たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

君に期待しているよ

2023-07-13 02:00:43 | Weblog
 煩雑なことは何も理解しないままに尊敬されたい。
 この国に住む大多数の自分勝手な連中の、このちょっとしたズルい気持ちを叶えるために、有能な人間は常に抑制され、忙殺され続ける。

 きちんとステップを踏みさえすれば、誰でもきちんと理解できるような論理体系しか、この世には存在していない。しかし、ステップを踏めば・・・というエクスキューズはいつだって忘れがちであり、理解できる人と理解できない人には遺伝子レベルでの差異があるかのように語る人も珍しくない。
 そして、それを本気で捉えた人が、悔しさを滲ませ苦し紛れに、難しいことをしている人は趣味である、という解釈をする。それを流布することで立場を得ていき、徒党を組んでいく。きっとそれが何重にも起きてしまっているのが、今の状況なのかもしれないね。

 自分に理解できないものは価値のないものだ、という発想は稚拙だ。偉そうに上から「ワラワにわかるように説明してみよ」というバカは、まずは立場を下りてもらわねば公益性に欠ける。
 ひとがみんなのために実直にやっていることをまともに理解しようともせずに「必要な研究をしろ」「趣味の研究をするな」「儲かる研究をしろ」などと研究者に偉そうに話すわりに、具体性のない精神論に終始しながら、何かの制度やルール造りだけをするのであれば、そもそもあなたが邪魔なのであり、きちんと周囲を見渡して羞恥心を思い出せば良いだけなのではないだろうか、ということを、政治力学に翻弄されすぎて、理系ですらもみんな忘れているのである。必要なことしかしていないのにも拘らず、そういうことを風潮するクズが一人でもいれば、有能で本当に期待ある人からいなくなってしまうだけである。そして、別の場所で、本当に好き勝手にやり始めてしまう。

 好きなことをやることと、好き勝手にやることとは、圧倒的に違う。好き勝手にやりはじめてしまえば、それは、その時間を無駄にしてしまう。
 たとえば、「研究は自分だけのためにやるものだ」「自分の満足が目的だ」と開き直れば、それは結局のところ、自分自身の満足にもならない。というよりも、スタートラインにも立てないまま死んでしまうだろう。
 好きなことはどんなことだって、誰かのためになるし、実益になる。必然性を追いかけて、まともな誰かに心から「ありがとう」と言われるたび、それは間違っていなかったと噛み締めることができるだろう。

 くだらないヤツほど、君に対して「期待している」と言ってくるだろう。俺様が退屈にならないように何か面白いものを持ってきてくれ、と言っているのに他ならない。そんな状態のヤツは物理現象だと思った方が有意義だ。
 定型文を簡単に言うことで、とりあえず対応できたと思い込んでいる人を、実質的にも精神的にもきちんと捨て去って、身の程を気がつかせてあげるためには、その期待の言葉に具体性と気持ちを同時に抽出してくること。君は、それができなきゃいけない。

 そのためにはまず何よりも、君自身が本気で「できる」と思っていなきゃ、どこまでいっても達成されないし、最悪の場合、誰かに「達成した」ということにさせられるだけである。
 達成できていないのに、その力が備わっていないのに、カタチだけ達成してしまうことほど怖いことはない。どんどん生気がなくなっていき、目が死に、身も心も不健康になるだろう。それほどに麻薬は恐ろしいものだし、怖いのは本人は良いものを摂取しているのに悪化するから、自分だけでなく他者にも、とんでもない不利益を被る可能性がある。

 自分で押したやる気スイッチなら自分以外の誰も消すことはできないが、誰かに押されたやる気スイッチはいつでも消される可能性がある。その恐怖と常に隣り合わせで生きていくよりも、まずは自分自身が「できる」と思いながら、煩雑なことでも一つひとつのステップをちゃんと踏んで、レベルアップしていこうぜ。
 ・・・きっとこれを読んでいるであろう君に、俺は期待しているよ。
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どうして「話せば分かる」と思ってしまうのか

2023-07-02 03:42:00 | Weblog
 どちらかが信頼関係を裏切る瞬間、実は裏切る側はそれを認識できていないことが多い。
 完全に信頼が消失しているにも拘らず、話し合おうとしたり、みんなで集まる機会を作ろうとしてしまうのは、幻にしてしまった何かの繋がりの実在を信じているからに他ならない。

 「話せば分かる」というのは、誰もが陥ってしまうトラップ。
 昨今、どんなに酷いことをしても、後から話せばどうにかなると思っている人が増えている気がする。それは、その人とどれくらいの信頼関係を構築できているか可視化されていると勘違いしやすい技術が浸透してしまったことにも原因があるかもしれない。自分の投稿に沢山のいいねやスタンプがついていれば、それだけで支持されていると思いやすい。毎日毎日、顔をつきあわせなくても会話ができてしまえば、何かの信頼関係があると思ってしまいやすい。

 当たり前だが、身内を殺されたとして、話して分かるわけがない。話しても無意味である。
 これが極端な例として、日常に還元してみてほしい。酷い仕打ちをして、コミュニケーションで胡麻化して、つっこまれても良いようにディフェンスして、有無も言わせないのであれば、それはただオラオラしているだけであり、ただ傲慢なだけであり、潜在的にものすごく敵を増やしている行為なのだ。それに気が付いているか?
 話しても分からないことがあるからこそ、大人同士の円滑なコミュニケーションのために法や契約が設定されている。にも拘らず、「部活やってんのか?」「いつまで大学のサークルノリなんだよ」という"いい大人"があまりにも目立つ。

 逆にそれまでに信頼関係を構築できていれば、話したら分かるかもしれない。熱い気持ちを持った結果としての行動や言葉が原因のトラブルなら、もしかしたらその理由を分かってもらえるかもしれない。話して話して、とことんに掘り下げて、お互いに傷つく気で喋りつくしてみれば、もしかしたら「裏切り」は勘違いかもしれない。けど、誤解は解けても言葉は遺るし、構築してきた信頼関係がニセモノだったのかもしれない。そのリスクをかけても良いのであれば、話す価値はある。

 そう思ってもらえない場合、話しても無駄。話すだけイライラするくらいなら、そんな機会を設けることにデメリットしかないだろう。
 もっとリスクの高い行為だってある。話してもらえたとして、本音で話しているフリをされてしまうことだ。相手は、こちらのことを、人間関係だと思っておらず、下手したら生命現象だとも思っておらず、ただの物理現象だと思っていて、仕方なく何か得になることを探している可能性だってある。

 信頼とは、過ごした時間の長さと双方の本音度合いを変数とした関数である。長い時間を過ごしていても信頼が得れていないことはあるし、本音は片一方だけでは無意味だ。
 よく生じてしまうのは金銭による信頼の勘違いだ。たいていの社員はカネが貰えるからこそ、拘束時間が長くとも我慢するし、本音を言っているフリもする。別にその会社が好きなわけじゃないのだ。それを信頼だと勘違いしてしまうand/or勘違いしたくなる経営者は多いだろう(だからこそ経営者は孤独であり、占いや宗教や女遊びやコンサルにハマりがちになる)。重要なのは、金銭や権威が発生していない状況でも自分にどれくらいついてきてくれるか?なのだが、ほとんどの人間は自分が見たいものしか見ようとしないので、認識できない。
 で、気が付いた頃には、カネや権威が実力と乖離し過ぎており、深海でペシャンコになる等の大変な事態へと発展してしまう。

 社会に出て、ある程度の権威や言葉を得てしまうと、誰もバカヤローとは言ってくれない。自分がどんなにバカヤローでも、そう指摘してくれる人は、極めて少なくなる。
 だから、魂に触れるコミュニケーションをしようとして、バカヤローと言ってきたヤツは異常者だとレッテルを貼りたくなる。貼ろうかどうかと迷っていると、カネと安定のために群がってきただけの信頼関係が本来は皆無なのにも拘わらず「俺は彼を信頼している」と思ってしまっているクズが、「あんなやつ、社会常識ないからヤバいですよ。縁を切りましょう」と嘯いてくる。そして、孤独が加速するのだ。

 だから、話しても無駄だという"場"は加速する。どんどんクズしか周りにいなくなる。指数関数的に、ね。
 一言だけ生の言葉を聴いてほしい。「ごめん」って。「誤解だよ」って。そうしたら!って思ってしまうのは、信頼関係を測り間違えていた証拠。

 …だから、、話しても無駄。確かにそれはそうかもしれない。
 けど、俺の考え方を、ここでそうやって盗むのは勝手だぜ?許してやるよ。
 さぁ、そして、どう飛ぶのか。面白いもんを見せてみろよ。
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