たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

最悪の状況下をチャンスに…

2008-12-31 06:37:53 | Weblog
 このブログをよく見返せば明らかであるけど、この2ヶ月間最悪だった。オレが何か?っというもんではなくって、存在している環境や周囲に依存しているものだと思う。

 みんなで必死で走り実力で掴んだモノはある相互作用によって無意味なモノと化したし、オレの大切な人たちは非常に辛い想いを抱いたし、最も大切に思いたい人はオレを緑色に染めたい行動ばかりをしていると感じた。
 いっそ、すべてが幻想であると言ってほしいほど、色々なシーンで切なく悲しく辛かった。

 ねぇ、僕、何かした??なんにも悪い事してないよ。。

 空間にずーっと広がっていく気体分子のように、何もしないで超えていけたらっと願うけど、オレ以上に最悪の状態の人はいるわけだから、頑張って能動的に乗り切りたいと思う。

 まったく、2009年になった瞬間に、なんとか占いとかなんとか心理バイオリズムとかで、がらっと変わったら楽なのに。
 それで変わるんだとしたら、とっとと、この12月とは、おさらばしてーな。
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その微笑みを忘れないで

2008-12-30 03:07:52 | Weblog
 俺は、「学問をする」ということは「『なぜ?』と思う」ことの必要条件であると考えている(ハーイ、一気に読者が減りました(笑))。しかも、それは、ほぼ必要十分条件(同値、つまり同じこと)であると思うし、学問のコアを占めているものは「なぜ?」であると思う。
 だが、入試科目や試験対策として学問をしていると、そーも言ってられなくなる。本来という事と実質上という事は、まったくもって異なるものであるので、上記したことは本来という机上の理想論でしかないのかもしれないが、少なくとも本来はそういうものであると思うし、実質上でも重要度はかなり高いことは間違いないと思う。

 例を英語にとってみれば、俺の言ってることが、簡単に掴めるかもしれない。

 簡単に言うなら、英文法を利用して英文を眺めている時は、「なぜ?」と思うことも多く、本来の感覚に近い。
 この文章は、第三文型であるから、このように訳す。なぜ三文型かというと、動詞が他動詞であるし、この動詞は三文型を作る語法を取ることができるから。この動詞は四文型も取れるような語法があるのに、なぜこの文章は三文型と断定できるかと言うと、動詞以下に、目的語を取れるような品詞や節が存在しないから。目的語を取れるのは、名詞、代名詞、名詞節など。
 これは、学問学問しい、本来の姿であるかもしれない。

 だが、英語というのは、それだけではない。いや、それだけでは、使えないし、入試科目として英語を見たとしても、足り無すぎるっと、きちんと言っておこう。
 地道に単語を覚えなきゃいけないし、文章をある程度スラスラ読めるようになるにはそれなりの慣れも必要だし、喋りたいのであるのなら、どんどん知っているモノを使って英会話していかなければならない。

 そぅ、英語を「英語学」としてみたとしたら、やらなければならないのは、基本的に文法と各語法の理解のみである。基本的に、調べればすぐわかるというものは、本来、学問をしているとは言わない。
 だが、喋りたい、受験科目できちんと得点したいと願う時、学問に「暗記」や「慣れ」が介入してくるのだ。

 他の科目でも同様であるが、「暗記」や「慣れ」というのは、なかなか苦痛を伴うものである。殆どの教育機関では、「暗記」や「慣れ」の作業を勉強と定義し、それをすることが最もよく勉強しているかのような錯覚を伴うような方針をとるが、実はそうではない。勉強する事というのは、むしろ、「『なぜ、そうなるのか??』を考えること」であって、必要がないのならば、紙などに書いていくという作業も必要ない。
 この「なぜ?」に学問そのものの価値をもが集約されており、「なぜ?」を感じることと、「なぜ?」の解決の糸口を見つけ出すことが、学問を楽しんでいるということに他ならない。

 学問の本質が特質的に現れてくる科目は、私的に偏って申し訳ないが、理数科目であると思う。
 俺は案外、学問というエンターテインメントはみんな楽しめる代物だと思う。だが、不幸な事に、こんなに面白い遊びは、面白すぎるために、教育の道具の主格として、利用されつづけてしまった。だから、学問、勉強というと、うぎゃーってイヤなイメージを持つし、本来の学問の姿を間接的にしか伝えないから、その特質が顕著に現れてくる理数科目というのは苦手がられるのである。

 いや、俺がムリヤリ楽しんでるだけかもしれないさ。だけど、例え、毎日、同じ物品を上から下に運ぶだけの生活をしていたとしても、その中に楽しさを見出さない手はないじゃん?楽しい分だけ、同じ生きてるでも、お得だし。

 「楽しい」ということと、「それで飯を食う、つまり生きる」こととは、別である。
 好きな歌だけずーっと歌って上手くなれば、それで歌手になって食えることは非常に極少量の可能性しかないのと同様に、学問の面白い部分、本来の「なぜ?」を探究だけしていても、それで飯が食えたりはしないどころか、学問の場合は、学問そのものができなくなってしまう。
 学問は集団で行なうスポーツや音楽と同様に、1人ではできないのだ。それなりの施設と、それなりの環境と、それなりに賢い連中がいて、初めてできる。それを得る権利は、つまらない「暗記」や「慣れ」や「定石」をして、試験を突破しなければならない。

 っま、「好きなこと」ずーっとやってるだけじゃ「好きなこと」をし続けることはできないのは、どの世界でも同じなのかもね。 
 それから、つまらないはずの暗記とかまで、楽しくなってしまったら、一度立ち止まったほうがイイかも。それは、本質を見失ってる可能性があるから。暗記を楽しくする画期的な方法もあるんですが…(語呂とかそーいうことじゃないよ)、そこは触れないでいこうかな。

 自分はそこまで勉強や研究を楽しめないという人も大丈夫。ムリしなくたってイイ。少なくとも俺は、学問より楽しさを感じるモノなんて、沢山ある。音楽、スポーツ、本音トーク…。
 すべてに共通しているのは、誰かの存在かな。うわべだけじゃないっていう限定がつくけどね。 
 心を開いて、諦めを手にしないで、その微笑みを忘れないでいれば、ポーカーフェイスなんていつの間にか消えてしまい、有意義に楽しく過ごせるはずである。やっぱ、なかなか難しいか…(笑)。
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その感情は、善か悪か?!

2008-12-28 00:23:37 | Weblog
 こないだ「義務」と「好きなコト」の密接な関係と重なり合わせについて書いたが(「あるモノを選ぶ理由の複雑さ」をcheck!)、同じようなことが「使命感」と「充実感」の間で言えると昨日今日と考えてて思うので、書いてみる。同じような話になっちゃうかもしれないが…、極力違うことを述べたい。

 使命感にかられて何かをやってるとき、人は夢中になる。それはいつも楽しいわけじゃないし、苦痛であるときもある。特に、「人に嫌われたくない」もしくはそれよりはもう少し高級な「人に迷惑をかけてはいけない」っという想いでの使命感である場合、つまんないと思う。

 充実感は、好きな事をやってると感じる場合が多い。
 でも、大好きなことをやっているからこそ、人は何か充実なことを感じるわけで、使命感にかられてばかりいたら感じれるわけがない、っと思ったら、そういうわけではないと思う。

 ここで、読者の皆さんに、一つ注意をしなければならない。
 使命感とは決して責任感ということではないときちんと定義しておこう。集団においての、形式的な、あくまで表面上の肩書きによる「しなきゃ」を責任感と呼び、集団において自分しか、能力的、スペック的に(言葉では難しいな)、できる人がいない、もしくは正義感の強さによる「しなきゃ」を使命感として、読んで欲しい。

 そーいうふうにしてみると、もうすんなりと、俺の言いたい事がわかって、「使命感」と「充実感」は、そーなら似てらーっと感じた方もいると思う。

 つまり、使命感にかられるということは、ある意味、自分が他の普通の人間とは少なくともそこの部分は違うということを、心の底から感じることである。だから、この使命感という感情は、使命感にかられ、必死にそれを実行している間は有意義とは思わないかもしれないが、後々、充実に変わる。
 無難にこなして目立たないように生きる事が上手い人生の歩き方であると暗に教えるようなこんな哀れな世の中でも、誰でも人はどこか自分固有のモノを持っていたいと願っているはずである。

 人とは違う、人よりも強く正義感を感じたり、人よりもこれは長けているはずであるから、全体の事を考えて、誰よりも頑張らなきゃいけないと使命感を思う、その一方で、自分は人よりも長けている、そこから学ぶことが素晴らしい、っていう充実感を得ている。
 人間は、なんていやらしいのだろうっと、心から思う。
 正義感や使命感をすげー事であると思い込んだり、それを偉いことであると思い込む前に、このいやらしい、おこがましさを感じてしまう。

 そんな悩みを、ついさっき、一緒のバンドの子に相談したら、「いや、まぁ、それは、単純に言えば、考えすぎじゃない??だし、元々は、使命感と正義感から来ている行動なのだから、例え、その充実感や有意義を計算に入れていたとしても、それは仕方ないことでしょ?事実、そーいう想いがないと、実質的に困るわけだし。」
 本日のベストアンサーに選ばれました(笑)。だけど、なー。この葛藤って、あって然るべきだと思いたいな。

 それ以上に俺が安心した言葉は、「でも、俺もその感情あるぜ?」だけどね。
 あれ??やっぱり、感情的には、ある程度、みんなに共感も得られたいのかな…。
 ちげーし、あるものすごく高いレベルにいる人間にしか理解できない、かつ俺等は特別っという、おこがましさの感情でしかない。

 あー、なんて、最低な人間なんでしょう。また、なんて、マイナス思考なんでしょう…(笑)。
 もち、そこまで、自信がないわけじゃないっす。
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月とプラモデル

2008-12-26 01:41:16 | Weblog
 ここしばらく、1日中家にいる日が無いんですが、冬休みの宿題的なレポートや試験勉強は、大丈夫かな…。っま、優先順位さえ間違えなきゃ大丈夫だろうけど、…ここまで完全に間違えてるな、まだ迫ってない科目をやってる気もする。

 ヤバイな。しっかし、色々な事がある12月だ。そして、さらに色々を起こそうと自らしている。
 でも、基本的に忙しいからこそ、重要なことをしたり、大切なことを考えたり、想いを巡らせたり、したい。こんなに大事な時期だからこそっなのだ。

 単純なことよりも複雑なことを考えつづけている。本当はもっともっと単純に、そのままでぶつかっていきたいのだけど、まぁしょうがないのかな。
 理由はわかってる。
 自分自身が複雑なクセに、ややこしい事が嫌いで、さらにそのクセ、コツコツやるべきことはきちんとこなしてしまうから、苛立ちは大きくなる一方。
 単純な部分はやっぱりそのまま単純で、細かい事は苦手で、守るべきものだけ守っているから、複雑さが増す。

 こーやって解析するんだって、案外ツライのかもね。本当は賢くなんてなりたくないし、ただ楽しければイイと思ってるのに。でも、その辺は、この前の記事なわけで。

 さて、明日も、受け入れ準備かつ攻撃準備、オッケー。
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あるモノを選ぶ理由の複雑さ

2008-12-24 01:23:28 | Weblog
 義務に追われていると、なかなか楽しさを見出せないことが多い。
 だって、自分がやりたくもないよーなことばっかりだったら、そりゃー休みたくなるし、投げ出したくなる。試験期間中なんかまさにそうかも。(今回は消化試合なんですが(笑))

 かといって、義務が存在しなくなってしまうと、まったくやる気が起こらず、何もしないから結局楽しくないってなったりする。
 義務もないと、発動力がないから、やる気が起きないのかも。

 うーん、難しいけど、義務と好きなこと、俺は、どっちにも偏りたくないな、楽しくなくなっちゃうから。

 俺の周りの人たちは、このどっちのタイプ?って、ざっと分けることができる気がする。義務に追われつづけ、全然楽しさを見出せず、ただ「現状維持」「人に好かれたい」が先行してしまっているタイプ。自分の好きな事ばっかりやって、それなのにどーも何か不足を感じているらしく、いきいきしていないタイプ。
 俺自身は、どちらかというと、義務に追われるほーなのかな。だって、好きなことばっかやってるヤツらの事、羨んだりしてるから。でも、やっぱ、いきいきしてないから、それはそれで、やっ。

 義務って言っても、自分自身で選び出している義務なわけで、自分で縛っている部分ってのはいくらでもある。例えば、俺は、今年、他学科履修とか多いし、無駄な基礎科目とかも取ってたから、これは好きなことやってるっていえばそうだけど、そんなんでもレポートとか試験とかくりゃ、それはそれでイヤなんだよね。

 そう、案外、義務と好きなことは、近いところがあるのかもしれない。

 さっき、ここのページを今年の1月くらいから読み直してみたけど、今年1年、この(今までのお話でいうとこの義務と好きなことなどを総称しての…)好きなことに、ある制限をかけている自分に気がついた。それは、「見返り」の総量である。

 「愛している」という事と「愛し甲斐がある」という事は違う。勉学でも恋愛でも仕事でも人間関係でも何でも、この違いは大切だと思う。
 ただし、ここで言う「見返り」「甲斐」というのは、何も実質的な何かや、それによって得られる副産物という意味ではない(っま、仕事や研究の場合はそれもあるだろうけど)。もっと精神的なものであるということを注意しておく。
 っまぁ、簡単に言うなら、自分が何かもしくは誰かを「愛する」ことによる、何か誰かのプラスへの変化度合いとでも言えばイイのだろうか。
 あくまで、自分ではなく、愛される側のことなのだ。だって、愛される側が輝けば、自分は愛してるわけだから、自分も嬉しくなれる。だから、どれだけ自分が「愛する事」に依って相手が幸せになるのかは、重要だ。(愛、愛って気持ちわりーな(笑))

 んで、今年1年、この「愛し甲斐」があるかないかは、かなり、色んなところで、色んな線引きをするのに、重要なパラメータであったと、ブログを読んでいて気がついた。 
 つまり、例え「好き」なことでも、それによって引き起こる「好き甲斐」がないと、それを選ばなかったことが、いくつかあった。

 義務と好きなことだけでも無いんだな…、人間がどーしてそれをやっているかという理由は。
 好きっと言ってしまえばそれ以上理屈がなさそうに感じるし、義務と言ってもそれ以上理屈がなさそうだけど、「甲斐」というパラメータを導入すると、好きや義務と依存しあって、重要な要素となり、それ以上の理屈ができてしまう。

 なんて厄介なんでしょう。でも、当たり前のことだよね。

 そして、もう一言。あくまで、やっかいな「理屈」であって、心の介入は、あまり、この話に入っていない。
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シッタカを超えろ

2008-12-22 00:56:28 | Weblog
 「考えすぎだって!」とか「頭よすぎるんだよっ」とか言われるたびに、いちいちむかついていたけど、俺が他の人に対してそう思ったとき、その安易に聴こえていた言葉が、放り投げていない安易過ぎじゃない言葉であると、初めて理解った。

 いくつも時間が過ぎていって、遂に賞味期限が近づいていたとしても、…わからない、その巨大な理解力の器を、どうしてそれと同じ大きさを持っている心の器と組み合わせて使う事が、俺も含め、俺の身近な人たちが苦手にするのだろう。
 「わかりすぎてしまう。」本当はシッタカをただ単にするだけのつもりだった、ただシャシャって大人ぶりたいだけだった。それすらも、しようとして全然できてない人には、俺の関心は向かないし、どーでもイイに分類されてしまう。でも、本当は、そういう人たちのほうが、そのシッタカがまるでホンモノになってしまった俺達より、優秀、いや純粋なのかもしれない。

 「先が見えてしまった…(?!)」いや、そうじゃなくって、すげー素直に戻れば、「ほんの1コ先も全然見えない」。いつだって、先が見えた験しなんかないじゃないか。
 「先が見えたフリして、大人ぶりたい」気持ちが叶いすぎてしまったから、それを通り越して「この見えた先がホンモノ」ってなって、未来の自分へ制限をかける。

 この思考が、「考えすぎだって!」になるんだよね。
 だからって、何にも考えてねーのに、そんなこと言ってんじゃねーよ、「おめーは考えなさすぎっしょ?」。
 この思考をきちんとした上で、きちんと「大人ぶってみて」から、さらにその見えてしまったゲンジツの中で、もしくは見えてしまったゲンジツを狂わせて、自分に制限をかけず、心から笑えたら、最強。

 こうやって、壁を超えていけばいいんですよね??あなたの解答に対する考え方のように。。

 ただし、今までのギロンは、合理性のみ、つまり頭しか使ってない。
 きちんと心もいちいち使って思考しなきゃだけど、逆に言えば、理論的には、頭だけでも突破できるんだから、心も使えば、もっと楽に超えていけるんだと思う。
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Is it the most glorious moments in my life??

2008-12-19 00:23:14 | Weblog
 少し状況が変わってきてしまった。やっと落ち着いたと思ったが…、でも、この試練のために、今までのスベテがあったのかもしれない。また、この状況なのに、不思議と次への期待をものすごく感じる。

 それこそ、あの、「The most glorious moments in your life are not the so-called days of success, but rather those days when out of dejection and despair you feel rise in you a challenge to life, and the promise of future accomplishment...」という言葉の通り、今まさにthe most glorious momentsなのかもしれないけど、…キツイよ。。

 コレは、本来の目的を達成することでもある。そして、もうひとりの。。。
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救出へ

2008-12-15 03:59:54 | Weblog
 なんだか、将来について、不安を通り越して、いや、通り超して、直向に思考できるようになってきた。
 きっと、何が許せなかったのか、何が足りないのかが明確に見えてきて、まとめなおしたからだと思う。

 何もかもが繋がっていく、今年度からの総まとめをしているような12月も半分までやってきて、本当にスベテのことがある1点に集まっていくような感覚を感じる。まるで、5年間、ずーっと各論的なことをやってきていて、それをまとめる総論の授業を受けているように。俺の周りに存在する、左端から右端まで、上から下まで、スベテの事が、今は繋がって見える。

 うむ、スベテの準備は、完全に整った。置いてきたモノを取り戻しに行かなきゃ。
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おこがましいことを定式化しないで。

2008-12-14 03:47:17 | Weblog
 しばらく、教職の授業に関する記事を書いてなかった。教職、いつやめようか、いつやめようかっと考えていたけど、なかなかやめられなくって、まとまってなかったからかな…。

 俺は、99%、高校や中学の教員になる気はない。ここまで学問をやってこれたのは、飽きなかったからである。つまり、常に最高峰へ向かって学問の道を歩いてきたからなのだ。だから、この先、何十年も同じ内容を教えたりなんかしたら、飽きてしまうし、俺に習う生徒も迷惑であろう。
 「じゃぁ、なんで、教職とってるの??」っと、よく聞かれるわけであるが、テキトウに「暇だから」「大学生活が物理ばっかで飽きてくるから、だから、ほれ、他学科履修したりもしてるっしょ、それと同じ」「将来の保険」とか答えているが、本当はなんであるか?っと言われたら、ちょっと難しい。

 うーん、パッと思いつくのは、「今まで、深く関わってきてしまった『教育』というモノが、いったいなんであったのか?ということが純粋に知りたい、裏事情が知りたいから」っという答えが思いつく。そして、いずれ自分が親になったりすれば、また深く関わらせられる教育というモノを、きちんと把握しておきたいという想いもある。
 あと、これは、なかなか書きにくいが、教員という種の人間達が最初は(大学時代は)どうであるのか?と言うコトを知っておきたいという想いもある。

 ここまで、他の人から見ればまったくもって無駄な教職の授業を受けてきて、『教育』に間してどう思うか?っと聞かれたら、一言「おこがましすぎる」っと答えることができる。同じ人間として、そこまでのおこがましさを定式化してしまっていいの?っということが、指導要録や学習指導要領に普通に書いてある。
 いや、そーいう文書も必要っしょ?っと言われれば確かにそうだが、それを解説する講師も教員の卵たちも、あれは完全なるキレイゴトだよっという確認が足りないどころではなく、素晴らしいことが書いてあると信じて止まないような、なんとも純粋というか疑いを知らな過ぎるというかモノをまったく考えてねーなというか…という感情を抱く。

 上から降ってくるものを、すべてキレイにそのまま素直に受け入れていたなら、立派な人間になれるわけではない。そんな当たり前すぎることを、もっともっと、考慮に入れて欲しいなっと思う。

 今まで教育機関で教育を受けてきて、もしくは偶然出逢った中で、すげーっと思う先生と最低な人間と思う先生は、3:7くらいかな。あ、ほとんどは、どーでもイイ先生ですけど(笑)。
 最低な先生というのは、矛盾を生じすぎているような感じが多い。教職で習っていて、かなり的を得てるなっと思う唯一の言葉は「自分が出来ないことは、生徒に言うな」っという一言である。まったくもって、その通りで、これがベースとなるはずである。
 最高にすげーっと思う先生たちは、むしろ、先生っぽくなかった。幼いときは、ノリが良い先生とかがすげーっと思う頻度が高かった気がするけど、最近はそうではなくって、賢さと普通の当たり前のコト(人間関係などの)を兼ね備えた感じかな。案外、コレ目指すって、難しいと思う。賢くしようと思ったらゲームとか恋愛とか遊びとかは捨てておかないといけないもんだという先入観を持ってるヒトって多いだろうし。

 「おこがましい」という言葉は、キツイ。角が立つ言い方だし、まさか文部科学省に向かってそんなこと言える人も少ないだろう。
 言い換えるなら、「そんな思ってもないウソを、真顔で言って、恥かしくないの??」ってとこかな。長いかな…。

 別に俺だっておこがましい。
 夏合宿中、一緒にバンド組んでるヤツに、「K君は、K君特有のセンサーに引っかかったヤツしか、本気で話さないよね。しかも、そのセンサー、ものすごい段階別になってるし。」って言われたけど、かなり核心を突かれた気がした。
 彼によると、第一段階がものすごい厳しくて、それを突破すると、やっと俺がどんな人間か相手にだいたい分かって、さらに俺が出題する課題や試験が非常に狭き門で、合格すればシツコイくらい話をふられるが、例え前の関門を突破していてもこの課題の点数によっては、手のひら返しで本音から無視されて…、っというのの繰り返しだ、っとのことだ。
 確かに…(笑)。確かに、友達や気になる人が、小さな逆境にさらされているとき、わざと助けないで、どう対処するかを見たりするよーなことはあるけど、でもでも、そこまで酷くはないよー、マジで。

 いや、まぁ、何が言いたいかというと、そんなおこがましさは、誰でも多かれ少なかれあるんだと思う。っま、多少はしょうがないのさ、たぶん。
 でも、それを定式化して、しかも何も考えてないヤツをそのおこがましさに巻き込もうなんて、『教育』ってずるいよーっと思うわけです。

 っま、ここまできたら、教育実習まできちんと参加したいっすが、うーん、最大の夢へのチャレンジ日とぶつかってるからなー(笑)、マジで。まだ、断言はできねーな。

 (我ながら、まとまりのない文章だなっ…)
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2008年 あなた自身の「今年の漢字」は?

2008-12-13 00:48:23 | Weblog
 昨日、今年(2008)の漢字が「変」であると発表された。確かに、変な事件多かったしーっと思ったけど、そうではなくて、変わるという意味ほーの変らしいです。

 うーん、俺的には、今年は何かなー。。去年は、つまり俺自身の2007年の「今年の漢字」は「転」かなーっとか思ってました(一般には「偽」でした)。転学部の転、いろいろな価値観の転換の転、実は留まっているという意味での転でもあったりしましたが、うーん、今年は。。

 今年、2008年、俺自身の「今年の漢字」は、「生」だったかなっと思います。生物学を学んでいきたい開拓していきたいと心に誓った生、生きるということを深く深く考えた生、重いオモイ化学実験と生物学実験を単位いらないのにわざわざとって生(ナマ)の体験を大事にした生、うむ、やっぱこれだな。
 他に思いついたのは、「策」「超」「慧」「心」とかもあったけど、別に今年に限ったことじゃないしね。ただ、「策」は結構イイ線いってると思う。上の話とも繋がるし…。

 さて、皆さんは、自分自身の「今年の漢字」は、なんでした?? 
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Isn't She Lovely?

2008-12-11 00:03:04 | Weblog
 今日は、麻疹のワクチンを打ってきました。久々の病院、久々のお注射…、はぁちょい具合悪い…。

 オーディションのとき、後輩達が歌う曲を沢山聴いていたが、あれからずーっと耳に残っている曲がある。それは、Stevie WonderのIsn't She Lovelyである。最初は、こいつらなんでこんな古い曲歌ってんだ??とか思ってたが、そんな理屈よりも、音楽は感情や雰囲気を先行して俺を攻撃してくるため、youtubeで聞きまくってしまっている俺がいたりする。
 はぁ、また、っすか。俺も、まったく懲りずに、このコード進行好きだよなー。キーがCでいうとこの、F GonF Em7 Am7の連続進行。

 だから、理屈より先行してしまうわけで…。
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orion

2008-12-09 20:49:54 | Weblog
 心が元気になったと思ったら、身体が元気でない。ぎゃー、だるい。

 すっかり、息が冷たくなる帰り道に、また色々なことを考えたり思い出したりして、切なくなる。弱さを見せないことが、そぅ、強い訳じゃないって…♪、でも、どーしてもそんなにも崩れられなくって…。
 俺の場合は、その与えられた言葉によって、深く考え、結果を自分で導き、間接的に、教えられたことのほーが多いけどね。それによって、強くなっているなら、もうちょい弱い部分を…。

 忘れてはいけないのは、人間の目から涙がでるってことは、それだけ余裕があるってこった。だから、こないだまででも、実は、本当は…。
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大切な確認終了

2008-12-07 21:30:06 | Weblog
 明日から、また夜遅くなる一週間が続きますな。学科、アカペラサークル、塾講のバイトを効率よく回して、充実させねばっ。

 学科では、今週、おそらく、生涯最後の物理学実験プレゼンがある。これは、ちょっと、全力を出し切りたい。別に、実験やプレゼンは好きじゃないけど、全物理フォースを使って、頑張りたいと思う。っま、あんま準備時間が無いんですが…。
 そして、昨日の記事どおり、ライブ出演が決定してしまった。さらなる進化をしなければならん。全音楽フォースを使って、歌力をあげてやるっ。
 バイトは、受験本番シーズン突入。予備校という受験団体に負けない受験フォースで、俺の全力を伝えきる。唯一、プロに勝ちにいってやろうっと思えるところだな。他の分野でも勝とうという気はあるけど、他のは負け試合覚悟って点で違う。

 もう、大丈夫。このままじゃダメだと思わないし、このまま突っ切ればとりあえず大丈夫。どっかで障害物が待っていたとしても、今は吹っ飛ばせる。

 さて、あと、ちょっとで、大学3年も終わり。その先々が本気で楽しいと、本気でスゴイっと思えるからこそ、この光へと続く道を歩いていこう。その準備は万端。
 
 この先も、それに続くこの単調な道すらも、楽しくって仕方ないことを、本当に期待してる。
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本来の目的へ

2008-12-06 23:50:14 | Weblog
 今日は、ウィンターライブの部内オーディションでした。なんか、審査員がスゴイ方々ばっかで多少緊張しましたが、なんとか通ったようです(よかったー)。とりあえず、それの余韻に浸ってます。
 今回のオーディションに向けて、新曲はホントに4回くらいしか合わせてないのに、順位もある程度高かったようで、自分達が気がつかないところで修行の成果がでているんだなぁっと感じれました。まぁ、それだけじゃなくって、お互いの分かり合い度が半端なく高いのもあると思うけど。1人じゃ音楽はできないし。

 ただ、審査員の方に、ソロの時はよそ見しないで前見て歌いましょうっと名指しで言われてしまった…(汗)。ごもっとも。だってだって、恥かしいじゃーん(笑)。
 あと、大体、その何もない空間に空想で伝えたい人物を置いて歌ったりするので、よそ見している率は高いと思う。あっ、架空人物っすよ、芸能人とか、…って、なんで今日の俺は、テレまくってるのだ??

 まぁ、そんなわけで、真正面で、頑張ってみるかな。どんな状況でも、どんな状態でも、どんなメンツでも、もう流石に、歌にある程度の自信はついたし。あとは、恥かしがりを押さえてっと。

 そうそう、この2次オーディションにでるだけで、実はものすごく大変でした。それは、身体的にでもあるし、時間的にでもあるし、幾何学的にでもある。
 それをすべて乗り越えられて、突破した俺等なら、きっともっと何かスゴイことが出来る気がする。やっぱ、音楽も捨てられねーな。

 こうして、高橋慧は、ほぼ完全に自分自身の元気を取り戻したのであった。あとは…。
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it's too late...

2008-12-04 23:37:39 | Weblog
 とても疲れた。ちょっと、今、気力が無い。戻りかけた気力が奪われた気がする。

 ヒトに何かを託すためには、こちらにある一定のパワーが必要である。そのパワーが遥かに足りない。もっとゆっくり取り戻してから、立ち上がりたいと思う。

 今は、とにかく、疲れている。ただ、方向はプラスに向いている。それだけが救いである。
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