「負けてはいけない」
どんな時でもそう思ってしまう性質の人間は、露骨にボロを出す。勝利主義は勝つことに固執するあまり、勝ちそのものを自由に定義してしまいがちだ。
俺はノリの良さでは勝っている
所詮、カネだろ?
結局はすべて承認欲求に行き着く
楽しいってことはずっと維持できているから
こうやって、一つの軸で人生や社会を描像化してしまおうとする限り、きっと間違える。確かに、ノリの良さは重要なこともあるし、カネで解決できることも山ほどあるし、承認欲求さえなければ争いは起きないかもしれないし、楽しむことだって欠けてはいけないものだよね。
けど、それらは互いに直交しているわけでもない切り口で、軸を引くにしてもまったくもって精緻ではない。軸をたくさん引いてしまうのだって真実から離れていってしまうのに、たったこれだけと決めて、その軸しか見ないように決め込んで、その軸の中で勝った負けたとやりたがる。それならさ、誰だって勝てるよ。自分流に定義しちゃえばいいんだもん。
何か一つの指標に飛びつき、それに最適化することで自分を納得させようと焦らなくても、どうせいつかは死ぬのだ。
だとしたら、何か一つに最適化させる必要はないんじゃない?
多くの勝利主義者たちは、大した武器も得ようとせず、日々すべき鍛錬を怠り、自己流に「勝ち負け」を定義し、そのうえで他者をジャッジしたがる。
そして、嘘や誤魔化しがそのままにならないように、日々忙しく駆け回る。ご機嫌取りに躍起になり、忙しさで自分自身を束縛させる。忙しければ、考えなくて済むから。考えてしまえば、他にも軸があることを気が付いてしまうから。忙しくて考える暇がなければ、我流の「勝ち」を想起し続けるために、自分がどんなに他人を傷つけているかを自覚しなくて良いから。
完璧な人間なんていないし、どんな人にも弱点はある。
次のステップに進むためには、自分の考え方についての圧倒的な更新なのだ。それには、傷つけ続けている謝るべき相手に謝ることが、最も着手すべきこと。
そう、あなたが謝罪することの本質は、贖罪を宣言することに他ならない。
逃げてはいけないのは、誰かからではなく、自分自身から。それをきっと"誰か"も望んでいる。
どの項目についてどのタイミングにどの軸で勝ちたいのか、それを見極めるためには、、もう言わんでもわかるだろ?
どんな時でもそう思ってしまう性質の人間は、露骨にボロを出す。勝利主義は勝つことに固執するあまり、勝ちそのものを自由に定義してしまいがちだ。
俺はノリの良さでは勝っている
所詮、カネだろ?
結局はすべて承認欲求に行き着く
楽しいってことはずっと維持できているから
こうやって、一つの軸で人生や社会を描像化してしまおうとする限り、きっと間違える。確かに、ノリの良さは重要なこともあるし、カネで解決できることも山ほどあるし、承認欲求さえなければ争いは起きないかもしれないし、楽しむことだって欠けてはいけないものだよね。
けど、それらは互いに直交しているわけでもない切り口で、軸を引くにしてもまったくもって精緻ではない。軸をたくさん引いてしまうのだって真実から離れていってしまうのに、たったこれだけと決めて、その軸しか見ないように決め込んで、その軸の中で勝った負けたとやりたがる。それならさ、誰だって勝てるよ。自分流に定義しちゃえばいいんだもん。
何か一つの指標に飛びつき、それに最適化することで自分を納得させようと焦らなくても、どうせいつかは死ぬのだ。
だとしたら、何か一つに最適化させる必要はないんじゃない?
多くの勝利主義者たちは、大した武器も得ようとせず、日々すべき鍛錬を怠り、自己流に「勝ち負け」を定義し、そのうえで他者をジャッジしたがる。
そして、嘘や誤魔化しがそのままにならないように、日々忙しく駆け回る。ご機嫌取りに躍起になり、忙しさで自分自身を束縛させる。忙しければ、考えなくて済むから。考えてしまえば、他にも軸があることを気が付いてしまうから。忙しくて考える暇がなければ、我流の「勝ち」を想起し続けるために、自分がどんなに他人を傷つけているかを自覚しなくて良いから。
完璧な人間なんていないし、どんな人にも弱点はある。
次のステップに進むためには、自分の考え方についての圧倒的な更新なのだ。それには、傷つけ続けている謝るべき相手に謝ることが、最も着手すべきこと。
そう、あなたが謝罪することの本質は、贖罪を宣言することに他ならない。
逃げてはいけないのは、誰かからではなく、自分自身から。それをきっと"誰か"も望んでいる。
どの項目についてどのタイミングにどの軸で勝ちたいのか、それを見極めるためには、、もう言わんでもわかるだろ?