを殺していくならば、愚の骨頂。"When will my life begin?"
自分の足で、自ら道を創りながら歩くのは、確かにコスパーが悪いことなのかもしれない。
けれども、主体性を持つということは、「my life」を「our life」にするための唯一の確かな一歩なのだ。
他人の用意した道を他人の運転で通過することで、自らの足で歩いた気になることよりも、本当に自らの足で歩くことを決意し、自らの道を創り、それで躓きながら前に進んでいくほうが、人生として価値があることだと俺は想う。
そしてその姿勢こそが他人を感動させ、最終的には本当の意味での信頼関係を掴みやすく、好かれるべき人に好かれるのだ。