この世の中で何かを掌握したいと思うとき、大まかに分けるとすれば以下の3種類の方法しかない。
「刻一刻」「1点解析」「2点比較」。どんなに新しい掌握法であったとしても、必ずすべてはこの3つに帰着されるはずだ。
刻一刻とは、あらゆる物理量が時系列で表せるということだ。等加速度直線運動やqPCR、株価の変動などが代表的で、刻一刻と変わりゆく物理量について、きちんと解析できることが、様々な分野で最終目標とされていることだ。刻一刻とどのように移り変わるかさえ分かれば、すなわちそれはコントローラブルということだからだ。
1点解析とは、その1点を詳しく解釈することで、全体の構成を把握しようとする行為だ。マクローリン展開や運動方程式(想定されるくだらないオフェンスに一応ディフェンスしておくと、”運動方程式そのもの”は刻一刻ではない。ある束縛条件を設定した場合に、刻一刻が掌握できる)、1細胞解析などが代表的で、一つの事柄をいくつかの決まった方向性から解析することによって、全体像を把握しようとする行為である。刻一刻が通じなかった場合に、複数の事柄が絡まり合っているときに、有効であることが多い。
最後が、2点比較である。これは、上記2つではどうしようもなかった場合に、仕方なくとる手段である。2点と言っているが、別に複数点で比較しても良い。バイオ系の実験では、よくコントロールを取りましょう、と言われるが、これが2点比較の代表例である(qPCRだってコントロール取るじゃないか!と思うかもしれないが、絶対に必要ではないことに注意。蛍光の量はあらかじめどれほどかと予測計量できるはずであり、本来的にはコントロールは不要である(現実的にそうはいかないことは、当然知っている))。高校物理では、エネルギー保存則などがわかりやすい。熱力学も歴史的には、準静的過程の前後を実験的に比較することで発展してきている。妥協の方法かのように書いたが、とても大切な方法である。
今これらを掌握度合い順で書いたが、自分で新たな実験系として運用しようとした場合、「1点解析」「2点比較」「刻一刻」の順番になることが多い。
「だって、彼、私のこと、こんな感じで見てたのよ!絶対に私のことが気になっているに決まってるわよ」というのは1点解析。
「彼女に比べて、私に対して、何回も見てきたのよ?彼女の方が近い席だったのに。だから彼は私のことが好きなのよ」は2点比較。こちらのほうが、実験として設定するのがめんどくさいでしょ?
そして、「単位時間あたりに私に対して目を合わせようとした頻度が、前半から後半にかけて、増加していた。私は特に何もしていないのに。きっと、彼はずっと前から私を気にしていたけど、時間経過とともに慣れてきて、私と目を合わせることができるようになっていったんだわ」というのが刻一刻である。ここまで来ると、かなりその人に気をかけているか、よほど心理戦に強く鍛えられていなければ、なかなかその域まで達しないことがわかるだろう。
ゆえに、多くの人は日常生活の中で「1点解析」しかしない。「2点比較」もしないし、「刻一刻」を掌握することなんて、想像すらしていないだろう。
1点解析、つまりは自分のことは自分のこと、相手のことは相手のこと、それらを別々に分けて考えて、それで満足する人がほとんどなのである。だから、社内で意外に同僚の給与は知らないし、相手の学歴や職歴は気にしたとしても相手の家庭環境を比較検討してみようなどとは思わない。それは、社会人的な言い回しをすれば「失礼」であり、もっと素朴な言い方をすれば、「比較することはとても怖い」。
何かを比較した瞬間に、この世がうまく機能していないことが、この世がとても理不尽であることが、自分の努力が報われていないことが、簡単に証明されてしまうことに誰もが恐怖を覚えるのである。
俺は、理系と文系をよく比較する。「数学、理科、英語」ができなきゃいけないのが理系で、「国語、社会、英語」ができなきゃいけないのが文系で、その教科だけみれば、まるで平等かのように見えてしまうが、実際にはまるで違う。受験科目もさることながら、その後の大変さや不遇さ、自由度など、今回は(このブログ内にもたくさんそれに関しては書いているし)書かないが、あきれ返るほどの不公平がそこには存在している。
当然だが、そんなことを露呈化させても、誰も幸せにはならない。むしろ、真実を目の前にして、理不尽さに耐えきれなくなり、明日から朝起きて頑張って仕事や勉学に励むことなどできなくなってしまうだろう。理系分野の中でも、物理、化学、生物、数学のどれを選ぶかによって、かなり変わってしまう。その差異が切なくて理不尽で仕方ない。
それでもなぜ比較するのか、と問われれば「知りたいから」。このシンプルな理由に収束する。
そして、比較することと同時に、それらの刻一刻を掌握したいからである。
「知りたいから」という以上に理由はないし、もしそれだけに最適化できてしまうのなら、とてもやばいヤツであるとは思う。
けれど、もっともっと理不尽な2点比較は非常に簡単に見つかる。たとえば、世界のどこかで横たわっているレンタルチャイルドとこれを読むことができる程度の頭脳を有している読者諸君を見比べてほしい。君たちはもう十二分に有意な立ち位置にいるのだから、その有意な立ち位置のさらに細分化されたなかでの比較くらい、それで理不尽な現実を直面するくらい、良いではないか、と思っている。
もし君に、その程度の勇気も覚悟もないのなら、この世界で賢さを武器として、真実だけを掌握し続ける、この残酷な悪行をし続ける権利を、他の誰かに譲った方が良いんじゃないか?
そう、絶対に忘れてはいけないのだ。どのような方法であれ、この世界の何かの系を掌握し続けようとすることは、残酷に近づくのだということを。
そして、その残酷な差異を享受し、さらにそれを刻一刻に掌握できた者だけが、本系をコントロールし、次の世界を創造し、新しい価値観の幸せや楽しさを提供できる。
「刻一刻」「1点解析」「2点比較」。どんなに新しい掌握法であったとしても、必ずすべてはこの3つに帰着されるはずだ。
刻一刻とは、あらゆる物理量が時系列で表せるということだ。等加速度直線運動やqPCR、株価の変動などが代表的で、刻一刻と変わりゆく物理量について、きちんと解析できることが、様々な分野で最終目標とされていることだ。刻一刻とどのように移り変わるかさえ分かれば、すなわちそれはコントローラブルということだからだ。
1点解析とは、その1点を詳しく解釈することで、全体の構成を把握しようとする行為だ。マクローリン展開や運動方程式(想定されるくだらないオフェンスに一応ディフェンスしておくと、”運動方程式そのもの”は刻一刻ではない。ある束縛条件を設定した場合に、刻一刻が掌握できる)、1細胞解析などが代表的で、一つの事柄をいくつかの決まった方向性から解析することによって、全体像を把握しようとする行為である。刻一刻が通じなかった場合に、複数の事柄が絡まり合っているときに、有効であることが多い。
最後が、2点比較である。これは、上記2つではどうしようもなかった場合に、仕方なくとる手段である。2点と言っているが、別に複数点で比較しても良い。バイオ系の実験では、よくコントロールを取りましょう、と言われるが、これが2点比較の代表例である(qPCRだってコントロール取るじゃないか!と思うかもしれないが、絶対に必要ではないことに注意。蛍光の量はあらかじめどれほどかと予測計量できるはずであり、本来的にはコントロールは不要である(現実的にそうはいかないことは、当然知っている))。高校物理では、エネルギー保存則などがわかりやすい。熱力学も歴史的には、準静的過程の前後を実験的に比較することで発展してきている。妥協の方法かのように書いたが、とても大切な方法である。
今これらを掌握度合い順で書いたが、自分で新たな実験系として運用しようとした場合、「1点解析」「2点比較」「刻一刻」の順番になることが多い。
「だって、彼、私のこと、こんな感じで見てたのよ!絶対に私のことが気になっているに決まってるわよ」というのは1点解析。
「彼女に比べて、私に対して、何回も見てきたのよ?彼女の方が近い席だったのに。だから彼は私のことが好きなのよ」は2点比較。こちらのほうが、実験として設定するのがめんどくさいでしょ?
そして、「単位時間あたりに私に対して目を合わせようとした頻度が、前半から後半にかけて、増加していた。私は特に何もしていないのに。きっと、彼はずっと前から私を気にしていたけど、時間経過とともに慣れてきて、私と目を合わせることができるようになっていったんだわ」というのが刻一刻である。ここまで来ると、かなりその人に気をかけているか、よほど心理戦に強く鍛えられていなければ、なかなかその域まで達しないことがわかるだろう。
ゆえに、多くの人は日常生活の中で「1点解析」しかしない。「2点比較」もしないし、「刻一刻」を掌握することなんて、想像すらしていないだろう。
1点解析、つまりは自分のことは自分のこと、相手のことは相手のこと、それらを別々に分けて考えて、それで満足する人がほとんどなのである。だから、社内で意外に同僚の給与は知らないし、相手の学歴や職歴は気にしたとしても相手の家庭環境を比較検討してみようなどとは思わない。それは、社会人的な言い回しをすれば「失礼」であり、もっと素朴な言い方をすれば、「比較することはとても怖い」。
何かを比較した瞬間に、この世がうまく機能していないことが、この世がとても理不尽であることが、自分の努力が報われていないことが、簡単に証明されてしまうことに誰もが恐怖を覚えるのである。
俺は、理系と文系をよく比較する。「数学、理科、英語」ができなきゃいけないのが理系で、「国語、社会、英語」ができなきゃいけないのが文系で、その教科だけみれば、まるで平等かのように見えてしまうが、実際にはまるで違う。受験科目もさることながら、その後の大変さや不遇さ、自由度など、今回は(このブログ内にもたくさんそれに関しては書いているし)書かないが、あきれ返るほどの不公平がそこには存在している。
当然だが、そんなことを露呈化させても、誰も幸せにはならない。むしろ、真実を目の前にして、理不尽さに耐えきれなくなり、明日から朝起きて頑張って仕事や勉学に励むことなどできなくなってしまうだろう。理系分野の中でも、物理、化学、生物、数学のどれを選ぶかによって、かなり変わってしまう。その差異が切なくて理不尽で仕方ない。
それでもなぜ比較するのか、と問われれば「知りたいから」。このシンプルな理由に収束する。
そして、比較することと同時に、それらの刻一刻を掌握したいからである。
「知りたいから」という以上に理由はないし、もしそれだけに最適化できてしまうのなら、とてもやばいヤツであるとは思う。
けれど、もっともっと理不尽な2点比較は非常に簡単に見つかる。たとえば、世界のどこかで横たわっているレンタルチャイルドとこれを読むことができる程度の頭脳を有している読者諸君を見比べてほしい。君たちはもう十二分に有意な立ち位置にいるのだから、その有意な立ち位置のさらに細分化されたなかでの比較くらい、それで理不尽な現実を直面するくらい、良いではないか、と思っている。
もし君に、その程度の勇気も覚悟もないのなら、この世界で賢さを武器として、真実だけを掌握し続ける、この残酷な悪行をし続ける権利を、他の誰かに譲った方が良いんじゃないか?
そう、絶対に忘れてはいけないのだ。どのような方法であれ、この世界の何かの系を掌握し続けようとすることは、残酷に近づくのだということを。
そして、その残酷な差異を享受し、さらにそれを刻一刻に掌握できた者だけが、本系をコントロールし、次の世界を創造し、新しい価値観の幸せや楽しさを提供できる。