たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

5と11分の5

2015-07-26 03:08:13 | Weblog
 事実を掌握するための方法やスタイルを語りあうことで意見を戦い合わせているときに、「これは僕の方針だから、それに合わないのなら」などと相手と決別することを脅し文句に、権威によって意見を押さえつけようとする人間は、常に負け続けている。なぜなら、論議の負けを認めないぞ!俺は偉いんだから!と高らかに宣言しても、自然現象は残酷で、だからといって別に真実を掴むことはできないし、成功することすら絶対にできないからだ。
 どんな状況でどんな立場であれ、真実を発言しようとし、そこに向けて正しい方法をとっている者が最善であり、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。これはどのようなフィールドでも同じだと思う。

 そもそも、人生をあったかいホンモノの信頼関係のなかで常に楽しみ、それがずっと続くように生きていきたいならば、人生はギャンブルである、という認識を強く自分に言い聞かせることである。こう信じ切ってしまうことで、ギャンブルじゃない部分に関して、本気で習得してしまおうという気になってくるものだ。
 あなたが、どんなに難しいと思っていることでも、理解すらできないことなど、それほど多くはない。どんなに難解な数学書でも、どんなに難解な哲学書でも。能力や実力が足りないから今の自分では習得できないと思っている事柄の99パーセントは、ただ単純に、めんどくせーからやりたくねーし!、と決めつけているだけである。

 そして、人類が確実に理解できうる、形式化された論理展開に沢山ふれて、自分の考え方と思考力を着実にしていくことで、徐々に能力と実力を向上させていき、いずれ未開の問題にアプローチする。。
 いや、、思考が精緻化されていない段階で、無謀にも絶対解けるわけもない問題を考えてみることにこそ、もしかしたら、手っ取り早い思考力向上が含まれているのかもしれないね。いつまでもシュートを打たないで精緻化されたパス回しを目指すことよりも、とりあえず枠にシュートしてしまう気持ちを持つことのほうが、俺は重要なんじゃないかと思っている。

 たとえば、俺は初めて

 1時から2時のあいだで、時計の短針と長針が重なる時刻は何時何分か?

 という中学入試の基本問題を読んだ時、すぐさま『太陽系のすべての惑星が一列に並ぶことは何年周期か?』という無謀な戯論をしたくなった。
 大学で物理を学んで、三体以上の問題は可積分でないことを知り、厳密には原理的に解けないことを知ったが(それに惑星の公転は円ではなく楕円だ)、その想像をしたことは俺にとっておそらくプラスだった。ちなみに、単純に公転周期から計算して良いのなら、最小公倍数を考えれば良いので、ただ単純に惑星全部の公転周期を掛け算すればいいだけ(だと思うん)だけどね。

 無謀で壮大な問題に対して、まだ精緻化されていないから、まだコントローラブルじゃないから、まだ系の要素をすべて分けられていないから、とか言い訳していないで、とにかく今すぐにでもできることをやってしまいながら、技能を身につけ、あらゆる政治に恐怖を持たないで、真実をただしゃにむに追い求めていく、というスタイルで良いんじゃないだろうか?と最近特に想う。それってとても楽しいことだし。

 いずれ、土星最大の衛星でフランクリン・ルーズベルトから、まったくどうでもいい、全然大したことのない人類の最終目標を告げられるんだとしても、、それまでの間、誰かに利用され続けるのだとしても、とにかく、その中で無理矢理にでもより良く楽しもうとすれば、それこそが至上なんじゃないだろうか?と俺は思うのだ。
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切らせてはいけない最終ライン

2015-07-21 03:18:06 | Weblog
 どんなに心で理想を想っていても、現実的に叶わないことは沢山ある。気持ちが未来を創る、なんてキレイゴトに現を抜かしていると、痛い目をみるのは近い未来の自分だ。
 現実というのは、多くの場合、コントロールしえない大勢の他人を指す。自分の気持ちを伝えていくことで他人を動かせることは稀だ。

 自分の気持ちで他人を動かせたとしても、悩ましいことには変わりない。そもそも他人の価値観をより良く自分色に変えるということは、教育と洗脳の違いを明確にしておかなければ達成されない。教育と洗脳の狭間に説得という名の無難さが見え隠れしても、自分が動かせてしまえる時点で、その差は絶対的には感じることができないからだ。
 だからこそ、誘導できる能力がある人間ほど、悩む。ここまで変えてしまっていいのだろうか、ここまで行動して相手を変えても構わないのだろうか?と。

 つまり、誰かと一緒にいるということを、結局のところ自分色に染め上げようと変化を期待し、自分の価値観のほうが徳が高いと大義名分を掲げ、しかしあなたの持っている今現在の価値観も大切だ等と優しい言葉をかけることによって、成り立たせるならば、それは精巧なロボットと行動をともにしていることと変わらない。
 生命と非生命のアノマリーに着目することで生命特有の法則を追求し、かつ他人をある程度誘導できる者特有の悩みが、ここに存在するのだ。

 ていうことは、単純に勇気が無くて、私だけ試せないということですか?
 そうかも。君の状況を変えてしまうことも、現状を認知してしまうことも、俺は怖くて仕方ない。
 そこまで悩まなくても、、別にそこまで考えなくてもいいんじゃないですか?
 でも、自分の気持ちにウソをつくわけにもいかないし、悲しい真実に眼を背けるわけにもいかない。
 私自身は、別にただ私が悪いと思ってるから、構わないし。
 君はそう思ってないし、そう思う必要もないし、そう思いたくないほうが良い。

 俺がどうにかするから。。
 この問題に比べれば、他のどんな問題も今は至極どうでもいい。俺はこの問題を抱えているからこそ、他のどうでもいい問題に抜本的に対応できるのだ。

 それは、どんな犠牲をも顧みない、どんな不条理をも跳ね飛ばす、圧倒的な方法によって達成されうる。俺がそのスイッチを押すことに、怖がっているだけなのかもしれない。
 でも、勇気が無いことが必ずしも悪いことじゃないと思うし、俺がここまでかかるのは、ある意味では仕方ない。

 もし恨むのなら、この決定を俺にさせる運命を恨んでくれ。絶対に切らせてはいけない最終ラインを、俺はわかっているつもりだ。

 たとえ、その先にホンモノを掴むチャンスがゼロになるのだとしても、俺は俺自身と周囲が後悔しないであろう選択を、ただ冷酷にとる。それが俺の気持ち依存じゃなかったとしても、今の君のより良きをいっさい考えていなかったのだとしても。

 そう、、稀ではあるが、時として、誰にとってもneedでもwantでもないことを、しなくちゃいけないことだってあるのだ。
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無意識な憧れの行方

2015-07-20 02:56:36 | Weblog
 自分にとって完全に不要な対象を、気持ちの上で欲するものとして選び続けることなど、絶対にありえない。
 確かにneedとwantの違いにこそ生命と非生命のアノマリーが存在しているが、needがまったくのゼロで(少なくとも)とびっきりのwantになることなど、この世には存在しないと思うし、それは理想的には成り立つかもしれないが、相互作用を考えたときに現実的にありえないことだ。

 なぜなら、自分は相手にとって実質的にいっさい役立たないと思いながら一緒にいることは、相手のことを考えまくった気持ち依存であればあるほどできなくなっていくし、自分と一緒にいる時間が相手にとって申し訳ないと思ってしまえば、互いに決別を選ばざるを得なくなってゆくからだ。
 それは相手が、いくら、ただ一緒にいたいだけだ、と主張したとしても、成り立たない。もちろん、自らの存在を唯一物質的な価値観と見做すことで快楽を得ようとする女々しい感情が一過性の価値観として成り立たせることはありえるが、幾何学的な美に唯一依存してしまえば、遅かれ早かれ崩れ去ることは明確である。

 つまり、時間依存性の無い関係性をホンモノだと定義したとき、実質的な能力として圧倒的な非対等性を有する関係は、お互いが強く欲し合っていたとしても、一過性に終わってしまう、所詮ニセモノなのだ。

 結局のところ、だから、私だけ試さなくても良いわけ?
 欲しているからこそ、俺の予測に反したことを言ってほしいんですよ。
 それならやっぱり、能力が無いと見做されている私は必要ないでしょ?
 確かに今は。でも未来にはきっと必要になりますし、それ以上に俺が一緒にいたいんですよ。
 どうして未来に必要になるって言い切れるの?そんなことわからないじゃん?
 俺が望んでるってことは、即ち未来には俺にとって貴女が絶対的に必要になるってことです。

 未来の中に実質的な必要を無意識的に超越論的に見出すとき、ヒトは現在明らかに自分にとって不要なものを欲するのではないだろうか?それは、自分の気持ちに忠実になるという自分勝手な範疇を超えて、気持ちが未来を創る、という圧倒的な物理法則が定めていることなのだと俺は思う。
 そして、気持ちが未来を創る、ということに忠実に注目して相手のより良きを考え続ければ、必ずホンモノを感じ、手にし、一生離さずに過ごせるのかもしれない。

 だから、不器用すぎて成功しても、器用すぎて失敗しても、器用すぎて成功しても、不器用すぎて失敗しても、それらの比較対象としての関係性が、お互いの未来に一歩でも楽しさが続くことを包括できれば、それでいいのだと思う。
 たとえ、そのせいで、離ればなれになってしまったのだとしても。。

【ラーメンズ】 器用で不器用な男と不器用で器用な男の話 【高画質】
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築かれる「意味なし」関係性

2015-07-19 04:06:01 | Weblog
 人生が明らかに変化していくことの訪れを届けられる瞬間、俺にはなんとなくそうだとわかる。それはこれまでの履歴に依存することかもしれないし、もともとそういう能力を持っているのかもしれない。

 人生が変わるっていうのは、ほとんどの場合、価値観の変化だ。無意味なものに価値を見出したり、まったく気に留めていなかったものに気を留めるようになる。
 変化してしまえば、今まで不要だったことが突然大切になったり、今まで大切だったことがどうでもよくなったりする。まぁ、自分にとって必要か不必要か、なんてやってみなけりゃわからない。っていうか、そもそも、needとwantの違いにこそ、生命と非生命のアノマリーがあるのだから。

 だから、無意味そうに見えても、とにかく扱ってみて、やってみちゃうことが大事で、これはどういった場合も同じだ。無意味にみえる地味な計算のなかに意味のある重要なヒントが隠れていたり、切手集めばかりを繰り返す価値観のなかに有意義な心得が隠れていたりする。
 だから、他人を試すようなマネばかりしていないで、自分の権威や実力を誇示していないで、環境に対して本当の意味で謙虚に接することで、森羅万象、万物のすべてから学習しようとする態度を養ったほうがいい。あなたが最もバカにしていることにこそ、あなたにとって最も欲しい価値観が眠っている。そして、それがわかったとき、人生が変わっていくのだ。

 っで、どうして私だけ試さなくても良いわけ?
 試さなくても、お前が何て言うか、わかるから。
 そう?それなら、私がいる必要はないよね。
 ああ、もちろん。そんなことは疾うの昔から分かりきっていることだ。俺にはお前が必要ない。
 そこまではっきり言うことなくない?
 必要はない。ただ、俺が一緒にいたいってだけだ。

 自分にとって、必要か不要かで人生を決定していったら、自らをただ単純な物理現象として反応させていくだけであり、人生が変わっていくことをリアルタイムで感じる、このような気持ちに出会うこともないのだろう。

 意味のないことでも、価値が無いと思っていることでも、自分が手に入れたい、傍にいたい、置いておきたい、と思ったときに、まっすぐにそれを行動することができることこそ、人生をちゃんと楽しむ秘訣があるのかもしれないね。

いろは 【ゴスペラーズ】
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鼻で笑われないために

2015-07-15 01:05:14 | Weblog
 思考を停止させてしまうことを肯定化するための論理は、まったくの無駄である。
 そこまで考えてもどうせ何もわからないよ、そんなにまでして考えるのなら違うことをもっと沢山したほうがマシだ、これまでずっとこの価値観とこのやり方でやってきたからトヤカク言われることじゃない。そういった論理(のふりしたイイワケ)は、本質的にやる気のある読者諸君は、まったくもって聞く耳を貸さなくて良い。

 これらは、向上心を持たなくとも自分の位置や権威を維持していたいという、ズルい気持ちに起因している。
 自分は特別な存在なんだから特別に扱われるべきなんだ!、と自分に対して特別に振る舞ってもらえることを当然だと思い込むようなことを、恥ずかしげもなく非常識に言い放った滑稽さを露呈した時点で、論理性の欠如と向上心の無さを示してしまっている。非常に厳しい意見を言えば、そうした行為を改善しようとしない人材は、さっさとその集団を去るべきだと思う。それが、また新しい世代のためであるのだから。
 そう、向上心を持ち続けることこそが大切で、これはどの分野に所属していようが関係ない。すべての人間が本質的に社会から要求されていることは、周囲をより良く、自分をより良くしようと心がける、向上心のみだ。

 新しいことをマスターしてゆき続けることは、確かに大変だ。特にこの社会は、ブラックボックス化していく魔法のような新しい技術について瞬時に原理と手順を把握し、適材適所で使いこなせなければならないのだから。

 だけども、俺らはきっと、それができる。

 新しいことに物怖じせず、目的遂行のためにぶつかっていけるだけの体力を兼ね備えている。大切なのは技術が正確なことではなく、その技術を何に使い、どんな価値観のために遂行していこうとするのか?なのだ。だから、俺らは簡単に、それができる。
 だって、パソコンやスマホでこのサイトを読んでいるほどの凄い技術を当たり前のように使っているのだから、なんだってできるさ。

 古臭いやり方を超えて、、何度だって立ち上がってみせる。必ず、俺がより良くしますよ。それまで、希望を捨てず、頑張ってみてくださいね。

【爆弾発言】古市憲寿は汚いラブレターを捨てる!!指原莉乃ドン引き 2
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19:24

2015-07-12 08:24:36 | Weblog
 インターネットが新たな戦場の場になりつつある。
 政治的に無念な思いをしたときに、一昔前は本を出版するしか術が無く、それすらも後に成功した者だけが許される特権だった。しかし、今は違う。誰でも簡単に文章を書くことができ、完全に社会的に負けた者でも、全世界に自らの想いを自由に公開することが可能となった。

 昨年の理化学研究所の問題でも、当初はインターネット上だけで、捏造ではないか?と言われていた。
 これは実は、社会的に負けた、もしくはその一歩手前の状態の、論理性の高い負け犬が非常に多いことを物語っている。まぁ、論文を読める状態の人間じゃないと不正に完全に気がつくことはできないから、ニートと同じ生活を送る大学院生や他人のアラを探そうと躍起になってる研究者が、大量にいる、ってのが相場だと思うけどね。
 つまり、論理性がそれなりに高い社会的敗者たちが、へーこらしているだけで科学に対する興味や信念が何もない権威主義の社会的強者に対して、ネットという新たな戦場で謀反を起こし、文字通り死に至らしめた事件だとも言える。

 もし、あなたが社会的に成功したいのであれば、いかにして、何も考えていないバカどもを味方につけるかを考えればよい。民主主義によって、めちゃくちゃ考究して信念を持って提出した一票も、バカがてきとーに提出した一票も、対等なのだから。
 だからこそ、この世の中は大方、忠義の心を持つものは能力がいっさい無く、能力を向上させる意志を持った者は忠誠心のかけらもないのだ。

 成功したいだけの人間が上層部にい続けようとする限り、「国家」ではなく「権威」と「資本」を相手取った、ネット上から誘発される第三次世界大戦を未然に防ぐことは難しいかもしれない。

 そして、なかなか難しいのは、本当は信念を持っていたのだとしても、「大勢からの評価」という鎖に一度ハマってしまえば抜け出すことは難しくなる。生きるために誘拐犯に恋してしまう被害者の心理と構造上は同値だ。
 くだらない「分野」や「知識」に落とし込み、そこでのレゾンデートルをなぁなぁな人間関係のなかで語ることしか能の無い人間が社会的に成功している一方で、信念を持ち続けてしまうと成功しにくい社会的仕組みになっている根幹の原因は、民主主義と資本主義の限界にあるのだ。そして、その不条理に異議申し立てることができ、場合によっては、社会的に(も実質的にも)人を抹殺することすらできてしまうインターネットというものは、新たな大量破壊兵器なのかもしれない。本当に、情報は即ちエネルギーなのだ。

 そう、みんな、世間体や評価を気にしすぎる、それらがどんなバカからの戯言であっても。

 そんなことよりも、何の不自由もなく文章を公開できることの喜びを、もっともっと味わおうじゃないか。
 どの研究室にいるか、どの指導教員か、どんな分野でどういう風に勉強してきたか、など一切関係ないオールフリー状態のこのインターネットの場で、あなたのとびっきりの考えや気持ちを、全世界に向けて公開することができる。今こそ、なんの柵も無い状態で、「生命とは何か?」「万物の理論は構築されうるのか?」「宇宙はどうなっているのか?」「研究社会をよりよくするためにはどうすればいいのか?」等の様々な重大な中二病的問題について、自分固有の考えや気持ちを、思い切ってそれぞれのブログで書いてみろよ。ブログには何の査読も何の柵もないんだぜ?
 それが現実的にできないのは、「恥ずかしいから」と世間体を気にする無難さを大義名分にすることで、お仕着せがましい制度に自らが依存し続けることを肯定化し、だから他人任せになっており、自分で自己実現することを諦めきっているからだ。

 確かに、他人からの評価のすべてを捨て去ってしまい、自分の軸で生きることには不安が伴う。しかし、世にいう金持ちや権力者が本質的に成功し、本当の意味での聖人君子になることよりも、ラクダが針の目を通り抜ける方が簡単である。

 だとしたら、バカな文章を書くようなマネはしなくとも、きちんと目覚めて、自分が思う、より良い新たな価値観を訴えていくべきだ。そうすれば、ネットは戦場ではなく、理想的な場所になりうるのかもしれないね。
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気持ちに自信を持ちましょう

2015-07-09 01:12:10 | Weblog
 最近の若者は、みんなの前で自らの間違いや誤魔化しを露呈されると、本当に自分が間違ってたり誤魔化していたりするのにも拘わらず、露呈してきた人間に怒りの矛先を向ける傾向がある。よーするに、叩かれ慣れていないのだ。

 なぁなぁな集団に慣れてしまえば、そりゃそうなる。ほんのちょっと(本当の意味での)外の風を感じただけで、最終ラインのディフェンスが「分野が違うから」「この分野では!」と自らのレゾンデートルを主張するだけの思考力しか持ち合わせていない、ある種の向上心の無さを、恥も外聞もなく平気で怒りとともに露呈させてしまうのだ。
 我々が追っているのは、自然科学ではなく、自然現象である。分野など関係ない、(理想的にではなく)現実的に。

 閉鎖された社会にい続けることで、そこに胡坐をかいてしまうことを、一番に考えてしまうその心は、どうにかしなくちゃね。
 まぁ、単純に仕事として、その事実にキングが不満を持っており、それを壊すためのポテンシャルを俺に課している限り、俺はジョーカーとしての職務を全うするだけのことである。もちろん、奉仕することもあるけどね。

 そもそも、自信がある、ということを、何かの能力があるということについて落とし込んでいれば、そりゃ矛盾だらけの生き方になってしまう。
 自らの心持ち、自らの向上心や達成するための使命感、より良くしたいという優しい気持ちにこそ、自信を持つべきことである。

 あなたが、(全国の同級生の中で上位10人とかのレベルで)どんなに数学ができたとしても、どんなに数々の知識を持っているのだとしても、論理性が高く表情を読む能力に長けているのだとしても、決して、それらの能力そのものに一番の自信を持ってはいけない。
 あなたの心やその表現系だけに自信を持つべきであり、何かの成果があるとか、結果があるとか、知識があるとか、論理性があるとか、行動力があるだとか、数的処理が得意だとか、そんなこたー、どうだっていい。だって、どんなに素晴らしい能力だって、一過性であるのだから。

 有能(能が有る)であろうとするのではなく、優秀(優しさが秀でる)であろうとすること。

 ただそれだけを直向きに追いかけていれば、いつかきっと、あらゆる物事と、あらゆる人物に対して、まっすぐに笑いあえる日がくるはずである。
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明日になれば今日とは違う星がきっと輝くはず

2015-07-07 00:22:06 | Weblog
 自分の表層的なところだけを評価されて、時間を一緒にすることになっても、ムカつくだけだ。
 相手は自分のそんなものが目当てだったのに、期待していた自分がバカらしくなってきてしまうからだ。

 身体目当てで近寄ってくる男、財産目当てで近づいてくる女、そんなわかりやすい例は、むしろ世の中では稀である。無難さを保持したい目的で選ばれることだってあるし、英語で喋っていることを誇示したい目的で近づいてこられる外国人もいるだろう。当人は、自分が、表面的なステータスで選ばれていることを、とてもよく理解しているが、周りは(俺ほどの稀有な思考力が無いと笑)それほどには理解してはくれない。

 これはとてもツライことである。両者ともに。

 表層的なことを求められている側だけではなく、求めてしまう側も、それなりの不幸を背負っているケースも多い。
 本当の愛情をいっさい知らないから一過性の快楽を求め続けるようになるし、不安定な生活に困窮しているから財源という確かな安心感を得たくなる。自分のそのままで上手くやっていく自信がないから無難さを求めるし、自分の能力に絶対的な自信がないから日本語を話せる外国人にわざわざ英語で喋ってしまったりするのだ。

 みんなが心の中で一番に求めているのは、あなたの全てを受け入れる!、という真っ直ぐな気持ち。
 これさえあれば、これさえ明確に出してくれたら!

 いや、そんなんいきなり言われても、キモイだろ。重いだろ。笑

 みんな、孤独の影を紛らせるために、不条理で理不尽で奇怪な世の中を演技して生きている。眼を開きながらみる夢を確かにみたいが、それをいきなり行動されても、他の誰かとちゃんとインタラクションすることはできない。
 だから、それなりにルックスの好みがあったほうがいいと思うし、お金は大事だし、あまりに無難からかけ離れたことをしないほうがいいし、自分の能力に自信がありすぎないほうが、ふつう、いいのだ。

 ここに、ホンモノが達成されにくい理由がある。
 現実空間での条件の一致を初期において求めるくせに、次第にお互いの心でも条件が一致していることを求め、それらは互いに相反することが多いからだ。

 でも、だからこそ、数が少ないからこそ、ただ見つめ合えたときに、ホンモノかどうかがわかる。それが、恋人関係であれ、友人関係であれ、親子関係であれ、師弟関係であれ、その瞬間に感じるホンモノのシグナルを見逃すわけがない。

 現実世界の光と闇に抱かれて、翻弄されながら、お互いの心の空に確かな夢を見つけよう。心で輝くための現実での不条理なら、納得できるでしょ?

 夜空が暗闇なのは、今宵、特別な夜に、星々が輝くため。
 だから、いま、辛うじて繋がっているこの奇跡を逃したくない。たとえ逢えなくても、明日になれば今日とは違う星がきっと輝くはず。俺はそう願っている。


EXILE ATSUSHI+中島美嘉 WILL, STARS
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集団の圧力

2015-07-05 03:53:01 | Weblog
 集団の圧力によって弱者1人を追い詰めていくことで成り上がることを肯定化するようなシステムは、そのシステムを構成している人間とともに必ず凋落する。
 端的に言ってしまえば、学生だって内定辞退したり無断で説明会バックレたりしてるんだから、「サイレントお祈り」は肯定化される、と考えているような企業は、必ず衰退化する。『企業は』という抽象的な書き方をしたが、企業の中にいるのだから自分は別に大丈夫、という、その思い上がりこそが破滅の始まりなのだ。

 これは完全に脅しだが、俺が実際に受けたり、直接話を訊いたりして、知っている限り、ここで書き下してもいい。企業も研究室も。まぁ、実際そういうサイトも既に存在していますが。
 っま、凋落したくないなら、今からでも、志願者1人1人に、土下座で謝れ。それでも構わないというヒエラルキーを持ち出してきて自分の行為を正当化するなら、それでいい。そんな考えは一過性。5年ももたない。

 ただ、企業や研究室などの、表面上あからさまに形式化されている集団は、まだいいのかもしれない。悪事がわかりやすいからだ。
 問題は、あからさまには観えない部分で勝手に派閥を作り、その集団の観えない圧力によって、個人を陥れようとする場合。こうなってしまうと、細かい仕草や無駄な独り言や、隣の人への極僅かな囁き声も、いっさい見逃すことなく、聞き漏らさないように努めなくてはいけない。
 こういう恐怖があるからこそ、少なくとも自分がしゃべりだす時には、すべての人間のすべての振る舞いを、いっさい見逃さないように俺は努めている。表情と身体の方向、僅かな目線のゆらぎ、感情的で無駄な、ほんの些細な独り言の声色など、すべて。

 自分の正しいことと、相手の正しいことをぶつからせることは、真相を引きずり出してくるだろう。実際に、そういう場を提供し、議論を深めている場所も存在はしている。
 ただし、仲良しとなぁなぁの差もわからないような、いじめっ子たちが、「多様性の保持」という名のもとに、ヒトを取捨選択していくとき、その顔を鏡で見てみたらいい。

 そう、、大人になっても、学歴社会などのヒエラルキーを、安易で、自分にとって都合のよい、手っ取り早いアンチテーゼなどを用いることで、その存在を闇雲に認め続けていると、、それは、あなた自身が昔々忌み嫌っていた、あなたをいじめていたAグループ(ノリの良い集団の総称)の怖い人と、同じような、醜い顔をしているのだと思う。

 Aグループが嫌いなのは構わない。でも、自分よりも年齢が下などという理由で、明らかに弱者になっている(自分から見ると)Aグループの誰かを、何らかの集団の圧力によって切り捨ててしまうことで、昔の劣等感や悔しい気持ちを払拭することはできないのだ。

 こういうことは、俺が身をもって、よく知っている。

 だから、何かでストレスを感じたなら、与えてきやがった、それ自身に対して、勇気を持って、常に返していかなくちゃいけないのだ。
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広くもない狭くもないこんな道で

2015-07-04 00:17:56 | Weblog
 私はどうしても貴女と今の彼を比べてしまう。
 あらゆるステータスにおいて似通っているし、一つひとつの作業をこなすたびに、フラッシュバックしてしまうから。

 貴女のような人とだと絶対にいつかはぶつかって決別してしまうのであったとしても、彼とは貴女と同じぶつかり方はしたくない。比較することで、当時貴女がどれだけのものを失ってきたかを思い知る。
 きっと私たちは大きな真理を掴む見返りとして、真っ先に大切なものを捨ててきたのかもしれない。万に一つの奇跡が起こって、取り戻したところで、きっと微妙に違っているから、今となってはもうわからないけれど。

 私が抱えていたガラクタを、どんな根拠であれ、守り続けてくれた優しい貴女の手は、どれほど痛かったことだろう。
 せめて今は、その苦痛から解放されてよかったね、と彼の虚栄心に映して笑ってみる。こういうときに笑顔は武器になる。笑顔の中のほうが、悲しみも怒りも苦しみも、遥かに多くを包み隠せるのだから。

 あれから実はかなり時間が流れていて、、くだらない結果だけが残った。その時、すべてが私の虚構であると悟った時の貴女を、彼のように支えてくれる誰かはいたのかな?
 道徳的には私が正しくて、社会のルール的には貴女が正しい。私は、貴女よりも、立ち去っていった人達が大切だったわけじゃないのだけれど、、ただ生きていくために、小さなレゾンデートルを守る貴女が、結果的には嫌いになってしまった。

 もしかしたら、その虚勢を私はとっくの昔に見抜いていて、ガラクタのような貴女のレゾンデートルを、宝物だと評して、私が必死で守っていたのかもしれないけれど…っと言いきってしまえば、それは傲慢でしょう。
 私には、貴女や彼が想ってくれているほど、能力なんて、何もないんだから。



 他のことで思い悩んでいる日々の中で、精神的にキツイことをすることは、俺には余計に難しかった。でも、真新しさに集中せずに、前から知っていることだけを黙々と取り組めば取り組むほど楽になるかと思ったら、余計に思い悩んでしまって、余計にふさぎこんでしまう。これは、ほかでもない君に習ったことのはずなのに、やっぱり今でも好きは好きだから、自然と模倣してしまっているのかもね。

 まだ繰り返しにすらなる前、どうなってしまうかもわからなかった頃、正直、とても楽しかった。君がいたから、どんな時でも楽しめたし、笑えたし、泣けたし、生きていられた。それは、こうなってしまっても事実だ。
 真新しさのなかに、ときどき、どうしてこんなことになってしまったんだろう?、と素直に感じることがある。とびっきりの理想と考えを、お互いに真っ直ぐに、目指してきただけだったのに。

 まぁ、いいだろう。これこそが、結果なのだ。
 俺が見つけた、広くもない、狭くもない、この道を、俺が信頼している人とともに、ただひたすらに突き進み、結果的に貴女にも繋がっていることを願うだけだ。

Ayumi Hamasaki - TO BE (Piano collection No.05)
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