たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

恐怖と限界

2015-06-30 00:05:49 | Weblog
 通常、「では最後に何か質問やコメントはありますか?」と言われたら、終了の合図。早く終わりたいので、何も言わないのが定石である。
 権威も無いくせに、ここで何かコメントをする奴は、空気が読めていない。Cグループ(ノリの悪い集団の総称)の、非常識やろーと思われても仕方ない。

 12年前、高2の夏を少し過ぎた頃、全校生徒が集まる体育館で生徒総会が行われており、俺は、『さっさと終わんねーかな』と退屈していた。(おそらくは)同級生(だったはず)の生徒会長が「何か意見がある方はいますか?」と収束に舵を切ったので、定石通り、俺はやっと終わると思っていたのだ。
 しかし、俺の予見は外れた。ある上級生が天を突いたのだ。っま、どーせAグループ(ノリの良い集団の総称)のヤツがノリのいい適当なこと言って終わりだろう、と思っていたら、よく見ると手を挙げたヤツは明らかにCグループ。すると、さらりと次のように言いのけた。

 「これで制服に関するルールはしっかりと定まったわけですから、校則で規定されている以外のネクタイやリボンをつけたりしている人は、今すぐに、はずすべきじゃないですか?」

 どよめく体育館。俺は、眠い目を擦って、彼の眼を直視した。決心を持った攻撃の眼をしている。ヲイヲイ、こいつ、今1人で、何百人を敵に回したと思ってんだ?!第一、お前Cグループだろ。Aグループの方を全員敵に回したと言っても過言じゃねーぞ。
 …などと冷静な判断をする以前の問題で、『あぁ、制服についての新ルールを決定してたのか』と「会」そのものの主旨すらあやふやな状態で、はっきり言って、俺は(当然、全然まったく)やる気がなかった。

 私立の中学から県立高校に入った俺としては、高校の校則なんて無いに等しかった。制服はあるにはあるが、私服同然な奴も多い。校則は確かにあるにはあるが、細かいところまでは誰も守ってないし、先生たちもいちいち誰も何も言わなかった。その誤魔化した態度を、ただの生徒、それも明らかなCグループが、意義を申し立てたのだ。
 たぶん俺にとって、全校生徒レベルで、CグループがAグループに明らかな謀反を起こした瞬間を目の当たりにした、最初で最後の例だ。柔和さをいっさい持たずに、平然とマイクで正論を述べている。

 ちなみに、そこから議論は1時間以上にわたって行われた。感情的で論理的な、あらゆる意見が出た。
 蚊帳の外である俺ら下級生は、成り行きを黙ってみてた。野次が飛ぶことはあったけど、基本的には、1つのマイクを交互に話す感じ。数とノリの論理で押し切ろうとする校則を破り続けたいAグループ、どちら側についたら無難か、よくよく考えて隣と話し合っているBグループ、正論で押し切れると思っているCグループや無関心を貫くCグループ。あそこまで、マクロスコピックな系のグループ性の体現は、後にも先にも、俺は観たことがない。

 しかし、もっと大変な焦点がある。最初にこの議論を勃発させた、あのCグループの上級生は、このあと、どうクラスへ戻っていくのだろう?自らの恐怖を自覚しているのだろうか?俺はそのことをずっと考えていた。
 彼にだって、クラスメイトがいるだろう。嫌々ではあれど、話す相手くらいはいるはずだろう。そして、そのことが予測できないほどバカじゃないはずだ。

 あの頃の俺では、わからない。でも、今ならはっきりとわかる。
 人間は、それよりも遥か上のレベルの恐怖が別の集団で存在していると、それ以下の恐怖に対して、どうでもよくなってしまうものなのだ。

 あれから、もっともっと我を通して行く瞬間を見てきたし、俺自身も無難じゃないコメントを無難じゃないタイミングで言うことも、沢山してきただろう。潜在意識の中に、このときの出来事はあるけれど、もっともっと別のドライビングフォースだって、確かに存在している。
 
 今現在抱えているこの恐怖に対しては、どんなに冷酷なことでも行えると思っていた。だから、この恐怖と一切関係のない系なら、余計になんでもできると思い込んでいた。でも、この歳になって初めて、俺にも限界があることを思い知らされた。冷酷に徹することができないこともあるんだと、そういうことが自分には存在していると気がつかされたのだ。この経験はとても有難い。

 本当に怖いことに比べれば、恥をかこうが、バカにされようが、うざいと思われようが、大丈夫。というよりも、目的遂行のためだったら、なんだって、どんなことだって、いくらでもできる。
 そう思っていたが、俺にも限界そのものはあるんだと実感させられた。

 だとしたら、訂正しておこう。
 俺は、感情の要素数を限界まで下げていき、俺の限界ギリギリまで冷徹に論理を構成し、それを実行しようと思う。それが解決への糸口。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当の気持ちなんだ

2015-06-26 00:31:21 | Weblog
 確実に解決するには、味方をも欺くしか術はない。
 想定しうるすべての状況を分岐をしながら、10手以上先読みをする。大丈夫、、少なくとも、俺のディフェンスは、その手の専門家をも欺けたのだから。別途オブザーバーを用意しなくとも、自分ひとりで、仕掛け方と見破り方の両方を最大限使って、無理矢理に改善させる。助け出す。

 論理的な思考を何ステップも着実に繰り返していくことと、仮説に仮説を重ねていくことは、紙一重。結局のところ突き詰めてしまえば、自分の論理性に自信があるかないか、というところしか違わないかもしれない。
 自分の論理性に自信がないと、他の誰かが思考の体力を最大限使うことで論理を繰り返して着実な予測を立てることにチャレンジしているのを目の当たりにすると、それがどうにも気に入らなくて、「でも実際わからないよね?」「ちゃんと調べたほうがいいんじゃない?」と、調べたとしても果たしてその結果が本当に信用ある正解かどうかもわからないのに思考停止を推薦し、自らの自信のなさと、論理性の低さ(正確に言うと、論理性を向上させようとする意欲の低さ)を、相手にも強要する。
 でも、自分に自信があれば、何に価値があるのかを自分固有の評価として判断できるようになり、とりあえず自分の論理性ですべてを考え切ってみて、本当に必要ならば後できちんと調べてみればいいや、という、至極当然で健全な態度になる。(どんな分野の人であれ、それが、真っ当な態度だと思わないのであれば、少しゆっくり自分を見直したほうがいいように思う)

 自分が勝手に考えた自分固有の評価基準なんかよりも、そんな全ての言葉を呑み干して、他人の評価を気にすることは当然だろ!という姿勢では、(我が国の多くの自称エリートのように)有能なロボット君にはなれても、系をより良く改善し、人類にとって本質的に必要な人材になることはできない。
 確かに世間の評価はある程度気にするべきだ。しかし、君が気にしている評価は、極狭い世界の、そのまた小さなセクションのなかでの評価だろ?世間一般の評価を気にするべきであって、「偉い」人の評価だけを気にする怠惰な姿勢ではいけないのだ。
 だから、学歴やヒエラルキーやIFなどを必要以上に気にするよりも、あらゆるシガラミを仮想的に排除し、自分でその扱ってる内容の価値を感じることができれば、何も恐れることはない。だって、曖昧な評価基準のなかに身を置いて、曖昧に評価され続けるよりも、自分の理想を突き付けることで悪法や不条理な制度に完全に否定されるほうが、ずっとずっと希望なのだから。

 そして、あなたからみると、きっと俺は、不条理で権威的な評価制度によって、評価され続けているように観えるのだろうと思う。希少な会話が贅沢にも途切れるたびに、決まって俺は今の話ばかりを繰り返して、傷つけないように、傷つかないように。
 様々なブラフをかけながら、実は本音は裏の裏で、「本当の気持ちなんだ」と主張し合う憎たらしさは、お互いに何度も何度も重ねてみても、色褪せない。何度でも何度でも、きっと一日に何百回行っても、楽しい。

 ここから帰りたくないと思いながら、いつも絶対に帰って行くとき、次こそは、と思ったりするけれど、冷酷な俺の論理性が追いかけてきて、とてもじゃないけれど、今のこの状態で、この状態のあなた側に飛び込んでいくわけにはいかない、と宣告される。
 時計の針を気にしながら、『次はいつ会えるか?』と聞くことさえも怖くて。

 いっそ酔ってしまえば。いっそバカになってしまえばいいかも?

 勝負の時はおそらく近い。
 仮説じゃないよね?論理だよね?演技できるよね?一瞬で読めるよね?と確認しながら、欺くことでその責任を俺だけに集中させ、いっさい笑えない悲しい現状を変えるために、その似てる笑顔にアプローチしていこう。

 Even if, Hirai Ken, VOSTFR
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「絶望は罪である」

2015-06-24 00:21:28 | Weblog
 "自然科学は実証学問だから、実験を一切しない、いわゆる理論家は、舞台の外から指を銜えて見物している評論家にすぎない"
 "自然科学はサーカスではないので、実験屋は必然的に構築されていく壮大な理論の僅か1点の実証にしかなりえない、それも生涯を通じて"

 俺は、実験を重視しない理論屋も、理論を重視しない実験屋も、好きではない。実験と理論、双方に意味がある。

 しかし、これらが対等な位置関係を示しているとも思えない。結論からいってしまえば、実験を鑑みない理論屋は、理論を知らない実験屋よりも、徳が低い。そもそも比率からいって、理論研の人間のどれほどが、実験を行っている研究室を実際に訪れ、そこで生の「現場」を自分の肌で感じ取り、(不器用さや当然のことを知らないことを露呈されて)恥ずかしい思いをし、泥臭い努力をすることで、「あれか?これか?」と本当の内情を知ろうとしているだろうか?ちなみに実験屋は、超最低限として自分の安全に関する原理は理解しているはずである。
 (たとえ様々な政治的要因があるにしても)恐る恐る自らの意志で実験している研究室を訪れ、簡単な実験の一つでもしてみようと思ってみたことすらないくせに、理論屋が「そのぶん、自分は賢いから」と、精緻な論理を自分の頭の中だけで構築し、どんなにすごい論文を書いても、無意味なことは明確であり、ましてや壮大な理論など泡沫に過ぎないことは明らかであろう。

 まぁ、だからといって、実験する人間は、自分たちの実験の詳細にレゾンデートルを置くがゆえに、その内情を知るためには、その研究室に実際に所属するしかないほどの閉鎖性を持っている(だから理論研の人もふわっと訪れにくいのかもしれない)。超細かい、しかし重要な操作、というのは実験にはつきものであり、それをすべて言語化するのは不可能だが、それをどうにか表現しようとする努力が実験屋には足りない。
 確かに、実験の詳細なプロトコルをすべて示している論文は見たことないし、プログラムのソースコードをすべて示しているような論文も見たことない。

 こういうことに気が付いてしまうと、閉鎖的すぎる理系のアカデミックの世界そのものに、絶望する。ある研究室に一度入ってしまうと、外を知ることが許されないほどに閉鎖的であり、その閉じた系を破境していくことを誰一人として望んでいないように見える現実に打ちのめされる。
 そして次第に、そこから身動きが取れない自己自身を絶望する。絶望している状態かつ自分自身であろうと欲しない言動が続くのだ。

 それすら、さらに超えてしまうと、絶望していながらも、自己自身であろうと欲するようになる。絶望のなかにいる自分から抜け出す努力をせずに、そのままの自分であろうとする。(俺の言葉でいうと「穴に落ちたライオン」)
 「どうせ私の気持ちなんて、誰もわかってくれないんだから!」と先手を打つことで、絶望のある種の心地よさに胡坐をかいていることを肯定化し始めてしまうのだ。こうなると、あらゆる助けを頑なに拒絶するようになる。なんとも女々しい状態であり、圧倒的な環境撹乱によって自分が変化することを望むようになる。だから、地震が起きてほしかったりするわけでしょ?

 今回の趣旨からはどうでもいいことではあるが、アカデミックの世界にいる人間のほとんどが、この最後の絶望の状態、つまり、絶望しながらも自己自身であろうと欲しているように、俺には感じられる。
 よーするに、理想を追求することを諦めてきた時間があまりにも長くなってしまって、それを否定することができない、ってところかな。

 そんな人たちに、冷酷な言葉をプレゼントしよう。彼も第二部のタイトルではっきりと言っていることだが、「絶望は罪である」

 『今更になって、守っていたレゾンデートルが、とてもとても小さいことに気が付いてる。こんなことで自分を保たなくちゃいけないなら、早く言ってくれればよかったのに』
 「だから言ったじゃない?私は大したことしてない、って」
 『問題はそこじゃない。それほどまでにツライということを、俺に宣言してくれれば良かった』
 「言ったとしたら何か変わったと思う?」
 『…、結果は同じだったかもしれない。でも、それも問題じゃないかも。比較せざるをえない状況下の中で、俺は貴女のことが確実に。。その事実だけで、少なくとも俺らは、楽しかったんじゃないかなぁ』
 「そんなことに意味がないでしょ?だって、どうせ。。それに、結局、貴方は何も変えていないじゃない?」
 『本当にそう思う?ホントに?この文章だけだって、どれほど変わるかわからないと期待している俺は、やっぱり現実がみれていないかなぁ?これの上のほーを読んで、1人でも何かしらの意識が変わって、実験をしてくれたり、理論を構築してくれたり、そんなくだらないガキの遊びを超えて、誰かのために無駄な努力をしてくれたり、より良くしたいって思ってくれたり、、たった、それだけだって、俺の思惑通り、変わっている』

 絶望を絶望のまま信じるのではなく、その不条理な物理法則そのものを価値あるモノとして信じ切れた時、きっと、絶望の淵から自分の意志で抜け出せると俺は思う。
 それまでは、(この件に責任がないわけではない)俺が、せいぜい天と地をひっくり返せる程度の撹乱を起こし続けることを、ここに誓おう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Purge

2015-06-22 00:32:58 | Weblog
 教育等にかこつけて自分の価値観を相手に強要し、その価値観を自分と共有することを当然のものとして扱い、その価値観が達成されるためには自分が絶対的に必要なのだ、と暗示をかけていくレゾンデートルの創発の仕方は、圧倒的な物理現象がやってきたときに、簡単に崩れ去ってしまうものだ。

 どんなに最終的には自分が負けてしまうと分かっていても、その時その瞬間に負けてしまうことを避けるためにと、先延ばしにばかりして、価値観の軸を相手の価値観からずらし続けて、自分の存在意義を主張し続けても、向上しようとする者にとっては、相手にならない。
 なぜなら、そいつがいることによって自分の存在が否定されてしまうからこその価値観の形成というのは、脆弱で儚く、人類の進捗にとって、まったくの無価値といっても過言ではないからだ。

 だから、最後に「絶景」を見たいのであれば、自分の気持ちに素直になりながら、自分の心の声をよく参考にして確かな価値観をもったほうがいい。
 じゃなくちゃ、なぜか言い返せない、言葉にできない怒りのなかで、苦しみもがき続けることになってしまう。不当に束縛し続けることで多くの若者を苦しめている状況を、俺が解決しつつある現状に目を背けさせるための暗示は、確かに効いている。

 しかしながら、最後の最後には、当事者が変わってくれるしか術がない。貴女が自分で言い放ったように、俺はコウソにはなれるがキシツにはなりえないのだから。
 彼の存在意義を無くさないための価値観を強要され続けてしまっていることを大義名分に、努力と貴重な時間をただの繰り返しの中に落とし込む、「行動しても無駄だとわかっているから。マイナスになってしまうかもしれないから」と居直る、いわば、そのなかで奴隷になることの「怠惰さ」を、俺が見抜いていないとでも思っているのか?俺がそれをいつまでも許容すると思うか?

 突然やってくる最後の評価。どれが本当のリミットなのか一切教えない俺の方法は、ある意味では、本当にものすごく冷酷なのかもしれないが、それは本当の意味でより良くするためには絶対に必要なことなのだと、俺自身に課している。

 たいていの場合、俺が評価してる、ってことはわかられてる。そこまで読まれることを、こちらは当然読んでいる。
 それに対して、知識自慢を繰り返すほどバカではなく、自分は有能です!ってコメントをしようとする拙さを超えて、俺が見抜こうとしているのはその先。だから、俺は、能力なんかで、君らを評価しないって。能力なんてものは、どうせ一過性のもの。どんなに有能な人でも200年後には、能力そのものに価値はない。

 そんなことよりも、、まぁ、さしあたりは、負けた、負けている、いじめられた、いじめられている、ということを、きちんと俺の目をみて話せること。話すことで過去形にしてしまうこと。
 それが、失敗を現在形から過去形に引きずっていける唯一の方法なのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一流と二流

2015-06-18 00:44:57 | Weblog
 自分の仕事に対して、「これでよいのだ!」と居直らなければ、その人は間違いなく一流だ。

 これには2種類の場合分けができる。
 まずは、自分の理想を貫こうとしすぎて社会的評価が得られていない場合。もしくは、社会的評価を求めるあまり自分を押し殺し過ぎている場合。
 どーしても、「ま、いま完全に皆に負けているけど、これでいいや。だって、俺は俺の理想をここまでは貫けてるわけだし、誰からもいっさい評価されないけど、これでよいのだ!」とか、「完全に言われたことやってるだけだけど、これでいいや。社会的評価は得られているわけだし、ガチくだらない作業をやってる毎日だけど、これでよいのだ!」と、自己肯定しがちだ。

 所を得るために理想を捨てたとしても、理想を貫くために所を得ないことを選択したとしても、どちらでも一流の可能性はある。しかしながら、満たされていない側面について、「これでよいのだ!」と居直った時点で、二流だ。なぜなら、カッコ悪い。

 居直ってるヤツは、自己矛盾のかたまりだとも思う。

 理想を貫くゆえに社会的評価が得られないことを肯定化しているくせに、その評価制度について不平不満を言ったりする。システムが悪いだとか、能力がきちんと評価されていないだとか、そういうことを言い始める。能力がある者が評価されるべきであるという価値観は非常に拙い。能力者は道徳的な人格とは限らず、無能な者だって人格者は沢山いる。冷酷な態度そのものに道徳心のカケラもなく、揶揄している相手と根本的に同じ精神構造であるのに、社会的評価を所として得ている者だけを否定するという矛盾を抱える。

 社会的評価を得るために自分を押し殺すことを肯定化しているヤツのセリフは決まっている。「生きていくためには」「生活していかなくちゃいけないから」。そういうスタイルのヤツは決まって一緒に生きていく相手をも、社会的評価とステータスで選んだりしている。家柄やグループ性、地位や権力を除外して、根本的にその人が好きかどうか、ぶつかってもみないくせに、無駄にコミュ力だけ高くなることを欲する。すべての人間関係について自分にとって無難な相手を選び、そんなどうでもいい相手に対して、"あなたのために"?とことん自分を押し殺しきっている。確かにそういう人生にも風情があるだろうが、それは「生きていくため」なのだろうか?もはや死んでいると言えてしまうのではないか?

 俺自身も文章を書くことで、社会を否定していきながら、社会から尊敬される唯一の職業があればなぁと思うことがあるが(それは小説家や物書きといった類の職業なのだろうが)、差し当り、このブログの今のアクセス数でアフィリエイトやってみたらどれくらいか計算してみたら、月に数千円でした。こんだけ毎日書いてるのに(笑)。それでもマシなほうみたいですが、とてもじゃないけど生活できない。
 っていうか、こんな価値のないブログをよく読んでくれますよね(笑)。

 物書きじゃなくても、社会的評価を得て、理想を貫く方法はいくらでもあるだろう。
 それを信じて居直らなければ、一流なのである。

 例えば、手っ取り早いところでいえば、もともと専門が生物学の人が物理学を理解するのって、ものスゴイ泥臭い努力の仕方をしてるわけで、その必要性の直感は大正解だし、理想を貫くことと評価を得ることの両立を図ろうとしている一流の研究者に違いないと思う(そうであってほしい)。まぁ一応言っておくと、、少なくとも物理をゼロから始めるときは、俺が生物学をお勉強し始めたときの10倍くらいは大変なんだと思うんだけど、俺自身も、後から物理学を学習するにも拘らず、最初生物学を選んでしまうような、どんくさい直観力のないヤツに負けたくはないので、だからといって、まったく容赦はしませんが。

 俺の悪い癖で、特異的に素晴らしいものを偶然に観てしまうと、原理的に可能なんだ!、って思って、それくらいなら誰でもできるんじゃないか?と、他人に対しても思ってしまうところがある。

 そう、、大抵の人は、二流にもなれない。
 せめて、自分を完全に押し殺して、社会的評価を得ようとしたが、何も得られず。せめて、所を得ることを捨て、めいいっぱい自己表現しようとしたが、いっさい満足できず。

 その点、俺の周囲には二流以上ばかりがいる。これは、本当はスゴイことなのかもしれない。

 だとしたら、もう一歩。自分にとってどうでもいい人のために、それも高々数十万円程度のカネで、自分の理想を捨てたり、、自分の理想を貫くために、何年も何年も成果を上げないことを肯定化し続けたり、そういうことは、もうやめよう。

 これは俺自身に言ってる。
 俺は、俺が心から好きな人を、自分の好きな方法で、助け続けることを選ぶ。そして贅沢なことに、そのスタイルが、あかの他人から見て、なるべく滑稽でなければいいな、カッコイイと思ってくれればいいな、と思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界を分けてもわかるわけねーだろ

2015-06-16 00:34:06 | Weblog
 今の高校までのカリキュラムの殆どは還元主義によって成り立っている。
 だから、「世界は分ければわかる!」と思っている人はかなり多く、物理学科では素粒子・原子核の分野が人気を誇るのである。というわけで、物性理論をやるヤツなんて邪道、みたいな扱いをされがちなわけだ。まぁ実際のところ、素粒子・原子核の人達が道具として扱う、相対論的量子力学や量子色力学は、統計力学や物性論よりも難しそうに思えるわけで(相対論的量子力学とハドロン物理は授業でとっていたが、俺にとってはかなり難しかった)、彼らが俺らが王道!と思うのは、ある意味では仕方ない気もする。

 だが、実際のところ、「世界は分けてもわからない!(福岡伸一著)」

 俺は、かなり早い段階(学部2年くらい?)で「世界は分けてもわからない」ことを、原子核理論を専門とするある教授から個人的に注意され、訊かされていた。それでも自分が生物系の方向へ進むとまでは思わなかったけど、今となってはそういうことも、今の分野にいるキッカケの一つだったのかもしれないと思っている。

 「世界は分ければわかる!」と信じ込んでいる人達は、実は(理系の中でも)かなりのマジョリティーであり、こういう誤解を解くのは、意外と大変だったりする。
 統計力学をきちんと勉強したつもりだが、熱力学導いてるだけじゃん!って、あまり価値を感じられず、理論研に入って修士課程までの間にFetter and Waleckaなどをすごくちゃんと読み込んで、初めて「あれ?世界は分けてもわからなくね?」と思う人も、実はかなり多かったりするのじゃないだろうか(これは流石に言い過ぎだよね?)。

 例えば、あなたが高校生で、同学年約300人のなかで、もっとも決定権の強い存在(A上グループのキング)になりたいと思ったとする。しかし現状、あなたはCグループ(一番ノリの悪いオタク集団)に属しており、仕方ないので、論理的にA上グループになるにはどうしたらよいか?と考えたとする。
 その時に、300人をひとまず、より詳しく知りたいと思うはずだ(そこまでは良い)。だから還元主義に立ち帰って、300人のうち名字が「あ」から始まる人から順に一人ひとりと話をして理解していこうとしていたら、果たして本当に自分がA上グループになれるかどうか?、考えてみるとイイ。

 考えるまでもなく、なれるわけがない!時間がかかり過ぎるし(高校生活が終わるまでに、その方法で達成できなければ、できたとしても机上の空論!机上の空論は自然科学ではない)、何よりも、一人ひとりが線型に重ね合わさって300人を為しているという保証はどこにもないからだ(重ね合わせの原理は自明ではない)。
 こういった還元主義をあからさまに否定してくれるのが、統計力学なのかもしれない。「どーせみんな一緒でしょ?」って「圧倒的に、ちょー、ありふれている」粒子の定義をきちんとすることによって、1モルのだいたいの描像が記述されていく。
 同じように、流行っているモノ、ヒエラルキー、みんなが持っている価値観を圧倒的な平均場として見定めていくことで、A上グループへと昇格できる(俺はA上グループになったことがないので本当にできるのか知らないけど笑)。
 ここで重要なことは、あなたが論理的に考えなくても、自己組織的にA上グループのキングは確実に存在している、という事実だ。であるならば、そこに何かの物理が働いていると考えるのが自然であろう。

 で!、何が言いたいかと言うと、、還元主義を信じ込み、ゆえに枚挙的な価値観のなかに自らのレゾンデートルを語る行為は、Cグループの特に悪い部分が非常に色濃くでてしまっているということだ。
 こうなってしまうと、よそのみんな(の定義は、つまるところ、子ども、が最も適しているかもしれない)が、自然に興味を持つことから、どんどん乖離していき、どーでもいいことのなかの、どーでもいいことがらを、一生懸命、精緻化しているようなことこそが研究なのだ!、そして自分がやってる研究以外は何も興味が無い!、分野が違うのだから理解しようともしない!、いや理解できなかった時に自らの思考力の無さが露呈するのが怖いから、頑張って理解しようとなどせずに、分野が違うということにしておこう!、というような、研究者として最低の態度が成り立ってしまうのだ。

 還元主義で枚挙的だから、「他人の価値観を認める」などというキレイゴトを、平気で吐けるわけでしょ?
 還元主義で枚挙的だから、長ったらしい自分の研究のタイトルを恥ずかしげもなく平然とドヤ顔で語れるわけでしょ?
 還元主義で枚挙的だから、若者が、本質的で自身の研究テーマについて話を大きく紹介すればするほど、枚挙的なはずだ!と、根拠なく否定したりするわけでしょ?

 というわけで、(研究業界に限らず)みなさん、本ばかり読んで、1人で勉強してないで、少しでもAグループになれるように、とにかく元気よく外で遊びましょうね。笑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝負が終わったと勘違いさせること

2015-06-15 02:19:10 | Weblog
 何か重要な目的があるなら、プランを2つ以上用意してから行動するべきだ。いわゆるプランBの存在こそが、行動していく上での安心感を与え、プランAを思いきって遂行することができるからだ。

 ここでポイントになってくるのは、予期し過ぎないこと。すべてを予期しようとすること前提で取り組んでしまえば、策士策に溺れる。
 どうせすべてはこちらでコントロールできないわけだから、確率的にほんの少しでも可能性があることについては、100%取り組んでおき、あとは待っておく。それが必勝の極意だ。
 すると、どうしてこれを予測していたの?、というような評価を後から頂戴できるわけだ。

 それから、コンペティターたちには勝負が終わったと勘違いさせること。最後の最後まで勝負はわからない。にも拘らず、油断してしまいがちだ。本当に終わってしまったとしても、目的遂行に諦めない。このカッコ悪い執念こそが必勝の成功率を高める。

 それは、ここのページで俺が言葉を刻むことも、その一環である。

 みんな、このページを見つけた時、俺の裏が取れたと思ってしまうのではないか?それはかなりの勘違いで、自分でも、俺よりも秘密主義なヤツなんていないんじゃないかと思う。
 ここで俺の意見や考えを読めると思ってくれて有り難う。その勘違いこそが、俺の狙いなのだから。その勘違いの中で、少しでも、(こちらが歯牙にも掛けていない)読んでくれた人にとって、新たな価値観の灯が宿ったり、何か違う発想を抱いてくれるのなら、これ以上の目的達成はないのだし。

 さぁ、まだまだ終わってない勝負のなかで、確実な勝ちを取りに行こう。
 切り札は、いくらでも向こうからやってくるのだから。

【キカナイト】メンタリストDaiGo 人の心を読む方法!やっば…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

守るべき存在ができると

2015-06-13 02:50:50 | Weblog
 自分が理解できないことは一切の価値が無いと思い切れれば、これ以上にラクなことはない。
 表面上では、「分野が違いますから」「価値観が違いますから」と無難な言葉で誤魔化している人ほど、本当は自分が理解できうる内容の手っ取り早い価値観を他人に押し付けがちなのだ。

 「大人になる」ということを「自分の能力と実現可能な将来の限界を知る」ことだと定義し、「めんどくさい」と思い続けることが「大人である」ことと同値であると定義している人は多い。
 だから20代のくせに、今から老後の心配とかしたりして、「これが大人ってことでしょ?」とドヤ顔しながら、その価値観を当然のこととして、押し付けてくるバカが多いのだ。そんな程度の思考力で、今から老後のことなんて、予測付くわけねーだろ。

 一番大切な、自分自身の素直で純粋な気持ちを、真っ先に捨てながら、社会にアジャストしていくことは、決して大人なんかじゃない。それは、いつまでも父親の庇護のもと、自分を押し殺して社会(親)の言うことさえ訊いていれば、同じ生活が繰り返しできると思いこんでいる、おこちゃまに過ぎないのだ。

 自分の実力を向上させることよりも、責任の所在を不明瞭にしながら、政治的な枠組みを重視するスタイルをとる、ということを、さらに超えてしまえば、自らの政治力そのものが、まるで誇らしいものであるかのような錯覚に陥る。
 自分は(多くの人の場合、18歳までは)そこそこ実力を向上させてきたはずだし、という過去の栄光によって自分の能力の無さを正当化し続け、お金をもらうようになったんだから「大人」になって、政治力を身につけたのだ!、だから、「学生」と「社会人」は違う!、「勉強」と「研究」は違う!、などという薄っぺらい考え方を抱きながら生活をするくらいなら、ただのバカのほうが、いくらかマシである。

 でもね、、守るべき存在ができると、そんな理想、語れなくなってくるものよ。
 自分が思ってることをそのまま言ったり、自分の能力を向上させることを一番に考えていたら、その場所にいられなくなってしまうかもしれない。みんなと同じように、って、とりあえずは足並みを揃えておかないと、安心できないでしょ?その安定性を捨て去って、明日どうなるかもわからない不安定性を、守るべき存在に強いることは、私にはできないから。

 じゃぁ、生きている意味はなに??

 私が?それとも??

 いや、、その、無理矢理に継代されつづけていく系列そのものの、生きている意味は、なんなの?

 そういうことじゃない。増える、子孫繁栄、ということは、一つひとつの生命が持っている本質なのだから。

 それは、生命の本質が、いっさい理解できていない。
 なぜなら、実は、守ってくれる存在が一生懸命に無難さを求めている姿を一番観ていたくないのは、守るべき存在自身なのだから。そのことを、無難な自称大人は知らなすぎる。

 欲しいものは、ただ、愛おしく思ってくれる気持ち。ただ、それだけで十分なのだと、俺は想う。それが何よりの安心感だと俺は定義している。
 そして、その程度の理想は、どんな無難さよりも、遥かに現実的で安定であり、確実に実現する簡単なことだと想っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮き彫り

2015-06-09 23:58:43 | Weblog
 自分を構成する要素の中で、占める割合が少ない要素についてを表面に強く浮き彫りにすることで、本当の自分が出力されていくことはよくあることだ。
 例えば、他人にイジワルしてやりたい、という気持ちがそこまで多くはないが確かに存在しているような、総体的には優しい人が、あえてイジワルな面ばかりを日頃から演技で出していたとしたら、逆に優しい本性がめちゃくちゃ強調されて「イイ人」みたいになることはよくあることだと思うのだ。

 意外と、みんな、表現系に騙されず、その奥にあるまったく逆の理由を予測する賢さにだけは長けているし、それ以上に、誰かがそう見抜いてくれることを期待してしまったりする。
 男をとっかえひっかえしてる女の子には「実はすごく純粋でしょ?」、すぐに「現実的に無理だよ」とかいう先輩には「そんなこと言って本当は諦めたくないんでしょ?」、そういう言葉に弱いのはそのせいだ。
 特に根拠はなくても、こういうこと言ってりゃぁ、次の照れ笑いの中から本性が読める。コミュニケーションの基本。

 逆に、コミュニケーションをするにあたって物理的な困難が生じるような関係性であると、心と心が、ただ通じ合っているかどうか?、の判別が早くて正確だ。
 確かに、重複障害を持つ人は自分の敵か味方かを見抜く力が俺よりも素早く正確であるし、俺自身も海外での外国人とのコミュニケーションでは馬が合うか合わないかを一瞬で判断できている。たったのその一瞬で、一過性か長期的か、見抜けている。生きていくために絶対に必要な能力というのは、何も努力しなくても、何の情報やテクニックが無くても、勝手についているもんである。

 この視点にたったときに、「伝え方」などで左右されてしまうような研究者は(伝える側、伝えられる側双方に)価値がないし、「伝え方」などで結果が変わってしまう恋愛はニセモノだし、コミュニケーションがいっさいできないような関係同士であろうが、心が通じ合うことはいくらでも原理的に可能なのだと思う。
 それを、人間力だとかコミュ力だとか、そういった薄っぺらい言葉で、他人任せが正当化されてしまう評価基準は、あらゆる文化を衰退化させてしまうのかもしれないね。こういう「なぁなぁ」な空気感は、市場の論理から逃れられるという「甘え」に他ならないのだ。

 いや、もしかしたら、そういう「甘え」をあえて表に出して浮き彫りにすることで、、浮き彫りにしたところで、どーせ、どんな深みも出てこないんだから、演技してないで、無難じゃないと勝手にお前が勘違いしている、素直で薄っぺらい本性のお前を出せよ。

 そんな、情けない顔が、俺は一番観たいのだ。というイジワルさを浮き彫りにすることで、俺の優しさを感じるかな?笑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥になれ

2015-06-08 23:39:33 | Weblog
 ニュートン力学で成り立つスケールにおいて(正確に言うなら、考えている系のスケールが着目物体のド・ブロイ波長よりも遥かに長い場合において)、運動の第三法則として作用・反作用の法則が成り立つ。

 これは、論理的なおしゃべりの場でもある程度は同じことで、あまりにオフェンスの力を強めてしまえば、こちらがディフェンスするときに(タフな人じゃないとその瞬間に)、ものすごいパワーの強いオフェンスが返ってきやすくなる。みんな、これが怖くて、ゼミや学会で、まともな「本当の」質問やコメントができないで、無難で、ありきたりな、もしくは「人それぞれの価値観」論に持って行っちゃうわけでしょ?
 相手のオフェンスが強かったから、などという理由で、次は俺もこういうこと言っちゃおぅ、なんてヤツはサイエンスをやる、、いや発言をする資格すら無い。っで、そのような非論理性が、ものすごくよく切れる言葉の刃物を持ってしてオフェンスしてきたとしても、自分の論理が正確で冷静であれば確実にディフェンスできる。だとしたら、むしろ、自分の論理性を試す良いチャンス。
 かといって、殴られたりしたら怖いですから(笑)、相手が怒るか怒らないか、のギリギリを狙ってオフェンスするのが、攻撃的になりながら、正しい情報を確実に引き出すコツなのだ。

 今、あらゆる状況の中で、あらゆる軸で切って観たときに、俺が引き出したい情報がきちんと引き出せ、系を動かせている。俺の狙いに誰も気がついていない。
 鳥になって空を支配しながら、作用・反作用を考え、着実に出すべき答えを出していく。これが自分の予想通りできているときは独特の笑みをこぼすことができる。

 俺は自分の理想に関する着地点が最後まで完全に観えているときにしか、明確に行動しない。これはそれこそ、俺が世界中で俺だけに課す課題であり、そこにほんの少しのファジーな誰か大切な人の気持ちが入っていればそれで良い。

 今は好転。問題は暗転したときに、どれだけ理想を俺が明確に描けるかだ。

遠藤保仁 サッカー論 (参考は8:17頃~)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい「制限しりとり」の例

2015-06-08 02:27:58 | Weblog
 あらゆる社会的勝負では、感情的にならず論理的にモノゴトを進捗させていき、ポーカーフェイスを最後まで貫けたほうが勝つ。

 この訓練となる遊びの最たるものが、「しりとり」だ。

 というわけで、今日は、俺があらゆるシーンで提案してきた、ほど良い「制限しりとり」を紹介しようと思う。
 黒い星の数が難易度を示しますので参考に遊んでみて下さい。行動を共にするのが長すぎる友達、オールで話題が尽きた時、ディズニーなどの待ち時間、旅行中、さまざまなところで、「しりとり」は使えます。

 ちなみに、ある程度、制限時間も設けたほうが面白いですよ。


 1.「生きてるもの」しりとり ★☆☆☆☆

 これは「制限しりとり」の基本中の基本です。小学校中学年以上なら参加できます。
 『じゃぁ、しりとりやろうぜ』
 「えー、マジで?」
 『ただし、生きてるもの限定でね』
 って俺がしりとりをふったら、あなたのことをボキャブラリーないだろうと決めつけバカにしてる、と思って下さい(笑)。生徒とかとやる分には良いですが、大の大人がやるものじゃぁありません、ってくらい簡単です。だって、りんご、も、ごりら、もOKですから。アデノウィルス、とか微妙なこと言わないでね。

 2.暗記しりとり ★☆☆☆☆

 これはテーマを制限するものじゃなくて、逐一全部、今まで出た言葉をすべて言っていくものです。昔、マジカル頭脳パワーという番組でやってたやつです。ただ、これも、俺が小学4年生の時、給食のグループでできた内容ですから、そんなに難しくはありません。
 他のと組み合わせてやってみたら面白いかもしれませんね。試した事ないけど。

 3.地名しりとり ★★☆☆☆

 世界の地名から日本の地名まで、なんでもありです。中学のとき、国名しりとり、を習いましたが、これはそもそも200くらいしかないので制限が付き過ぎてるうえに、「ア」で終わるものが多すぎてあんまり続かないんですが(しかも「アルメニア」「アルジェリア」「アルバニア」と意味のないしりとりが続く)、地名しりとりは、けっこう続きます。
 ちなみにローカルすぎるのは禁止にしましょう。メトロの駅はいいけど、バス停の名前とかダメよ。かといって、海外の地下鉄の駅の名前とかもダメです。

 4.「漢字で2文字、ひらがなで3文字」しりとり ★★★☆☆

 高頻度で俺がふる「制限しりとり」です。俺からこのしりとりをふられたら、まぁ、一般ピーポーの語彙はこのくらいなもんだろ?、とそこまではバカにされてないと思って下さい(笑)。必勝法は、「い」で終わるもので攻めるのがポイント。
 するとディフェンスも考えなくちゃいけないですので、ポンポンでるように(もしくは考えてるふりしてポーカーフェイスするために)、あらかじめ「い」で始まって「い」で終わる「漢字2文字ひらがな3文字」の言葉を抑えておきましょう。遺体、依頼、異界、意外、居合、などなど。
 実はもうひとつ、必勝法があるのですが、それは教えません(笑)。ちなみに、「漢字2文字、ひらがなで4文字」もできて、これよりも続いて制限具合も良い感じになりますが、経験上、あまり面白くありません。

 5.漢字3文字しりとり ★★★★☆

 これはかなり難しいです。でも、俺くらい語彙力がきちんとある人同士でやってれば、それなりに続きます。こないだは、この制限のしかたで、2時間以上続きました。
 ポイントは島の名前(択捉島、三宅島など)や、地名、漢字2文字+漢字1文字のパターンで(高級+車、屋台+村、林檎+酢など)、「島」は当然「ま」や「う」になるので、特に「ま」から始まる漢字3文字をすらすら言えるか(万歩計、毎週末、万華鏡など)が問われます。
 はっきり言ってレベルが高いので、いきなりこれをやるとグダグダになるかもしれません。

 6.四字熟語しりとり ★★★★★★

 こりゃ、もう、意外と超難しいです。全然続きません。それでも、語彙力ある同士でやれば、1時間は続きますが、かなり厳しいです。漢字2文字+漢字2文字とかではなくて、ふつーに教科書に載ってる四字熟語が言えたら、拍手が起こるほどの難易度。色んな意味でかなり無理をしないと続きません。
 語彙力だけは任せてくれ!、と思ってる方、お試しあれ。


 というわけで、6種類紹介してみました。まだ、やったことあって、紹介してないものもありますが、まぁ、一般公開できるネタとしては、こんなもんでしょう(笑)。

 人生は、いつだって、やめるか、つづけるか、のどちらかです。

 簡単に「やめる」と言わないことが「はじめた」人間の最低限のマナーだと想ってるから、俺はやめませんよ?
 最後まで続けることを、ここに誓おう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄昏の空

2015-06-07 01:05:37 | Weblog
 どんな人の人生にも、この瞬間から自分の人生があきらかに変わっていくんだ、という黄昏の空があるはずだ。
 俺も、これだけたくさん場所を変わってきたので、たくさんの空を見上げてきたし、そこには色んな想いがあったと思う。

 そのなかでも大学に受かった瞬間は格別であった。いま考えてみても、あの瞬間から俺の人生は明らかに一転している。それ以前の状況や悩みからすれば、今の悩みや不安など、まったくどうでもいいと想える。もしかしたら、あれ以前の自分が、今の自分を応援して、より快活にしてくれているのかもしれない。
 もちろん、今も悩みはたくさんあるし、その中には厄介なこと、どんな犠牲をはらっても絶対に失敗できないこと、誰かの人生や生命がかかっていることが含まれているけれど、俺が自分で解決できると信じ切っているという点で、遥かにラクだ。

 それほど大幅な変化であったにも拘らず、大学1年生のオリエンテーションのとき「物理学科」に俺自身の名前があったことに違和感を感じた。俺があくまで「物理学科」のただの一人になったことに、強烈に違和感があったのだ。
 その違和感は、1年後、4年後、6年後、そして9年後にも再発し、これからも継承されていくだろう。欲しいものは自由。着目している現象に対して、解けるメソッドを自由に使いたいというだけのシンプルな俺の願いは、現在の日本の研究潮流では一切受け入れられない。

 しかしそれだけではなく、、俺が「言葉」を得たあとにも、ハレの日を終えたあとにも、人生は繰り返し続いていくのだ、という至極当たり前の不純さを、あまりに理解してこなかった結果・履歴なのかもしれない。
 小説や映画だったら、これで終わり。でも、人生は、そんなんじゃない。成功した、言葉を手にした、幸せをつかんだ、その後にも、人生を歩まなくてはいけない理不尽さが続いていく。それは、達成前に頭でしっかりわかっていても、実際に訪れてみると、なんともやるせない気持ちになる。誰の目にもあきらかに人生は変わり、心から自分が幸せになったというのに。

 俺らは少しばかり、勘違いしているのかもしれないね。
 だって、お座成りな「おめでとう」という言葉を繰り返し、いつ見返すかも知れない写真ばかりを撮りながら、自分や誰かの幸せを後天的に理解することで実感していくのだとしたら、それは「幸せだった」という過去形でしか存在できない。
 現在進行形でホンモノの幸福を感じるためには、ケの日の、なんでもない土日の、、いや、もっともっと理想を言うなら、なんでもない平日のなかの、何気ない風景や振る舞いを感じ取れることに、胸をときめかせ、涙しなくちゃならないというのに。。

 だから、(明太子ではなく)チキンカツを食べているとき、家族でくだらないことで議論がヒートアップしたとき、研究室で誰かがくだらないことを言って笑っているとき、大切な誰かと何気ないボケツッコミをしているとき、そんなありふれた景色をみるだけでも、一過性の幸せを感じてしまうと、俺は泣いてしまう。数えてしまう。あと何回、こんな感情を抱けるんだろう?ってね。それは、何かの言葉を得た、などということよりも、遥かに尊い瞬間だからだ。
 この尊さを感じるために、ハレの日は存在している。すべてを表面的に落とし込むことで、逆になんでもない日のホンモノを胸に確実に刻むことこそ、ハレの日にすべきこと。

 さぁ、この大きな空に向かって、心つなぎ。話の続きをしようぜ。
 今日は、どんな一日を過ごしたの?

小松未歩 ‐ 遠い空で
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思考力を超えるもの

2015-06-06 00:30:02 | Weblog
 権威と政治の世界で何かの輝かしい言葉を得ることで、周囲を侮ることから生じる努力不足こそが、不必要なプライドを生成し、それらが自分に対しての驕りになっていき、自惚れていくことになる。
 こうなってしまえば、成功することは難しい。きっと、自分が一番バカにしている人達に、まっさきに負けてしまうようになるだろう。

 俺はめちゃくちゃバカにしていても、そこから何かしらを盗もうとする努力だけは怠らない。
 それは、俺の経歴を見ればそうせざるをえないことは明らかだが、それ以上に、遥かに大切なことが俺にはある。

 知識は理解を手っ取り早く得たことにしてしまう呪文っぽい性質を持っている。だからこそ、知ってる人に訊いてしまったほうがラクなのだ。その解釈は、自分自身で考えれば良い。いきなり誰かの解説を読んでいてはダメなのだ。
 考えてみることを怠って暗記に走れば、応用が効かなくなることなど、小学校時代に教わることだと思うが、どうもこういう手っ取り早さに縋っていることが多くなってしまっている、臆病な小さな器の小さな成功者に疑問を感じることが多い。
 自分で考えるだけの思考力がないゆえに、プライドが高すぎて、人に頭を下げて相談することができなくなっていってしまったら、成功とか失敗とか以前に、単純に悲しいだろう。

 一人ですべての責任を抱え込めば上手く行くはずだ、というCグループ独特の発想を捨て、俺ら全員の、最大の武器は、仲間だということを想い出さなくちゃね。
 何かをしたら何かがもらえる、などというニセモノの契約で成り立つ社会においてではなく、絶対的な信頼関係を形成させたホンモノの上に、正しく精緻な研究は進捗されていくのだから。

 さてさて、その仲間が俺にどれほどいるか、君程度の思考力だけで、わかるかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

X

2015-06-03 23:43:46 | Weblog
 物理学が専門の人からすると、俺の専門は生物学にみえる。
 化学が専門の人と、俺のことをよく知っている、生物学を専門としている人からすると、俺の専門は物理学にみえる。
 俺のことをよく知らない、生物学を専門としている人からすると、俺の専門は化学にみえる。

 みんな、俺のことをカテゴライズして考えたいらしい。でも、俺は、40人のクラスに1人もいない、、どころか1000人いて1人もいないほどの特異点、だと親しい友達は言う。

 文系の人は、俺のことを理系だと言う。
 賢い高校生は、俺のことをインテリぶってるバカだと思っている(これが一番正しい笑)。
 ここ最近、これまでに知り合ってきたノリの良い中高生の多くが、俺のことを、将来が安定していていいなぁ、でもCグループだよね、って表面上は羨ましがる。
 でも、修士で無難に卒業して就職した理系の友達からすれば、俺以上に、俺のことを、お前の将来は不安定だろ?、と心配してくれる(余計な御世話だ笑)。

 みんな、自分が持っていなくて俺が持っているものを目にすると、俺をわかりやすい言葉でカテゴライズしながら、「お前これ、もってないだろ?知らないだろ?」とくる。ええぃ、劣等感のかたまりめ!お前程度、俺の完全な部分集合、もしくはそれに簡単になりうるのだぞ、という可能性を簡単に除外してくれるな。
 そのような現実・事実から目をそらすな!しかし、中高生は目をそらすことを許す。そのために、中高生には率先して、ABCグループ理論(スクールカーストを俺が正しくリモデリングした精緻な理論)を教えてあげる。

 こういう俺の行為を、優しい、と思う御人好しもいれば、性格が悪い、と思う性格の悪いヤツもいる。

 ある人からみれば、俺は、幸せで贅沢に暮らしているようにみえるだろう。
 別のある人からみると、俺は、なんと惨めで孤独で偏屈な暮らしをしているのだ、というようにみえるだろう。

 観てくれる他人によって、俺の見え方はがらりと変わる。この性質は、みんなもある程度そうだと思うが、俺は多くの他人の何倍か大きいと思う。

 俺はX(エックス)そのものなのだ。
 そして、貴女にとって、、今日こそが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

果たして本当に俺の勝ちゲーか?

2015-06-02 00:06:04 | Weblog
 「っぷ、、はははははは(笑)」
 『そんなに?いや、何がよ?笑』
 「こりゃ、カワイイです(笑)。ダメですよ。たかはしさんに勝負を挑んじゃ」
 『そりゃねぇ、、このやり方だと、(俺自身も)残念だけど、俺を従わせることは絶対にできないよねぇ。知識で押し通そうと思っても、あとになって100倍に返されるだけだし』
 「というよりも、勝負を挑むこと自体、無意味です。どんなことやって、どんなふうになっても、俺の勝ちゲーだわー、なんて真顔でふつーに言う人に、勝負を挑んでも勝てないんですよ(笑)」

 俺は、殺されない限り、負けることは絶対にありえない。何故なら、能力を向上させることをいつまでも諦めないからだ。
 勝つために大事なことは、非常に簡単で、諦めなければ良いだけである。できなければできるようになってしまえば良いし、それでも失敗したら、もう一度、別のチャンスとか他のチャンスを掴めば良いだけなのだから。

 そして、自分と自分にとって大切な人の死のみを恐れること。これを自分に言い聞かせることで、行動的になれるし、あっという間に話が早くなるし、信頼関係を生むことも無難でいるよりは容易くなってくる。
 ワンチャンスに大胆に行動できるのは、ただ単純に信頼関係があるからこそできることで、そうじゃなくちゃ、一つひとつの行動が無難になるし、無難を超えて何も行動できなくなってしまうだろう。

 はっきりここに記しておくが、俺は能力で他人を評価しない。相手の能力が俺よりも低いと思ったとしても、相手の話を聴かなくなるということもないし、相手の存在を軽視するということもしない。敵はあなたではない。敵は、生命現象でもなければ、化学現象でもなく、俺らの敵は、残酷な物理現象だけなのだから。
 しかし、俺の周囲には一定数必ず、自分の拙い能力をくだらない専門性で俺に押し通すことで挑んでくる連中が絶えなくて、残念な限りだ。俺から離れていく要因は、いつも、俺よりも上でなくてはいけないという、ちっぽけで、くだらなくて、卑しい、誤魔化している能力に付随した劣等感だ。

 ただ、俺自身についても、、自分の論理のみで、系を確実に動かそうとすることが多くなってきているのは、自己評価として気になっているところではある。
 こうしないと、俺が唯一恐れる事態が起きてしまいそうで怖いのかもしれないね。幸い、これまで、誰にも気付かれず、この方法で、最悪の事態だけは避けられている。

 まぁ、今の解法や答えが、正しいのかどうか、間違いかどうか、今はまだ誰にもわからない。
 ただ一つわかることがあるとすれば、間違っていたとしても、いくらでもやり直せるということだ。だから、俺の勝ちゲー。

 間違ってたとしても、死にゃーしない。

 …っと、思い込もうとしている俺自身に気がつく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする