たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

勝利と謝罪

2022-05-29 03:52:25 | Weblog
 「負けてはいけない」
 どんな時でもそう思ってしまう性質の人間は、露骨にボロを出す。勝利主義は勝つことに固執するあまり、勝ちそのものを自由に定義してしまいがちだ。

 俺はノリの良さでは勝っている
 所詮、カネだろ?
 結局はすべて承認欲求に行き着く
 楽しいってことはずっと維持できているから

 こうやって、一つの軸で人生や社会を描像化してしまおうとする限り、きっと間違える。確かに、ノリの良さは重要なこともあるし、カネで解決できることも山ほどあるし、承認欲求さえなければ争いは起きないかもしれないし、楽しむことだって欠けてはいけないものだよね。
 けど、それらは互いに直交しているわけでもない切り口で、軸を引くにしてもまったくもって精緻ではない。軸をたくさん引いてしまうのだって真実から離れていってしまうのに、たったこれだけと決めて、その軸しか見ないように決め込んで、その軸の中で勝った負けたとやりたがる。それならさ、誰だって勝てるよ。自分流に定義しちゃえばいいんだもん。

 何か一つの指標に飛びつき、それに最適化することで自分を納得させようと焦らなくても、どうせいつかは死ぬのだ。
 だとしたら、何か一つに最適化させる必要はないんじゃない?

 多くの勝利主義者たちは、大した武器も得ようとせず、日々すべき鍛錬を怠り、自己流に「勝ち負け」を定義し、そのうえで他者をジャッジしたがる。
 そして、嘘や誤魔化しがそのままにならないように、日々忙しく駆け回る。ご機嫌取りに躍起になり、忙しさで自分自身を束縛させる。忙しければ、考えなくて済むから。考えてしまえば、他にも軸があることを気が付いてしまうから。忙しくて考える暇がなければ、我流の「勝ち」を想起し続けるために、自分がどんなに他人を傷つけているかを自覚しなくて良いから。

 完璧な人間なんていないし、どんな人にも弱点はある。
 次のステップに進むためには、自分の考え方についての圧倒的な更新なのだ。それには、傷つけ続けている謝るべき相手に謝ることが、最も着手すべきこと。

 そう、あなたが謝罪することの本質は、贖罪を宣言することに他ならない。
 逃げてはいけないのは、誰かからではなく、自分自身から。それをきっと"誰か"も望んでいる。

 どの項目についてどのタイミングにどの軸で勝ちたいのか、それを見極めるためには、、もう言わんでもわかるだろ?
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みんなが好きなものを好きな人にはわからないこと

2022-05-25 01:06:40 | Weblog
 最近聴いた話なのだけど、高校生たちの間でTikTokをアップロードできる権利を有しているのは、Aグループの子達(スクールカーストのトップ集団)だけらしい。
 つまり、「えー、たかはしさんがTikTokアップしてるの?それはありえなくない?たなかさん達がアップしてるのは可愛いから良いと思うけどさ」みたいな会話がありえるわけである。まぁ、正直想像はつくし、どんな技術が提供されたとしても、こういう序列みたいなものっていうのはあまり変わらないんじゃないかなぁと思ったりする。
 おそらく、高校生たちの中では、AグループがTikTokを撮っていて、Cグループが撮ってはいけないのは、至極公平なことなのだ。まずクラスの中での(ルックスやノリの良さ等の)序列を高めてから世界発信しろよ、というのは、筋が通っているのであろう。

 大人でも、序列があることを前提とした「公平性」というのをどこまで享受すれば良いか、実は微妙で難しい問題なんじゃないかと思う。
 たとえば、単純に能力別に選別したいのであれば全ての東大生は奨学金の返還免除を獲得する権利があるように思えるが、そうはなっていない。大学別に枠があって、各大学は平等だよね、だから枠も公平にね、ってことが前提になる。もちろん、東大に入るまでの恵まれた環境を考慮すれば案外本当に平等なのかもしれないが、それを綿密に定量化してみようという試みは誰も行わない。学振にしても、科研費にしても、そういったことは同じように言える。
 この前、Twitterのスペースで話した大学院生に「自分は、(たかはしけいと違って)難しい分野に行き過ぎた」と言われた。これはそこそこに失礼な発言だと思ったので、それならこれくらいなら良いかと同じくらいの強さで「え、だって、素論なんて、自分の手で実験して確かめられないから自然科学とは言えないじゃないですか」と言ったら、めちゃくちゃ怒られてしまった。素論が難しいことはすでに決まっている事柄であり、少なくとも難易度に関しては序列があることを前提にしている点で、「あぁ、なんか懐かしいな。そして、大変なのだろうな」と思いながら謝ったが、数の暴力としてすでに定まった序列があることにやや理不尽さを感じることを久々に思い出した。物理屋さんがバイオのような他分野でどうこうする難しさは、なかなか誰にも、本当に誰にも理解されにくい。

 だから、図らずとも少数派になってしまった人たちは、狭い分野のさらに狭いセクションのなかで、ひっそりと生きていくことをみんな選ぶ。そして、その中に新たな序列を持ち込む。
 学生時代、教職で盲学校での実習をしたが、そこでのある生徒の一言は俺には衝撃的だった。「あー、あの子か。あの子は、盲学校とか無理でしょ。だって、普通に喋れないじゃん」
 障がいを抱えた人に対して倫理的であれというのは暴力だと思う。それは頭でわかっていても、少数派である君は同じように少数派である誰かの気持ちはわかるんじゃないのと期待してしまった。しかし、TikTokをアップする人間はAグループに限られていると差別するような普通の高校生と同様に、この高校生にだって誰かを差別する権利がある。けど、きっと、それを認められない社会なんじゃないだろうか、と思うのだ。

 糾弾するなら、多数派や序列や派閥を無視して、同じように糾弾しろよ。

 俺がこう言っていることというのは、物理現象として仕方ないこと、どうしようもないことである。
 これはそういった類の事柄で、何も誰も悪くはない。みんなちょっとずつズルいって程度のことなのだ。だからこそ、ユニバーサルな絶望なのである。

 自分で選択する事柄というのは、好みや環境や運によって左右される。
 大学院時代、お金がなくても、就職した友達の多くが繰り返し言った言葉は「でも、それは、お前自身が選んでいることだから。お前は、稼ごうと思えば、少なくともそこそこには絶対に稼げるだろうけど、それをしないことを選んでいるわけでしょ?」と。
 それが偶然であれ、仕方のないことであれ、俺の好みであれ、少数派を選んでいる状況下で何かの不満を言っても、それはお前の責任、となる。多数派であれば、哀れむだけの大義名分があるのだけど、ね。

 そうやって傷ついた少数派が、痛みから逃げるために多数派から離れて、団結して、その小さい世界の中で、また派閥や序列を作る。
 そして、自分をアピールする言葉を勝手につけ始める。再生医療の業界に入れば、「俺は再生医療でがんばっていくんだ!!」みたいなキャッチフレーズを軽々しく口々に言い出す。学会には細かいセクションが沢山設けられている。アカペラサークルに入ればコーラスグループのマニアックなアルバム曲が当然のように話の前提に使われるのと同じように、その閉じた世界の中で引きこもろうとする。

 いいよね。みんなは、自分が好きなものが偶然に多数派と同じで。
 いいよね。たとえ少数派になっちゃっても、またその少数派のなかで狭く団結し、自分たちは「ホンモノに近いんだ」と思い込むことで、決して外に出ないことを心に誓えるだけの心の弱さを持っていて。

 ユニバーサルな数の理不尽に立ち向かい続けるためには、どうしたって強くならなくちゃいけない。
 それは、高校のクラスでCグループに所属しながらTikTokを撮って後指を指されても気にしないだけの強さかもしれないし、高校物理さえも誰もきちんと理解していない医系ラボに入って物理の重要性を愬え続けられる強さかもしれないし、障がいを持つことで不便な思いをしながら同じ障がい者からも差別されても必死でこの世界で生きていく強さかもしれない。
 偶然、少数派になっただけであっても、社会は強くなることを強要してくる。

 けど、忘れないで。俺は、そういう人の味方だし、あらゆる分野のそういう人こそを応援しているから。
 俺だけじゃなくて、そういうユニバーサルな理不尽さと戦っている人が好きな人は、世界に沢山いる。孤独な戦いに疲れてしまったら、一時的に多数派に行っても良いし、少数派だけで群れてみても良い。あなたの中の何かが煌き続けている限り、どんな場所に行っても、どんな理不尽を目の当たりにしても、きっと大丈夫だから。
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許さなければ赦してしまうから

2022-05-10 01:28:42 | Weblog
 きっと空間はその音色を保存することができる。どんなに時間が経っていても、その時のその場所に行けば、そこから声が聴こえてくることがある。旅行で歴史的な建造物や大自然の景色を見る時、人は同時に連綿と続く音色を聴いているのだと思う。

 どうしても、そのバックが欲しかった。何度も何度も、繰り返してきたことだから。
 確かに微かに聴こえてくる、あの頃の声色のままで、語りかけてくる。

 「それで本当に良いんですか」
 「ここで引き下がるような、たかはしけい、じゃないですよね?」

 てめーで責任を負わないくせにこちらにばかり理想を押し付けてくる、あの自分勝手で、その場だけとても心地良い声色達が、長い時間によって毒気を抜かれた状態で降り注ぐ。きっとあの頃は、赦すべきことと許すべきでないことが、決定論として収束されすぎていたのだと思う。
 許さないことで赦すのと、赦さないことで許すこと。どっちが良かったのか、どっちが良いのか、今この瞬間も分からない。回答が出ない。カワラナイ。

 時としてロバストであり時としてプラシティシティ、そんなフラジャイルな中で議論していることそのものの尊さを感じても良かったのかもしれないね。多次元的な価値観でイエローカードを出してしまえば、それは許すべきでないことを許し続けることになってしまうし、それは結果として、赦されるべきことを赦さないことになってしまう。ねえ、君たちの時と同じ失敗をしないためには、どうしたら良いんだろうか。
 天命に任せるが故に起こるステップアップに一切の興味を失えば、確かにやってきた本質的な取り組み。だからこそ、一縷の希望が見出せているからこそ、赦せと許すなが交差する。

 きっとね、いま目の前の彼らを本当の意味で許さずに本当の意味で赦してしまえば、許されざる行為を平気で繰り返した君も同じように赦すべきだという結論に辿りついてしまうのが、どこかで怖いのだと思う。
 そして、そうなってしまえば、何事もなかったかのように笑い合うだろうと思う。俺がそんなことまで言っちゃうの?って嫌味を言いながらも、それに対して冷静なツッコミが与えられ、バツが悪そうな笑顔をしながらも、それがまた笑いに変わり、その表情や態度や言動の高速フーリエ変換からすべては実験だったのだと言わんばかりの考察が始まる。その瞬間も、後から自分たちで自分たちを考察することも、すべて楽しいだろうと思う。

 面白ければ、楽しければ、それで良いじゃないか。一番怠惰な自分が、そう嘯く。
 それは、たぶん、違うよ。だって、君の毒が全身を廻り吐き出すように涙が溢れる頃に、きっと君はまたいなくなっているから。一番ツラくて死にたくなった時に、「忙しい」と無視を決め込むから。その時の自分の決心を、今の幸せな自分が裏切りたくないから。

 だから、どうしても今日は、バックが欲しかった。音色を確かめながら、自分の新しい声を吹き込みたかったのだ。言うまでもなく、自分自身に。
 決心を忘れないために。そして、決心が揺らぐかどうか、確かめるために。

 それが、雨が降らないはずなのに傘を持っていこうと提案した、本当の理由。
 そして雨は降らなかった。傘は必要なかった。それこそが天命なのかもしれないね。
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