たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

You can (not) redo. But,

2015-11-29 04:36:43 | Weblog

 俺は彼らの圧倒的な思考力から逃げてきたつもりでいた。あの思考力には敵わない、、いや、正確に言うと、自分の思考力なんてたかが知れてるから大成できない、と素直に感じていたからだ。だからこそ、このような権威的な世界に来ることで、俯瞰しているのかもしれない。あれから5年以上にわたって、くだらないことを前提としながら、あらゆるものを盗もうとしてきたからだ。
 だけど今、結局のところ、彼らとまったく同じ結論として、世界の描像を理解しようとしている事実に気が付いている。それは、俺が必死で数年間も遠くへと走ったとしても、結局のところ彼らが創る掌にいるだけ、とも言えるし、まったく違う道を辿ることで天才的な彼ほどの思考力に並べている、とも言える。絶対に戻らないと思っていたのに、終に戻ってきてしまったのかもしれない。

 一般に要素数が増えれば増えるほど、覆水盆に返らず。たいていの場合は、特異的な状況からありふれた状態へと、別の言葉を使えば、非平衡状態から平衡状態へと、流れていくだけである。

 俺ら社会的な生き物である人間も、歳をとればとるほど、どんどん凝り固まった価値観に束縛されるようになるし、なんでもかんでも手をつけてみたりするよりも、明らかな権威に対して媚び諂い、自分の実力をつけずに、常識と言う名の偏見を身に着け、とにかくその場所にとどまろう、とにかく無難でいようとして、向上しなくなってしまう。その分、権威に媚び諂う行為を、率先して「向上」と無理矢理に再定義していこうとする。そして、そのありふれた状態を素早く認めないでいると、いつまでも子供みたい、とか、自分がそんなにかわいいのかよ、とか、他人の気持ちも考えろよ、とか勝手なことを言うのである。
 だが、本当に生命現象を研究しているなら絶対にわかることであるが、平衡状態になったら死んでしまう。ありふれた状態に支配させてしまうと、その系は死んでしまうのである。当然、物理的には死なないが、社会的に生きていると思い込むことで、自分の信念を殺してしまうのである。

 考えてみると、社会は非常に不条理である。いや、物理現象が、非常に不条理であり、ただそれだけなのだ。
 ほとんどの人は、本当は気が付いている。すべてはただの偶然であり、偶然の圧倒的な支配によって、勝敗が決まることを。だからこそ、(権威にすがるな!とか、人間力が大事だ!等の)短絡的な何かの理屈があると仮定して安心したいのである。そして、一度確率的に流れだしてしまった(ありふれた状態へと向かった)水は、絶対に戻りようがないということを認めたくないのである。

 もっともっと、きちんと考えてみよう。そもそも、この地球は46億年の歴史があり、人類の創生はたったの10万年前だ。人類史の100倍の時間が1億年であり、それが46回繰り返されると地球の歴史になる。10万年が短いようだが、実はすごく長い。10万年は、1000世紀だ。今の文明が、たった21世紀であるが、ヒト1人の人生なんて、せいぜい1世紀が限度。
 つまり、あなたや俺が、どんなに考究したとしても、そんなこと、至極どうでもいいことなのである。この長い長い歴史の中で、いつの間にか、ぱっと生まれたこと、そのものが理不尽なのであり、その生もせいぜい100年しかもたないことも、また理不尽である。

 そのような中で、頑張れば絶対に報われるはずだ、とか、沢山色々なことを行動していけば成功するはずだ、とか言っていても、どうでもいいことだろう。どうせ死んでしまうし、この生の意味が、たった200年だって、もつかどうかもわからない。もちろん、かといって、すべては確率的である、と言い切っていても仕方ない。

 ありふれた価値観に陥り、物理的な人生を送るのも、また人生であるし、ありふれた価値観に染まらずに、これが生き生きとした自分の人生なのだと思い込むことも、また人生。それはそれぞれに正しいのだ、というような枚挙的な「それぞれ」論では帰結せず、それぞれが相互作用しあうことで正しく成り立っているのだ。だって、少なくとも、ありふれていないことを定義するためには、ありふれたことをきちんと定義しなくてはいけないからね。

 そして、このように、どうせ誰にとっても理不尽なのだとしたら、それを前提とした生き方をしていったら良いと思う。そう思えば、とてもラクである。
 確かに、覆水盆に返らず、非平衡状態から平衡状態へと遷移していくだけであることは遥かに多いが、、ビックバンが創発した非平衡状態を享受し、それを維持していこうという力が何故か働くことも、それなりに沢山ある。いま、俺は、まだまだ社会的な非平衡性を保ちたいと思っており、俺のその願いをすぐに手助けしてくれているのは、とうの昔に出ていった場所の彼らであるので、、もしかしたら、帰る日は近いのかもしれない。

 …しかも、生命においては、自分がどういう時に、どういうことをとりたいか、自分自身が自由に決めることができる。
 もちろん社会的に犯罪を犯してはいけないが、それをしない限りは、あなたは自由なのである。好きに生きていい。何の問題もない。

 だから、どんなに誰かに迷惑をかけても、どんなに権威主義になろうと、空気が読めなかろうと、バカげたことをしようと、誰かを何かの言葉で傷つけたとしても、あなた自身が欲して物理的に平衡状態にならないならば、なんでもいいと、俺はそう思っている。

 (ちなみに俺は、エバと聞いたらエバネッセント波しか出てこないほど、エヴァンゲリオンのことは何も知らない(笑))
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"ただの証明"を超えて

2015-11-28 01:17:48 | Weblog
 「それは、ゲル、ってことなんやないか??お前、能書きが長いねん。それから、"思います"とか、そういう言葉は、責任逃れをしてるだけや。例えば、同じことを言うんやったら、沈黙を十分に味わいながら、"生命とは…、ゲルである!"と断言してしまえ。そうすると、みんなを引き付けられるわけや」

 俺が最もムカつき最も尊敬しているフィールドワーカーの言葉に敬意を表して、今夜は断言から始めてみたいと思う。

 理系であることの最低ラインはフーリエ変換がきちんとできることである。これは常識だし、普通のことだ。

 物理学科や数学科なら、言わずもがな。それ以外の殆どすべての理系でも、試薬を使う。その試薬は多くの場合、NMR(Nuclear Magnetic Resonance)において同定しているのだ。NMRではパルス磁場に応答した誘導減衰曲線をフーリエ変換することで吸収スペクトルを得る。つまり、フーリエ変換は現代科学の基礎を成している演算処理と言っても過言ではない。
 だから、いくら実験系であれ、生物系であれ、この演算処理を知らないというのは、理系として致命的である。

 これは、少なくとも俺にとっては常識であるが、普段このような事実を、おそらくフーリエ変換ができないであろう理系に、あえて突き付けたりはしない。俺が攻撃を受けていない限りは。はっきり言って、ムカつくこともあるが、それは我慢すべきことだと思っている。(こうやって書いたりはするけどね。イラッとするなら、読まなきゃいい)
 まして、何かの(精神的な)攻撃を受けていたとしても、「常識だろ!普通だろ!」と罵るような行動をすることもないだろうし、その行為に対して系のバランスのためにと正当化するようなルール作りをすることもない。ましてやまして、多数派の価値観を暗黙のルールとしての普遍的な原理とすることでパワーバランスを維持し、明らかな違反を正当化することもしないし、そこに対して多数派に合わせることを絶対視することもしない。多数派の価値観に合わせろ!空気を読め!そこにいる人達と違うことをするな!というのは、まぎれもない「いじめ」だからだ。

 (その集団のなかの)少数派を黙らせることは簡単である。だが、それを善と定義し続けてしまった時に、さらに大きなマクロからの要請によって、確かに「崩壊」せざるをえない状況が存在してしまうのだと思う。
 そして、俺は、崩壊しようが、発展しようが、至極どうでもいい。それはこの小さな国の小さな集団のそのまたさらに小さなセクションの崩壊に限らず、アカデミアの世界、日本、この世界全体が崩壊しようが発展しようが、どうでもいいのである。それに、地球や生命システムは、そんなにフラジャイルではない。

 「黒いものを観て、多くの人が空気に流されたり、誰かの立場を守らせることで自分の立場を守るために、"これは白いんだ!"と言ってきた時に、"白いですねー、いやー真っ白です"って言える能力がある人が就職できるんだなーって」
 『そ、こ、ま、で、か、よ(笑)』
 「あ、だったら、俺、別に就職できなくてもいいやー、って」

 そこまで極端なのか、俺はよく知らないが、少なくとも、自分の本心を語れる人が少なくなっていく環境に、ものづくりとしての未来はないだろう。

 自分らしさと自分の常識の範囲内で自分の正義にとって正しい行動をし続けていくことが、集団の価値観もしくは権威者が立場を守るために敷いている価値観にアジャストできなかったときに、優しい(自称)大人は俺に対して、「もっと柔和に」「もっと無難に」「穏便に」と言う(ちなみに、俺に一番似合わない言葉は、『穏便に』らしいです(笑)。確かに俺が『穏便に』って言うことってめちゃくちゃ少なくて(2年にいっぺんくらい?)、俺から『穏便に』がでたら、よっぽどですから、穏便にしてください)。それが激しいと「反省すべきだ」とまで言ってくるわけである。
 俺に対して優しい気持ちを持って云ってくれているかどうかは(表情と視線と声色の時系列変化からフーリエ変換して、そのスペクトルから気持ちのピークだけを検出できる特殊能力を持つ)俺ならわかるが、はっきり言って、このやり方は、優しさを伝え合うときの最低最悪のやり方である。だって、それは、先進諸国が、お前らは後進国だろ?っと勝手な価値観で決めつけて、押し付けるように支援しているのとカワラナイからだ。自分の価値観を無理矢理に押し付ける行為は、優しさを発現させようとしたときの最悪のやり方なのだ。

 そして、、俺は、、その最悪なやり方で、貴女にいつも、より良く!と口先だけの行動をし続けているのかもしれないね。
 もちろん、俺がこの方法しか取れない言い訳は、いくらでも出てくる。状況が完璧にはわからないなかで、これが限界。原理的に無理な状況下で一矢報いるためには、価値観を変えるしかない。
 でも、それって結局俺のエゴだし、俺の能力不足なわけで、能力がある人間が責任を負うのは当たり前のことだ。この件から逃げたくないなら、決着をつけたいなら、俺は能力を高めなくてはいけない、絶対的に。

 まぁ、だからと言って、もちろん、価値観はそれぞれだ、と短絡的に決めつけてしまうのも良くない。価値観を無理矢理に押し付け合えば良いというもんじゃないし、それぞれの価値観を認める、とキレイゴトを言ってれば良いというわけではない。

 「完璧な人間にはなれない。だが、完璧な人間に一歩近づこうとすることは誰でもできる」

 俺の最も尊敬している理論屋の言葉に敬意を表して、、結局のところ、(理系として)普遍的な性質の存在は信じながらも、("社会的成功者は皆優れている"という純符号や、"社会的成功者は皆誤魔化している"などの符号を単に逆にしたものなどの)短絡的な思考でコロラリーとして停止させずに、悩み続けていく、という直向きな態度こそが、重要だと思う、、と結論付けよう。

 「やっぱり僕の想定通りでしたね。たかはしさん、、僕の勝ちです」
 『まったく。むしろ、早いくらいだよ』
 「まぁ、これくらいのこと、ちょっとちゃんと考えてれば、誰でも予想できますし、たかはしさんは、すでに当初の目的を達成しています」
 『それが俺のせめてもの罪滅ぼし。いつでも使えるから、あとは用はない。ここからは、本当の能力をつける以外、意味がない。まぁ、俺だって、希望的観測をしてみたかっただけで、最初からこうだと思ってはいたよ』
 「まぁ、いいでしょう。だとしたら、"ただの証明"と言ったところでしょうか?」
 『いや、例外が、たった一人。予想外もいたにはいた。まぁ、その戦略的無鉄砲も含めれば、作戦通りとも言えるが、、あの人だけは、俺の価値観を少しだけ変えた』
 「へー、会ってみたいもんですね。たかはしさんの価値観を変えるほどの信念の持ち主に」
 『じきにそうなるさ。もしかしたら、あのフィールドワーカーを通して、、かもしれないね』
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戦略的無鉄砲な世当たり上手

2015-11-26 00:59:33 | Weblog
 問題が具現化している人と、問題が具現化していない人だったら、問題が具現化していて、今すぐに何かを変えなくちゃ生きていけない、という緊迫した状態にいるほうが、幸せだと思う。
 問題が具現化しているということは、この現状はダメである、と気が付くヒントが沢山あるということで、それは簡単に変えられるチャンスがたくさんあるということ。

 そう、まさに、ピンチはチャンスなのである。

 辛い現実を直視せざるをえない状況は、確かにツライかもしれない。でも、それは、少なくとも誰かを傷つけるわけじゃないし、誰かを蹴落とすことが現状維持に繋がらないから、安心していい。
 日々、何も変わらずに、自分の問題点に気が付かずに、何年も何年も過ごしてしまっている人ほど、突き付けられる現実に耐えられず、自分にとってあってはならない人物に出会ったり、言ってはならない事柄の表面を曝されるだけで、怒りを爆発させる。誰かを傷つける。
 辛すぎて、問題だらけで、弱り切ってる状態というのは、そうじゃないだけマシなのだ。

 だから、その辛い現状のなかでも、取るべき選択肢をしゃにむに取っていき、、せめて、せめて、、俺の一側面である、戦略的無鉄砲な世当たり上手になってほしいと思う。どーせ、俺のこと、その方向だけからしか、観てくれてないんでしょ?

 それが、今の俺の本当の願いかもしれないね。
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読む必要のない原著論文

2015-11-24 23:28:40 | 自然科学の研究
 今日も、もう一歩、自分を追いつめるために、前から書いてみようと思ってたことを書きます。

 世に溢れまくる自然科学系の原著論文。まぁ、本当は全部読まなくても良いんじゃないか、と思いますが、そのなかでも、この要素があったら、もう絶対に読まなくていい、という指標を示してみようと思います。
 ちなみに、俺をよく知ってるみなさん。「え?お前が書いた論文だって?」ってこともあるかと思いますが、、そういうことです、読まなくていいです(笑)。

 「読まなくていい」が含む意味は何かと言うと、「価値(新しいところ)がない」「ウソである確率が非常に高い」「何も学びがない」ということです。

 下に書くことを簡単にまとめてしまえば、「原理的にわからないように書いてあって、あえて複雑にわかりにくくすることで、難しさをアピールし、とにかく論文として体裁を整えました」という原著論文を、コスパよく発見する方法だと思ってください。
 もちろん、例外はあると思いますが、いま世に溢れる自然科学の原著論文のおそらくすべてが読む必要がないと本心で思っている俺としては、あまり例外とか言っても意味がないので、例外はない!と言い切ってしまってもいいかもしれません。

 1.著者が7人以上の原著論文

 本当は4人以上で読む必要がないと言いたいくらいだが、まぁ、著者が増えまくってしまってる現状があるから、その流れにのって仕方なく、っという部分もあることを考慮して7人以上。

 著者が増えれば増えるほど責任の所在が微妙になるし、著者が多いからすごい研究かというと、そういうことも少ない。それが良いかどうかは別として、今の研究のシステムはどの分野でもかなりの個人主義で、その人の仕事か否か、という部分がものすごく多く寄与する。
 にも拘わらず、共同研究をすすめましょう!、とかいうのは、よほどの変わり者か、誤魔化しか、どちらか。本当にそういうことを奨めたいなら、まずは、原著論文によって個人を評価する、という研究のシステムそのものを変えない限りは、達成されない。
 というわけで、著者があまりに多い論文は政治力学の産物だから読んでも仕方ありません。それに本当に必要な著者が揃ってるのか?曖昧ですから。

 っま、これはマジで分野(というか、その分野の習慣)によるので一概に言えないところは多いですが、、少なくとも、著者が増えれば増えるほど、読んで損したなぁという率は高い気がします。
 
 2.三行以上にわたって一つの数式が書いてある

 これだけ俺が最初に言ったことじゃありませんが(あるえらーい先生が仰っていた)、理由は自然現象はそんなに複雑なわけがないから。
 というよりも、複雑な自然現象を上手く単純化して理解していく作業が自然科学なので、長い式を書いてりゃいいわけじゃありません。シンプルにすることを心がけて、研究をしたり、論文を書かなきゃいけないのに、とにかく書きました、みたいな論文は読む必要なし。学びは少ないでしょう。

 3.棒グラフが5つ以上載っている原著論文

 棒グラフって、視覚的に数値をとらえることができる、以上のメリットはありません。数字できちんと書いたほうが適切です。
 にも拘らず、棒グラフがたくさんあるってことは、その論文で、これが言いたい!、ということが定まっていないということ。そんな曖昧な論文は読む必要ありません。

 確かに、メインの帰結をわかりやすく把握するためであれば棒グラフは必要ではありますが、何個も何個も棒グラフばかり載ってる論文は、まずその実験が本当にきちんと行われていたのか、それを見るだけではわからないのに、それを読者にそのまま信用しろよ、ってことなわけです。
 棒グラフって、持ってる情報量のわりに紙面をとるので、、まぁ、そういうことですよね。テーブルで数値を示したり、文章中に書いたりすりゃいいのに、体裁を作ってる感が半端ないわけです。

 4.略語が何なのかちゃんと書いてない

 これは説明不要だと思うんですけど、説明します?
 略語なんて最初に書くのが当たり前だし、それを怠ってるって、原著論文として成り立ってないから読む必要なし!

 本当に念のため、一応、言っておきますけど、だからって普段、略語使うのは、別にありですよ?原著論文という作品を作るうえで略語が何なのかを最初にちゃんと書いていないのがありえないだけです。これは意外といろんなことに繋がっていて、例えば、参考文献なんかを示すよりも、こういう前提知識が必要です、ってのを書くことが大事だってことも含んでいるんだよなぁ。

 5.参考文献が50以上ある

 えーっReviewも?っと思った方、俺はReviewはそもそも読む必要がないと思っているので(まとめたいなら、Reviewじゃなくて本を書いてください。それほどの量じゃないってんなら、そんなことでいちいち出版して業績にせずにHPにでも書けよ)、これはLetterだろうがFull PaperだろうがCommunicationだろうが、です。
 ちなみに何故かというと、著者が絶対、全部は読んでないから、把握してないから。著者全員がすべての参考文献を把握していなくちゃいけませんし、きちんと読んでいなくてはいけません、、よね?当然。

 参考文献が50以上ある原著論文は、ほぼ不可能に近いと思います。アクセプトを得るディフェンスのために不要な文献をあげるのはやめましょう。アクセプトを得るためにと戦略的に参考文献をたくさん挙げる人は、政治家であって研究者ではありません。それなら別のジャーナルに出せばよいだけだし、そういうところから理不尽さを感じて、論文以外の新たな表現方法を探るべきです。

 6.Beall's Listに載ってるジャーナルの原著論文

 これも説明不要ですよね。理系の博士課程以上で、Beall's Listを知らない人は世間知らず過ぎです。自分の専門分野に集中しているのは結構ですが、もっと制度について勉強してください。


 っま、とりあえず、これくらいでしょうか。
 俺の意見、完全にPRL信者だな(笑)。俺のことを物理系だと決めつけているみなさん、今日はあなたたちは正しいです。

 あ、略語の定義するの忘れたけど、ブログだからいいよね(笑)
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愛じゃなきゃ痛いだけさ

2015-11-20 23:17:47 | Weblog
 痛みと弱みをどういう風に糧にしていくかが、その人の魅力の大きさになっていくのだと思う。
 いじめられ、譏られ、手を叩かれて笑われながら、その集団から出て行ったあと、その経験を、嘲笑の方法を学んだと解釈し、さらに弱い者に同じような仕打ちをすることで自分自身を確実にディフェンスすることも、自分がこういうふうな気持ちになるのだから、他人にはこういうやり方はしてはいけないと胸に刻むことも、等しく糧ではあるのだが、、やはり、自分への還元のさせ方として、能力へ活かすか、人徳に活かすか、で、かなり道は変わってしまうように思う。

 だから、もし、今、貴女が、失敗していると痛烈に感じているなら、その後の行動に注意してほしいと思う。失敗は恐れる必要は無いし、具現化する失敗は、すべて成功へと繋がっていく。
 しかしながら、失敗から脱却して、次のステージへ向かう時こそ、その方向性を十分に注意すべきだと思う。

 例えば、ひとつ具体的な例を挙げるなら、小中学生でいじめられていて、そのいじめを克服するために、いじめっ子を見返そうと、必死に勉強に勤しむことは、必ずしも俺は良しとはしない。
 なぜなら、それは、小さなクラスのなかでの生徒(児童)同士のヒエラルキーにおいてのマクロからの要請に対して応えられないからと、さらに大きな集団としての学歴社会が要求するマクロからの要請に応えようとすることによって、ストレス発散しているに過ぎないからだ。クラスにおけるヒエラルキーが理不尽だと認めるなら、学歴社会だってそれなりに同程度には理不尽であろう。だから、それでは、いささか、いじめられている状況から学ぶこととしては、まったく足りない。
 急いで付け足さなくてはいけないが、もちろん、現在いじめられている子が、勉強に注力することで乗り切ろうとすることは、結構なことだと思う。それは緊急回避として大切だし、というよりも、殺される前にすぐにでもその集団から逃げてしまった方が良い。だが、そこでいつまでも、その方法で足踏みしてしまっていると、いずれ、自分が、そのいじめっ子と、まったく同じ原理で、誰かを虐げる結果になってしまうのだと思う。

 順番をつけてしまうなら、お金や言葉や権威や業績が圧倒的に一番くだらなく、その次に本当の実力や能力というヤツがくだらなく、その次に人徳や気持ちといった類いのものがくると思う。そして、俺にこう思わせてくれる、俺のすべての周囲は、やはり素晴らしいと思う。
 緊急回避的に、お金や実力をとらなくてはいけないこともあるであろう。それは俺もそういう状況は存在する。だから、失敗をしたときに、その次の行動を自分の気持ちそのものに還元させようとできる状況そのものが存在するなら、それは幸せを感じるべきだと思う。

 俺がどこを評価しているのか?これで少しはわかったかな??

恋するMerry-Go-Round/Goose house
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理系を辞める勇気

2015-11-20 00:15:35 | Weblog
 いつもの生活から逃げ出し、自分にとって本質的な行動をしていくと、日々観えていないものが観えてくる。日本のなかで、普段感じているしがらみをすべて払拭して、いま、異国の地で普段とはまったく異なる気の使い方をしているからこそ、自分に足りないものが観えてくるのだ。

 御膳立てされた仕掛けのなかで、オフェンスについてもディフェンスについても、論理性や実行力では、どの場所でも負けない。成功が必然的であるこの旅を利用して、理系の世界で、俺は、また、さらに良い評価を受けることができてきている。

 だからこそ、俺に足りないもの、それがよくわかったと、旅の途中でこれを(公開的に)書いてしまうのは、流石の俺でも気が引ける部分があるけれど、こういうことは、書けることはすべて書いてしまおうと思う。

 今の自分に圧倒的に足りないのは、理系を辞める勇気、だ。

 そう、俺は飽き飽きしている。よく考えていると見せかけて、一つの分野の中で言われたことばかりをこなして何も考えていない理系や、科研費と論文に「書ける」ことばかり探している(自称)研究者が、その無能さを無能なヤツがマジョリティであるという安心感にカコつけて、俺のこういう言葉を聞いて、さも自分が正統派で偉いかのように、俺を正統派ではない、と決めつけるような、理系の空気感が。
 そして、そこに未来を感じない。なぜなら、その中の、とても寛大である「良い」人たちであっても、無難さを俺に押し付けてくることしかできないからだ。

 さらに、こういう言葉を聞いたときに、じゃあ一般企業の事務とか営業とかに就職しようとするんだ!、という想像力しかない、理系たちにも失望している。
 例えば、俺に、生物系の人間が「生物系では・・・、物理系ではどうなのか分からないけど」と偉そうに言ってくることの殆どすべてが、その研究室でしか成り立たないことである。その視点の狭さが致命的なのである。
 多くの視野が狭い(自称)生物系の人にとって、俺は、物理代表らしい。俺はそんなつもりはサラサラないし、俺が物理で知ってるのは、低温物理のほんの僅かと、物性(基礎)論の初歩と、ソフトマター物理だけである。あとは、学部レベルしか知らない(しかし、それは、あなたと違って、ほぼ完璧であるけども)。それを「物理」でまとめられても困る。よっぽど生化学や分子生物学や有機化学のほーが知っているかもしれない。そして、「やっぱりそこは、たかはしくんも生物学を理解して・・・」みたいなことを言われても、今のただの枚挙主義かつ還元主義としての辞書にしかなっていない生物学の何を理解しろというのだろうか?生命現象が物理現象よりも遥かに複雑で、その生命現象を(人類の編み出した最も精緻な言語である)数学をもっとも苦手とする(ギリギリの)理系たちが扱ってしまっているという現状だったら、とうの昔(学部生の頃)に理解している。(と言うからには、俺らには正しい生物学の教科書を書く義務があるかもしれない。翻訳ではなく、俺が生物学として必要最小限のものをまとめてみたいと前から思っている。)物理学はそれなりにクソったれの学問だと思うが、生物学よりは遥かにマシであることも、確かなことである。だが、(生物学をやってる)人数が多いからという理由や、医療に関連するからと(ほとんど)嘘をついて、科研費をとっていくのである。ググれば分かる程度のことをわざわざ覚えることで(しかも暗記したことの確実性がとてもファジー)、もしくは、英語ができる程度のことで、レゾンデートルを創発し、能力と権威をアピールしないでほしい。
 と、やっぱり、そとの世界を知ろうとも思わない人に、階層構造の上のレベルの話をされるとイライラするし、生物か物理か、と俺のことを二分にしか考えていない視野の狭さの人にとって、俺が、いや理系に固執してる俺自身がよくねーわ、と言ってしまえば、俺は変人になるのであろう。しかし、俺は、真剣に、論理的に、安定を求めて考えているのである。

 短期的な安定をちらつかせて若者を搾取し、長期的な展望を若者に見せないでいるのが、日本の現代社会の風潮であるが、安定を求めるためには、単純に実力をつけてしまう他無い。少なくとも高校生の頃、もっとも強力な学問であり、もっとも本当の実力がつく学問だと確信した物理学で学士の学位をとり、それを使って、理系の中からテーマを選ぶことで、生物物理で修士号、生物物理と生物有機化学で博士号を取得した。
 俺がなぜ、本来、興味のない「生命とは何か?」に注力しているか。それは、俺の本来の興味に、理系として、一番近いからである。

 だから、自分の本来の研究興味まで立ち返る必要がある。そして、それはここでは公開できない。まだ不安だから。
 この答えが正しいかどうかはわからないし、またどーせ、理系の研究室で自己実現しようとする自分の姿も想像できる。

 しかしながら、まっさらな気持ちで、慣れていないこの異国の地で、俺が、理系以外の選択をとらなくてはいけない、という境地に達していることくらいは、ここに記しても問題ないと思う。
 それが、「兆」しがありそうな「道」へ、「逃」げてきている、責任だと思う。
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気楽な稼業ときたもんだ

2015-11-14 00:30:09 | Weblog
 比較的安全で着実な道を歩いていたい、と思うのであれば、実力をつけてしまうのが一番だと思う。
 生きていくために!、と目を殺しながら俺に訴えてくる人間が、実力がなくても、とにかく上の人に媚び諂って道を進むことを、安心できる道として提示してくる場合が多いが、そんなことは決してなく、結局のところ、自分で本当の実力をつけてしまうのが、もっとも安全であると思う。

 なぜなら、上の人はすぐにいなくなってしまうし、崩れゆくシステムのなかで、その時にリーダーシップを現実的にとれるのは媚び諂った人間ではないからだ。

 少なくとも日本社会では年功序列社会であり、上の人≒今の50代60代の人(特におじさん)である。これだけ年金問題がやばいやばい言うてて、わかってたはずなのにほっといて、俺ら20代30代に「とにかくこちらに都合のよいように正社員で働け!結婚しろ!子供産め!2人で1人の老人を支えろ!子供育てろ!」と言い放っているのである。今の若者は、こんな無能な世代に媚び諂って、未来があるとでも思っているのだろうか。何かの能力が身につくとでも思っているのだろうか。

 そして、その雰囲気は着実に自然科学における研究社会もそうなっており、バカみたいに従ってりゃ、小さいテーマをまるで本当に興味を持っているフリをして申請書を書いてりゃあ、おじさんたちを喜ばせることができ、一時的にはオイシイ思いをできるようなシステム構築しかできない。どんなに革新的なプログラムを持ってきても、やはりあの世代からカネを完全にぶんどらないと(取りかえす、、が正しい?)、「生命とは何か?」なんて、わかるわけがないのかもしれない。
 だって、ほんの一握り、一部の頭脳派は違うかもしれないが、たいていは高度経済成長の中で、頭が悪い分はその分手をたくさん動かして取り戻せ!などという思想を信じてきた世代だぞ。だから、いまだに、物理の教科書は日本人がオリジナルで書ける(かつ欧米を超越する精緻さを誇るケースさえある)が、化学と生物の教科書は欧米の教科書の翻訳しかできない。

 確かに舞台の上に立ち続けることは重要ではある。だから、次の時代のために、今、とにかく舞台に立っておかなくちゃいけない、というのは、まだわかる。わからないのは、そのしがみつき方だ。その舞台はたいていは壊れゆく舞台である、ということも、また頭に入れておく必要がある。

 そういう意味で俺は強いのだと思う。なぜなら、もともと舞台なんかに立っていない人間だから。
 「勉強しちゃってる俺!」みたいなカッコつけで勉強を始めてしまったわりには、自分で言うのもなんだけど、成り上がったと思う。だから、あまりに頑張った記憶がない。嫌なことをコツコツと、、なんてしなくても、お勉強したけりゃすればいいし、したくなければしなければいいじゃないか、というのが俺の本音であるし、例えば自分が教えた生徒たちにはその気持ちが伝わっていると思う。思考力はあらゆることに使えるし、選択肢を広げることに他ならない。自分よりも下の世代にはそれだけわかってくれればいい。特に自然科学は、やってる人がムカつくことはあるけど、自然科学そのものは一度も俺を裏切ったことはないから、これはそれなりにあっていると思う。
 だから、ここの角度からみんなを観ていると、何をそんなにその舞台にしがみついているの?、っと疑問に思うことばかりが起こる。世界は広いし、楽しいことはたくさんある。

 「その帰結は、君の歳では早すぎる」
 『そんなん、最初からわかってたほうが、いいじゃないですか』
 「いや、他にも楽しいことがあるとよくわかっている君は、途中でやめてしまう可能性がものすごく高い。いずれ、研究なんてくだらない、論文なんか書いている暇なんてない、などと言い出すだろう。最初から論理だけでやっちゃうと、つまんないのよ」

 この気楽な稼業の中で、やっぱり迎合していくよりも、自分のやりたい系をちゃんと提案できることが大事なのかもしれない、と反省しながら、また、新しい旅に出ようと思う。
 この転換期は、個人的にとても楽しい。誰が信用できて誰が信用できないのか、どんなに演技しても、一目瞭然になるからだ。(そして、それ以前に予測していた考察から、今回も、俺の慧眼さはそれなりに向上していると思った)

 誰に媚びても安全なことは何もない。単純に自分が実力をつけてしまうのが一番着実。そのためには、常に本音で語り、本当のことを言うことを恐れず、必要なことだけを確実に行い、くだらないことには目もむけない、のが一番早い。
 だからそういう意味で、確かに、何年で何本、論文を書くために!などと、多くの研究者がバカのひとつ覚えのように「書ける!」と、くだらないことを遂行するために、統計力学では!凝縮系では!複雑系では!有機合成化学では!超分子化学では!分子生物学では!遺伝子学では!バイオインフォマティクスでは!と細分化された分野のさらに細分化された分野の中でレゾンデートルを主張し合い、なれ合いをしているような暇は、俺には無いのかもしれない。
 そんなことよりも、理解しなくちゃいけないことはたくさんあるし、身に着けなくちゃいけないことはたくさんあるし、構築しなくちゃいけないこと、考えなくちゃいけないこと、まとめなくちゃいけないことはたくさんあるし、助けなくちゃいけない人はたくさんいるし、最も助けたい人だけ助けるのであっても、それだけに注力したとしても、あまりに俺の実力が足りないかもしれない。

 さぁここから、また、信じられないくらい、すごいことが起こる予感がしている。いつも俺はここからが強い。
 その根幹は、あまりに何も恐れていないから、なのかもしれない。
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「生命とは何か?」の答えに平衡統計力学の論理体系は必要か?

2015-11-10 23:28:13 | Weblog
 良識のある大人であれば、掛け算を知らない子供が積分をやってみたいと言ったら、まずは九九を覚えなさい、と言うだろう。
 であるならば、良識のある理系は、平衡統計力学をまったく知らない研究者が「生命とは何か?」に答えるために研究していると言っていたら、まずはミクロカノニカル集団を勉強しなさい、と、はっきり言うべきだ。

 平衡状態とはいったい何なのか?を平衡統計力学はよく教えてくれる。ミクロ状態の(マクロにみれば)圧倒的にありふれている性質が平衡状態を記述していく、と理解すると、生命は、(少なくとも単なる)平衡状態ではなく、それぞれのタンパク質は(例えば幾何学的な動きとして)ありふれた性質を共有しまくってるわけではないのに、なぜ秩序だって成り立っている(ようにみえる)のか?不思議で仕方なくなるはずだ。
 それを知らずして生命を理解しようとすることは、九九も言えずに積分をやろうとするよりも、無謀かもしれない。

 しかしながら、平衡状態の論理的解釈が、「生命とは何か?」に答えるために本質的に必要か?と言われたら、微妙なところである。おそらく、思考力として実力として能力として、平衡統計力学くらいマスターしているのは必須だろうけども。最初の例も、厳密に言えば、掛け算ができなくちゃ積分はできないだろうが、掛け算の定義と演算の方法をきちんと理解していれば、九九をまったく覚えていなくても、積分はできる。

 そもそも生命は、いま理解されている平衡状態では決してない。運よく、何かの生物種のある瀕死の状態を、非平衡定常状態で記述できるのだとしても、揺動散逸定理さえ使えない。
 だとしたら、もう、理詰め上は、平衡統計力学って、生命現象を理解する上で要らないんじゃないか説が出てくる。(生物学でよく用いられる)大腸菌は70パーセントが水分だが、残り30パーセントの絶対的個数としての「ありふれてなさ」かつ「ありふれていない」ミクロレベルでの動きによって成り立っている。そんな現象を記述しうる統計力学など、少なくとも俺は知らない(あるなら是非教えてほしい)。

 我々は、直感的に(一気に日常生活のブログっぽくなりますが)、ありふれていない、と言うことに対して、少なくとも、生命らしさを感じる。定常的な動きや、平衡的な振る舞いに対しては、物理的なイメージを持つことが多い。だから、社畜とか、ヒトゴミとか、そういったものに、生命としての温かさをあまり感じないはずだ。(いや、やっぱり、さっき大腸菌の話しといて、いきなり社会的な例を持ち出すあたり、無理があるだろ!笑)
 だとすると、ありふれていない割合というのが、いい感じで中途半端になると、生命を定義しうるのかもしれない。完全なランダム状態でもなく、平衡状態でもなく、ありふれていない振る舞いとありふれてはいない種類の粒子が、一つの幾何学的空間に対して共通の性質を有していくとき、生命という状態を記述していく、、、ような気がする(笑)。

 まぁ少なくとも、、「でも粒子はホントは丸じゃないし!統計力学なんて意味ない!」などと、自分の実力不足を理論の厳密さのせいにする((あくまで統計的には)特に生物系の)研究者が圧倒的多数のなか、無駄かもしれんけど平衡統計力学をきちんと勉強している「生命とは何か?」考えたい人たちは、ありふれていないので、生命っぽくて、俺はイイと思います!笑
 自然科学は、いかにして簡略化して抽出してくるか?であり、厳密さに拘ってしまうと新しいことは何もわからない。厳密さに拘りまくった場合、それは研究ではなくて図鑑作り。粒子が丸であると仮定しているからこそ、アインシュタインの関係式が成り立ち、ボルツマン係数が確定できるわけで、で、そこからアボガドロ定数を出すわけだから、生物系の殆どが使うモルが使えてるわけでして。じゃぁ、お前、もうモル使うなよ、と。

 そもそも、emergence of lifeみたいなことを模倣したい実験系を考えるときに、平衡状態から何か摂動を加えて実験を行うことが多い気がするけど(もしかして俺(とか俺の周囲)だけ?)、それって、とってもナンセンスで(ナンセンスだけど試薬が瓶に入っているから仕方ない!ちなみに、だからこそ、再構成系の意味もある(少しだけ))、自然界を考えたら、非平衡状態からいかにして、生命を出現させていくかを考えなくちゃいけないわけよね。どうも理論でも、平衡状態がwell-knownだからっつって、平衡状態からどの物理量を動かすと、どの程度の非平衡状態になるか?、って考えがちな気がするし。
 うーん、だとすると、俺らが本当に知りたい「生命とは何か?」の答えを知るためには、非平衡の出現の理由とか存在しているワケを知る必要がありそうで、、ビックバンがわからないと「生命とは何か?」がわからない??マジで???

 なんつーか、やっぱり、「生命とは何か?」とか、中二病的な疑問を持つべきではないのかもしれんな、マジで(笑)
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好かれちゃえば最強説

2015-11-09 01:23:32 | Weblog
 何かの目標を達成するために、どんな能力をつけたらいいか?と、真剣に悩んで、ロジックを設けてから行動しようとするのは、バカバカしい。それを自分で悩むのもバカバカしいのに、他人からこれが必要だ、って決めつけられるのは、まったくもって時間のムダだと思う。

 そんなことよりも、とにかく最初からやりたいことをやってしまえばいい。そのうえで、何かのスキルが必要になったら、いちいちそこで習得すればいい。
 その時に、もしかしたら、最初からきちんと体系立てたほうが楽しいかも、と思うかもしれない。ならば、そうすればいいのだ。だから、いきなりゲージ理論をやればいいし、いきなりフルコースを作ってみればいい。そうしてみて、もっと基本的なことを最初からきちんと習得したほうが楽しいと思うなら、高校物理から皿洗いから、修行してみればいいというだけだ思うのだ。

 でも、それじゃぁ、誰にも認められないんじゃないの?って思いがちだけど、そんなことはない。
 むしろ、ロボットのように、習得すべきものをきちんと習得し続けていくだけの人に対して、そこまで他人は好感を持たないのだ。

 自然体にやりたいことをやる。それが結局のところ、一番お得で、一番楽しくなるんじゃないかと思う。
 ただ何かの言葉を得るためだったり、ある少数の人たちに認められるためだったり、世間体という曖昧なものに応えるためだったりしながら、技術習得に勤しんでも、何も楽しくないし、ちっとも幸せにはならない。
 言葉を得て、認められて、世間体を整えても、人生はその先も、その代償と共に、続いていくのだ。そのような現状の変わらなさに対して、でも、自分には職があるから、責任ある立場にいるから、結婚しているから、と自分を納得させるように自分の持ち物に名前を付けながら、自分は幸せなのだ!と唱えてみても、ただただ物足りなさが残るだけ。

 結局のところ、好かれてしまえば、どんな言葉を持っていても、どんな言葉を持っていなくても、どんな行為を繰り返していても、していなくても、そこで成り立っていく。そして、特に自分が好きな人に好かれるために必要なことは、自分の気持ちに本当の意味で素直になりながら、毎日を楽しい方向にちょっとずつ変えようと自分で歩みを進めることだと思う。

 だから、無理に自分を幸せだと肯定化するよりも、そのために何かの能力をつけなくちゃいけない、作業を繰り返さなくちゃいけない、と思い悩むよりも、ただ自分がやりたいことを、他人の迷惑にならない範囲で、そのままやってしまいまくることが、あらゆる本質的な目標に到達するうえで重要だと思っている。

 と、目標を達成するために必要なスキルを、真剣に悩んで、ロジックで示してみました(笑)

コレアリ 「熱中しすぎる女 でもコイツが好き」
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成功するための切符

2015-11-07 00:34:27 | Weblog
 他の場所よりも状況が悪いことを理解しながらも、この環境に慣れすぎてしまって、むしろ、この状況が変わることを心のどこかで恐れている自分さえいる。
 自発的に行動し始めなきゃいけないのも、それもわかってるんだけど、それで状況が良くなった試しがないし、そもそもそういうキャラクターじゃないから、外からの何かの変化を期待してしまう。

 突発的に何かが起こってくれたらなぁと思うんだけど、でもやっぱり、自分の環境以外の周囲を考えてみたら、真面目に一つひとつきちんとやるべきことをこなしていれば、他のみんなは良い状況になっていってる気がするし、なのに、どうして自分だけがわざわざ主体的にならなくちゃいけないの?、なんか不公平じゃない?ってなる。
 確かに最初に選んでいる、その眼力がないからいけないのかもしれないけど、あのときは安牌を選んだつもりだったし、、それにしても、主体性なんかなくても上手く行っていることが世間では沢山あるわけで、たいていのケースではそうだと思う。

 それに、結局は自分で選んでいると思うし、意外とそれなりに今の状況に満足している。
 ただ、この先のことを考えると不安なところもあるけど、それも、この環境の中できちんと達成できれば、その先が成り立っていけるということは、歴史が証明しているから!
 全員が全員、悪い状況を主体的な行動で改善しているわけじゃないし、少しずつになっちゃうけど、でも、そのなかでコツコツとやっていくことで、確実に歩みを進めることができるから、私にはこれが一番合っていると思う。

 行き当たりばったりに行動できる勇気がある人と違って、ラッキーじゃないからこそ、着実に歩みを進めなくちゃいけないと思う。
 でも、、時間がかかり過ぎちゃうじゃん?、って言われると、確かにその通りだとも思うけど、、でも、私にはこれしかできないっ…!

 もし変わることが最善だとするなら、今のルールからいきなり全部が変わらなくちゃ意味がないと思うんだけど、それを別に、誰かがやってくれるわけでもない。『人々の価値観を変えることこそが本質的な変化なのだ!』などと、それこそ時間がかかることを口先だけで正当化するんじゃなくて、本当に私のために実質的に何かを変えてくれるつもりなのだとしても、それだけのことをしてくれた後に、私が何かをお返しできる気もしないし、だから、やっぱり、余計なことは、何もしないで欲しいとも思う。

 明らかな変化が少しずつ起こりながらも、、変化が起きてもこんなものなのね、と達観視している自分に気が付くと、いったいいつから自分自身の日々が始まるのかなぁ、一生始まらないで死んじゃうのかなぁ、と悩んでもみるけど、朝起きるとすべてを忘れて、とりあえず目の前のことに努力していくことがベストに感じる。

 『でも、どーせ死んじゃうじゃないですか?だから、行動できない人って、僕と違って、まだ諦めてないんだなって思いますよ』

 その境地に至るためには、どうすればいいの?その方法を、できれば端的に、教えてほしいな。

ワイドナショー & ワイドナB面 2015年11月01日 (参考は18:09~)
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「若者が頑張れ!」って言う前に、お前が頑張れ

2015-11-05 01:03:52 | Weblog
 まさかとは思うけど、俺のことを何かいう時に、「最近の若者だからー」とか「ゆとり世代だからー」とか言ってはいないよね?
 それってマジでやめたほうがよくて、だって、それ、本当に最近の若者っぽい人たちに、失礼になるぜよ?(笑)

 あのー、俺って、最近の若者の典型的なモデルからは、かなり離れていると思うし、それこそ日本人はもちろん、アメリカ人からもヨーロッパ人からも、お前みたいなヤツは特殊だ、と言われたことある日本人もなかなか少ないと思いますので、安易に俺のことを若者で一括りにすると、どこかで恥をかくと思われる。

 それでも本気でそう思うなら、よっぽど社会のことを考えていないか、いわゆる最近の若者とまったく接していないか、俺のことを知らないか、あるいはただの馬鹿なのか、そのすべてなのか、いずれかだと思います(笑)。

 すべてのことに云えるんだけど、自分が知らないなって思うことをたくさん持っている人に対して、何か言葉をつけて、全然違う生物のように語ることは、簡単なんだよね。っていうか、それが誹謗中傷になると、完全にいじめなんだけど。
 相手がどういう気持ちかを考究するうえで語るなら良いんだけど、自分が知ってる典型的なモデルに無理矢理に当てはめようとしまくると、真実を見誤る。なんでもかんでも、自分がすでに持ってるモデルで何かを説明できるわけではないし、皆が共感して当然だと考える価値観は、たいていは自分だけ、もしくはその周囲の極僅かな人たちが持っている価値観なのだ。

 なので、そもそも、安易に、「若者はー」とか「ゆとりはー」とか言わないほうが良い(俺も言う時あるけど笑)。少なくとも、よく歴史を勉強してから、そういうことを言わないと、ただの駄々っ子になってしまっているケースさえある。
 ちなみに、俺自身は、「若者」とか「ゆとり」とか言われる分には、そんなに厭じゃありませんけどね。だけど、おっさんたちのことを思って言うけど、俺のことをそういわないほうが良いと思うよ、マジで。現状は、もっと違うので。

 ちなみに、俺が今の同世代の若者に要注意しておきたいのは、むしろ、権威者が「若者に期待してる」感を出してきた時に、存分に身の振り方を注意しなさい、ということだ。(二回続けて同じネタを書くのもシャクだけど)こういうことは、最近めちゃくちゃ多い気がする。
 なぜ注意すべきかと言うと、民衆の若者叩きの声が強まる中で、多くの政治家が若者に期待していると器の広さを見せつけることで、日中戦争へ向けて徴兵制を導入した歴史的経緯があるからだ。もちろん、現代で、いきなり徴兵制になることはないとは思うが、権威のある人間が「若い世代に期待している」というとき、それは「自分にとって都合のいい、いざとなったら使い捨てができる若者が欲しい」と言っているのに等しい。だから、大きな研究不正があったときに、ダシに使われるだけ使って、問題が起こったら簡単に切り捨てられるような若者が、重宝されるわけです。

 こういう考えもあってか知らんけど、そういえば俺って、若手会みたいなの、一切出たことないんだよね。若手会って、一番、行く気が起きない。だいたい、権威者にやらされているから士気が低いし、立場と経験がある人も混じってじゃないと、ムーブメントは起きないから、話しててもつまらないじゃん、と思ってしまうし。
 コミュニケーションのきっかけを、とか言う人が多いけど、、俺、話したい人は個人的に自分で会いに行くし、みんなにも訊いてほしい場合は個人的に自分でその人を呼ぶし、それはもちろん業績にはならんけど、業績にならないからこそ、本当に価値のある話が訊けるのだと思う。

 そもそも「若手が中心となって頑張りましょう」って本当に思うんだったら、定年後に職について退職金二回貰おうとしてる教授とか、何年もまともに論文を出してなかったり、授業がてきとーすぎるような無能な教授を、ガンガンリストラでやめさせて、終身雇用ポストを今の20-40代に、きちんとあけわたすようにしろよ、っと思ってしまうのは、俺だけ?先輩でも後輩でも、もっと有能なヤツいっぱい知ってるぞ?不安定な職で、若手が中心になって、どんなムーブメントを起こそうというのだ?、しかも無能なお前主導で、っと、「ゆとり世代」だからどーしても思ってしまうのよね、どーせ精神が小学生ですから僕ちん(笑)。
 自分の懐を傷つけるつもりがないなら、そんな生意気なこと言ってほしくないですね。「若者が頑張れ!」って言う前に、お前が頑張れよ。

 ね?わかった?
 だから、俺を「ゆとりだから」「若者だから」というのはやめましょうね。ネットのオープン性を理解してないアホだったらいざしらず、今の若者は、こんなことを公の場に書けるだけの根性ありませんから、普通。
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世界を変えるためには

2015-11-03 03:16:31 | Weblog
 これはかなり公言していることだけど、俺は自分に自信がないヤツは嫌いだ。とりあえず実力はどうでもいい。とにかく自分に自信があるということが大事で、これがない相手と会話してるとイライラする。
 少なくともクリエイティブな仕事をするなら、自分が世界を変えてやるんだ!という気概を持っていて当然だと思うし、それがないなら研究や開発や芸術という営みに関わらないほうが身のためだと思う。

 自信があるからこそ、他人に影響を与えることができるし、モテる。ここに、性別も年齢も国籍も、何も関係ない。
 研究者なら、自分がやっている研究内容が世界で最も価値があり、それ以外は大半がクズ、というくらい烏滸がましくて良いと思うのだ。そこに論理的思考や根拠などといったものは介在させてはならない。とにかく、そう思っていることが重要。
 果たして、それを言いきれる研究者が、世界でどれほどいるだろうか?それも面白い!、いやーすごく楽しいですね、って口先だけで迎合することで、他人からの評価を気にして、自分への自信を億尾にも出さないことに慣れすぎて、それがクールだと勘違いしすぎて、心そのものも変わってしまっているのではないか?

 自然現象における何か根源的な興味を、研究内容として遂行させようとしたときに、枚挙的に還元的に、たくさんのやることがあるように思えるが、実はそうではない。よーするに、たくさんやることがあります!というイイワケをするでない!!ということ。やらなくちゃいけないことは、考えつくしていれば、極僅かのはずである。
 たとえば、ある根源的な興味を最終目標としたときの、本質的に必要な実験というのは、コスパや現状、理論と当たり前の価値観から算出するに、極僅か、いや、一意に定まると言っても過言ではないと思う。
 それを実験屋が引き出さなくちゃいけないし、理論屋はそれを要求しなくてはいけない。だから、理論と実験のどちらかしか見ないということは、その時点でやる気がない、と俺は思ってしまうのだ。理論屋こそが装置について詳しくなくちゃいけないし、実験屋こそが既存の理論をよく理解していなくてはいけないのは、当然のことだ。もちろん、だからといって、見せかけだけで、体裁だけ整えて、わかったフリをしていても仕方ない。ここにコツコツさが必要だし、現時点で、誤差論や測量するための基礎的な知識、もしくは高校物理の理詰めを理解していないなら、そこからスタートするだけのやる気がなくてはいけないのだ。
 
 そのつもりさえなく、そういう主義じゃないから、などとイイワケを言うなら、それは世界を変えようとなんて思っていない。

 世界を変えようとすることは、すなわち人々の価値観を変えようとすることである。どのようなものづくりを新たに作り出し、革命的な具現化をしようとも、価値観を変える!、という気持ちが入っていなくてはいけないと思う。だからこそ実と理の両方が必要になってくる。

 単なる反権力は新たな権力主義を生むから革命にはならず、旧態依然派に日和らなかった革命家がいつまでも革命を続けることは、革命の不成功を意味する。ゆえに、革命は原理的に成功しない。そして何よりも、デモや革命はダサい。
 ならば、1人ひとりの当事者たちに、新しい価値観を与えていくことこそが、この世でもっとも価値があることのように思えるし、俺は、それを世界中で一番、存分に行うだけの資質があると思うし、できることは今まさにしている。

 というわけで俺は、これまでもこれからも、ものづくりを一緒にするときに、自分が世界を変える!と思っていないヤツとは、最低限の無難な対応にとどめようと思っている。
 少なくとも、「ここはやはり若手が中心になって是非頑張ってください!」などと他人任せを肯定化しながら、自らは超安全な枠のなかに胡坐をかくことで不安定な立場の若者をイビり、毒にも薬にもならないお座成りの意見しか言えず、机一つ、自分が飲み終わった湯呑一つ運ぼうとしない、権威の衣を着ることが当たり前になってしまっているような連中と、世界を変えることができるわけがない。世の中には、もっともっと、やる気のある経験者が、ゴロゴロしている。

 たった一度の人生、さぁ、あなたは、これからどうするの??
 世界を変えているのは、本気で自分が世界を変えられると思っている連中なんだぜ??
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休息の日々

2015-11-02 02:08:17 | Weblog
 曖昧な表現型の確かなヘルプに対して、どこまで本気になれるか。そこに注力していくとき、もっとも論理的思考を鍛えることができる。

 気が付いた責任に押し潰されそうな心を、アピールされている優越感で癒していくなかで、ただ冷酷に切らせてはいけないラインを切らせないためだけに、論理的に行動をとっていく。そのためなら、どんなに無難じゃなくても、どんなに不自然で、どんなにプロトコル通りじゃないんだとしても、常に最悪を想定しながら行動していくことに躊躇いはない。
 力を使えば使うほど、この力が無意味に感じるし、同時にもっと向上させなくちゃいけないとも思う。

 そのなかで、成功することもあれば、成功しないこともある。成功しないことがあっても、仕方ない。重要なのは失敗しないことだ。そして、俺は一度も失敗したことはない。一度でも失敗すれば、彼のようになるのだろう。
 ただ、成功しなかった場合でも自分の気持ちは変わらないし、次に活かすし、いつかその系も成功させるし、どうしてこんなことになってしまったんだろう?って悩むようなことでも、俺が一度でも好きになった人や場所は、勘違いなどではなく、最終ラインでやっぱり優しいということに、絶対的な自信を持っている。それこそが、行動をストップさせないドライビングフォースになっている。

 そう、、環境変化の曖昧な報告を、最も思考力が高められる足場を構築できる井の中から飛び出した俺が、気が付かないわけがないだろう?
 そして、今の場所を選んだ時に、そのストップさせられない行動からきていることを、どんなことをしていても俺は常に忘れてはいない。多くの人が最も必要なことであると勘違いしている井の中に、その状況を確実に改善できうるピースがあるのなら、俺はそこに飛び込むだけである。
 たったそれだけのことを掴むためでも、、他のことは別に、自分がそれなりに習得すればいいだけのことである。所詮それ以外は、どうせすべてが、くだらないことなのだから。

 もし、一つひとつの選択と伝え方をシンプルにし尽せたのなら、状況は一変し、まったく違う世界が広がり、穴に落ちてしまったライオンを想って過ごす日々は、別の涙に変わるだろうと思う。
 それまで、もう少しだけ、ただ泣いていれば良い、休息の日々は続くのかな。
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