以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。
前のお話
4. RCの意味/『研究コントローラー』
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2016年5月11日(水)
まだ一ヶ月弱しか経っていないが、慶明大学の山岡研究室にも慣れてきた。渡辺研究室と違って常時人がいるし、生活も規則正しい人が多い。また指導者にも恵まれている。今のところ俺と一緒に実験をしてくれている特任准教授の高野先生は丁寧に分子設計を考えてくれているし、有機合成に関しても基礎からしっかり教えてくれている。そして、なにより、RC制度の肝である”研究しているフリ”について寛大だ。それなのに、野崎からはあれからほとんど連絡がない。「まずは通常の研究業務に励むように」というメールをパラレルスマホでもらったくらいだ。
とりあえず、今日はまず試験管の洗い物をしなくちゃいけない。その後、昨日精製できているはずの”モノ”をNMRで確かめる。昨日は火曜日なのだが、月水金にくるという約束が早くも破れつつある。昨日はカラム精製というのをやって、たくさん試験管を使った。その洗い物が今日大量に俺の手元にある。カラム精製というのは、反応物と生成物をチャージによって分ける作業のことで、その原理を実際的に、シリカゲル中に通してやることによって時間で分ける実験のことだ。有機合成ではこれが一番ダルいんだそうだ。確かに昨日は合計で5時間くらいかかった。まぁ初めてだから仕方ないのかもしれないが。大量の洗い物をしていると、ガラス器具を洗い終わった後にMQ水を通さなくていいのだろうか?と思えてくる。生物系の実験室では、洗い物をしたすべてのガラス器具に、最後、ミリQ水と呼ばれる特殊なフィルターに通した蒸留水を通すのが基本である。水切りを3回以上するのがポイントだ。この点は有機合成の部屋でも同じだが、ミリQ水を通さなくていいのだろうか?ミリQ水の代わりにアセトンをかけることで、蒸発を早めているけれど。アセトンをさっとかけて、試験管などのガラス器具を乾燥機に入れていく。
「あ、戸山くん、メスピペットは乾燥機にいれないほうがいいよ」
そう俺に声をかけてくれたのは、同期のD1権田くんだ。「メモリがずれちゃうからね」と言っている。権田くんは山岡先生が評価書を書くのを渋ったせいで学推に応募できないことが決定している。学推とはこの時期に博士課程の学生と修士課程2年生の学生が日本学術推進会に申請する書類であり、通れば来年度から3年間か2年間、月20万円の収入と年150万円以下の研究費がもらえる。俺は昨年度落ちてしまったが、野崎が企てているスパイ制度であるRC制度で年間2000万円ももらえることになっているので、今年度は申請しなかった。権田くんは学推に応募すらできないのに、最近、優しい態度だし明るい。直感的に何かあると思った俺は、このチャンスを使って権田くんに学推のことを訊いてみることにした。
「権田くんは、学推に応募しないことを納得しているの?」
ちょっと言葉がきつすぎたか。権田くんは俯きながら、ゆっくり答えてくれた。
「それが、先週の金曜日に山岡先生と話すことになってさ、それで、俺も学推を出していい、って言われたんだよ。突然のことにビックリして、テーマは急いで提案しなくちゃいけないし、それを急いで文章化しなくちゃいけないし、それ以前に”これまでの研究”も、俺あんまりそういうの書いたことなくてさ。いま結構忙しいんだよね」
そう言った権田くんは言葉の割にはさわやかだ。俺は理由がわかったことに安心しながらも、ちょっとビックリした。
「それは良かったね。でも、なんで山岡先生は今になって、OKを出したんだろう?」
「井川さんのことがあるんじゃないかなぁ。あの人、ずっと学推出させてもらえなくて、で、今いなくなっちゃってるし、山岡先生も少し気にしてるのかも・・・」
と言って、言葉を止めた。部外者である俺に対してそこまで情報を言っていいのか迷ったのだろう。というよりも、すでに言い過ぎた、という表情をしている。俺は「そうなんですね」と言いながら、気まずくなってパラレルスマホを見た。ちょうどスマートグラス上にメッセージありと表示されたからだ。当然、野崎からだ。スマートグラス上にメッセージが数文字流れたが一度で読み切れそうもないため止めた。
俺はお昼、外に食べに行くことにし、そこでパラレルスマホを開いた。心のなかで野崎からのメッセージを丁寧に読み上げる。新しい指示だ。
「5月26日13時から、日本学術推進会主宰で”科研費における審査の手順改革2018”説明会が都王大の竹田講堂で模様される。私はパネラーとして参加する予定なのだが、戸山くんも聴講者として参加したら良いと思う。当日参加オーケーのはずだ。戸山くんのお友達の村川くんも参加予定だ。この説明会中で特に戸山くんの仕事はないが、一応この間のJTSシンポジウムの時と同じように変装はしてきてくれ。そのあとに、このカフェで落ち合おう。RCに関して伝えたいことがある」
カフェの場所が示してある。いつものことながら、勝手だ。他人の予定を一切考えていないし、他人の友達の予定を勝手に調べて熟知している。うんざりだと思いながらも、審査に関する改革を行うという学術推進会の取り組みを知っておくことは損ではない。だが、この手の説明会は教授クラスの先生達のためのものであり、俺のような大学院生がいっても構わないのだろうか?あ、でも、村川も参加するのか。それなら構わない気もする。そんなことを思いながらキャンパスのなかに戻ってきた。
「どう?慶明大学には慣れた?」
M2の原田さんだ。まだラボについていないのに、キャンパス内で突然話しかけられたことにビックリしてしまった。PDの豊杉さんと一緒だ。俺が振り返ると、「あ、戸山さんのほうが学年上でしたよね。すいません、つい」と言ってきた。
「お、さっそく、原田さんの女の計算がでてますねぇ。あえて敬語を外すことによって、ってヤツでしょ?」
豊杉さんの言葉は「さしすせそ」のアクセントが強く、標準語なのに関西弁に聴こえる。豊杉さんは笑っていたが、意外にも原田さんはすごくイヤそうな顔をしている。また、この表情が男を誑かすのに長けていそうな表情だ。いかにもな女、やっぱり油断ならない。
「そんなことないですよ」
原田さんはそう言いながら、左手で口元を抑えて、右手で髪を後ろに流した。それからすぐに、豊杉さんと原田さんは、早足でラボのある建物に向かって歩きだした。俺はまだキャンパス内をふらふらしたかったので、道を変える。原田さんは去り際に俺に微笑を見せ、豊杉さんは軽く手をあげた。そんな二人に俺は軽く会釈し、緑が生い茂る日吉キャンパスで、大学という場所はどこもかしこも面倒くさいなと思いながら、まだ何も知らぬ新入生たちを羨んだ。
実験室に戻ると高野先生が座っていて俺を待っていたようだ。「ちょっといいかい?」と言って廊下に連れ出すと、誰もいないことを確認しながら
「権田くんの学推の件、どうも野崎くんが山岡先生に何か言ったらしいんだ」
と言ってきた。その言葉に、俺は納得しようと試みる気持ちと疑義が重なった。廊下のほうが少し涼しい。高野先生にあのゼミのあとの電話の件を言うべきか。迷うところだが、とりあえずは無難に訊いてみよう。
「野崎先生か山岡先生が、そう言ったんですか?」
高野先生の表情は穏やかだ。
「いや、直接言ってきたわけじゃないんだけど、山岡先生から野崎正洋はどういう人物なのか?って訊かれたし、その後すぐに権田くんの学推応募が認められたからね。その他に目立ったことは特になかったと思うし」
それは確かに野崎が権田くんの学推の件に関わっていると仮定するのが妥当だろう。俺は心に抱いた興味を直接ぶつけてみた。
「で、高野先生はなんて答えたんですか?博士号をとっていない、口やかましい研究コンサルタント、とか?」
高野先生は笑っている。
「まぁ、あながち遠くはないかな」
高野先生とはこの少しの期間である程度は打ち明けられる関係を築くことができている。俺はNMRを取る準備をするため実験室に戻った。
2016年5月26日(木)
14時、都王大学の根津キャンパスにある竹田講堂で、”科研費における審査の手順改革2018”説明会が開催され、一時間が過ぎようとしている。村川が隣に座っているが、何も意味がない。技術営業職として、これからの国の予算決めを把握しておく必要があるらしいから、この会場にいるのだそうだが、完全に居眠りしている。何が「戸山もちゃんと訊けよ!」だ。お前がちゃんと訊け。それにしても、この講堂には年寄りばっかりだ。若手研究者はほとんどいないし、若いヤツはみんな企業や会社から来ている人だ。一部、マスコミもいるが、聴講者、登壇者のほとんどが50代60代の研究者。まぁ、確かに、村川が寝てしまうのも無理はない。「改革!」と銘打っているわりに、全然改革になっていないからだ。前半は東ラなどの一般企業の副社長や日本学術議会の方針などが副会長から語られるなどのメッセージだったが、今は主に科学開発・学術審査会の分科会の研究資金審査部長を務める、京阪大学医学部の女性教授、多賀栄美子先生が説明している。パネラーには、日本学術推進会の重鎮たちが座っている。見るからに年寄りだが、技官か?教授なのか?よくわからないが、おそらくは引退した教授だろう。教授職を引退して日本学術推進会の研究センター副所長などをしているのか。そして、こういう登壇者のなかに決まって物理系出身はいない。専門を物理とする人間の政治力学の興味の無さにも問題があるな、と俺は思った。スマートグラスで顔をスキャンして略歴を調べてみると、一目瞭然である。パネラーは皆、老人かつ権威主義者たち。ただ一人を除いては。
壇上には、一人だけ場違いな存在として野崎が座っている。スーパーバイザー野崎。一般人の意見を代わりに主張するのが役割なんだそうだが、野崎本人は寝ているんじゃないかと思うくらい、俯いている。いかにも退屈そうだ。一方の紅一点、多賀教授は、いかにも、男社会で私は勝ってきたんだ!と言わんばかりの高圧的な喋り方で、今回の改革を説明している。「これからの科研費の審査は、”若手2”と”挑戦的研究”と”通常研究2と3”については小区分、”若手1”と”通常研究1”については中区分、”通常研究スーパー”については大区分によって、各分野別に行われることになります」などと言っているが、殆どが名前を変えているだけで現行と変わらない。「小区分については、これまで最大で432個の研究分野の中から選んで科研費を申請していたが、これからは304個の研究分野になりました。分野のなかでの馴れ合いを改善することが期待されます」という内容をこれだけ長い時間かけて、大改革でしょ?という表情を浮かべている。どうやら政治力学に演技は欠かせないらしい。「新しく取り決めた小区分の分野名に、生化学関連、宇宙・プラズマ関連、など”関連”という言葉を新たに入れたことこそが、その分野だけじゃなく他の関連分野も審査に受け入れます、という現れなのです」というようなことを、素晴らしいでしょ?と言わんばかりに解説している多賀教授の様子に、俺は吹き出しそうになる。お前理系だろ。そんな誤魔化し方が通用してしまうほど、科研費申請における「書き方」はくだらないことなのか。そう思っていると、「11項目ある大区分についてはそもそも名前がありません。ABCで表記することになりました」と言い出した。そんなの小区分でなんだかわかるだろ。ただ、わかりにくいだけだろ。俺は抑えきれないバカにした笑いが、ついに吹き出してしまった。すると、隣の席に座っていた村川が一瞬起きた。
「終わった?」
「いや、まだだよ」
「お前、よくこんなくだらない学芸会を眠りもせずに見てられるな」
おい村川、さっきと言ってることが全然違うぞ。俺だって興味はない。だが、野崎が俺に伝えたいことが少しだけ分かった気がして、ついくだらなさを直視したくなってしまったのだ。科研費の申請など所詮くだらない作業だとわかってはいたはずだが、この現状を見ると、さらにさらにくだらなく感じてしまう。学推DC1やDC2はこの説明会の内容とほとんど一致してくるはずなのだが、立場の弱い学生がこんなくだらない事項によって仕分けられているとは、皆あまり意識していないだろう。この会議に、どう野崎が割り込んでいくのか?見物である。それを見たい。俺はその一心で目を見開いているのだ。
「皆様、ここまで大改革してしまって大丈夫か?と思われるかもしれませんが、前例を参考にしながら決定しました事項ですので、何卒ご容赦ください」
多賀教授が丁寧に言った。丁寧ながら高圧的な印象である。ダメだ、笑いが抑えられない。
「それでは一度ここで、一般の方の意見を代表して、野崎正洋先生に何か発言していただきましょうか?本改革はどう思われましたか?」
司会が野崎に発言を促すと、野崎はすっと立ち上がり、マイクを手に取った。
「どう?って、こんな小さな変化で、改革って言えるんですか?」
突然の失礼な態度に多賀教授や学推の重鎮達は顔をしかめた。だが、この発言そのものは、聴講者の何十%かの熟練研究者たちに小さな頷きを与えていた。野崎は言葉を続けず、多賀教授の言葉を待った。
「現行の審査制度を、野崎さんはきちんと把握されているんでしょうか?今回の改革で、小区分を再構築し、一部の審査システムを2段階の書面審査にしました。これにどれだけの労力と時間がかかっているか、わかっているんですか?」
多賀教授の言葉に学推の重鎮達は深く頷く。博士号を取得しておらず、民衆とマスコミと警察と一部の研究者から支持されているだけの野崎に対して、多賀教授はハナっからバカにしているようだ。しかし、マスコミや民衆や産業界からの要請によって、野崎は自分と同じ舞台に立っている。それが許せないのだろう。
「そんな面倒なことしてないで、全部、大区分一括で評価すればいいだろう?」
多賀教授は驚きながらも、丁寧に応答する。
「そんなことをしたら、若手研究者の方の研究や、小規模ではあるけれど、しかし重要な研究が、この国では遂行できにくくなってしまいます」
野崎は作り笑顔を見せながら答える。
「そんな考え方をしているから、若手や学生は奴隷にしかならないんだよ。それなら、申請書から業績項目をなくしてしまえばイイ。そして、申請書の内容そのもののみに準じて予算を分配すれば済む話さ」
野崎は言葉を止めるつもりはないようだ。多賀教授の思考の先を読んでいる。
「すると、研究者をどう評価するのか?というようなことを言い始めるヤツがいるが、”原著論文が研究成果になっている”、”原著論文の執筆こそが税金を使う大義名分になっている”、と思っているのは研究者のおごりだ。そんなもの、民衆は求めてはいない」
そう言うと、パネラーの一人、学推の重鎮である老人がマイクを手に取った。
「最近の若者は皆そのような考えなのかね?論文は精緻なものとしてこの世に存在している人類の知的財産だ。未来に残す価値のあるものなのです。もしも、その保障がなくなってしまったら、科学研究費の削減は必至だろう」
この発言は、会場の多くの人間が賛同しているように見えた。野崎は無表情でマイクを握っている。
「削減される?そんなことはどちらにしても必至だ。いま日本は緩やかに沈みゆくシステムの中にいる。多くの者が、また好景気が戻ってくると勘違いしているが、そうではない。船は沈みゆく一方。そのなかで、今の若者たちの多くは、比較的昔の価値観を感じられる場所を自分だけが得るために、ずる賢く他人を蹴落とすことに抵抗がない。どちらにしても、どうせ沈んでいってしまうにも拘らず、だ。だとしたら、DC1やDC2、学推PDや新たに発足される超越研究員などの若手特有の支援を完全にやめて、成果が上がることが期待できるところに予算をきちんとかけるようにすればいい。今はバランスが悪いんですよ。この改革でも、前例主義的に、前の年の応募件数が多いからという理由だけで、小区分における生物系の領域ばかりが目立って多い。分野の不均一性を高めるのではなく、若手支援を完全にやめれば、この国が科学立国として復興するための最低限の予算くらいは残るでしょう。それは若手には酷かもしれないが、ここにいらっしゃる多くの皆さんは、戦後の復興として高度成長を支えながら苦労されてきた方達だ。そして未曾有の好景気を達成された皆さんでもある。だから私は、この困難な状況に対して、未来があるからという理由だけで若手を金銭的に優遇する意味はないと考える」
若者の代表としては年齢が行き過ぎている野崎ではあるが、その新進気鋭な態度は若手特有のものだ。だから、野崎から若手擁護論が飛び出すかと思っていたが、そうではなかった。予想に反して若手の完全な切り捨てに入った野崎の論に対して、高齢が多いこの環境では即座に反応できる者がいなかった。司会が質問を促した。
「えっと、なにか、野崎先生の言葉に対して、ご意見はありませんでしょうか?」
会場もパネラーも野崎の言っている意味がわからないというような表情だ。自分たちが評価され、ここにほとんど存在しない若手が貶されたというくらいの印象はあるから、誰もが瞬時にどう反応したら良いのかわからないのだ。だが、会場には野崎の論理の飛躍に慣れている者がいる。それゆえに、マイクが2階席の会場にわたっていく。理由は簡単だ。俺がまっすぐ手を天に突き上げたからだ。隣の村川が飛び起きた。そして、野崎は目を見開いている。
「野崎先生の仰っていることは分かるような気もします。ですが、若手のなかには、必死に毎日邁進しようと実験している人も沢山いるんです。その人たちを無碍にするんですか?」
会場の多くの人間が頷いている。俺には、この国に、まだ善意があることを感じさせる現れに思えた。だが、野崎の表情は穏やかだ。
「カネの支援だけが若手支援ではない。実際に、今の若者は経済原理を超越し始めている。旧世代のように散財するだけを価値基準にしない行動が目立つ。若手にはその分、フレキシブルに研究室を移動できるようなシステムを組めば十分だ」
研究室の政治力学のせいで、学推に応募させてもらえない予定だった権田くんを、野崎は本当に助けたのだろうか?
「若手が研究室を簡単に移動するようにしたとしても、生活できないじゃん」
野崎の失礼さを超える失礼な発言に、会場が少しざわつく。野崎はほんの少し笑いながら答えた。
「カネがないのであれば、そのぶん、誰かにモノをもらえばいい。当たり前のことだろう?収入については、ここにいらっしゃる多くの研究者の方たちが若い頃だって、学推やポスドクの制度すら整っていなかった時代をどうにか生きてきたんだ。彼らにアドバイスをもらえばイイ」
俺はこれ以上答えるのがばかばかしくなって、マイクを司会者に戻した。その後、会場はくだらない話に移行し、野崎は一言も喋らなかった。所詮、野崎には決定権はない。彼の言葉はただの戯言として扱われた。そんな戯言を重視するのは一部の話題作りをしたいだけのマスコミくらいなもんで、大した意味にはならない。村川は、「お前のわりにはよく言ったよ」と言い残し、次の用があるからと先に出て行った。しばらくして俺も会場にいる必要性を感じなくなり、野崎が事前に指定していたカフェに一足先に向かうことを決意した。
竹田講堂の2階からゆっくりと階段を下りると、少し小柄な女性がいることに気がついた。その女性は徐々に俺に近づいてくると、俺の前に立ちはだかってきた。他の聴講者はまだ講堂内に着座している。このフロアには、俺とこの女性しかいない。講堂内は蒸し暑かったのだが、外に出たせいなのか、恐れのせいなのか、急に涼しくなる。女性の瞳が、立ち止まれ、と強く言っている。
「あなた、野崎くんの部下でしょ?」
え?突然、本質を突いてきた質問をされて、俺は驚いて目を見開いた。RC制度における俺と野崎の関係は、俺としてはトップシークレットだ。こんな見知らぬ女性のブラフを肯定するわけにはいかない。俺の何も見抜けてはいないはず。どうせハッタリだ。俺は自分にそう強く言い聞かせた。童顔で小綺麗にしているせいで若くみえるが、野崎のことを「くん」付けしている点、身なりの高級さから、30代後半か、おそらくは40代前半だろう。
「別に無理に頷かなくても大丈夫。似てるわね。野崎く・・・、野崎さんに。歯向かいながらも、貴方は彼の純粋さを強く信じている」
野崎のことを先ほどは「くん」付けしたくせに、いまは無理矢理に「さん」付けにしてきた。野崎とどういう関係なのだろう?考えている間に世界は時を刻んでしまう。こちらから少しは仕掛けなくちゃ。
「あなたは、どなたですか?」
女性は作り笑いをした。見るからに作り笑いと分かる笑い方で、逆に何を考えているか分からない。演技を前提とした感情の隠し方。ある意味では野崎よりもコミュニケーションにおける能力が高いかもしれない。
「野崎さんのファンってところかしら。ねぇ、私のお願い、きいてくれる?」
女性はシンプルな白い封筒を差し出してきた。
「なんですか?」
「お手紙。野崎さんに渡してほしいの。あなた、野崎さんの部下なら、簡単に渡せるでしょ?」
俺は一瞬返答に迷いながら最低ラインであるRC制度の秘密を守るということを意識した。
「僕が野崎とかっていう人の部下であったとしても、渡さないかもしれないですよ?」
いや、これでは野崎と知り合いと言っているようなものか。すると、女性は少し俯いて考えながら、こう返してきた。
「The best way to find out if you can trust somebody is to trust them」
これ以上ない彼女のドヤ顔に一瞬惹かれそうになる。いや、待て、俺。流石に年齢が行き過ぎている。それにまだ信用できない。
「私は貴方を信じる。貴方も私を信じてちょうだい。これは天意。本当は、この手紙を野崎さんに渡したくて仕方ないんじゃない?」
俺はただ小さく頷いた。確かに直感的に手紙の中身が気になって仕方ない。
「少なくとも、貴方はメッセンジャーにはなりそうだしね」
そう言いながら去って行く素振りを見せた。そして、振り向きながら、思い出したように、
「もし、野崎さんがこの手紙を受け取ることを渋ったら、さっきの英文を言ってみて」
と言ってきた。渡された封筒を見つめながら、女性が去っていくのを確かめた。封筒にはシンプルにボールペンで「野崎正洋さまへ」と書いてある。裏をめくると、閉じてある部分にはペケ印の代わりに「渦巻きとその頭に毛が3本」みたいなマークがしてあった。いまの緊迫感のわりにはポップなデザイン。なんだったんだ?あの女性は?
野崎が指定した喫茶店に到着すると、すでに他のRC研究生達もいた。JTSシンポジウム以来、だいぶ久しぶりだ。北東大学に潜入させられている帝工大の吉岡くんはほとんど人が来ないラボで退屈らしい。俺と同じでこれといった成果はまだないらしい。RC研究の財源の1つである斉藤自動車グループのトップを父に持ち、京阪大に潜入している日本茶大の斉藤さんは、逆にハードワークの研究室らしく少々疲れ気味だが、外部生ということもあって色々考慮されているため、それなりにはやっているらしい。また個室の喫茶店。前回とは違う店だが、同じような高級カフェ。2回目だから慣れたけど、それにしても高級そうな机と椅子。そして、ロイヤルミルクティに一緒についてきたクッキーが今まで食べたことがないほどに美味しい。どうして普段、こういう店の存在に気がつかないのだろう?そんなことを心に思いながら談笑が続けると、野崎が店に入ってきた。
「皆さん、お疲れ。学推の説明会は、本当にいつも、つまらないね」
こないだパラレルスマホで話したときとは、まったく違う社会風刺型の今日の野崎。秘密裡に権田くんをDC2に応募できるようにしているわりに、学生が応募できる学推DC1やDC2は削減すべきだ、と言うのだから、いよいよ訳が分からない。
「戸山くんは他に私に言いたいことはあるの?」
咄嗟に「いいえ、ありません」と答えると、野崎は嬉しそうに本題に入った。
「さて、RC研究生の諸君、パラレルスマホとスマートグラスをテーブルに出してくれ」
各々、言われるがままに、RC研究生としての2つの必須アイテムを机に出した。すると、いきなり野崎は、それらを回収し始めた。
「え?なんで?」
吉岡が驚きながら野崎を見る。
「念には念を入れる。それだけさ」
そう言うと、野崎はバッグから、新しいパラレルスマホとスマートグラスを取り出し、俺、吉岡、斉藤に渡した。
「使い方は変わらない。ただし、グループSMSはもう一度作る必要がある」
RC研究生全員に安堵のため息が漏れる。使い方が変わらないならスマホとスマートグラスそのものを変える必要もないんじゃないか?
「動きがあった。私の事務所に手紙が届いたんだ」
野崎が少し緊張感を持って言った。そして、今までで一番の慎重な顔を見せたのだ。
「この手紙は、例の大学院生・若手研究者失踪騒動が殺人であることが書かれていて、犯人と名乗る者からだった。自分のことを、研究コントローラーと書いている」
吉岡が目を見開いた。斉藤が深刻な顔に嫌悪感を重ねている。
「でも、それって、全部ウソの可能性があるんじゃないですか?」
斉藤が野崎に言った。甘える素振りは一切ない。ただ思ったことをそのまま言ったという印象だ。
「どうかな。というのも、私が怪しいと踏んでいた、失踪した大学院生・若手研究者の名前がこの手紙に書いてあったからだ。私の被害者リストでは104名。そのうち、こいつが示してきたのは73名だった。私以外の人間が、このリストを作成できたとは思えない。どのくらいこちらの手の内を知られているのかわからないが、君らには、これまで以上に警戒してもらう必要がある」
野崎は封筒から3つ折になった3枚の手紙を取り出した。そして、ゆっくりと話し始めた。
「リスト以外のところを読み上げよう。拝啓、野崎正洋さまへ。このたび、我々が進めているプロジェクトに興味をお持ちになってくださり、誠に有り難う御座いました。ご安心ください。貴方が心に抱かれている興味は事実であり、我々は確かに実験終了後にヒトを処分しております。殺人は犯罪ではありますが、本プロジェクトは倫理的には推奨されるものであり、我々はあくまで実行し続ける所存です。もし我々を見つけ出すつもりなら、現場に残された証拠を隈無く調べ上げ、それらを貴方の持ち前の論理性と思考力で総括していけば可能かもしれませんが、現場そのものが存在しないこれらの殺人事件を、どのように解決するおつもりでしょうか?せめてもの暇つぶしに、その賢さを我々に見せつけてくださると幸いです。本プロジェクトにおいて処分したヒトのリストを送付しますので、参考にしてください。研究コントローラーより」
丁寧な言い回し。サイコパスか?本プロジェクトとはどういう意味なのか?研究コントローラーとは犯人の名前なのか?俺は野崎の言葉を待つことにした。
「問題の論点は、なぜこの手紙を送ってきたか?だ。ゲームのつもりなのか?本心では止めてほしいと思っているのか?それとも我々RCチームが動き始めたからこそ、この手紙を送ってきたのか。どちらにしても、君たちが潜っている研究室の失踪者たちの生存率はぐんと下がった。それぞれリストに入っている。この手紙は、ほとんど殺人の根拠と言ってイイだろう」
それすらも情報操作している可能性はないのだろうか?もしかしたら、混乱をさせるために殺したとウソをついている可能性もあるだろう。だが、野崎がハッキングしたり外部から相談を受けたりして情報を集積していった結果であるリストと、犯人と名乗る”研究コントローラー”が提示してきたリストが共通になっていて、その手紙のなかで殺したと言っているのだから、確かに本当に殺している可能性が高いのだろう。しかし、最後の最後、どこか合点がいかない。それだけ、死体が出てこないことに対して殺人の根拠となるものを見出すのは難しい。
「被害者リストのなかには一人だけ大学院とほとんど関わりのない者もいた。彼自身は研究関連の人間ではないが、交際相手の女性が今年の3月まで村松研にいたということが私の調べでわかっている。でも、まぁ、このリストだけだと殺人の根拠にはならず、警察も公には動けないだろう。だが、私があらゆる手段を使って割り出したリストに対して、同等のものを犯人以外の人間が作れるとも思えない。君らも慎重になってほしいと思う。怪しい人がいたら、すぐに私まで連絡すること。危ないと感じたら走って逃げてもらって構わない。それから、各潜入先のラボで、水酸化ナトリウムの購入の有無を調べてくれ。なかなかきちんと調べるのは難しいかもしれないが、普段水酸化ナトリウムを使うラボも使わないラボも、ここ1年以内での増減を調べてほしい」
突然、最後にかなり具体的な指示がでた。俺は目を見開いた。
「どうして水酸化ナトリウムなんですか?」
斉藤が野崎に訊いた。みんな真剣な表情だ。吉岡は握りこぶしを作りながら訊いている。
「いや、それこそ特に根拠はないんだが、遺体がまったくでてこないということは、強アルカリで溶かしている可能性があるかなと思ったんだ。実験室で沢山あったとしても、そんなに目立たないしね。苛性ソーダや乾燥剤として記録されている場合もある。なるべくで構わない。調べてくれ。また連絡する。とにかく、この、研究コントローラーとかいう、イカレたヤツを必ず見つけ出す」
そう言うと、野崎はカフェを後にすることを促した。吉岡と斉藤が個室を出て行くが、俺にはまだ野崎に渡すべきものがある。
「これ、野崎先生に渡してくれって言われまして。さっきの説明会の帰りに」
そう言うと、野崎が振り向きながら、シンプルな封筒を手に取った。手に取って裏返した途端、みるみる表情が変わり、封筒を破りながら、個室にあるゴミ箱に捨てた。
「ちょっと、待ってください」
俺はあわてて野崎にそう言った。
「先ほどの手紙と違って、差出人が誰だか分かっている。もしも読んでしまえば私の意に染まらない選択肢が増えるだけで、私にとってメリットはない」
あの女性が言っていた言葉を思い出した。英文!あれ?でも英語なせいで、ちょっとしかでてこない。とりあえず、覚えているところまで言おう。
「えっと、それを渡してきた女性が僕に言ってたんですよ。英語で。えーっと、The best way to find... if you can trust...」
そう言うと、野崎はゴミ箱から手紙を取り出し始めた。俺は突然のことに驚きながら、「そんなに大事なんですか?あの言葉」と訊いた。すると、野崎は先ほどの研究コントローラーからの手紙を俺に渡してきた。手をかけたと見られる、ずらっと書いてある名前のリストの下に英語で記されていた。”The best way to find out if you can trust somebody is to trust them”
「ところで、結局、権田くんは、学推は出せたのかな?」
唐突に野崎が言ってきた。俺は小さく「はい」と答え、訊きたいことを訊く覚悟を決めた。
「やっぱり、野崎先生が権田くんも学推を出せるようにしたんですか?」
野崎は笑顔になる。今日初めて野崎の素の笑顔を見ている気がする。いや、”今日初めて”じゃない。”これまでで初めて”だ。
「ただ山岡先生に助言しただけさ。学内の回線を使って、いかがわしいサイトを見ているとわかっちゃいますよ?ってね」
俺は迎合しようとした自分の笑顔が急速に恐怖の顔になっていくのを感じた。こいつのハッキング能力は恐ろしい。
「心配しなくても良い。ハッタリだ。慶明大学のネットワークに入るのはなかなか難しいんだよ。まぁ、見るからに好きそうな顔をしているから、もしかしたらと思ってね。私の評判はそれなりに知っているだろうし、あの世代のあのタイプはリテラシーが無さ過ぎるから、少し専門用語を使ったら、すぐに信用したさ」
「どうしてそんなリスクまで背負って、権田くんの学推応募を可能にするように試みたのですか?どうでもいいことだ、よくあることだ、って言ってたじゃないですか?」
野崎は穏やかな表情で答えた。
「確かに、権田くんの学推なんて、どうでもいいことだし、よくあることだから、研究コントローラーを捕まえる上では関係ないかもしれない。だけど、この事件は、大学院の中でよくあることの中に紛れているからこそ、発覚しにくい事件でもある。その、よくあることと殺人との、ほんのちょっとの違いが見つかるかもしれないと思ったんだ。だが、今になって、完全に無駄だったかな、とも思う。まぁ、山岡研の体制はわかったし、戸山くんに学術推進会の責任逃れのための絶望的な前例主義ぶりを目の当たりにさせられた。だから、良しとしよう」
学推PDやDC1やDC2、新しく導入される予定の超越研究員までも一切不要だと断言した野崎だが、たった一人に対して助けの手を差し伸べるという精神はあるらしい。納得できない行動だが、俺は心の中で少しずつ納得しようと努力し始めていた。
「なんていうか・・・、俺のワガママを、有り難う御座いました」
そう言うと、野崎は英語で「Take care!」と言ってきた。俺は軽く会釈して個室を出た。
個室をでて、高級カフェを後にすると、空が少しだけ曇りはじめたのを感じた。あの女性と研究コントローラーと名乗っている犯人とどのような関係があるのか?本当に強アルカリで溶解させているから遺体がでてこないのか?そして、野崎はどこまで掴んでいるのか?謎は深まるばかりだが、とりあえずは遅めの昼食兼早めの夕食でもとるか、と思い、自分のスマホでテキトウなラーメン屋の検索を始めた。
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6. 研究者として/『研究コントローラー』につづく
この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。今回もかなり参考になりました。っで、Acknowledgementみたいな感じで、名前だしても構わない?それともイヤ?笑
今回は意外と書くの大変で延びちゃいましたね。審査の説明会の場面、学術推進会が説明している部分が、かなりリアルな印象かもしれませんが、あくまで、あくまで、フィクションです!笑 ホンモノと比較したりしても、何も面白いことは見えてきません!笑
この7からはメルマガ登録限定にでもしてみようかなぁ、と計画中。うーん、どうするかは、まだ決めてません。