たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

諦めてもイイ

2013-06-28 01:33:20 | Weblog
 すべてのことについて向上を諦めない。
 それが一番の理想ではあるけど、俺も、いくつものことを諦めてきているし、むしろ、諦めるべきことを早めに見抜いて、それ以外のことについては全力で行う、って考えたほうがイイと思う。

 例えば、俺は、スポーツに関しては完全に諦めている。できないことについて(悔しいという気持ちは生まれるけど)、ここは勝負すべきところじゃないから、っという視点で逃げれてしまう。
 スポーツに関しては、とにかく楽しめばそれでイイと思っているし、具体的に誰かに勝てなきゃいけないとか、こういうプレーを心掛けている、というようなこだわりが無い。

 自然科学の範囲だって、もちろん、諦めていることはある。その代表的なモノは、自分の計算(数学力)に絶対的な自信を持つことができない、ってことだ。
 俺は、計算を追うことができるし、途中省かれている物理の式を(かなり省かれていても)、自らの計算と思考力で埋めるだけの思考力はある。結果(正解)がある程度わかっているものについてはそうだけど、どうなるかもわからない計算について、意味のあるもの、自然現象に宿っているものを厳密に、しかもコスパー良く、引っ張ってくるほどの数学力、もっと言えば思考力は、(生涯)俺には無い。

 もし、ここについて絶対的な自信があれば、俺は(原子核や素粒子の)理論研にいたかもしれない。誰かと系を共有する道具として実験は大好きだけど、俺一人の感情として好きか?と言われたら、俺は間違いなく実験は好きじゃない。実験なんて、所詮、大道芸でしかないわけだから(純粋に図の美しさを求めるなら、俺は、音楽や映画など、他のエンターテイメントのがイイ。)、そんなものよりも、世界の構造はどうなっているのか?を考え続けるほーが楽しいに決まってる。
 注意しておくが、たいていの理論研の院生やPDや助教は、俺とまったく同様に、これほどの思考力は無いと思っている(笑)。PIは(大抵の場合では)別だけど。。理論研には、かなりフリーな状態で、自分の計算を完全に信用できるくらいの数学力を基盤とする思考力を俺は求めているし、そうじゃないなら、俺らのように手を動かしながら考えてよ、って思っています。

 だからといって、俺は実験操作が得意な訳でもなくって、これは諦めては無いけど、新しい実験系を自分の手で1から動かすことはいまだに超苦手だから、このまま長く続けば諦めちゃうかも。
 それでも、実験研究のなかで俺ができることは沢山ある。逆に自信がある部分としては、俺ほど、理詰めから実験系へ、実験系から理論へ、と落とし込める人はいないと思っているし、それらすべてを飲み込みながら、新しいモノを想像(創造ではなく想像)することができることについては、自分の一番の得意な部分だ。

 これだけにとどまらず、俺は色々なことを諦めているけど、それは、誰かによって補うことができる。
 自分は得意な部分を担当させてもらえれば良いし、苦手なことがあっても、信頼関係がきちんとある周囲の人と協力しあえばイイだけの話だ。

 そう、何か苦手でも、周りにその苦手なことが得意な人がいる、ってだけで、自信を持ってイイと思う。だから、何かの分野を完全に諦めてもイイ。
 自分が系を掌握しようと心から想って進捗させられるならね。
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本当の意味での問題解決策

2013-06-26 02:09:43 | Weblog
 人間関係のなかで問題が生じた時に、その根源にある敵は、物理現象に潜んでいる、ってこのページでも繰り返して唱えてきた。だから、誰かを憎むのではなく、きちんとした解決策を、お互いにとっていけるような気持ちの持っていき方をしなきゃいけないってね。

 でも、なんか、それを薄っぺらく使っているケースが目についてきたので、今回始めてそれを問題にしてみようと思う。

 どういうことかというと、具体的で実質的な解決策を提案することで、お互いがisolateしたまんま、その歪みを解消しようとする人があまりにも多すぎる、っということだ。
 よーするに、気持ちや心のことをまったく考慮せずに、賢い対応策を考えて、それで無かったことにしようとすることが、クールでカッコイイ、みたいな潮流があるってことだ。

 それでは、本当の意味での問題解決になっていない。
 問題が生じるのは、表面的な物理現象ではなく、心に落とし込んだ時に必ず見えてくるもので、その上で物理的考察を加えなければいけない。そして、解決策は、一度何かの作業をすれば解決されるものではなく、お互いに心から必要だと感じて、何かの習慣を変え合うっということが唯一本質的なのだ。

 例えば、何か不条理に高圧的に言われたことで問題が生じたとして、権威を守りたいためだと見抜いたとして、じゃぁ、なぜ、権威を守りたいのか?っときちんと考えてみたことはあるのか?
 そいつが自分の実力に自信を持てないとか、どうして自信を持てないのかといえば、成功経験から褒められたことが少ないのだとすれば、解決策は簡単に見えてくる。

 それを、どうしたら、高圧的に言われないか?、ってことで、避けていくようにすればイイ、なんて解決策を賢さだと思っているなら、本当に、賢さの使い方がダメだなっと思う。

 どう離れていくか?、ではなく、どう向き合っていくか?。だから、きちんと現実を受け止めなきゃいけないし、その上で、どのようにして理想を高めていくか?、だと思う。
 そう、、現実をみる=期待を持たないor諦める、じゃないんですよ。この等号が成り立つために必要な条件は「他人任せで自らは何もしようとしない」ってことで、こうじゃない限りは、現実をみる≠諦める、だと思うから俺はそうじゃないし、俺の周囲だって、本当はみんな、そうじゃないと想っている。

 確かに、波風立たせずにisolateしていれば、利口かもしれない。だけど、『気持ちにとって一番良くないことは孤独だと思うから』、それは決して、聡明にはならない。

 ちゃんと期待を持って、心と心で歩み寄って、その上で、具体的に問題解決することは、不可能でもなければ、遥か彼方の夢でもない。
 現実をちゃんと観察していれば、明らかにきちんと実現しうることだ。

 物理学はまだまだ未完成の学問。天才的な賢さなら、具体的な解決策だけで、本当の意味で根本的に解決させていけると思ったら、大間違い。そんなんよりも、ちゃんと感情を共有しあっていこうと想えたなら、心は通っていって、本当の意味で問題は解決されるのだと思う。
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楽しもうとしよう

2013-06-25 02:26:01 | Weblog
 ガツガツした向上心よりも、もっともっと必要なモノは、純粋に楽しもうとするということだと思う。
 最近、こういう当たり前のことを忘れがちだった気がするけど、一番大事なのは、楽しむことそのものだ。研究していても結果を求めてばかりじゃダメで、きちんと自然科学そのものを楽しもうとする気持ちが大事だし、音楽だってそうだよね。スポーツも。

 楽しい、って感情がきちんとあれば、それは向上することに自然に繋がるわけで、こういうことがわからない人は、ちょっと可哀相にすら想える。
 権威が欲しいだけなら、自然科学なんてコスパーの悪いこと、やめちゃったら?、ってね。

 こういうこと言うと、すぐに、競争の世界は甘くないから、楽しむのは2の次だ、っとかいうヤツがいる。やめないことが大事で、楽しめていれば、いつまでもやめないから、必ずいつかは勝っていける。逆に楽しめてないのなら、本当の実力がつく可能性はいつまでもゼロのままだ。
 ピッチにいるときのネイマールやロナウジーニョの顔を見てみろよ。笑

 っていうか、みんな、権威ばっかり考えている。あの先生は偉いから逆らっちゃいけないとか、あいつは後輩のくせにいけ好かないから厳しくオフェンスしようとか、中学生かよ。自分のほうが偉いんだぞ!って、明らかに弱い連中に吠えているくらいなら、ちょっとでも上に存在しているライバルを超えようと努力しているほーがマシ。

 そんなことよりも、まず、純粋に自然現象が好きだということ、美しい論理構成が好きだということが前提にあって然るべきで、こういうことを礎にして、物理が好き、生物が好き、化学が好き、って一つひとつ、みんながみんな、自然科学が好きになっていけたらイイのにね。

 俺はこれでも理論研出身だからね、まだまだ「理」想を語るよ。っで、こういう価値観の共有が、誰かを理解したい、って想いに起因していたら、もっともっとイイと思う。
 俺は本来、自然現象なんて、そんなに興味無い人間だったし、かなり他人依存で、その過程によって、自然科学の色んな分野を歩いてきている。他人の価値観に合わせて、っで、その価値観を貰って、次の場所へ、の繰り返しだ。

 みんなの価値観、相手の楽しいと感じるモノを理解しようとする力は、本当に大事。
 そうすれば、自然と多様性を持ちながら、色々な実力をつけていけるし、しかもみんなで楽しむことができる。

 こっちのが、自分だけが成り上がろうとするよりも、本当の実力がつくし、楽しいし、で良いんじゃないかと想う。
 この価値観を自分の(広い)周囲には持っていって欲しいし、必ず、そうなると信じている。

 これだけの理想でも、理想はいつだって現実になる可能性を秘めている。
 だって事実、少なくとも研究については、2年前くらいの理想が今達成されているし、あの時の想像以上に良い状態になっている。

 遥かにくだらないことを日々ディスカッションしていたことを超えて、きちんと意味のあるなって感じられる内容を毎日喋ることができているし、問題解決のスピードが速いし、俺自身が、先輩、後輩、先生を問わず、何人か人を集めて、ひとつの物事を語り合うことも、いつのまにか自然にできている。
 物理も、化学も、生物も、それぞれの力を使って、意味のある研究をしていると思えているし、信頼関係のなかで成り立っている楽しさを感じ取ることができる。

 たった2年で、これはものすごい進捗だ。でも、一度当たり前になってしまうと、もっともっとと理想を求めていっている自分が、また楽しくて、どんどんより良く変わっていけたらいいと思う。ヒトだけは保存されてね。

 俺は変わっていっている。だけど、その前の環境においてきた問題点を、すっかり忘れてしまっているわけではないし、まだ過去に戻って、どうにかしなきゃいけないとも想っている。
 それは、自らがこの立場にいれるのは、明らかに、前の集団を見捨てたことに起因しているからだ。

 具体的な指針は一切想いついていないけど、その、何の役にも立たないくだらないプライドを上手く破り、本当の意味で、みんなで、全員で楽しめるようになることを、今まだ信じている。

 そうなるためにも、いま目の前にある大切な信頼関係を大事にしたいし、知識と技能を共有することで、1+1を2以上のモノに仕立てていきたい。
 そういう意味では、楽しもうとする気持ちよりも、やっぱり、自分が少し損をしても相手を大切に想う優しい気持ちのほうが、大事なのかもしれない。

 ターニングポイントはいつだって日常のなかにある。一語一語、一言一言を慎重に選び、繋がりを大事にできるようにしなきゃ、だよね。楽しみながら。
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期待に応えるために必要なこと

2013-06-24 04:11:18 | Weblog
 期待には常に応え続けていきたい。
 俺がいると何かが変わる、って常に思わせていきたいし、俺が変えてきたと自信を持って言えるくらい、系をより良く変えていかなきゃいけない。じゃなきゃ、この先、どんなところに行ったとしても、何もカワレナイからだ。

 そのためには、気持ちを高めなきゃいけないし、同時に、思考力も上げていかなきゃいけない。
 くだらない論理で押さえつけてこようとしてきたときに撥ね退ける力、引っ込みがつきにくい状況下でも相手の正当な論理を正しく評価し受け入れる力、自らの論理を完全に拒否している相手に理解させる力、逆にすべてを受け入れてしまいがちな相手に疑問を持たせる力。すべてが気持ちと思考力の両方が必要で、そういうことをしていくためには、その両方を持っているメンツを周囲におくしかない。

 そして、俺の周囲は、こういうことができる人が多いし、そういうスタイルの人としか組まない。お互いに高め合っていきたいし、敵を自然現象におきながら、楽しく評価を得ていきたい。

 確かに周囲に対して、足りない、って感じることだって多い。
 物理系以外の人に感じるのは、定量的に語ったり数式を詰めることが足りなすぎるって感じるし、理論系の人には、実際の系にどうやって落とし込むか?これまでの論理にどう接続していけるのか?を考え無さ過ぎるって感じるし、化学系以外の人には、分子構造の繊細さを考えながら議論をしなさ過ぎるっと感じる。

 ただね、これは、もう、ずっと言ってることだけど、能力なんて、どうだってイイ。
 状況をより良く変えようという気持ちと、思考力を各々についてきちんと適応していこうとすることが備わっているならそれでイイ。ここまでが俺が一緒に組む条件だけど、これよりも下の最低ラインは、もちろん、誰かへの優しい気持ちがきちんと存在し、少しずつでも発現していること。

 どこに期待を持ってくれているのかはわからないけど、とにかく、こういうことを繰り返して意識していけば、期待に応えることはできるし、即物的な結果も確実に後からついてくるものだと思っている。

 その時に結果がなくても、論理を二重に使って先読みすることで、先に自信をもっているならば、期待に応えているということなのだ。
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『俺は子どもじゃない!』

2013-06-22 04:26:40 | Weblog
 系をより良くしようとする原動力は、優しい気持ちに他ならない。
 この「優しさ」という気持ちの絶対量に一番の自信を持っているべきだと思っているが、これだけでは実が伴わない。

 だから、きちんとした能力をつけようとしなくちゃいけなくて、そのためには厳しい環境に身を置かなくちゃ。っと、そこまではみんな言ってる。

 ただ、だからといって、優しさを排除するだけしてみて、無駄に権威と長年の(偏見に近いただの)知識で、へーこらさせるような系が多いし、厳しい世界なのだから、とそれを肯定化するようなバカなディフェンスが目立つけど、他人を蹴落としたり、それを黙認したり、今の環境を何も変えようともしないで、より強い世界に行こう、とか、よりあたりが強い世界にしようとしたって、本末転倒になるだけに決まってるじゃないか。なぜなら、今、その場所で優しくできないのなら、どの環境に行ったって誰にも優しくできないし、系をより良くするなんて到底不可能。
 自分のディフェンスばかり考えていても、それはただの物理現象で、その系における、あなたの本当の意味での存在価値は薄れてしまうんだぜ?

 自分が、その系を、そのチームを、より良くして、強くして、そして、自分も強くなって、次の場所へ。
 こういう行為を繰り返していくことが大事だし、そうじゃないなら強くなる意味も優しくなる意味もない。つまり、時間に依存せずに優しくなくちゃいけないのだ。

 そうすれば、自分の能力に対しての自信がつく。
 自分の能力に対しての自信とは、学業や研究の世界として具体的に言うなら、「考えた時間の長さ」についての自信だ。具体的な思考力や賢さ、論理性の高さなどはnonobservableだけど、その行為をし続けた時間に対してならobservable。

 成功したり、賢くてスゴイ人を意識した時に、「あの人は初めから天才なんだ」とか「分野が違うから」とか「環境が違いすぎるから」とかをイイワケにしちゃ、ダメだよ。自分の考えた時間が少なすぎる、っと落とし込まなきゃね。
 考えた時間に自信を持つようにして、常に、ずっと考えているようにすれば、思考力はいくらでもつけることができるし、へーこらし続け、長年い続けただけで得られている自らの「知識の多さ」や「持っている言葉の多さ」なんて、くだらない物理量に自信を持たなくて済む。

 それは、期待を失わないこと、希望を持ち続けることに繋がる。

 諦めている人が俺に、「いつまで子どもなの?」とか「でも、結局、我慢できないじゃん。」とか言うたびに想うけど、俺が子どもなんじゃなくて、俺が、論理的にいって、ごく普通のことを言ってるだけ、って想う。都合よく、大人、って言葉を使ってんじゃねーよ、ってね。

 そんな風に言ってくる人の、その諦めている瞳の奥に諦めていない気持ちを感じると、どうにかして、系をより良く、、いや、(俺の定義でいうとこの)普通の状態に、絶対に変えたいんだ!、っと俺はまた頑張れる。

 ありえないくらい純粋な想いこそが、相手の本来の純粋な感情を引き出させ、その特異な誰かの瞳に輝きを取り戻すことに成功することができたなら、それにmodulateされるように、系は確実により良くなっていくのだと思う。
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履歴に依らず自分で空気を創れしっ

2013-06-19 01:34:28 | Weblog
 勝負が要求されている集団のなかでは、権威や年齢や空気には依らず、皆を先導できる(くらいの、思考力とAグループの力としての)能力のある人間が先導すべきだと思う。
 能力があるのにも拘らず、みんなを引っ張ろうとしないのは、むしろ自分勝手になってしまうから、俺は、この場は俺が前に出るべき、っと感じたら、容赦なく前に出るようにしてきている。

 そうすることによって、引っ込みがちの能力者も前に出てくるようになるし、こちらも、後参入に負けないように、少しでも良いプレイをしようと心がけるようになるしね。
 まぁ、ただ、先手をつかれているようじゃ、俺には絶対に勝てないんだけどさ(笑)。誰一人として前に出てない状態で、前に出てしまえる強さこそが、研究をしている者の得意なことなんだから。

 その場に価値が少しでもあるなら、自分が空気を創るっという姿勢が大事だし、価値が感じられないならば出ていく。
 こういうことがコスパーよく楽しむ秘訣であり、リーダー、エースの役目なのだと思う。

 ただし、履歴にひっぱられないことは難しいよね。今までこうだったからとか、ずっとこうしてきたしとか、こう習ってきたしとか、そういうくだらない履歴現象に如何にひっぱられず、一人の人間として、ただ単純に正しいモノを感情の中から判断していけるか?だと思う。
 よく、ヒステリシス(履歴現象)は生命の本質に繋がる、なんてことを言う人がいるけど、俺は逆だと思う。ヒステリシスは、磁性や振り子ですら起こる、単なる物理現象。それに逆らっていくことこそが「意志」の一つであり、生命現象の本質を垣間見ているのだと思う。

 結局のところ、少なくとも、理系の世界のなかでは、履歴に依存せずに、自由により良い選択肢を選ぶ形で、動いてこれたと思う。それに纏わる皆さま、ありがとう!
 でも(矛盾しているようだけど)、どういう履歴を経ようと、どのような経路を辿ろうと、俺は、今のココに辿りついたと思うし、辿りつくべくして辿りついているし、これからどこに行くのであっても、そうだと思う。

 だとしたら、これまでの経験に依らず、自らの意志で、系をより良く楽しく(ラクではない!)させるために、空気を創ることに寄与できていくとするなら、時間に依存しないモノこそがホンモノなのだから、何も恐れず、自然体でこのまま突き進めばイイのかもな、と思っている。
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誤差と運命

2013-06-17 02:54:45 | Weblog
 理論(理想)と実験(現実)を繋ぐためには、それらの誤差を考えることが必要不可欠だ。
 これは自然科学という限られた世界のことだけじゃなくって、日常生活、普通のシーンで沢山でてくること。自分が想定していた理想と、現実は統計的にどれほどの差があるのかを考えて定量化していくことが、次の動作(実験)をよりよくするうえで大切なことだと思う。

 大切な概念であるはずの「誤差」なのに、自分にとって都合の良いように使うヤツが多すぎる。
 たいていは、系統誤差とランダム誤差の違いをきちんと理解せず、ただ「誤差が生じた」っと言うことで、「だから、自分(の実験や行為)は悪くなかったでしょ?」ってやってるケースだ。研究の場合、こういうのは学生だけじゃなくプロでもこういう風にやってることがあったりする。
 普通、どんなに甘い空気であっても、明らかな系統誤差の原因がちゃんと特定されないままに、発表してはいけない。コントローラブルじゃない、ってことだからね。(真値に対して2σ以内であるσとしての)ランダム誤差が生じる理由はとても難しいし、なんやったら哲学的な論点にまで発展しそうだから議論を止めても良いと思うけど、その系で系統誤差が生じてしまう理由は、(そのためだけに新しい実験を組まなくても良いけど)考えれば見当くらいは付くはず。

 少なくとも、「何故、(系統)誤差が生じてしまったのだろう?」っと、本当の意味で考えようとして欲しい。っというのは、誤差についてうるさい俺みたいなヤツをディフェンスするために考えるのではなく、系を掌握するために必須なことなのだと感じ取りながら、心から考えなくてはいけない、と思って取り組む必要があると思う。

 俺は、このように誤差を取り扱う学問である「誤差論」については、(実用面において)マジで自信があるし、特に大学以降に習った内容のなかで、理系のなかで誰にも負けないほど精密に取り扱えるだけの気持ちを持っている。
 ただ、俺は、誤差が好きなわけではないし、むしろ大嫌いだ。自分や教科書が思い描く理想郷とズレてしまうということに対して、思考力を働かせて定量化していくという作業を、俺が好きなわけが無い。あくまで、理想実現のための次の作業として、必要だから仕方なくやってるだけのことだ。

 「誤差」と似たような言葉で、同じように誤魔化しに使えてしまう言葉として、「運命」がある。
 よく特に努力もしないで、意志を持とうともせずに、「そういう運命じゃなかった」「こうなる運命だった」っと、自らにイイワケをする言葉が目立つけど、「運命」はそういうもんじゃない。
 自分がしたいこととか理想が頭の中にある状態で、自分がすべきことを一生懸命して、今できることを必死にやったあとで、履歴を観察してみた時に、「こうなる運命だったんだな」ってわかるのだ。怠惰で、めんどくさがりで、向こうからやってくるのをただ待って、世間が素晴らしいと称賛するようなモノを、手を伸ばそうともせずに選んでいただけの結果を、「運命」とは言わねーんだよ。

 俺に誤差が大事だと教えてくれたおじいちゃんが言ってたけど、もっと、測定をしながら誤差を見積もり状況を確認していくくらいの、臨場感あふれる実験を遂行していきたい。
 今の時代、関数電卓も簡便で、そういうことが簡単にできるんだから、実験ノートに平均との残差を、求まった先から常に書きとめていく実験を遂行されたし、っと言っていた。っま、そんなめんどーなこと、自然科学の実験では絶対にやらないけど(笑)、でも、タイムスパンが長い人生の中ではやるべきだよね。

 自分の理想はこうで、その理想が実験をするたびに変わっていくんだとしても、今の理想からの残差を求め、系統誤差の原因は何かを探り、理想にフィッティングしていけるように、思考錯誤する。
 こういうことを繰り返していくことで、生命現象という名の「意志」が、物理現象という名の「運命」を露わにし、「意志」で「運命」にすら勝っていけるのだと思う。

 敵は物理現象。こう豪語しなきゃいけないシーンが多くなってきているけど、これは例えや比喩ではなく、単純な事実だ。
 っそ、俺は、理科のなかで物理学が一番得意だけど、大きく言ってしまえば、物理現象は好きじゃない。最初から決まっちゃってる決定論も、コントロール不能な確率論も。

 気持ちで物理現象を打破できることこそがホンモノであり、確実に存在しているその現象について、きちんと着目していくことが、理学の最終目標である、ミクロからマクロまでのすべての理屈とそれらを論理的に繋げる理論を構築する上で、一番必要なことなのだと思う。
 まぁ、だからこそ、物理現象を知る必要があるし、それに纏わる誤差の解析をきちんとしなきゃいけないのだけどね。

 趣味として好きなことだけを朝から晩まで繰り返す日々のなかで、少しずつ責任がでてきていて、それが加速し、いつか楽しさを見出せなくなっていったとしても、「何らかの系統誤差が生じている」で議論を止めることをしてはいけないし、ましてや、怠惰のイイワケに「運命」と誤魔化すことをしてはいけない、と俺自身に対して思っている。
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好きな人には気持ちのままに

2013-06-13 00:32:52 | Weblog
 嫌いな人と仲良くなることができれば、自分の幅も広がるし、まったく異なる価値観を手に入れられる可能性も高い。
 その嫌いな相手だって初期段階で自分のことを嫌ってるわけだから、ちょっと助けてあげたり、相手のことを深く認めるようなそぶりをするだけで、相手は「勘違いしていたんだ!」っと勘違いしてくれて、信頼関係を掴みやすくなる。

 こういうことを繰り返していくと、表面上では本当に誰とでも仲良くなれるし、その中からホンモノすら期待するようになる。嫌いだった相手が、好きになってくれて、自分も好きになっていく。それこそ勝ちっしょ?!ってね。笑
 色んな人と仲良くなるために、価値観を認め合おう!って、道徳の教科書みたいな結論に行きつく。

 でもね、こういうのって、たいていは、能力における多様性が広がるだけで、どこかで本当の部分が隠せなくなってくる。距離を詰めれば詰めるほど、どんどん最初の想いが湧いてきて、やっぱり俺とは合わないなって思いながらも、得意な愛想笑いで即物的な満足ポイントを探す。
 だから、楽しそうに笑ったあとに、『だりーぃ、マジめんどくせー。っていうか、眠いわー。』ってなる。

 っそ、俺が普段よく言ってることだけど、『最初に思ったことほど本当のこと』なんだよ。

 今まで、最初から、この人とはきっと上手くやっていける、お互いに高め合っていける、信頼関係を結べるだろうな、って思う人とは、やっぱりそうなってるし、たぶんコイツとは合わないだろう、って最初に思ったヤツとは、本当の感情の次元にまで落とし込んだときに、この世の果てまで上手く行かない。
 っま、一概には言えないけど、こういう傾向は強い。

 信頼関係を特別結びたくもない人に対して振り撒く笑わない笑顔を造るのに、信頼している人、好きな人、今後ずっと付き合っていきたい人に対して、『実は、だりーし。めんどくせー。眠いし、だるい!あとそれから、眠いわー。』ってやっていたら、迷惑だし、ウザいよね。

 信頼関係を結ぶべき人をないがしろにしてまで、博愛主義にはなりたくないから、その部分のパラメータを少しずつ自分よがりに変えていったら、少しラクになってきました。
 ただ、人間いきなりは変われないから、まだまだまだまだ変化の途中だけど、こういうほうが、結局、自分もやる気を出せるし、系(全体)をより良くすることに貢献できると思う。

 確かに、嫌いなヤツにまで優しくできなきゃダメだとは、今でも思うのだ。
 でも、無理にそれをして、大切な人との大切なモノを失いたくは無いし、そういう風になってしまうと、結局続かない。

 だとしたら、嫌いな人やどーでもいい人には、より良くできることをするだけに留めて、それ以上、めんどくさいことに踏み込まなくても良い。好きな人には、その気持ちのままに、楽しくインタラクションしながら、感謝を忘れず、困っていたら出来る限り限界まで助けて、きちんと認め合っていけたら良い、って結論。
 …のが、道徳の教科書には載せられないけど、現実的でしょ?笑

 好きな人には、気持ちのままに。
 本当に好きなんだったら、自然と優しくなるはずなのだから。
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「絶対的な必然的論理性」を見い出せ

2013-06-11 01:07:23 | Weblog
 正しすぎる論理性は、時として、他人を傷つける。
 ヒトの内的なパラメータとして思考と感情で大きく分けるなら、感情でのやり切れなさを、思考によって埋め合わせようとする時に、力積が生じてしまうからだと思う。

 しかし、「絶対的な必然的論理性」と「気持ちを感じ取ること」とは、原理的に共存できるものだ。
 何かについて論理的に考えて、改善策が思いついたモノを心に落とし込んだ時に、まったくもって価値の無いモノだったとしても、それを考慮に入れた上でもう一度思考を使えば、大抵、頭と心からの要求は達成されると思う。

 感情に落とし込んだ時に、正しすぎる真実を突き付けずに、その場の安定性を考慮した優しさを振るうことは、相手の現在の感情はそれでいいのかもしれないけど、未来の感情を守ることにはなっているのだろうか?
 などと、もっと考えて、正しい今できることをフィットしていく。

 思考して、それを感情に落とし込んで、それらがまったくの異質であってビックリして、頭を使うって無意味なことなんだ、って決めつける前に、それをもう一度、賢さの中に持っていって、感情でチェックしてみてほしい。
 こういうことを繰り返していけることが慧眼さであると思うし、賢さを無価値なものだと思うときは、「絶対的な必然的論理性」まで追求できていない、中途半端な思考が殆どなのだ。

 この「絶対的な必然的論理性」について、意見の相違、という逃げ方はできない。
 心に落とし込んでいる限り、こういう凄まじい論理の塊を前にしたら、「あなたとは意見が違うんです」っと逃げることはできないのだ。意見や価値観の違いなどではなく、どんな人が考えても、こういうことをしたら一番価値がある、っと心に落とし込めるモノである限り不変だし、そういうことは存在しうる論理。

 逆に言えば、普通、心に落とし込んでいないなら、絶対に逃れられないほど完備性の高い論理を構築することはできない。
 確かに、天才は、これをも頭脳だけでやってのけるけど、ここまでの賢さを持った人は、今まで2人くらいしか会った事が無いし、俺の周りには一人もいない。だから、やっぱり、平凡な俺らは、心に落とし込みながら論理を築くしか、絶対的な必然的論理性を構築することはできないのだ。

 「えー、だからさー、会話に求めているのは、解決策じゃないんだよ。頭でわかっていても、でも、現実的にどうしようもないことってあるじゃん?そういうことをどう受け止めたらいいか?を共感したい、って言うか。。」

 俺は、あの時と同じ言葉を使って、

 『いやいや、それは、思考が中途半端なだけですって。もっともっと、納得できる解決策があるはずだし、それを聞いたら、きっと、、』

 考えることに価値を見い出せるはずだし、俺は、そういうことを常に考え続けるくらいの思考力の絶対量は、持ってるんですよん?笑
 っとハッタリをかましながら、日々を生活している。

 …なーんて思わせられていたなら余計、ただ自分だけ逃げている俺を、許してはくれないよね??
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「残る」発表と「残らない」発表

2013-06-10 01:58:40 | Weblog
 いつのまにか、今年度に入って2ヵ月が過ぎました。みなさまは、日々が、どう変化しましたでしょうか??
 俺が今年度だいぶ変化したことは、発表を聞く頻度。たぶん比率で行くと、昨年度の2倍は聞いてます。これは結構しんどくて、なるべく参加しないように努力する、実験を強引に入れてみたり、なんて意味のわからないフィードバックをかけているほど。

 俺が聞きうる発表は、物理、化学、生物、(ほんのちょっと)地学、と広く分布しているし、理学も工学もあるので、頭の中はワサワサしています。
 一番多いのは、理学目標の「生物に纏わる物理」みたいな発表が中心で、俺の興味もそこにありますが、物性物理、有機合成、ソフトマター工学、界面化学、生態学など、はっきり言っちゃえば、そこまで興味の無い内容も、付き合いで(とか言ったら怒られるかな笑)、聞いてることも多いので、あまりに無意味な発表をされるとイライラしてきちゃって。

 ここまで多くの発表を聞いてみて、思うことは、発表ってのは意外と深く、たった一回の発表でも、「残る」発表と「残らない」発表があるなって思います。人生はいつだってオーディション、気は抜けないですね。

 「残る」発表は、いつも言ってることですが、プレゼンター自身の心にきちんと落とし込もうとしている発表です。自分のなかでの落とし所がきちんとしている発表を聞けば、多少ストーリーが拙くても、支離滅裂でも、なんとか伝わるもんです。感情として、本研究は意味のあるモノ?、価値のあるモノなのか?!、っと本当の心に聞いて、そこから得られるフィードバックがしっかり反映されているものは、素晴らしい発表になっています。
 逆に、「残らない」発表は、誰の心にも落とし込めていません。言われたまま、無感情で仕事をしている研究発表ほど、クソつまんねー発表はありません。そういう研究は、ほとんどのケースで、お金と時間の無駄です。権威や分野を守るために、「こんなもんでいいだろ?」っとリスナーへの要求が強すぎる発表は、こちらも時間が無駄なので、あんまりに酷過ぎると、最近の俺は、発表の途中で出ていったりします(笑)。

 リスナーとしては、相手の発表の中にちゃんと入れることが大事になってきますよね。
 実験データや解析結果の表面だけをなぞって、自分が知っている範囲のみを指摘し、知識か1ステップの思考で、自らの権威の高さを主張するようなオフェンスをよく見かけますが(東大だからですかね?)、はっきり言って、生産性がありません。
 敵は自然現象であり、プレゼンターや他のリスナーではありません。オフェンスは、自然現象に対抗するために、より有益な改善策を与えることに即していなければなりません。
 だから、自らがまったく知らないことや、みんなが疑問に思っていそうなことを(予測して)、質問すべきです。前提とする知識は、高校理科と高校数学のみであって(つまり中等教育の理数)、大学以降に習うことは補足してもらっても全く構わないはずなので、迷わず知らないことを知らないという勇気を持てたら良いのにな、って、よく思います。っま、プレゼンターも、そういうことを考慮して、話をつくるべきなんだけどさ。

 なんとなく、このページにこうやって書いておくだけで、俺の周囲の系がより良く変わる予感がしているので、発表についてのハウトゥを書いておきました。なので、こっそりこのページをご覧になってくださっている皆さん、よくお勉強しておいてね。(本来はこういう主旨のブログです笑)、

 はぁぁ、これから、こういう回が多くなっていくのかな。。
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強さの秘訣

2013-06-09 01:31:16 | Weblog
 現状をより良い方向へ変える能力をフルに発揮させる。
 俺が絡んでいる限り、その時その場で俺がどの立場であっても、確実に良い方向へ系を動かさなきゃいけないし、事実、表面的にはそれが達成される場面は多い。

 前にも書いたけど、俺がここまで想ってオフェンスしたり、やっきになったりするのには、明確な理由がある。集団に対してあらゆる手段を使ってより良い方向へ導き、きちんとした信頼関係を結ばせて、活性化させ、その場のすべての人の現在と未来の気持ちを大切にさせあわせていこうなんてコスパーの悪いことを俺がする理由は、俺が着目している、信じられないくらいめちゃくちゃ優しい気持ちを持った、たった一人の人間の気持ちを守るためだ。

 俺は、気持ちだけを抽出する才能が異常に長けている。これは、もう、努力したらつく能力とかそういうことじゃなくて、最初っから存在している、天賦の才だと思う。
 どんなに口先で悪態をついても、どんなに演技で誤魔化しても、どんなに知らんぷりのフリをしていても、誰が一番純真で優しい感情を保ち続けているかを見抜くことができるし、そういう人が一人もいない系に、俺はい続けない。そして、信じた自分を信じ続けることができる。

 ある集団のなかから一番優しい人を選び、その気持ちを守ろうとし続けるということは、一番難しいことを要求され続けていくということと同値。
 なぜなら、物理現象として、集団の中では、一番優しい人が一番損をするからだ。

 集団が悪い方向へ向かうとき、一番優しい人から順に、心の発現を失っていく。優しい順で、心の発現が抑えられていき、終には、権威の強い勝手な人間すら傷つくような集団が形成される。
 それを引き戻していくためには、勝手な人間から、つまりはダメなヤツから順に助けなければならない。ダメになっていったのと逆順で戻さない限りは、本当の意味で系はより良くならない。

 だから、かなり難しくて、俺が一番守りたい気持ちは、いつだって守ることができないのだ。
 だから、満足できない。系が少しより良くなったとしても、この程度の変化じゃ普通じゃん、っと思うことしか達成できない。

 ただ、俺は、諦めが悪いんでね。

 能力や言葉は気持ちの後からついてくるものだ。俺には能力もなければ言葉もないし、どうすることもできないくらいカードが無いのが現状。
 でも、その現状を受け入れ、一番優しい人や信頼関係をきちんと結んでいる人達から、かなりのサポートを、実質的にも精神的にも、受けているからこそ、超ビビりな俺が、前に出ることができる。この人の、この人達の、現在と未来の気持ちを守りたい気持ちが強いから、大言を吐いて、正しすぎることを言いまくって、より良い方向へ力づくで動かすだけの力を湧いてこさせることができる。それが俺自身の強さの秘訣なのだと思う。

 今後どんなに評価されるようになっても、こういう恩を忘れてはいけないし、優しい気持ちとその気持ちを守りたい気持ち、それから信頼関係を大切にしていかなきゃいけない。

 逆に言えば、このことだけに注意していれば、自然と必要な意見は湧いてくるし、解決策も観えてくるものなのだ。
 絶対的な必然的論理性は、優しい気持ちを守りたい!っという優しい気持ちからしか、生まれないものなのだと思う。

 自らの能力をひけらかして、相手を追い詰めて排除させていくような能力の使い方をするなら、無能なのと変わらねーんだぜ?
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The Limit of Multi-BasicThings Expansion Methods

2013-06-07 00:40:47 | Weblog
 複雑なことを理解しようと思った時に、それらが、よく知っている基本の足し合わせによって成り立つはずだ、っと考えると、おおざっぱに理解できることが多い。

 この発想の最も基本的な具体例が、マクローリン展開だ。
 マクローリン展開は、サインでもコサインでも、指数関数でも対数関数でも、とにかく任意の(正しくは、C1級の)複雑な関数を、無限回足し合わせた多項式によって表せてしまう、っという凄まじい武器だと思う。

 多項式のように、「完全系」っと呼ばれている、それらの足し合わせ(線形結合)だけで、ぜーんぶの関数を書けてしまうっという関数の集合はいくつかある。
 サインやコサインも完全系で、サインやコサインの場合はフーリエ級数展開と言う。

 完全系のなかでも難しい部類だけど、特殊関数であるルジャンドル多項式も、それが成り立つよね。
 このルジャンドル多項式を上手く使えば、任意の電荷分布を、単極子(モノポール)、双極子(ダイポール)、四重極子(クアドラポール)、八重極子(オクタポール)、…、の足し合わせで表せる、電磁気学のすごいテクニックである「多重極展開」と呼ばれる手法を取ることだってできる。
 難しい、複雑なものを、良く知っているモノの足し合わせとして理解し、落とし込む。とっても大事な発想です。

 ただ、この「展開(Expansion)」によるストラテジーにも限界はあります。やっぱり関数の裾のほーではマクローリン展開の近似は悪くなるし、電荷分布の場合は近場で観れば観るほど悪い近似になる。

 人と人との複雑な関係性とか、気持ちの繊細さを問うような問題に対して、あまりに、ベースの足し合わせによって解決しようとすると、とてもじゃないけど悪い近似すぎて、なにもわからないことと同値だし、仮にベースの線形結合として展開できたとしても、おおざっぱにしか理解できない。

 ありのままをありのままで受け止めながら、複雑なことを複雑なまま納得し、感じとって、行動していくためには、気持ちをフルで使っていかなきゃいけないんだと思う。

 強がってる俺もホントの俺自身だし、わかってるフリしちゃう相手もその人自身。そのままで尊い。
 無理に何かの方程式に落とし込んで、近似して、納得しようとするよりも、対応策を練るよりも、ありのままを感じた通りに実行していきさえすれば、自然と楽しくなるはずだよね?

 確かに、ぐっと、じっくり考えなきゃいけない時間帯もある。
 でも、今、俺に足りないのは、理論への近似ではなく、絶対的な実験結果を、どのように新しく、そのままで感じとるか?、っというほうなのだと思う。
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一緒に系をより良くするために

2013-06-03 03:31:48 | Weblog
 ホンモノは輝かしい言葉を遠ざけてしまう。
 他者から要求される必要なことや即物的な指示ばかりを、物理現象としてこなしていれば、適切な年齢さえやってくれば(時間さえ経ってしまえば)、ほぼ確実に「言葉」は得られる。逆に、自分主体で動き、自分で必要なことを研究&遂行し、楽しさを忘れずに、集団や系をより良くしようとすればするほど、言葉は得られない。

 この日本では、へーこらしてりゃ、輝かしい言葉は得られ、優秀であると言われる。
 それをしないで実力主義になったり、優しくなればなるほど、変人になり、「うまくやりゃいいのに。。」って言われるバカになる。

 早い話、気持ちに対して「まっすぐ」だと損をするのだ。

 こういうことも、大学に行けばきっと違う、っと思っていた。それが幻想だとわかると、大学院にまで行けば、きっと、っと思ってきた。研究内容そのものも、研究室の雰囲気や優劣、学会発表、論文だって、みんな、誤魔化してばっかり。大義名分ばかり追いかけてて、うわべだけしか正しくない。体裁だけ整えれば、それでイイと思っている。
 今、海外に行けば違うかも?、っと思ってしまう気持ちは、きっと勘違いであることも、無駄に賢い自分の頭で、わかっている。

 俺に通用する唯一の攻撃は、絶対的な論理性か気持ちだけだ。
 どんなにうわべだけ無矛盾なストーリーを訊かせたり、表面上の秩序を守らせるために無理矢理に何かを押し付けても、逆に俺から、気持ちをこめた絶対的な論理性で返されてしまう。
 高橋慧に、薄っぺらい誤魔化しを言うこと自体、コスパーが悪いこと。俺の周囲のみんなは、だから誤魔化せばいいじゃん、っと言う言葉すら無意味なことをよく知ってしまっている。

 俺自身も、正解を知ってしまっている。

 ホンモノは、気持ちを失わさせない行為であり、より良い論理を持ってして、気持ちを進化させること、、いわば「得ている」。
 その反応に必要な材料が、言葉を早く得ることを失うことなのだ。原理的に仕方のないことだと思うし、気持ちを失って言葉を得て、苦しむよりも、はるかにマシだと思っている。

 それに、ちゃんと実力主義を貫いて系をより良くしていれば、たまに、神様からスゴイご褒美が貰えるしね。

 なかには、天才的な人もいて、希望と情熱を失わずに、きちんとした論理性で、他人よりも早く言葉を得ているスゴイ人もいる。
 でも、その人はその人で、大変だと思う。例えば、俺には、まだ言葉を得ていないじゃん、とか、アイツはルール無用だから、って負け惜しみの捨て台詞を言うことができるけど、そういう人には、それすら言えない。最初から心でムカつかれるだろうし、だけど、へーこらされるから、信頼関係は結びにくい。ちょっと可哀相な気すらする。

 『なんで、そんなに俺に無理に勝とうとするんですか?そんなことしなくても、すべてにおいて、俺なんかよりも勝っているのに。』
 「ホント…?本当に、そう想ってる??」

 その切り返しを聞いた時、俺は驚きとともに少し反省した。
 ホンモノを追いかけるあまり、不安がらせていたのだ。時間を超えようと、対等になろうと努力して、無理に背伸びしようとして、感情を把握し切れていなかった自分が、心の底からダメだな、っと思った。

 俺は、相手や集団の感情によってのみ、自分の居場所を決める。
 それは、その相手や集団の能力とか技術、言葉には一切依存しない。

 即物的なことが必要なシーンだって存在している。
 それによって、今は安心する、という人が相手なら、傷つけないために、そちらをとっても良いかもしれない、っと想う時間帯が確実に存在している。不安を取り除けたなら、、ほら、未来には、もっと楽しく、一緒に、もっともっと、より良くしていけるかもって思うから。
 そんな風に想うなんて、もう年かな(笑)。

 ただ、やっぱ、体裁を守ったり即物的なことを大事にするために誤魔化すようなスタイルは、ずーっと続けていってしまったら不幸だと思うから、ガキのままでいる時間帯が長くても、どうか許して欲しい。
 ホンモノは、思いだせば、すぐそこにあるのだから、意外とすぐに変わっていくはずだと思うしね。
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あなたの誇るべき優しさ

2013-06-02 05:01:05 | Weblog
 理系の研究では、「考えて実験する」というスタイルが一番偉いと思っている。だから、理論研から実験研に移ったし、より意義のある研究内容という点で、この分野(生命)を選んでいる。
 これは、考えながら行動する、っということをしまくれば、それが日々のスタイルとしてもベストだということだ。考えるというのは、この場合、気持ちと向き合うってことも含まれるから、よーするに、よく想い、よく考え、よく行動せよ、ってことね。

 考えすぎれば実験は減っていく。ある実験系について、振れるだけの変数を振ってみて、樹形図みたいなのを描いてみて、何日かかるか計算してみて、、みたいなことやってったら、いつまで経ったって実験が始まらないから結果は出ない。
 逆に、考え無さ過ぎれば、無意味な実験を繰り返すことになる。ストーリーも考えず、この間こんな感じのをやったから、今日はー、みたいな感じで実験をしていれば、いつまで経っても何が必要なデータなのかもわからない。

 前者のタイプは、中途半端な賢さを持ってしてプライドばっかり高くなるし、後者のタイプは、データ数さえあればイイでしょ?、って偉そうになる。

 前の実験の履歴に依存せず、でも、自分の行動の順序が因果関係の糸で繋がっているような状態を常に築きながら、実験計画を立てて、必要な実験を行えば、自然とストーリーは観えるものだと思う。
 理論研は、綿密な文献調査と絶対的な計算力(プログラミングも含む)のなかから、必要なものを武器としてストーリーを組み立てるだけになる。それには、かなりの賢さの絶対量が必要になるし、実験と違って、自分が思いつかなかったら終了、っていう点では、非常に厳しいのだ。これは、実は当然で、自然科学は実証の学問なので、実証させなくてもイイくらい必然的にでてくる論理を頭だけで構築する、ってんだから、そりゃ、実験研よりも、数倍は賢くないとやってられないのだ。

 日々の生活の中で、考えただけでオッケーっというシーンはほとんどないだろう。
 賢さを頭の中だけにとどめて、思考力を自分の頭の中だけでひけらかすのなら、思考停止と同値だ。それは、技術的な能力でも同じことが言えて、それを何かのより良きに繋げないなら価値が無い。

 手っ取り早く言ってしまえば、賢さや技術的な能力は、他者の(未来or現在の)気持ちをより良い状態へすることに起因させなければならない。
 実験量や賢さに、誇りやプライドや自信を、一番に持っちゃならないのだ。

 一番に持つべき自信は、優しくできることそのもの。
 そして、達成されなかったときに、自分の能力へと落とし込まず、気持ち(情熱)が足りなかったっと想えたなら、次に踏み出すべき一歩が観えてくるのだと思う。
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