たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

チャレンジに参加するということ

2015-09-30 01:12:07 | Weblog
 例えば月に行くことに価値観があるとして、地球から月まで38万kmという情報を得た瞬間に、ロケットで行けば良いじゃん、と短絡的な思考で実際に歩くことを停止することは、まったくの無駄である。
 しかしながら、こういう思考をしている人は、世の中大勢いる。

 「地球から月までは38万kmあるということで、これはまぁ、ロケットで行けばいいわけですね。それで、、」
 『いや、ちょっと待ってください。で、実際に、どうやってロケットで行くんですか?』
 「それは、私はロケットの専門じゃぁないんで」
 『いや、でも、あなたの目的からすると、その部分を知らないと、、怖くないですか?だって、命を懸けて月まで行くわけですよね?』
 「まぁそうなんですけど、でも、38万kmと数字でわかっているわけですから、正直なところ、実際に月に行ってみなくても、すでに、だいぶわかっている、とも言えるわけです」
 『いやでも、月に実際に行ってみて、それから何が大切か?と、次の価値観に向かって考究しなくちゃいけないですよね?』
 「いえ、月に行く、という程度のことに拘ってはいけないと思います」

 「君は、あまりにも視野が狭い。もう少し、広い世界を意識しながら進捗させないと」
 『いやいや、だって、ロケットについて、あまりにも考えていないじゃないですか。地球は自転しているし、月は公転しているんですよ?単に、38万km距離がある、ということだけで、すべてが理解できているとは言えないと思いますけど?』
 「それは、そういう細かいことを追及している人間がやれば良い話で、私の仕事ではありません。とにかく、こういうことに価値がある、月に行くぞ、という風に説明しておく必要があるんだよ。予算をとってくるために。君は若いからわからないかもしれないけど」
 『えーーー?!( ゜Д゜)』

 ○○の分野の人たちの考え方を理解しないとダメだよ、そこで与えられた役割をとにかく大切にしなさい、という有り難い忠告を、これまでの人生で数多く訊いてきたが、それは即ち、搾取している愚かな人たちが無能で怠惰なことを許しなさい、と勝手に翻訳してるけど、おーけー?笑

 いつまでも「その時」を待つばかりで、いつまでも微動だにしないようなスタイルを、自分は賢いゆえにとってしまう、と思い込んでいる驕りは、必ず身を滅ぼす。
 確実な方法があるから、あとはその方法をやれば良い、でも実情めんどくさいことは幾つかあるから、「その時」がやって来るまで、それはしない!、と決め付けて何もしないでいることは往々にしてありうる。
 だから、計算をちゃんと追ってもいないのに定性的な考え方さえ覚えていれば良いと思ったり、実験手法の実際を知りもしないでその系を理解したと思い込んだりする。だから、自分が率先して損してみることもしないうちから、チームワークでコラボレーションすることがものづくりでは大切だと、声を大きくして言えるのである。

 話を覚えているだけで、そこにあぐらをかいて、何もしていないくせに、わかったふりして、実際には何もしようとしない、というのは、最も滑稽なのである。

 いいか。月に行くためにロケットに乗るためには、まず、地球の上を歩いていなくてはいけない!どこかに閉じこもりっぱなしでは、月どころかロケットに伝手がある人にすら出会えないだろう。ロケットに乗る場所まで、、いや、少なくとも、発射台に行くまでの交通機関に向かって、自宅から歩き出していなくてはいけないのだ!!
 間違ってもいい。都内から京都まで何回も歩いてしまう愚行を繰り返してもいい。その間違いを恐れるあまりに、一歩も歩き出そうとしないよりは、マシなのだ。そして、なるべくただのループから抜け出し、目標達成に貢献しうるあらゆる世界のトップに会おうとすること。同時に、ロケットの最低限の原理と、その下地となる論理をきちんと理解すること。それを多角的に意識し続け、多角的に行動し続けることが、大切なのだと思う。

 もし、ロケットに乗って、正確に月に向かって第二宇宙速度に達するまでの努力をすれば、あとはただロケットに乗っていれば、(宇宙は無重力だから)とりあえず月には着くだろう。
 成功に努力はほとんど必要ないが、この部分の努力は決して怠ってはいけないのだ。そして、大前提として、多角的に歩き出していることで、このチャレンジに「参加」していなくてはいけない。

 だからね、、貴女のあらゆる興味に向かって、ほんのちょっとでもいい、間違ってもいい、不承不承でいい、とにかく一歩、踏み出し続けてみて欲しいと、烏滸がましく自分勝手に、俺は思っている。
 失敗しても、絶対に無駄にならないし、それでも無駄になりそうなことは、俺が全部、責任をもって、フォローしてやる。
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スタートラインに立つということ

2015-09-29 00:27:39 | Weblog
 例えば月に行くことに価値観があるとして、月までの距離が38万kmという情報を得た瞬間に、地球上を必死で38万km歩きだすような努力をすることは、まったくの無駄である。
 しかしながら、こういう行為をしている人は、世の中大勢いる。

 「地球から月までは38万kmもあります。ですので、まずは、都内から京都まで歩いてみることが大切です」
 『えーっと、すいません、月まで行きたいんですよね?』
 「そうですよ?」
 『それだったら、まずとにかくNASAとかJAXAとか行って、ロケット乗らせてちょうだい!、って、ダメ元でお願いしてみたらいいじゃないですか?』
 「いえいえ、あくまでも"歩行者として"、我々は、まずは都内から京都まで歩きたいと思ったわけでして。っで、都内から京都まで、片道370kmを100回繰り返しました。アメリカの、あの皆さんご存知の有名なグループでは、サンフランシスコからロサンゼルスまで620kmを50回繰り返したという報告がpublishされてましたが、我々のほうが距離は上回っているわけです」
 『あのさぁ、だからさぁ、月まで行きたいんですよね?』
 「そうですよ。月まで行くためには、日本中くらいはきちんと歩けないと話になりませんからね。ねぇみなさん?」

 「君は"歩行者"の考え方や役割をまったく理解していないようだね?」
 『いやいや、だから、月に行きたいんですよね?方針として、納得ができないだけです』
 「それはまだ君が若いからだよ。それに方針は私たちのような経験がきちんとある人が決めます」
 『えーーー?!( ゜Д゜)』

 ○○の分野の人たちの考え方を理解しないとダメだよ、経験者の言うことをとにかく訊きなさい、という有り難い忠告を、これまでの人生で数多く訊いてきたが、それは即ち、妄信的に搾取されている愚かな人たちを憐れみなさい、と勝手に翻訳してるけど、おーけー?笑

 まず、自分がやりたいことを模索したり、与えられるんでもどこを目指すかを決めるときに、"そもそも月を目指すべきかどうか"という議論を自分の中で繰り返しただろうか?というチェックを怠ってはいけない。とにかく自分は偶然この場所にいたから、これをやる、というような、周囲に反応だけして生きているようでは、自己実現することは難しくなってしまう。
 そのうえで、どう進捗していくか、を具体的にプランのなかでは絶対に達成できるようにしなくちゃいけないよね?

 俺が、月に行くためにはロケットに乗るようにお願いすべきだ!、と圧倒的な事実を目の前に突き付けると、権威主義者のお年寄りの方は、頼んでもないのに、俺に対してどうにか自分が教育的になれる部分をとことん探して、無理矢理に教育的に対応してきたり、酷いと机を叩いたりしてくる。
 こういう機会がものすごく多いわけではないが、こうなってしまうと、まぁ時間の無駄なので、関わらないようにするのが一番だと思っている。

 若者と年寄りの中間の人間は、常に次のように言う。
 「家庭を守るために、月に絶対行けないことはわかっていても、とにかく道を歩いて、業績を稼ぐ必要がある」
 俺は、その言葉も見逃さない。子供を大義名分にして自分が無駄なことをし続けることを正当化することを子供はおそらく望んでいないと思う。それよりもがむしゃらに自分の人生を生きろ。そして、(これが唯一にして最も大事なのだが)自分の子供に自分の未来を託すなよ。
 自己実現しながら家庭も常により良くすることは、原理的に共存するはずである。

 "もう20年以上、30年以上、40年以上、50年以上、ただただ月を目指して地球上を何十万kmも歩いてしまった人は、どうしたらいいの?"
 俺は、そういう人にこそ、人生はいつからでもやり直せる、と言いたい。

 "でも、どんなことでも、無駄なことなんてない!そこで歩いて見える景色に価値があるはずだ!"
 いや、生きざまとして価値があるのは、多くの行き先からある一つを選び、そこに対して誤魔化さずに必死で立ち向かい、到着したのちに、やはり意味がなかった!、っと滅私することを繰り返す、いわば本当の意味で「悩み続けること」であって、ただ歩いただけの人生に誰が感動するというのだ。

 そして、多くの人が人生の虚しさから目を逸らし、ただただ皆が価値を認めてくれるからって、くだらないことを繰り返すことに"努力"と名前をつけることで安心している一方で、本気の本気で悩み抜いて、選び抜いて、目標に対して貪欲に目指していたなら、答えが出なかったとしても、そこに広がる景色は素晴らしいものなのだ。

 そんな景色を一緒に見に行きたい。
 俺が、貴女に、冷酷に事実を突き付けることの意味は、そこにある。単なるスタートラインに立つ行為。だから、別に、傷つかなくてもいいんだよ。


中野信子(脳科学者) 成功に努力は不要です (参考は2:07~)
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更新お休みのお知らせ

2015-09-11 01:35:56 | Weblog
 ちょっと精神的な事情で、少なくとも今月中の更新をお休みします。
 まぁ閉鎖するつもりはないので、また、しばらくしたら、ちょくちょく見ていただけると嬉しいです。

 では。
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10周年の前に

2015-09-07 03:04:49 | Weblog
 ちょうどあと一か月で、このブログが開設されて10周年になります。
 このブログは10年前にある友達によってブログの存在を紹介してもらい、開設してもらい、俺が書くことになりました。それから10年。早いようで、長いようで、早いような。

 その彼が何故俺の前から姿を消し続けているか、いなくなった当時はわからないことも多かったけれど、今は少しだけわかる気がします。あれから、もう慣れっこなもんで、あらゆる人が俺の前から消え去りますが(笑)、だいたいの理由は同じだからです。

 それは、俺って、根源的な意思が弱く、何がしたいのか?、という部分が、突き詰めていったときに、殆ど存在しないからです。

 俺は意見をたくさん持っている、伝えたいことがたくさんある、やりたいことがたくさんある、と思っている人は、ものすごく俺のことを勘違いしていて、むしろ逆です。たいていの場合、突き詰めていくと、俺のやりたいこと、って、ありません。本当に最近、「生命とは何か?」に答えてやりたい、くらいなもんで、それだって、周囲にいる人に比べたら、全然気持ちがないな、っと自分に対して思います。
 だから深い関係になればなるほど、結局俺がどうしたいのかがわからなくて、のわりに価値観を蚊帳の外から厳しく評価だけはしてくるから、嫌われることが多いのだと思います。

 俺は、本当の意味で自分がない、ということが、けっこう悩みだったりします。

 ただ一緒に楽しくものづくりをし続けていきたい、というシンプルな願いが叶えられたことがありません。それは俺には、好き嫌いはあっても、価値観がなく、行為そのものが目的化しているからなのでしょう。みんな他のことに忙しいのね、ってのが本当のところで、、彼も、一緒に頑張ってきたことが達成されたからこそ、いなくなってしまったのでしょう。

 前にも言いましたが、このブログで文章を書くとき、殆どの場合は、たった一人の個人に向けて書いています。その一人は記事によってまちまちですが、、
 10年の間に何度も本気でやめようと思いながら、結局のところ踏みとどまってきているのは、彼が最初にここを作ってくれたから、というのも大きかった気もします。

 やたらめったら感謝するのは好きじゃないので今日は読者には感謝しませんが、この彼には今も心から感謝をしている。
 有り難う。またいつか、どこかで会えたら。
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Memento mori

2015-09-03 01:01:15 | Weblog
 たぶんヒトは本来、無理矢理に幸せになろうとして真実を観ないようにすることよりも、自分がどう感じるかの予想を無視して、単純な真実を知りたくなってしまう生き物だと思う。
 それを知ってしまうことで、ものすごく不幸になるのだとしても、すごく辛い思いをして吐きそうになるのだとしても、とにかく、事実を知りたい、何故なのかを知りたい!という感情のほうが勝つはずなのだ。

 特に、圧倒的な不幸を目の前に突き付けられれば突き付けられるほど、いつかは自分も絶対に死んでしまう、という絶対的な不幸を意識する。そうすると、すべての不幸が日常の些細な出来事に変わっていき、一気に、真実なんてどうでもいいや、だから見てやる!と思えるのだが、同時に、死んでしまう、という虚無感に押しつぶされそうになるのである。
 だとしたら、その事実から目を離さないで、しっかりと明らかに観ることが必要になってくる。

 俺は、あらゆる景色を見てみたい、という意識が特に強い。どれだけ多くの景色をどのような状態で観れてきたか?ということにその人のレゾンデートルがあると思う。
 だから、やっぱり、多くの他人にとって「わざわざ言わなくてもいいこと」「事実だけれども言ってはいけないこと」を率先して言ってみたくなるし、それはその当人が、俺にとって価値があったり、みんなにとってビッグネームであればあるほど、この人がどういう風な感じになるのかの景色を事実として観てみたいのである。

 「よくそれを言えちゃうよね?」って言われるけど、俺の答えは決まっている。
 『まぁ、人生一回だし。別に殺されるわけじゃないし』

 そして、「これは知ってる?」と知識自慢することしかできないGoogleの部分集合としての能力が唯一のレゾンデートルだと自らを評している惨めな権威者が、『そんなん言うなら、お前はこれ知ってるの?』と言う俺に対して、怒りを露わにしながら「失礼だ!」などと言い放つことで、権威によって俺を押しつぶそうとしてきたりすると、怒りや失笑を通り越して、哀れに思ってしまう。
 俺の思考力と発言力程度で、そんな愚かな態度になってしまうとすると、世間のリアルな冷たい風にはとうてい太刀打ちできないだろうな、そんなことも知らずに、そんな程度の景色すらちらりとも観ようとせずに、ただただ死んでいくのだな、っと思うからである。

 そう、俺は、完全に諦めきっているのである。それは、死という絶対的に逃れられない圧倒的な不幸に対して、明らかに観ることで、その語源通りに、諦めているのである。
 この心意気で日々を臨んでいれば、信頼関係を結べる率が圧倒的に高まる。人が死別するときに涙する多くの理由は、結局のところ、最終的に、お互いにわかりあえていたのかいなかったのか、真相としてわからないからだ。俺は、涙するとしても、そのような理由では泣かない自信がある。

 さぁ、そろそろ、真実を観なくちゃいけないとき。
 真実やホンモノを観つめるとき特有の切なさを感じながら、それを確かめることができることそのものに有難さを感じている。
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