たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

人生のレッスン

2013-07-31 02:03:22 | Weblog
 人の行動は、頭で考えた結果の「思考」と心で想った結果の「感情」に由来するところが大きいけど、これはtime-independentの場合。
 時間依存性まで加味して人の行動を理論化したい場合は、行動そのもののが「習慣」によってフィードバックしてくることを忘れてはいけない。

 だから、確かに頑張っているのになかなか自己実現できずにいることが繰り返されると、いつの間にか、失敗しているほうがラクになる。失敗が「習慣」になってしまうのだ。
 失敗して、ダメになることが普通になるし、そっちの展開の方がいつも通りになって、ラクになってくる。

 それも、誰かを信じる、純粋な気持ちを信じる、なんて程遠くて、自分個人だけの一体系で考えてしまって、多体系に落とし込めないから、先読みすることで、もっともっと、自分に対しても周囲に対しても、失敗が誘発されていく。
 だって、失敗を予測することで、何も期待しない、って自分の心に決めつけることは、確かにリスクは減るし、実際に失敗したときにガッカリすることは限りなく少なくすることができるけど、、でもね、最初からそれをしてしまうことによって、自分以外の誰かや、大切な相手に対してだって、関係性の構築を崩壊させていくことに寄与させてしまうスタイルだって気がついてる?

 失敗を予測しておいてしまうことは、一番、失敗しやすいんだぜ?

 そうなってしまいそうなときに、役に立つのは、気持ちを気持ちにぶつけていくこと。
 コミュニケーション能力とは、人間関係を、無難に、事なかれにしていくことではなく、違いのあることをぶつかりながら、新しいことを創っていくことだと思う。その意味での、コミュ力を発揮しなきゃだね。

 2人で、なんとかしよう。
 みんなで、なんとかできる!

 その気持ちが宿っていて、そこにその気持ちを見出す努力を諦めない俺が存在している限り、心に想い描く、信じられないくらい幼くも純粋な夢を、現在進行形で実現していくことができる。

 そして、上っ面の理論ではなく、本当の意味でtime-independentになっていけたならイイと想っている。

 Vonda Shepard For Once in my life
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STILL LAUGHIN'

2013-07-30 02:42:21 | Weblog
 理想を実現することは、理想を思いついている限り、可能だ。
 気持ちを拾い続けることを俺が諦めてはいけないし、それだけが、他のどんなに評価されることよりも、意味があること。

 みんながみんな、小さい頃から、無念な思いをしてきてしまっている。それをどれだけ今から拾えるかが勝負だし、完全に諦めきってるダメな大人に、その意味を感じさせることが俺の使命だと思う。
 理想を実現できるわけがない、どんな場所でも気持ちは無碍になっているし、それが社会だ、っと論理の使い方を間違えて先回りしている大人も、気持ちを予想外に拾われて、どうしたらいいのかわからなくてポカンっとしてる子どもと等しく、可哀相なのだ。

 だって、些細であれ繊細な気持ちをすべて拾われて、愛情いっぱいになれる空間や集団形成を、一度も経験したことがないということなのだから。

 そこに対して、言葉を上手く選びながら、心にうったえかけながら、演技力まで使って、気持ちを拾うことの重要さをわからせるのは、並大抵の努力では達成されない。
 でも、俺はそれを目指しているし、そういうことをし続けることにしか、価値が無いと想っている。

 子どもは嬉しければ、自然とスキップすることができるし、信じられないくらいとてつもなく純粋な笑いを顔に宿すことができる。それは、目の前に幸せがあり、楽しさが存在していることを、強く願っているからだ。
 大人は、嬉しくても隠すし、純粋な笑いなんて、月に一度あればイイほう、なんて人も多い。それは、幸せは(結婚したら、老後は、など)比較的遠い先にあって、目の前の楽しさを信じられないからだ。

 幸せは、常に、身のまわりの目の前にある。こうなったら幸せ、なんて、ありえないのだ。

 子どもの頃のまま、今、目の前にあるものから楽しさを見出そうとし続け、気持ちを守れる人になる為には、気持ちを気持ちで感じとりながら、拾える気持ちをすべて拾い、誰に何と言われようが、無念な想いをさせないように、最大限努力することが大切だ。

 そうすれば、いばらのしげみで、毎日笑い続けることができる。

 TDL 「スプラッシュマウンテン」 より Zip-A-Dee-Doo-Dah
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信じることに疲れて

2013-07-27 23:03:01 | Weblog
 理想をぶつけあえないことに不安を感じたら、その状況を打破するために、少しのリスクは背負う必要性がある。

 みんな、どうしても分野や自分の存在を十分すぎるくらい肯定したいらしくって、絶対的な論理性の前で、権威や分野を主張することによって、ギリギリそれらを守っている。
 そこに対して、何もない俺に、そういう風にぶつけられたら、俺だって人間だから、少し強引な手段にでるしか術が無い。

 自然現象は分野を規定してくれるわけじゃないんだから、そこに論理性をもった意義づけの仕方をしなくちゃいけないのに、有機化学では、この立場では、生物学では、って、そんな意見ばっかり。。
 俺が、いつ『物理ではー』とか言った??一度もそんなことは言った事無いし、今後も言わない。まったく、物理以外の出身者は、一番大切な理学の基礎である、論理が身についてない人が多すぎる!…ってこれはおっけーなの?笑

 自然科学は、人がやるものだ。だから、どれを専門分野とするかによって、どこの分野出身かによって毛色がある。
 ただ、現象を観なくちゃいけないときに、生物学ではこうだから、っとか、そういうことをディフェンスに使っちゃいけない。それで現象の解釈が誤っていたら、それまでなのだから。

 あとね、俺は、単純に、こう言い放っても良いんだぜ?
 『理学の分野のなかで、もっともマスターするのが難しいのは、物理なんだから!』って。これは本当のことだけど、それこそ論理性がないよね。

 step by step。いっきに専門書は読めないし、理解できるわけがない。だって、理系科目は積み重ねだし、その中でも特に、数学と物理は顕著なのだから。
 理系は、今理解できていない、高校理科と高校数学があるなら、今すぐ理解しなくちゃいけない。まだまだ、もちろん俺も、そこから学び取ることが沢山ある。その上で、研究テーマでも、日常生活でも、どんどんアプライしていけば良いじゃん。

 ただ、そんなことすらしてない人たちに、相手の自己肯定のためだけに時間を割いているのが、正直、もったいないっと最近思い始めてきてしまった。
 俺が勝手に信じることに疲れてしまっているせーで、そう思いたくはなかったから。。

 そのくだらない自己肯定をするために、今までどれだけ不利益が生じているか。その我慢のご利益が、ただこっちをバカにしてくるようなことだとしたら、本当にバカみたいじゃん。
 俺が自己肯定するために、一番残酷な手段を使うんだって、、こうすれば対等になるんじゃないかな。

 常に俺がトリガーになっているけど、実際のところ、そんな必要はハナっから無いはず。
 精神的に勝っていて、表面的に負けている状況を、逆にすることで見えてくるものもあるのだと思う。

 それは、そのさらに先の、より良きを、俺一人で、冷酷に見つめている結果なのだ、と、人と人との関係性に使っていた信用を、泣きながら、自分の論理性に向けていく。

 まったく、、ホントに、ただ論理的に正しいことだけを言うのって、ラクで、虚しくて、つまんねーよな。
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宇宙の外側

2013-07-24 02:29:43 | Weblog
 「この宇宙の外側は、どうなっているんですか?」
 っという質問を受けることほど、理系冥利に尽きることはないと思う。

 物体が存在できるEuclid幾何空間が広がり得る空間としての「外側」は確かに存在している、っと考えて良いはずだ。
 ただ、それは、普通には理解できないことなわけだから、外側は存在しない、っという答え方が正解なのかもしれない。

 もう少し質問のレベルを(自分の分野寄りに)落としてみると、「どうして宇宙は存在しているのですか?」っという質問だって、かなり理系の心を熱くする一般的な質問だと思う。
 『物質と反物質が存在できる寿命が僅かに違って、反物質のほうが寿命が短いから(CP対称性が破れているから)』っと答えると、「反物質って何ですか?」
 『物質とくっつくと、一緒に光になって消えちゃうようなヤツだよ。』『Dirac方程式っていう相対論的量子力学の基本公式に従う、自由Dirac粒子のエネルギー準位が完全系を2つ持てるから、反物質は存在していることが示唆されたんだよ。』っというと、たいていの中高生はちんぷんかんぷん。

 まだ歩くのも覚束ない幼児の不満に対して、わからないだろう、っと高を括って事情を説明しないでとにかく宥めるよりも、わからないかもしれないけど賢明に説明することに意味があるのと同様に、こういうことも、意味をわかってもらえなかったとしても、きちんと説明する義務が、俺には(本当はすべての理系に)あるし、周囲をより良くするための、意味のあることだと思う。

 CP対称性の破れによって僅かながら存在している物質でできていて、情報をフィードバックしながら自己組織化し、自己複製と境界面とエネルギー代謝を持ち合わせ、進化する可能性まで秘めている存在である、我々生命、特にヒトは、こんなことまでも理解してしまっている。
 ただの物理現象のやりとりに限れば、確かに、すべてのことに、意味などない。特にこの広い宇宙のなかで、自分の周囲をより良くすることなんて、実質的にみれば、何の意味も無いことだと思う。

 だとしたら、確かに実存する目の前の楽しさについて純粋に追究し、気持ちの標本そのものをより良くすることによって、それらから価値を見出すしか術は無いのかも。

 それは、Euclid幾何空間内では意味が無いことかもしれないけど、まったく別の、生命を記述するための特有の空間があるとするならば、そこでは、とてつもなく意味があること?
 それこそが宇宙の外側を解明することだ、とまでは言えないけど、それを感じとることはできるのだと思う。
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他人任せなディフェンス

2013-07-23 02:01:02 | Weblog
 自然科学の研究のなかで、わからないことをわからない!ってきちんと宣言して、そこから自分で学習して、お互いに理解しようとすることは、そんなに難しいことではないはずだ。
 どーも、みんな(特に少し上の世代)、その意味がちゃんと、わかっていないらしい。

 俺が『わかったフリをしないで、わからないことはわからない、ってきちんと言いましょう』と言うと、ふてぶてしい態度で「それは、よくわからないんだけど?」って偉そうに言ってきたりする。
 っで、『だから、こーで、あーで』っと説明していると、全然関係ない知識を披露して、偉ぶってこられたり。。

 あのさぁ、俺が言っているのは、根本的にそのスタイルが間違っているって言ってるんだけど?っと思って、とても残念な気持ちになる。他人任せなディフェンスが正当化されていく瞬間が大嫌い。
 そんなことをずっと、色んな上の人からされると、夢も希望も感じないなって思う。自分のなかのそれらが失われることはないけど、上の世代に期待が一切持てなくなっていく。俺を無理矢理ねじ伏せようとしても、俺はコントローラブルにはならないし、離れていくだけだって、早く気がついて!

 仕事なんだから我慢しよう。っていうのは、俺は全然そうは思わないけど、その言葉を信用するなら(俺の上、ってのは、たいてい給与をなんらかの形で貰っている人しかいない)、『仕事なんだから我慢して、プライドを捨てて、「あなたの言ってること、自分では知識と理解と論理性が足りなさ過ぎて、わかりません。だから、いま、理解します、理解しておきますので、ちょっと待って下さい。もしくは、何か違う言葉で言い直して貰えますか?」って言えや。』なんて想ったり。
 俺は、自分の生徒に、これくらい本音は言うんだけどなぁ。。

 誤魔化し行為ってのは、上に行けば行くほど少なくなるって思ってた。簡単に言えば、偏差値が上がれば上がるほど、誤魔化すヤツは少なくなる、って思っていた。だけど、実際は、ちょっと、そうではないみたい。
 ねぇねぇ、何らかの自然現象を理解したいって気持ちが無いなら、お勉強なんてくだらないんだから、やめちゃえば良いじゃん。自然現象を理解したい気持ちがあるからこそ、仕方なく研究したり、それよりもっとくだらない行為である勉強をしたりするわけで、それが無いのに、ただのプライドや見栄や自分の存在を肯定化するためだけに研究の世界にい続けるのは、俺としてはマジで迷惑なんだけど?

 でも、そんなんでも、何かの優しさを実質的にも精神的にも提供してくれる人には、ずっと一緒にいて欲しい、と思う。
 それくらい、他人とのコミュニケーションを取りながら、何かを進捗させようとするスタイルの人は、(研究の世界に限らず、世の中的に)少ないから。

 それすら、自分の厳しい論理性を用いると、手を打ってることになるのかもしれなくて、何かの希望が消えていくようで、少し不安。

 いま、とにかく怖い。周囲に対して諦めきってしまいそうになる自分や、それを見いだしうる自分の論理性や思考力が。
 怖さを感じて、一切合財捨ててしまいそうになる自分を、いつも、直前のところで守っている。
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俺がいる効果

2013-07-22 01:54:51 | Weblog
 自分がいるだけで集団が一気により良く変わるくらいの個人の能力が欲しい。
 40人のなかでも、100人のなかでも、300人が相手であっても、たった一人、俺さえいれば空気が変わる、変えていくことができる、というほどの、思考力とグループ性を持っていきたい。日本人のなかに限らずね。

 集団のなかで自分がいる効果を感じることは中々難しい。観測することによる影響が絡んできちゃうし、誰かから聞いても、直接的に効果を知ることはできない。
 だとしたら、少々思いきったことでも、どんどん実行していき、自分が感じるままに行動していくことで、その時間変化を観てみるしかない。そうすれば、確実に、自分によって軌跡が変わったかどうかがわかるだろう。

 それでも中々実感が得られなくて、、そんなにも自分がいることの意味を考えたいのは、他に原因があったりして??
 自分と誰かの違うところを数えてみたり、自分から連絡した回数を数えてみたり、相手からのテーマをふってきた回数を数えてみたり、そんなことをしてしまうのは、自分に自信が無いからではなく、関係性に自信がないからだ。

 即物的な能力やステータスで評価されたくない一方で、それらで見向きもされなくなることを恐れている。
 違う!自分の気持ちのなかで、大切な人には気持ちそのもので評価されたくて、嫌いなヤツやどうでもイイ他人には能力で評価されていたいのだ。そして、気持ちで評価されたいくらいの大切な人から、気持ちは達しているのにも拘らず、能力やステータスで相手にされなくなってしまうことを、最も恐れている。

 我儘だけど、本当はみんな、そうだよね?

 だから、せめて、どうでもいい大勢のなかで、自分がいることの意味や価値を、感じていることによって、最低ラインは担保されていることを確かめたくなる。
 ほら、集団は、俺を求めているでしょ?って。

 俺が喋り出せば、空気をガラッと変えられる、(本当の本当は)どうでもいい集団も多くなってきたと思う。
 それが自分の予想に反して簡単にできてしまったり、きちんと変えて行けたりすると、今度は、集団への信頼がどんどん下がって、この程度で影響受けるなよ、ってまた我儘。

 やっぱり、感情が行き渡ってない、気持ちが通じ合っていない集団での、ものづくりなんて興味無い。
 いかなる特異的な感情をも包括して、気持ちを気持ちで認めながら、最低ラインの即物的なモノを持っていれば、何でもできるはず。

 もう、そういうことにしか、俺は価値を感じられないのです。
 それがもっともっと実現していけたら、自分がいる効果、なんて計算しなくて済むのにね。
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情熱至上主義 3

2013-07-20 01:27:18 | Weblog
 こんなもんでいっか、っと、手を打とうとしてしまう自分に選択の直前で気がつく。
 手を引っ込めた直後に、そのまま幻想の世界へと逃げ込んでいけたら良かったかも、って後悔したりして、誤魔化し続けられる他人が羨ましくなったりして。

 この世の中は、誤魔化しに誤魔化しを重ねていくだけのことで溢れている。
 一番そうであってはいけないはずの「自然科学の研究」だって、ただ都合がいいだけの誤魔化し方を、「良い書き方、素晴らしい伝え方」だとして良いモノとして教授されるし、教育機関だって教員側のディフェンスしか考えずに学生に責任を押し付けることが正当化される。

 ホンモノは、ロマンティックは、こんなにも少ない。
 それが大切な領域ですら、こんなにも少ないのだ。

 純粋な感情を残しながら、基礎から着実に積み上げていくことを、すべての分野で忘れてしまっている。
 基本的な教科書を理解しない限り、積上げの分野(たとえば理数系科目のすべて)についての本質的な理解などありえないのに。本当の実力を持つ者、もしくは本当の実力を持とうとする者の、少数精鋭で、この世界の進捗は成り立っている。
 たいていは、それにあらがって、搾取して、その銅鉄研究をして、無駄なコミュ力を発揮して、てめーの存在を肯定してるに過ぎない。くだらない物理現象。

 そんな中で、唯一、手を打ってはいけないモノ。誰もが願っていること。
 それにすら、多くの人が、手を打とうとする。平均場の中から選ぶことが素晴らしいと諭すかのように、即物的な価値観の一致で選んだり、何かのステータスで選んだり。それがなくなると、期待できなくなると、ポイ。
 「気持ちを大切にする」なんて、幼すぎて、笑っちゃうくらい?俺としては、そんな「大人」の定義にウンザリしてきて、笑いたいくらい。

 不当に言葉を得たにも拘らず、その言葉を得るまでに本当は必要だったことを、戻って努力しようともしないなんて、ダメだろ。手を打ってきたことに対して、イイとこどりするんじゃねーよ。…って誰かに対して思う一方で、自分自身も、ほんの少し前の履歴を忘れて、今が当たり前だと思っていることに気がつく。
 逃げて逃げて、やっと辿りついた、安住の場所に限りなく近い、今の自分の状況と立場を、今一度、有難がる必要がある。

 一方で、周囲の絶対的な優しさを感じることも多い。それは、特定の誰かから実質的にも精神的にも多大に、っという風にも感じているし、みんなという平均場から少しずつ感じることもある。
 でも今俺は、何を、どこを、誰を、どういう風に許容していけばいいのか、判断がつかない状態なのかも。

 ただ、手を打ってはいけない、って強く自分に対して思う時間帯が増えているのは、何かの変化の兆しとしては、良いこと、だよね??

 今、少しだけ、孤独でいたい気持ちは、集団を感じていたいところに起因している。
 だって、孤独を一番感じるのは、2人以上の何かの集団にいるときだから。
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最高に優秀な生徒たち

2013-07-19 02:58:40 | Weblog
 教員として最も大切なことは、自分の生徒に対して、よそ様のお子さんを預からせてもらっている自覚を持ち、生徒を身体的にも精神的にも守り切ることだ。
 その上で、なるべく、より良い方向へと能力を高め、気持ちを豊かにさせるように、少しでも努力することが大切だと想っている。

 俺はこれまで、何十人かの小中高生に対して「何かを教える立場」として、教育の現場に立ち会ってきた。
 そのすべての人達に対して、今でも、自分の生徒、と想っているし、守りたい、ではなく、守らなければならないっと想えてきたと思う。
 楽しいこと、悲しいこと、難しいこと、色々なことを共有してくれたし、ここ最近の生徒たちには全員、ABCグループ理論を伝授してきた(笑)。

 めちゃくちゃ賢い子から、お勉強界は諦めきってる子まで、すべての子たちが、逆に俺に対して何かを教えてくれたし、優秀(優しさが秀でてる)だし、最高の生徒たちだと想う。
 天才的な頭脳を持った子は、毅然とした態度で権威に屈してはいなかったし、持ち前の優しさで現状を打破していった。ノリが良すぎてお勉強に手が回らない子は、賢くなることの意味をゆっくり学びながら、何のために賢さとノリを使うべきかを見出していった。不器用で自分の本質的なスタイルを曲げずに頑張っている子は、何度転んでも前を向いて、終に目的を達成する術を学んでいった。

 俺が、あなたたちに伝えたいことは、どんな子にだって、ただひとつ。
 自らの優しい気持ちを発現させるために、自分なりの能力の上げ方を知って、その得られた能力を持ってして、誰かのために優しくしましょう。
 それさえ身につけてくれれば、俺から教わることは何も無い。逆に言えば、俺は、このプロトコルに絶対的な自信を持っている。

 別に、教員免許が、それを保証してくれることは無い。
 俺自身が、そういう風に教わってきたからだし、そういう先生のもとにい続けただけだと思う。

 気落ちしてるときに、今の生徒や歴代の自分の生徒たちを思いだす。
 そうすると、こんなことしてる場合じゃない、ちゃんとしなきゃ、って自分に思う。常に彼ら彼女らの希望でなくちゃいけないし、そうなれるように努力しなきゃ。

 そんな理由も手伝うから、系をより良くすることを諦めないし、そのためには、自分の能力を高めなくちゃね。

 歴代の自分の生徒たちが最高に優秀だ、っと想える教員は、どの程度いるだろう?
 絶滅危惧種であっても、俺は、そう想い続けられるような教育を施し続けられるようにしなくちゃいけないし、そうなるためにも、本質的に結果を出していかなくちゃいけないんだと思う。
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Angels and Blimps

2013-07-17 01:27:20 | Weblog
 この世は不公平だ。
 だって、基本的には、生命現象≒物理現象なんだから、生命現象の一部である人間社会が不平等になってしまうのは、原理的に仕方ないことだと思う。

 同種粒子が多数ある状況と、結局ほとんど同様。平均場が成り立っているのだ。その中の特異的な粒子で、集団から外れてしまったり、集団からとび抜けるような粒子になってしまえば、とても損になったり、ものすごく得をしたり、そういうことは日常茶飯事。いちいち、解析していたら、疲れてヘトヘトになっちゃう。

 だからって、無難(平均場のありふれた粒子)なのが一番、なんて、つまらないスタイルを貫く気は、俺にはない。もちろん、ある程度のところで安定性は必要だけど、たった一回の人生、そんなんでイイの?

 唯一、生命現象が物理現象と違うのは、そういう特異的で損得が顕わになっている状況を意識した時に、確認した時に、感情が動き、それによる次の個々での行動が、明らかに変わってくる点だ。
 そういう感情を意識しながら、何か変えなきゃ、って動くときも物理現象を超越しているけど、それ以上に泣けてくるのは、その感情を消し去るように、めちゃくちゃ現実的な痛烈で冷酷なコメントを吐き捨てていながら、孤軍奮闘しながら今できる実質的なことをしているような姿だ。

 そんな粒子の振る舞いは、物理現象を超えてる、って点で不自然だ。

 確かに、何かをしようと想った時に、誰かを傷つけないようにすれば、傷つけられないようにしたら、それがベストかもしれない。
 だけど、それは原理的に無理で、たぶん、いじったり、いじられたり、怖いくらいの現実を突きつけ合ったりして、不自然なカタチで、気持ち依存の行動をとっていけたなら、表面的に傷つけ合うことにはなってしまうかもしれないけど、ホンモノは目の前にあるのかも。

 コミュニケーション能力とは、無難な対応や、自然な会話を成り立たせることができる能力などではない。本当のコミュニケーション能力とは、ぶつかりあいながら、何か新しい創造をすることができる能力のこと。
 その言葉の意味が、やっとわかりつつある。

 そうしていけば、不公平を超えて、結局のところ、ホンモノに近づいていくのだと思っている。「天使と飛行船」は、きっと現れる。

 そういう努力をすることが、不公平のなかで、得をしている人間の義務なのだと思う。
 っそ、俺は、一切損していない。他人に後ろ指さされるような結果をだしてきていないし、いまだに正々堂々、夢見がちなこと、正しいことだけを言ってられるし、その割に、きちんと信頼関係を形成できている。

 だから、少なくとも、助けを求めている、助けたい他人に対して、何かの貢献をする義務があるのだと想っている。
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あの日の理想の実現

2013-07-16 02:53:34 | Weblog
 今、ラボ内のゼミでは、いつかの俺の理想に近いことが実現できている。
 学生が中心になって、適切な疑問やコメントや意見が、きちんと主張されているし、それに対して、誰も誤魔化そうとはせずに、論理性を高めていけている。その研究の意義を考えていけている。

 ちょっと前に書いた「研究室ゼミの理想」と、ほとんど合致したゼミができている研究室に所属していることを誇りに思うし、完全に俺一人がそういう状態にさせてやった、と言うことができるほどではないけど、少なくとも寄与することができたと思う。だって、いつかの「俺」の理想になっているのだから。
 俺に関わっている人のなかで、研究に従事している人は、みんな、例外なく、うちのゼミに一度来てほしいと想っているほど、自信がある。

 ただ、理想がここまで実現できると、何に関してもそうだけど、次の理想を思い描くのが難しい。
 常により良くしていかなきゃいけない。それは、前の場所でも、その前の場所でも、ずっと考えていたことだけど、『理想が実現不可能であろうが、実現した後であろうが、一人ひとりに向上心があって、より良くしたい!っという気持ちを失ったら、終わり』なのだ。
 これ以上、どういう理想を考えていったら良いんだろう?って思うけど、不満はみんなの意見をきちんと訊いていれば、いくらでもでるわけで、チームだからこそ強い、ってことを忘れちゃダメだよね。

 あと、俺はやっぱり、理論志向なんだな、って思ったりする。
 今まで、がむしゃらに、ゼミのことを考えてきたのは、理想が実現可能かどうかが分からなかったから。この理想が実現可能であることが実証されたら、ある程度それで満足で、それを他の系でも頑張って実現させよう、ってあんまり想っていない。別に、より良くすべき系は他にも沢山あるのだけど、そこに適応させようってあんまり想っていないのは、自分の感情について、新しく気がついた点。
 まぁ、そりゃそうかなぁ。だって、俺が空気を取ってしまえさえすれば、これがどこでも実現できるってことが(自分のなかでは)示されてしまったわけで、内容に飽きちゃってる。社会奉仕するほど今は余裕が無いし、さらに次のことを考えていかないなら、俺の勉強にならないもんね。

 自分が助けたいところだけ助ける。精神的だけでなく実質的に助けを求められていて、俺が助けたい、って想った人だけを助ける。それが、結局のところ、本質になるのだ。これは、4年くらい前にも、書いたこと。

 っそ、この部分に関しては、もう俺は、俺に黙ってついて来い!、っというくらいの気持ちを持てている。だからこそ、それを持ってして、次にできうる理想を目指さないといけない。

 もっともっと、実現が難しそうな、新しい理想に向かっていこう。

 …って、ちょっとでも出来ていることを、確かめてみたりして。笑
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決めつけないで。徐々に傷つけないで。

2013-07-15 03:31:40 | Weblog
 根源的な異質をお互いに上手く避けながら、イジワルに指先を相手に向けて表面的な違いについて言及することでインタラクションをすることは、実は、徐々に傷つけあうことだ。

 きっとお互いにわかってる、気付いてる、本当はどっちの価値観も重要だってことが。得意なものが違うだけで、きっと気持ちは、いつだって一緒なのだ。
 現実を見過ぎてしまえば歩みは止まってしまうし、夢見がちになり過ぎてしまえば、それはそれで、また歩みは止まってしまう。現実からどういう方向性なら夢に向かっていけるか、夢から逆算して今現状として何をすれば夢に近づくのか。

 そういうことをしっかりと考究しながら生きていきたいから、俺には、冷酷に現実をしっかりと突きつけてくれる優しい他人が必要なのだ。
 現実逃避ではない実現可能な夢を、心の奥底で、本当に願っていれば叶いうること。

 どうしたって表面的には、俺がアクセルにならざるを得ないから、徐々に傷つくことも、決めつけられることも多くて、怖くなる。
 結果が出ていなければ、そんなことしてるから結果が出てないんでしょ?って想われながら、決めつけられながら、でもそんなこときっと口には出せないから、また表面的に傷つけられる。って、これも決めつけてる??

 ただ、誰かの思うがままに操られながら結果が出るよりも、こうやって気持ちをきちんと守りながら、しかも仲間で結果が出たなら、それは、即物的には同じものかもしれないけど、圧倒的に何かが違うものだと思う。
 その大事さを伝えることも、自分にしかできないことだと思うし、それを(自分の都合の)良いようにこっちに責任だけを押し付けてくるバカもいるけど、そういうヤツは、今までの経験上、すぐに俺の前から消える。寄生してるだけのヤツに用はないし、それは別に俺に限らず、社会もそうだと思う。

 だとしたら、背筋を伸ばして、堂々と自分が感じるままに行動していけば、今よりも、もっともっと、楽しくなれるはず。
 たった少しズレて行ってしまうだけで不安になってしまう繊細さがあるからこそ、気がつくことも多い。それで傷つくこともあるけれど、それ以上に喜びを見抜くことができる。

 弱っちかったら、鈍感だったら、誰かが助けてくれやすい、なんて計算をすること自体、バカで無能な発想。
 そんなんじゃ生命力が無いよね。それは、俺らの場合、致命的だ。だって、生命とは何か?、を研究しているのだから。

 俺は、心のどこかで追ってくれているように、確かに、すぐにでもどこかに飛び立ってしまう可能性がある。
 だからこそ、俺は、心のキャパが広くなくちゃいけないんだ。そう想ってくれている、思ってしまっている人に対して、その分の安心感を与えなきゃいけないし、そうしていくことで、本当の離れる確率だって低くなっていく。

 何を指標に選べばイイのか、まだ、もう少しだけ時間が欲しい。
 少なくとも、根本的な異質さについてぶつかり合うことを、恐れていてはいけないけど。

 そんなことも、本当はきっと、どっちもわかってることだよね?
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好きにやること

2013-07-12 00:39:28 | Weblog
 好きなことで何かを達成するためには、気持ちを上手く使いながら、頭で規制しなくちゃいけない。
 みんなでやりたい!、っという純粋な気持ちだけでなく、ただ好きなことを好きなようにしていたい、っという気持ちも、すべてを満足させられるように考えて動けなくちゃね。

 何かを我慢したり、即物的な部分で勝たせてあげたり、負けてあげたり、逆にとことん負かすことだって、常に、誰かのためにやらないのだったら無意味。
 こういうことを無難さや即物的な優位性を捨ててまで、それでも誰かのためだからって、し続けていて、それが全然効力を発揮していないことを知っちゃったりすると、なんだか急にバカみたいになってきちゃって、じゃぁ、なんのために存在しているんだろ?って考えちゃったりする。

 仲間が大事、みんなで夢を目指そう、ってところから(少なくとも俺自身は常に)スタートしているはずなのに、現実を見ろ、って言われたり、無難な行動をとるべき、って諭されそうになったり、自分の方がすごいんだ、高いんだ!、ってアピールされたり、考えもしないで「わからない」ってみんなで言って、閉じた空間のなかでぬくぬくとしていましょう、って強要されたりすると、私はいま何をしてるんだろう?、っという気分になってくる。
 チームのなかで、誰が上とか下とか、重要な寄与をしてるのが誰とか、本当にどうでも良いことのはずなのに、みんな、よっぽど自信が無いんだなって思う。

 敵は、残酷な物理現象なのに。。

 実質的にも精神的にも期待している仲間に対して、こういう風に想いたくは無いから、だからこそ、自由に、完全に俺の好きに、好きなことをする時間の必要性が高まってくる。
 そのときの気分で好きな分野を好きなだけ、好きなように勉強する。好きなところまでしか計算や論理を追わないし、好きなことしか追究しない。飽きたらほっぽる。
 好きなところしか演奏しない、好きな曲しか扱わないで、一人で好きに音楽を楽しむ。自分にとって不快などうでもいいアウトロは聞かない!とかね。

 この、「好きなことを好きにやる」時間を大切にすることを、最近(っといってもかなり長いスパンの「最近」)、忘れていた気がする。
 今まで俺は、こうやって、能力を得てきた。どうでもいい能力、、この能力によって、他人が、大切な誰かが、バカげた行動をとるんだったら、そんな能力、どっかに消えてしまえばイイのに。

 こうしなきゃいけないんだ!、っという、何かの分野への純粋さが、ときに進捗を即物的なモノにしてしまう。そんなときに、夢を現実から解離させることで、解決したかのようにヤラセるのはダメだ。夢は現実逃避とイコールではまったくないのだから。
 歩みは遅くとも本質的でありたい。みんなで楽しく、しかも一人ひとりが楽しんで好きなことで何かを達成することは、原理的に可能だ。だから、ちょっとだけラフになってみて、フワっとする時間が必要なんだと想う。そうすれば、もっと、我慢できるでしょ?

 いじり、いじられて、愛情を確認していたはずが、ある瞬間に突然マジに変わってしまう相転移を、もう誰とも共有したくない。それは、どんなに永遠を信じられるコミュニティであったとしても、ゆくゆくの崩壊に寄与してしまう。

 同じ失敗は、繰り返さない。
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『あなたは本当はイイ子なんだよね??』

2013-07-08 02:35:47 | Weblog
 情報として持っていることと、それがきちんと適材適所で発現されうることは、まったく異質のことだ。

 どんなに専門書を沢山持っていても、きちんとしたステップを踏んで学問を学ばないと、その学問を使ってゆくことはできない。どんなに楽譜を持っていても、練習しなきゃ演奏できるようにはならない。
 どんなにお金を持っていても、どんなに名誉ある環境にいたり、高い地位を得ていたとしても、そこから学び取りながら、選択肢を有難みながら、正しく使わなければ、意味が無いのだ。

 正しい情報を、いかに得て、いかに使っていくか?の訓練は、多くは気持ちの問題だし、そこを意識しないから、無駄にめちゃくちゃ賢いくせに、聡明になりきれない、なんて現象が起こる。
 「気持ち」の解析&使い方も含めた賢さ(≒聡明)を手に入れるためには、どのような方向でより良くしたいのか?、っと、そう想う系に対して、頭と心をきちんと使って、全力で取り組む必要がある。

 そして、適切な過程のもと、それを誰かから引き出せるようになれば、すごいことだと思う。
 俺は、(教員の側面として常に、)こういうことができるスタイルでありたいと思っているし、むしろ、こういう教育にしか、意味が無いとすら思っている。
 だから、ある程度の長さで俺が受け持たせてもらった生徒たちには、論理性をいかに心に使っていくか?、を教えてきているし、俺が教えたいからというよりは、こういう状況って日常の中にありすぎて、どうしたって使わなきゃいけないシーンがくるから、そのたびに、共有させてもらえることを(責任の取りえる範囲で笑)一つひとつ、一緒に考えてきたはずだし、これからも、そうし続けていけたらと想っている。

 優しい心や(自分勝手ではない、本当の意味での)向上心は確かに存在している。それが引き出されていないから起きてしまう悲しい出来事や誤解を先回りして解決するためには、心を発現させるための力となる外場が必要だ。
 子供には『あなたは本当はイイ子なんだよね?○○だから、こういうこと言っちゃってるけど、本当はこういう風に想ってて、優しい気持ちがあるんでしょ??』って伝えれば、だいたいは解決することができる。

 確かに存在する優しい心そのものを慧眼さで見抜き、未来にその心が発現されうることを期待しながら、それを純粋にストレートな言葉で伝える。
 たったそれだけのことのはずなのに、かなり能力を高めている状態でも任意の人になかなか行使できなくて、、気持ちに発現以外の行き場を無くさせ、引き出すしかない状態にすることを躊躇う気持ちがあったりするのかな。。
 まぁ、これでも感情が表へ創発されないなら、ここに書けないような手段を使うしかなくなってくるけど。

 っそ、持ってるだけの稀少価値の高いモノを、より良い方向へ発現させる気にさせることが、どんなことをしていても、俺の得意分野だと思うし、それが、もっともっと、完全にできるようになりたいと願っている。
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本当に解きたい問題

2013-07-05 02:19:28 | Weblog
 誰かを助けたり、系をより良い状態に持って行こうとするなら、手段を選んでいてはダメだ。
 そのことだけに注目して、すべての行動を考えるくらいじゃないと、達成までには及ばない。

 本気で助けたい!、っと想った時に、自分が何ができるかを考えて実行し続けるなかで、そのもともとの気持ちを、どれだけ自分自身が信じてあげられるか?後悔しないように考究して、ベストな発現をしていかなきゃね。
 ただ、忘れちゃいけないのは、「助けることは助けられることであり、助けられることも助けることである」こと。だから、助けている側だろうが、助けられている側であろうが、きちんとした優しい気持ちをベースにして、コミュニケーションをとってくれていることそのものに、感謝しなきゃね。

 そして、信頼関係こそが大事であることを信じるなかで、その価値観をある程度相手に押し付けるようにしていけば、自然と(ミクロがマクロへ)、系はより良くなる。具体的なイメージの中から、信頼関係とは何か?が見出せる物理的な障害は、むしろチャンス。
 それくらいに思っていれば、問題を実質的にも精神的にも解決することが本当に可能となる。

 絶対的な必然的論理性、演技力、ノリも、マジメさも、すべてを使っていかなきゃいけない。
 なんか練習問題ばかりが、目の前にやってくる気がしているけど、これは、俺が本当に解きたい章末問題を解くために必要だからかな?

 本気で難しい!と思ってからが勝負だけど、この件に関して、どれだけの準備をしても、なかなか、より良くできないのが現状だと想う。
 色々なことを受け入れる心の準備も必要で、そのなかで、もしも、できることがあるならば、明確にきちんとチャレンジしていきたいと想っている。

 きっと、今の俺なら、、って、気持ちを高めながら。
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ちゃんとした理解

2013-07-04 00:25:05 | Weblog
 手っ取り早く、思考力を上げたいなら、賢くなりたいなら、自分にプレッシャーをかけて、絶対に理解しなくちゃいけないように自分の状況を持っていけばイイ。
 生半可な気持ちで、「いつか物理をやってみたい」とか「そのうちに化学もマスターするぞ」とか思っていても、いつまで経っても達成されないし、「好き」の気持ちにまでなってない、ただの興味で、新しい価値観を得て、思考力を高めるなんて、なかなか難しい。

 だから、それが要求されているような環境に無理矢理入ってしまうのが一番の手だし、きちんとしたステップを踏みながら学習すれば、どんな内容だって理解できる。

 この「きちんとしたステップ」ってのは意外と難しくて、本当は高校の内容からわかっていないのに、いきなり大学のテキストや最新の論文を読んだって、わかるわけが無い。ちゃんとした理解をするためには、必然的なステップを踏む必要が、誰にでもある。
 俺は、いまだに高校物理の参考書を1ヶ月に2回くらいは開くし、化学に関してだって高校の参考書を開く回数はかなり多い。ステップを踏めてないのなら、ステップを踏まなきゃいけなくて、それ以外に、自分が置いてきてしまった理解を埋められるわけが無いのだ。

 でも、研究者になってまで、なかなか、高校の教材を開く勇気は無い人が多いよね。それがダメだなーって思うわけだけど。笑
 なに、プライド??ふざけるな。何かの考え方や理論を理解したい!って思った時に、手段は関係無いはずだよ。よーするに、そのてーど、ってことで、イイのかな?キレイゴトを言って、わかったフリをしたり、話をすべて覚えてしまったり、何が楽しいんだよ、まったく。

 いつだって、何についてだってそうだけど、本気じゃないのなら、早く俺にそう言って欲しい。俺はあっという間に離れていくし、すぐに出ていく準備ができる。そっちのが、なんぼかコスパーが良いでしょ?
 俺が本気だってわかると、みんな表情を変える。本当に本気なんだー、ってね。いやいや、この程度の気持ちで本気とは言わないし、俺は最低ラインを示しているだけ、って想うけど、要求レベルが高い、ガチすぎる、って言われたりして。

 もっともっと、俺の本質的なダメな部分に気がついて欲しいし、そういう部分をわかってくれている人は、俺の身の回りの信頼関係のなかでも、極端に少なくなる。
 俺の本当の弱点や呆れるほどダメなところを、信頼関係がある人にはきちんと掴んでいて欲しいし、じゃきゃ、俺らが目指していることや、俺だけが目指していることは、達成されないから。

 それに気がついてもらうためにも、もっともっと、確かな思考力を、周囲に要求し続ける必要があるんだと思う。

 まぁ、でもね、、誰もそれに気がついてくれてないわけでもなくって、極数名は、それを適確に指摘して守ってくれるから、そういう人がいてくれる限り、俺は幸せで、諦めないのかもしれないけど。
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