たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

智慧の回廊

2014-08-30 02:28:09 | Weblog
 深淵な闇から逃れるために安易に開けた扉の先にはラビュリントスが広がっていた。
 ダイダロス曰く、その深淵さからいかなるカタチであれ、とにかく抜け出し、このラビュリントスを解くことを最終目標にした我々に命ぜられた業務さえしていれば良い、と私はそれに従ってきた。

 ラビュリントスの中で、私はかなり自由に行動してきたつもりだ。もはや誰にも従わず、自らの意思でこの智慧の回廊の地図を精緻なものにし、さらには回廊そのものを掌握することに尽力を注いできたのだ。

 しかし、このラビュリントスを右手法で原理的に解いてきたはずなのに、行き止まりであることが確定してしまった。何のために長い時間を使ってきたのか。扉を開けた瞬間に行き止まりが確定していたならば、これだけの時間を尽くさなくても済んだものを。
 私は一時、ダイダロスを恨んだ。なんと、行き止まりの最終地点に、最大にして最強の敵が待ち受けていたのだ。しかもそれは、かつて、このラビュリントスの扉の目前で私に立ちはだかった、深淵な闇そのものと、寸分変わらぬ姿であったのだ。
 これでは何も意味が無いではないか。

 ダイダロスは私に何を求めているのか、何も分からなくなってしまった。
 私の左手には、帰るために必須である、アリアドネの赤い糸が握られている。これさえ辿っていけば、扉までは安全に帰れるし、何よりもアリアドネと一緒になれる。そこには同じく深淵な闇が待ち受けているであろうが。

 なるほど、この智慧の回廊を私に実際に掌握させようとすることで、この怪物を倒す指針を私に託したというわけか。確かに今の実力なら、私はこの怪物を倒すことができる。
 ならば、ここで一太刀、さらに扉まで戻って一太刀、闇を振り切ってしまえば良い。

 ラビュリントスのゴールはスタート地点である、という非常識的な常識さが、今になって本当の意味でやっとわかった。
 あとは、アリアドネの赤い糸を辿っていけば良く、これで逃げ回る生活から脱することができるのかもしれない。

 その後も、結局はお互いに食われてしまう人生が待ち受けているかもしれないが、今の状況よりはマシだろう。

 そう、いかなる研究分野を選ぼうがそこに待ち受けているのは、同じ怪物であり、その怪物に食われる運命ではあるのだが、どのようにその回廊を楽しめるか、そしてコスパー良くたくさんの迷宮を解けるか、が、研究そのものとしての楽しみどころなのだと、俺は思う。
 もちろん、そこに信頼関係があれば、もっともっと、かなり良い。
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外因性と内因性からやり直そう

2014-08-28 23:26:26 | Weblog
 人生は情報戦だ。すべての能力のある人間はそれを熟知している。

 いかに重要な情報をさまざまな社会から引き出し、それを上手く使い、自分の頭で組み立て、みんなで楽しく創っていくか?それこそが短い人生を楽しむコツだと思う。

 自分が優位にコントロールすることが目的ならば、情報引き出し口にこちらが本当に必要な情報を引き出したと思わせないことがポイントだ。自分が本当に知りたい情報を隠して、ダミーを用意する。
 ダミーを掴ませて、それくらいならいいか、っと思わせて、本当に必要な情報を引き出したことを相手にわからせないようにしなければ、こちらが優位に何かをコントロールすることはできないのだ。

 そう、相手に選択権があるかのように魅せて、コントロールしているのはあなたですと惑わすことで、優位的にこちらが本当の意味でコントローラブルになる。もちろん、それをするためには、絶対的な演技力や相手の言動を心から掌握するだけの解析力だけじゃなく、本当に能力と技術が無ければ成り立たない。だけど、いくら相手が上の人間でも、無能な権威主義者を出し抜くくらいなら簡単にできてしまう程度のコスパーの良さはあるんだぜ?

 本当にやる気があるなら、本気で何かを変えたいという気持ちがあるなら、人生は情報戦であることを頭に叩き込み、それを効率よく使える解析方法と技術を身につけなくちゃいけない。
 その世界でアジャストするためだけに生きていくのなら、こんなにも色々な技術を身につけるのは、コスパーが悪過ぎてやってらんないけどね。

 厳しい意見だが、その過程で、内因性動機をアンダーマイニングされてしまい、そこから復活できないのなら、やめてしまったほうが無難だ。その程度の内因性動機しか持ち合わせていないのなら、成功は覚束ない。
 ただし、他人、特に下の世代に対してまで、そう思ってはいけない。むしろ、いかにしたら、外因性の価値を付加し、内因性の動機を保たせるのかを考えなくちゃ、新しいシステムなんて創れない。

 だから、真のリーダーは孤独なのだ。

 意図して掴んだ、この重要な情報を、活かすも殺すも俺次第。
 変なプライドは捨てて、きちんと本来の目的を想い出し、今こそ、やるべきことをするべきときなのだろう。

 俺は、必ずしも自分が優位にコントロールする側でなくても良いのだけど、最高の人間が最低な人間に搾取され続ける様子を黙って見ていては、男が廃る。ただそれだけだ。

 だとしたら、外因性と内因性の確認からやり直そう。
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そっと命を吹き込んで

2014-08-26 01:38:20 | Weblog
 心でカウントをとって、ステージの上では1mmのズレも許されない。
 不器用で下手な俺自身の不用意な動きを押し殺すため、実際に声を出しながらカウントしてみる。煌めく2色の鮮やかなレーザービームのなか、指先まで集中して、そっと命を吹き込んでゆく。

 止まっていたはずの時間にたいして、すべての役者がそろうと、そこから息をし始めるかのように動きだす。それが一過性の躍動であったとしても、一瞬の協同的な動きに、自然と笑みがこぼれるし、それを仲間と分かち合える瞬間が俺は今でも大好きだ。

 『もっと、今、研究潮流にあるような、意味の無いくだらない競争を起こさないように、システム化できるはずです』
 「それは、まだまだ、時間がかかるんじゃないかと、思うんだけどね。だって、おめーの周りには、ただ単純に、自分の保身や安全だけしか考えないヤツばかりおるやろ。しかも、それが、必ずしも年寄り連中ばかりじゃないってことも、お前はわかっとるはずや。まだ20代や30代でですよ?、お前の周りにいるヤツなんて。それなのに、半分以上がテメーのことしか考えてへんやないか。そんな腐ってるこの世界に、そこまでの希望はあるんかな?そして、それがお前が40や50くらいになったときに、今の君と同じことを言ってられるか、っちゅー話や」
 『それはわかりません。確かに、そういう意味では、年下すら俺より年寄りにみえることだってありますから』
 「せやろ。まぁ、俺と俺の周りのコミュニティーは全然ちゃうけどな」
 『なぜ、それを、そんなにも保っていられるんですか?その秘訣を俺は知りたいんです』
 「それはなぁ、…」

 気持ちが入っていなけりゃ、どんなデモンストレーションもまったく意味を持たない。魅せる技術があるかどうか、それは、気持ちをきちんと付加する気があるかどうか、ってことだ。気持ちさえ入れ込んでいけば、最終的に成り立たなくなったとしても、未来には絶対に意味のある行為になる。

 こういう行為を繰り返したときにのみ、自分の絶対的な能力はやっと向上する。リスクを恐れずに、気持ちに正直になったときにのみ、自分の能力が上がるのだ。そしてそれをまた違う誰かのために使っていったら良いと思うのだ。
 マイクロメートルの世界からメートルの世界までのステージで、自分の能力は、どんな空間スケールに対してでも、いくらでも応用できるのだから。

 あのとき、、タイムリミットがやってくる、あの一瞬、俺は、『時間よ、止まってくれ!』と切に心で願った。
 でも、「お互いに、、あなただけでも、前に進まなくちゃいけない」と見つめる瞳と1mmもブレない優しい右手は、俺に確かにそう伝えていた。自分自身の保身と安全を一番に考えるのではなく、リスクを恐れずに誰かを助けようとする、その掌から手を離し、命をそっと吹き込んでもらって、俺は今ここにいることを、決して忘れてはいけない。

 優しい、という絶対的な事実を、いつも忘れてはいけないのだ。
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いつも本気で!

2014-08-25 03:22:34 | Weblog
 本当にやる気が無いのであれば、やる前からやめてしまったほうが良い。
 何事も本気で達成する気で走りださなくちゃ、誰かに失礼だ。

 だから、本当にこれで成り立つと心から思えた時に提案すべきだし、本当に戻れると確信してから戻ろうとするし、本当に意味があるように持っていけると思えなくちゃ何かを構築し始めることはできない。

 「自分が一番正しいと思っているでしょ?」

 っと昔よく言われたが(なぜ今あまり言われなくなってしまったのか分からないのだが)、そのたびに俺の答えは決まっていた。

 『当たり前だ。世界で一番自分が正しいと思った意見しか俺は言わない。むしろ自分が一番正しいと思えていないような意見は言うな』

 最低でも、自分でできる思考の限りを尽くしたと思えている意見を言うべきだ、というのは今もカワラナイ。それは、思考や意見だけじゃなくて、行動もそう思うようになってきた。
 とにかく自分ができるであろうことをしつくしてから、相手にアプライしたり、社会に発信したり、そちらのほうが本質的な評価は高い。
 このブログの主なヒットである、「タートルトーク」や「研究室の選び方」は、やっぱり普段のに比べて、本気で書いている度が違うもんね笑。最低でも歴代1万回ヒット以上を稼いでいる記事とそうでない記事は、やっぱり何かが違うし、そこまでではなくてもちゃんと気持ちをこめて書いた記事のアクセス数は、自分であまり満足していなくても、一定数を常にとれる。

 こういうことをタイムリミットまでにずっと意識していたいと思っている。
 それは、公的なことからプライベートまで、すべて大事。それに本気のほーが何だって楽しいからね。
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心が風邪をひいたら

2014-08-23 04:06:42 | Weblog
 何もかも投げ捨てて、がむしゃらにひとつのことを頑張っていると、頑張っていることが普通になってきて、それをやってないと不安にすらなってしまうようになる。
 そして、そのひとつ時間を掛けていることが認められないと一気に具合が悪くなるし、何もかもが嫌になってしまうことだってあるだろう。

 誰かに魂を売り渡すわけでもなく、本当の意味でのやる気をどこか他の場所に移すわけでもなく、自分できちんと自己実現しよう、自分たちだけで努力しようと思っていれば思っているほど、この世では報われない。
 一緒にやってくれる人にものすごく感謝をして、みんなが一人ひとりが楽しいように頑張っても、自分を支持してくれる人なんてごく一部だし、そこに愛情を持っていても実際に何割かには裏切られるし、周囲を愛していれば簡単に成り立つかといったら、そんなに甘い話でも無いのだ。

 っで、何かにアプライしたり、応募したりしても、自分が望むだけの結果は、きっと出てこない。
 そんなにガチにならなくても、、みたいなやる気のない犬のほうが評価が高いわけで、みんながみんな(俺もまさにそうだけど)、ラクして貰えるもんは貰っとこ、みたいな人しかいないから、いつまでもいつまでも、本質的に新しいモノづくりはでてこないし、それはどの世界でもそうだが、研究の世界ではさらにエンハンスされていると思う。

 かといって、忠義の塊のような人間に本当の能力は決してつかないし、その逆で、本当の能力を得ようと努力する人間には忠義のカケラも存在しない。両者は原理的に相反するもので、どちらも少しずつ上手く上昇させていこう、なんて考えている人間も、所詮自己実現して成功することはできない(し、大抵の場合、忠義の犬になるだけだ)。

 だとしたら、何を反省すべきか?
 きっと、それがとても難しく、答えのない状況になってしまうことが多い。っま、とりあえず、わかんねーから、黙ってても貰えるもんは貰っとくか、ってね。

 きちんと努力し、しかも自分たちできちんとやろうとしていたのにも拘らず、誰にも認めてもらえない、もしくは、全然即物的な結果がでないときに、自分の努力の仕方を反省したり、努力の絶対量を反省したり、もしくは審査側がクズだなという結論にもっていてはいけない。

 本当に反省すべきは、自分は、なんて他人任せだったんだろう、と、出力の最後だけを、自分勝手に誰か(の評価)に投げてしまうその姿勢を反省すべきなのだと想う。
 クソみたいなシステムにアジャストしようとしてしまったのは自分自身。そこに目先のどうでもいい成功に目がくらんでアプライしてチャレンジしていたのは自分自身なのだ。それは、自分でやってやろう、という気持ちが最後欠けているからだし、少なくとも、欠けているなっと思いながらアプライしたなら、また結果は違ったはずだ。

 自分や自分たちが、これはめちゃくちゃ良いモノづくりをしたはずだ、と想うんなら、自分自身で全社会に売りこめや!
 そこを誰か営業の人がやってくれるとか、上の人がやってくれるとか思っているのは、結局、自分で、自分たちだけで自己実現してやろうという、気持ちの強さが絶対的に足りない証拠なのだ。

 心からこう思えた時に、はじめて前を向ける。そして、新しく本質的なモノづくり、社会を変えることの達成に一歩近づくのだと想う。

 それがついに達成されたとき、これまでに、ずっと傍にいてくれた人も、めちゃくちゃムカついた人も、過去からの参加者全員が集合できて、みんなでみんなに感謝し合えて、いつまでも一緒に笑っていられたら、一番イイよね。

 それに俺は、どんなにつらいことがあっても、悲しいこと、泣きたいことがあっても、暑い中一本62円のガリガリ君梨味を食えばとても幸せに感じるし、友達や仲間と行きつけの居酒屋に行って一杯100円のお疲れさんサワー飲んで刺身食えば生きていて良かったと思える。
 なんやかんや、そんなもんでいいじゃないか、と納得しながらも、前に進もうと齷齪している自分や仲間たちが大好きなのだ。
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ペンネのアラビアータ

2014-08-21 01:45:23 | Weblog
 ホンモノの人間関係を願うときに、いつだって付き纏う言葉は、永遠だ。

 永遠に続く関係性こそがホンモノだと考えているのであれば、それはものすごく現実的ではない。なぜなら、どんな人間関係だって、めちゃくちゃ長かったとしても100年以内に終わりを迎えてしまう。

 消えたりしないでと願う人も例外ではなく、どんな人とも、必ず絶対にいつかは、幾何学的な距離として、別れなくてはいけない。別れない人なんて、たった一人だって存在しないのだ。それなのに、多くの人は信頼関係を心から求めているし、もっと虚無的には、どうでもいいはずの無能な連中が自分の評価を下してくることに、ビクビクしていたりする。

 ホンモノだと想える関係性だって、平均的には何十年のあっというまの期間でしかない。自然現象的に考えるなら、実際の関係性の何十年に対して、求めてしまう永遠は、地球の年齢が46億年とかだから、、研究のめっちゃビッグなプロジェクトの全予算と駄菓子ほどの差があるのだ。

 しかし、だからこそ、、限りがあるものだからこそ、みんな、永遠を求める。

 例えば、液体と固体には、現象そのものを単純に見ただけでは、その定義分けがはっきりできなさそうに感じるが、ちゃんと理論を勉強したり研究したりしてる人からすると、実際には熱力学の種々のパラメータによってきちんと定義されている。(生命と非生命も、同じことなのかもしれない?)
 それと同じ、つまり、物理現象を現象そのままで理解できるなら物理学は必要ないのと同じで、幾何学的・ユークリッド空間的ではない、肉体に内在されている気持ちの永遠性を、ホンモノの気持ちとして、みんな求めている。何処までも続く長い道がずっとひとつであるように、と。

 そして、ホンモノは偏って異常にまでなってしまう恐ろしさを秘めている。
 永遠のためなら、楽しい時も落ち込んじゃった時も、ずっとずっと近くで、いつも一緒で、そこで脇目も振らず、尽くし合い続けることを強要するようになってしまう。そして、相手や集団の誰かが、その関係性からほんのちょっとだけ離れている瞬間の存在ですら受け入れてる自分が(我慢していて)エラいと思ってしまったり、遂にはほんの少しも受け入れられなくなってしまう。
 もっともっと酷くなれば、一緒にいるならば、そのコミュニティ以外の他の誰かが傷ついても、さらには、私たちで不幸になるならそれで構わないだろ!、っという気持ちにすらなってしまうだろう。

 価値観を強要したり、やる気のない人を鼓舞したりするくらいなら、まだいいけど、その人(達)と一緒にいるためなら、みんなで悪くなっていってしまっても構わない、と思ってしまったなら、俺はそれはホンモノではないと思う。
 だって、2人で、みんなで、チャレンジするのではなく、社会に対して背を向け、自分達勝手にどこかへ一緒に倒れ込んでいくために、集団化するのだとしたら、、そんなのくだらない、全然幸せじゃない、と思わない?

 そんなにおおげさじゃなく、写真に映したようにいつまでも覚えている風景が存在しているなら、それだけでホンモノなのだと想う。

 心からすごく幸せだと想える、そんな気持ちが次世代へと引き継がれていく灯は、永遠なのだから。
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夢見ロックの続篇

2014-08-20 02:26:08 | Weblog
 理想やスローガンを掲げることは簡単。
 いじめをなくそう、とか、みんな平等に、とか、そういうキレイごとに流されすぎてはいけない。だって現実に、他人をいじめようとする気持ちは自己防衛から生まれるもので、ある意味では本質的なことだし、誰もが平等ではないのは周囲を見れば明らかだからだ。
 理論が好きなら、理想を語るだけ語って、現実を観ないイイワケにしてるだけじゃない?と自分に問いかけなくちゃね。

 理想と現実が違うってことをきちんと受け入れることが大事。
 理想はあくまで理想で、現実は現実。その上で、少しでも理想に近づけようとすることが大事だと思うし、自分が手を差し伸べてあげられる範囲で、理想を上手に使えば良いと思う。

 そこに対して、自分の能力を上げてまで、つまり自分が手を差し伸べることができる範囲を広げることを試みてまで誰かに手を差し伸べられたら、確かに理想かもしれない。忙しくなければ私もそこまでしたいし、でもそれこそ、人の防衛本能を考えたら、そこまでするのはナンセンス。
 そして、それを他人に強要するのは、もはや暴力的だと想う。たとえばそれをCグループにとって一番イヤな方法で責めるんだとして、それをわかってやったのだとしたら、それこそ、いじめ。

 ―チームは生きている。自己保身を一番に考え、機械的に集団を廻そうとする時点で、崩壊は決まってしまうものさ。つまり、混じりっけの無い理想を追い続けなければ、脆くも崩れ去ってしまうということだ。それに、そんなことは覚悟の上の夢だったのではないのか?

 私はそんな夢は見ていないし、そもそも夢を見ていない。見ていたんだとしても目醒めて忘れちゃったのかもね。

 『精神的な構造は近しくても、環境が変わればこうも状況は変わるもの。とても悩ましいところだよね』
 「やばいじゃないですか。同じってことなんじゃないですか?」
 『いや、決定的に違う。偶然であれ、運命であれ、環境の要因であれ、俺が絶対に許せない行為を実際にやってない、ってのは、俺の選択の中でめちゃくちゃ大きいところだと想う』
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順風満帆と完璧主義

2014-08-17 01:56:39 | Weblog
 人生はいつ変わるかわからない。目の前の日常も自分の現状もどんどん変わっていくし、その変化のなかに変化しない本質的なもんもあったりして、そうこうしているうちに人生なんて終わってしまうものだと思う。
 目の前に確かな分かれ道が観えているけれど、この行き先はもっともっと前に決まってしまったものなのかもしれない。俺の一つひとつの選択がすべてを決めていくし、すべては俺の感情に従っているから、ちゃんと最終的には行くべきところに繋がっていく。慣れてしまったからって惰眠を貪ることもしないし、まったく違う世界へ行くことも厭わない。

 だからこそ、(自分で言うのもなんだけど)これだけ幅広い分野をカバーできていて、価値観を、単純に様々な種類を枚挙的に認めるのではなくって、自分の気持ちのなかに落とし込むことでそれらを完璧なものにしていけるのだと思う。
 俺は変化を求めているし、これからもそれはカワラナイ。

 『だから、いろいろ上手く行かないなーと思うわけですよ』
 「別に、順風満帆じゃん」
 『どこがですか?笑』
 「たかはし君は意外と完璧主義だよね?こー、全部、完璧に整っていないと不安になっちゃうんだね」

 それは半分正解で半分不正解。無難の視点に立った時に、とれる無難さはとっておくが、自分の道徳に反するものであれば、はっきりと特異的になる。だから、表層的な評価に関して完璧主義ではないが、自分の正義を通そうとする点においてはめちゃくちゃ完璧主義だと思うのだ。
 いや、、やっぱり、80%以上の確率でそれを理解している言葉だから、完璧に正解かもしれないな。そして、それを通して、他のことを伝えたい気持ちがあった可能性が50%というところで、それを包括すると確かに完璧主義であるから、やっぱ正解か。

 山あり谷ありの人生でも、誰かから観れば、そら順風満帆に見える。大事なのは自分自身が、どんな形であれ(ずっと何かが変わっていないんだとしても)、自分は常に大冒険しているんだ!、っという感覚で日々生活していることだと思う。
 その価値観こそが至上であり、例外は認めない。そして、そういう理解を持っている人と共に、歩んでいきたいと願っている。
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会いたい人にはいつも逢えない

2014-08-13 23:47:14 | Weblog
 前に進めば進むほど、歩きづらくなる。目指していたものにだんだんと近づいていくのがわかるけど、そのぶん、くだらないことも増えるし、責任も増えてくる。そして、当たり前の幸せからはどんどん遠くなっていくのかもしれない。
 研究とか、ものづくりってのは、基本的に満足してはいけない。あくなき追究を繰り返し、精緻に、より理想に近く、わかるところから作業をこなしていく。だから、いつまでも達成はしなくて、いつまでも満足しなくて、いつまでも幸せにはならないのだ。

 確かに年々、会いたい人ほど逢えない気がするし、逆に普段周りにいる人が信用できなくなることのほうが多い。それは仕方のないことかもしれないけど、なかなか難しいよね。目の前にありふれた形で落ちている幸せに満足しながら、無難にすべてをやりすごしているほうが、変な期待をしない分、よっぽどラクに安定に幸せな生活を装えるし、自分もそう思えるのかもしれない。
 そもそも、会いたい人についての逢いたい度の絶対量を査定するのではなく、自分が原理的に会える人のなかから巡り会っていけば、本当にラクだ。でも、、それって、楽しいのかな??

 「そう、アメリカの大学に。5年間」
 『5年後って何年?2002年??』
 「そうだね、K君は高校一年生かな?」
 『じゃあ、もう会わないですね。だって、ノストラダムスが』
 「あぁ、でも、あれって日記らしいよ?」
 『ふーん、そうかなぁ』
 「K君が高校一年生か。もっともっと生意気になって、茶髪とかにしてたりして」
 『えー、茶髪なんかにしないよ』
 「でも、どんなにK君が変わってても、私、電車とかで見かけたら、ぜったいにわかると思う。そのときに会ったら、思い出してね」
 『だから、最後の楽譜にマルくれないんですか?』
 「それはちゃんと練習してこないからでしょ?笑」

 いま、5年どころか、15年以上経とうとしている。あの頃、すぐにでも会いたかったのに、こっちに戻ってきたであろう時も手紙すら書かなかった。高校一年、久しぶりの公立校に馴染めなかった俺は、そんな場合ではなかった。

 結局のところ、今のこの気持ちを持続させられるのは、今にかかっている。それは今会いたい人についてもそうだと思うし、時間をおいてしまえばそれだけ心は変わってしまうのかもしれない。それがとても不安だ。
 もちろん、時間依存性が無いほうがホンモノなのだけど、時間依存性が無いことを持続させるためにも(という時点で時間依存性がある気がするけど笑)、今、そのときの気持ちに、きちんと正直になって、行動しているようにしたい。

 たまに暇なときに鍵盤に手を置くと、昔聞き慣れた懐かしい声が聴こえてくる。「焦らないで!ほら、また早くなってる」
 何事も、今の気持ちを大切にしながら、でも先走らないでゆっくりと、理想へと状況を変えていけたらイイと思うのだ。
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正論-信頼間相互作用

2014-08-11 03:53:42 | Weblog
 正しいことは人を傷つける。というか、誰も傷つけない言葉なんて存在しないから、正しさを振りかざすことだって、もちろん、誰かを傷つけることになるだろう。
 例えば、この言葉だって、正しいことをやたらめったらとにかく言ってる人を傷つけることになる。

 ただし、傷つけることになったとしても、正しいことを言わねばならない瞬間はある。それは、これで相手が傷ついたとしてもその人のためになるだろう、自分は嫌われるかもしれないけど、絶対にこの人のためになるだろう!、と強く思った時に、初めて正しいことを言うことに意味がある。
 というよりも、そうまで思ったのなら、正しいことを言わなくちゃいけない。嫌われないように無難なことを言うなんて、そんなのホンモノでもなんでもないじゃないか。

 基本的に、正論は負け犬の遠吠えをするための唯一の武器だ。大人な紳士淑女は正論を言わない。
 かつて俺が言ってたことに限って例を挙げると、

 実験装置を使って自然現象という直接の現実を観ることが得意でないから「○○論もよく知らずに…」
 第2言語を習得することを怠っていたから「英語もまともにできないのに、ニガイをやるなんて…」
 色々な人間関係がめんどくさくなるのが怖いから「LINEやFacebookなんて必要ないっしょ?」

 今でも、俺が言う正論なんて、ほとんどは負け犬の遠吠えだ。それは何の意味も無いただの憂さ晴らし。

 でも、正論を相手のために使うと、本当に意味のあることが発生することも、俺は良く知っている。
 そして、時に、正論を相手が正しく理解してくれると、フィードバックすることも良く知っている。

 『LINEのゲームやってるでしょ?』
 「はい」
 『ツムツムか?』
 「はい」
 『毎日?』
 「当然です、ミッションがあるんですから」
 『だろうな、知っている。その時間を半分にして、そのぶん英単語みてたら、変われると思わない??本当にちょっとでいいから、毎日やったら変わるんじゃない?』
 「確かに」
 『LINEのゲームやってても、なーんの役にも立たない。俺の友達で昔ドラクエ6を極限までやったヤツがいたんだけど、経験値を極限まで上げ、職業もすべての仲間について、いや、すべての仲間になる仲間について完璧にマスターさせて、ゲーム内で何もやることがなくなるまでやったことがあるらしいのだけど、その時に悟ったそうだ。これからは、自分のレベル上げよっ、って』
 「俺はそこまでバカじゃありません」
 『なら、今すぐバカから脱却することだ。俺はもう20代だけど、今からフランス語を勉強している。10代のときに第2外国語をとっていれば良かった、と心からそう思ったよ。君はまだ16じゃないか、いくらでも変われる』

 彼にこう正論を言った2週間後、彼はひとつも持っていなかったはずの英単語の本を持ってきて、「これ観てるとマジ眠くなります」と言ってきた。
 俺は、正直もういいかな、っと諦めかけていたフランス語に活を入れる決意をした。そして、彼に俺が勉強しているフランス語のキクタンを見せると、そのまた2週間後には「ここまで覚えられた、案外、見てるだけだからラク」と言っていた。

 俺は留学先でフランス語で自己紹介をして、ほんの少しだけフランス語でオフェンスすることもできた。TGVで移動中に話したフランス人に、俺が「Je ne parle pas français(俺はフランス語は喋らないよ)」と言うと「Vous parlez français(喋っているじゃないか)」と指を差しながら笑ってきた。
 彼のおかげで、少しは意味があるコミュニケーションをとれたし、その分知り合いも増えた。

 別に俺は彼のために正論をぶつけたつもりはさらさら無い。ただ、正論を言っただけだ。俺は本当はツムツムをやりたかったのだが(ディズニーだし)、ポコパンが苦手だから、どうせ大した結果は望めないだろうと、最初からやらなかっただけの話なのだから笑。
 でも、結果、俺の正論は俺にフィードバックしてきた。つまり、自分の今行っている行為を飲み込みながらの正論であるならば、ただの負け犬の遠吠えにはならないということだ。

 信頼関係を獲得しながら、お互いにレベルアップしていくというのは、こういうことじゃないだろうか。

 スタンドアローンじゃなきゃ、かなり難儀である勉強についてだってこうなんだから、きっと研究でも音楽でも、共同でレベルアップすることは、絶対にできる。それができないのは、相手のために、もしくは、自分の行為を飲み込みながら、正論をぶつけていないからだ。
 それは必ずしも無難じゃないかもしれない。とても難しく、博打かもしれない。

 しかし、正論なんて所詮、負け犬の遠吠えでしかない、っと胸に刻みあっておくことで、正しくホンモノを獲得できると俺は思っている。
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しあわせの風景

2014-08-09 02:38:12 | Weblog
 どんなに天才的に想える人でも、自分のことを棚に上げて他人を攻撃していることで、レゾンデートルを守っていることが多い。

 自らの論理性の無さを棚に上げて理論研は人の脳が作る幻想を見ているだけと揶揄したり、本当の現実をきちんと見つめるための自らの能力の無さを棚に上げて実験系が過小評価にされるように強要してみたりする。ずっと昔から尊敬している人を目の前にすることが最近多いけど、気持ちを抉って取りだして見れば、そのたんびに、面白い感覚にとらわれる。どんなに尊敬している相手でも、俺のアクティヴフェーズはカワラナイ。ぶち切れる直前まで持っていって、本音をゲロさせる。だって、知りたいのだから。
 そうすると、この人達でさえもこうなのだという安心感も確かにあるのだが、そんなくだらないこと以上に、ゆっくり目をつぶれば、この素晴らしい人達のもう少し先の理想をも想像することができている自分自身に、とても希望を感じることができる。

 もっと単純な、互いが互いに必要とし合える状況を、ごく普通の珍しくもなんともない風景を、瞼に映すことができる。それは、確かにありふれているが、今よりももっともっと尊い。
 ダメだよ、俺なんかに期待してちゃ。期待することはある意味では暴力なのだし、自分が一度でも言った事は責任を持たなくちゃね。

 目をつぶると、混じりっけの無い理想が見えてくる。ただ仲良くしていて、ありきたりに楽しい世界。
 永遠に、なんて大げさな言葉はまだまだ縁が無いけれど、それでも、こんな風な、しあわせな風景を、ずっと想像できていたいなと思う。

 いま事態が好転していると思っているこの感覚は勘違いじゃないよね?っと俺が思っている気持ちを、知ってか知らずか、魅せてくる作り笑いが、限りなくかなしと思って、こちらも作り笑いを負けじと返す。
 どうだ、まだまだ、俺のほーが演技力では上なのだ、っとくだらないことに優越感を感じて、また目を閉じてみる。

 きっと、、目を開けながら夢をみるように、現実にその風景を観れる日は近い、と確信している。

 Every Little Thing しあわせの風景
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モテるの「さしすせそ」を超えて

2014-08-08 01:57:36 | Weblog
 何事も、自分の保身のため以外に、こうであって欲しいと他人に想うこと、こうであれば系がより良くなると想うことを、対象そのものにぶつけた時に、はじめて、自分にとって本当の意味で大切で必要な人が観えてくる。

 自分の保身を一番に考えるなんて、とても簡単なことで、それによって現状維持や自分の能力にウソをついて上にあがって行くことは、簡単だ。
 基本は、モテるの「さしすせそ」、を言ってりゃ良い。「さ」すがですね、「し」らなかったー、「す」ごい、「セ」ンスありますね、「そ」うなんですか、を繰り返してりゃそれなりに会話は成り立つし、目立たないように無難にしていればラクに人生を過ごすことができるだろう。

 しかし、このような手段をとったとしても、理不尽なことを言われる率は、俺のようにそのまま本音や理想を言ってしまう者とあまりカワラナイ(観てると、むしろ多いくらい?)。しかも、目立たないように無難に保身、というスタイルでは、信頼関係は決して得られないのだ。

 だとしたら俺は、二極化してしまったとしても、無謀に無邪気に、間違っていても、全力で自分を出す。そうすることで、本当に大切にしなくちゃいけない人がわかるし、必要な人がわかる。

 それは、必ずしも、いつも傍にいる人じゃないかもしれない。むかつくくらい嫌いな相手で、予想外の人かもしれない。
 でも、信頼関係というのは、自分が気を使わずに、ありのままの全力で自分の気持ちを出していくことで、はじめて定義できるものだと思う。

 もちろん気持ちのなかだけで定義されるわけだが、信頼関係やホンモノの関係は絶対に存在することが、これで明らかになった。それが必ずしも良いモノかどうかは、また別の議論が必要だけど。
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何が人を自殺まで追い込むのか? -STAP細胞の報道について-

2014-08-06 01:16:30 | 自然科学の研究
 今日の理研CDBの笹井芳樹氏自殺のニュースを初めて見た時、冗談かと思ったのが正直な感想だ。
 そうか、なかなか事態が悪くなる一方だなっと思う。

 メディアの報道の仕方が悪い、誰か一人が彼を自殺まで追い込んだのだ、などの意見は的外れだ。(そういう部分も確かにあるのかもしれないが根本は)そうではなく、自然科学の研究世界の暗黙のルールが、一人の人間を自殺にまで追い込んだのだと俺は思う。研究を相互評価しあうことで生じてしまう政治力学が、何よりも問題だ。

 冷静になって考えてみれば、この国での年間自殺者は約3万人。なんでもかんでも「心不全です」の一言で済む死因不明社会である日本は、リアルな数字で自殺者は年間10万人を優に超えるとも言われている。そのなかで、俺は、研究に従事したために死んでいる若手・学生の数は、結構多いんじゃないかと思っている(実際に俺が知ってる数を考えてみても)。むしろ、こういう世間に知られていない、ひっそりと(自殺だけでなく)消えていってる優秀な若い世代のほうが、考慮すべきかもしれない。

 笹井先生は、自身が若いことでのツラさは無かったわけだし。
 ただ、やっぱり、こういう形で死ぬってのは、後味が悪いもんだよね。

 特に、これから生命系を目指す人、今現在、生命の分野に身を置いているや生命をフォーカスしている研究者や学生に、はっきり言っておきたいのだが、『生命現象を扱っているのだから、決して自殺するな!』
 生命系を志す人は、少なからず自分の研究が医療にも関連があることを自覚してもらいたい。だから、自身の生命に対して「自殺する」という物理現象を選ぶことは生命をまったく理解するだけの基礎ができていない、ということになっちまうし、医系の心からしてもまったく違うじゃないか?何で自分は数ある分野から生命を選んだのか?それを想い出してもらいたいのだ。

 とにかく、これからの俺らの若い世代で、研究の世界を絶対に変える!そうしなければならない!!

 追記2014/8/7
 なんか多くの理系がメディアを叩くことで納得しようとしている感じがするんですが、そんなんでいいのかなぁ。もちろん、メディアの報道の仕方が悪い部分は大きいんだけど、それと同等に研究世界がオカシイと思うんだけど、誰も、自分たちはこうしよう!みたいなのが出ないのが、ちょっと残念です。
 一部、本当にごく一部、ちゃんと意見を言ってくれてる理系はいるんですが、なかなか難しいもんですね。
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立派なCグループ

2014-08-05 00:43:56 | Weblog
 精緻な論理体系や既存の学問分野は、誰でも平等に習得することができる。
 それらがとても難解な記号だらけで成り立ち何度も何度も繰り返さなくちゃいけない論理展開であっても、あなたに何か特別に賢い頭脳が無くても、あなたにセンスがどんなに無くて時間がかかってしまうんだとしても、それらが体系化されていたり「既存」と呼ばれているものなら、絶対に原理的に理解できるもので、マスターできるものだ。
 でなければ、「体系」や「既存」ではないのだから、自明の理。

 土台がしっかりしていて真っ直ぐな精緻さを彷彿とした論理体系を理解したい気持ちが強いなら、純粋にそれだけを学び、その学んだ内容そのもので、新たな世界に勝負していけばイイ。既存をただコスパー良く学んだ程度では、この先苦労することも多いだろうが、あれだけの精緻さに触れたなら、きっと大丈夫。その心を誰よりも継承する勢いで、様々な分野に飛び出していけばいいのだ。

 しかし、自らがいかに精緻さを学んだからと言って、それら精緻な論理体系を学んでいない政治的人間に、言葉だけでひけらかしては、政治的人間とカワラナイ。精緻な論理体系を創った者は、そんなことのために、それらを創ったわけではないことを肝に銘じなければね。
 こういう本を読んだことが無いだろう?、とか、こういう論文を読んだことないだろう?、などとディフェンス・オフェンスし、論理的ではなく、「書いてあった」のだから「書ける」にただ繋げているバカは、サイエンスをしてはいけないのだが、それは、いかに、あなたの愛読書や大好きな論文が精緻さに富んでいても例外ではないのだ。

 むしろ、精緻な学問体系を政治力学で振りかざすのは、怪しい学問体系を政治力学で振りかざすよりも、最低最悪だ。精緻さを知らない人に説明してあげるならいざ知らず、それを学閥・学派のように扱ってしまっては、精緻なモノづくりに、一番失礼な行為なのだから。
 それに、精緻さを振りかざされてしまえば、政治的人間は、怪しい宗教を毛嫌いするかのごとく、それらの学問を学んだ者すべてを排除しようと目論んでしまう。

 今の惨めな人生から逃げたいと思っても、実際逃げる人は少ない。目を瞑って、惨めじゃないと思い込むほーがラクだ。

 だから、精緻さを政治的方法で振りかざされた政治的人間は、あんなくだらんモノを学んだヤツは、権威と学閥・学派によって、潰してやる!、っと想いかねないのだ。
 これでは、他の研究者の何倍も苦労して、報われないで、めちゃくちゃ頑張って影で精緻さを支えてくれた、理論家・実験家が可哀相だ。

 政治力学なんてガキの喧嘩だ。やりたきゃ勝手にやってればいいさ。だけど、それを理由に、あからさまに弱い者を、弱いからって理由だけで傷つけるのは、俺の周囲では絶対に許さない。
 ダメだよ!圧倒的な精緻さを振りかざされて、それも薄っぺらく言葉だけを使うことで深く傷つけられてしまったんだとしても、惨めさに目を瞑るために、さらに弱い者を殺しちゃ。それじゃぁ、Cグループ(ノリが悪い集団)の風上にも置けない、人に唾吐いたり、キモいって意地悪してくる、最低なAグループ(ノリが良い集団)と何にも変わらないんだぜ?

 立派なCグループになるためには、コツコツきちんと取り組んで、泥臭くちゃんとマスターしなくちゃ。そうだろ?
 だってさ、精緻な論理体系や既存の学問分野は、誰でも平等に習得することができるのだから。
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深遠な真理を知るためには

2014-08-04 02:39:59 | Weblog
 深遠な真理を知りたければ、どんなに無価値で世間的にイカれてると思われても、まずは、それらを対象としている分野を選ぶ方が良いと思う。
 俺が知る限りでは、深遠な真理を探究している分野とは、「哲学」「数学」「物理学」「音楽」「美術」だ。はっきり言って、どれもカネにならないし、役に立たないし、それだけを極めたとしても、誰からも称賛されない確率が極めて高いモノだと思う。

 何が正しいことで「正しい」とはそもそも何か?、実在することは何であり何の意味があるのか?、などの深遠さを普遍的な原理として(形而上学的に)追究したいなら哲学。
 精緻な言語体系を構築することで世界を知りたい、そもそも数とは何か、と深遠さを言語や数に落とし込むことで知りたいなら数学。
 空間や時間とは何か、生命とは何か、あらゆる要素がたくさん集まったときにどのように振る舞っていくのか、などの深遠な疑問を頭の中で考え、しかし確認作業だけは実空間上の観測に拘りたいなら物理学。
 なぜか勝手に心のなかに湧きだされる情景や、その上での理想像を創造する行為を止めることが出来ず、人にそれら深遠さを伝える手段として、音に拘るなら音楽、視覚に拘るなら美術。

 蓼食う虫も好き好き。
 深遠な真理を知りたいと言う時点でイカれてるが、俺が知ってるだけでもこれだけのアプローチの仕方がある。当然だが、深遠な真理を知りたいならば、そういう研究をしている研究室に入るのが効率よく、所属し続けること、その世界にい続けることが重要だ。

 そこには当然、政治力学もあるかもしれない。くだらない虚勢の張り合いもあるかもしれないし、深遠な真理などにまったく興味もない人がたくさんいてバカバカしくなることもあるだろうし、無能な者がレゾンデートルを無駄に守ろうとすることも多いだろう。
 そして、きっとすぐに、深遠な真理を知りたい、という自分の気持ちを殺してしまいたくなる。だって周囲には死んでいる人間がたくさんいるのだから当たり前だ。

 俺はこういう時に、非常に厳しい。その程度で失なってしまうくらいの情熱ならば、さっさと消してしまうほうが良いだろう。人生には深遠な真理を探究すること以外にも、たくさん素晴らしいことが転がっている。
 そう、確かに、それで精神を壊してしまうくらいなら、ゆっくり休養して、カウンセリングにでも行くべきなのだ。

 だが、決して忘れないで欲しい。深遠な真理を知るために、研究室にい続けることが最も効率良いかどうかなんて、今後は誰にもわからないのだ!
 もしかしたら、「今は深遠な真理を追求できていないかもしれないが、いずれは」などと嘯く専門家(まがい)の意見は程々に訊いておき、そこからは自分で自己実現したほうがコスパーがいいかもしれないし、研究室に所属していなかったとしても、深遠な真理を知る方法はいくらでもある。

 数字や公式、高度な実験やそれらを支える設備は確かに大事かもしれない。しかし、深遠な真理を知るためには、深遠な真理を知りたい心を持ち続けることはそれ以上に大事であり、その心が無い者がこれら技術だけを使える権利だけを有していても、まったくの無意味だ。
 世界には、芸術も精緻な論理も実験も、すべて極めている者だっているが、彼が必ずしも、設備の整った環境にい続けてきたわけではないのだ。

 だから、例えば、途中でその研究室を離れることになった人も、研究の世界から身を引いた人も、卒研や修士や博士のその後、研究とはまったく違うことに携わるんだとしても、少なくとも人生のある期間に深遠な真理を探究することの面白さに触れたなら、決して「知ること」を諦めないで欲しいと俺は思う。
 人間らしい生活をしながら、深遠な真理を知ろうとすることが悪いことのようにとられることが研究の世界では多いけど、俺は全然そんなことは無いと思う。たぶんそんなん言ってる人は、自分が人間らしい生活をできてないだけのヤッカミだよ。むしろ、Aグループで(ノリよく)、楽しく、社会一般の人と同様の生活をしながら、ものすごく価値のある真理を追究し続けた方が、どちらも達成されやすいかもしれないし、そんなこと、そもそも誰にもわからないじゃないか。

 こないだ博士論文のフォルダを作って目次を書き始めた。久しぶりのテフにわくわくする。
 それは、俺の学生生活の収束への舵きりであり、また新たな研究の世界に足を踏み入れるための0章でもある。

 深遠な真理を知るためには、何かにアジャストするために自分の知りたいという気持ちを殺す、などということを決してしないようにすることが大切なのだと俺は思う。
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