たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

無知だと知られることの恐怖

2012-10-30 00:47:14 | Weblog
 自分が知らないことを、躊躇なく、知らない!教えてくれ!、と言える勇気は必ず本当の思考力になる。
 バカなヤツにバカにされることを差し引いても、思考力向上のためには、そっちのがコスパーが良い。

 もうこんなに年齢を重ねてしまったし、学年が上がってしまったし、って思って誤魔化してしまえば、いつまでたっても思考力は上がらない。恥ずかしくても、今すぐ、訊いてみるべきなのだ。
 それも、後でこっそり誰かに訊くのではなく、あえてみんなの前で訊いてしまったほうが良い。そうすると、意外とみんなも全然わかっていないってことの方が多いのだ。

 大丈夫。あなたが正当な方法で真面目に取り組んでいるからこそみんなと同じ土俵にいるのだから、何も恥ずかしがることも無く、賢いフリ、わかっているからあえて聞かないキャラを演じることも、天才のフリをする必要も無く、本当に想っている気持ちで訊いてしまえばイイのだ。

 例えば、こないだ話題に挙がった例でいうと、「面積」ということひとつとってみても、とても難しい。ここの読者の多くは(俺も含めて)、「面積」というものを、きっときちんと理解できていない。
 ちゃんとした定義をしようと思えば、確実にlim(極限)の概念は必須だし、そもそもEuclidean空間で考えていてはいけないだろう。

 こういうことは揚げ足取りでは決してない。実際の物理現象を扱う上で必要になってくることはあるし、きちんと面積を知っていれば境界問題について、より多角的な視点に立つことができる。

 っで、物理を得意とする俺が、化学や生物学の連中の中で(物理学だと一部)、こういうことを言った時には、もう、誰からもバカにはされない。
 『っていうかさ、そもそも、面積、ってなんだろうね?』
 俺の知ってる定義とあなたの知ってる定義とズレているから、あなたのを教えてけれ。ってね。

 本当は「人に依ってはいけない。何を言ったか?が大事で、それのみで判断されるべきであり、誰か重要な人が言ったから、それが重要そうだ、という空気が流れるのは、自然科学を追究する者の態度として相応しくは無い。」と、俺も思う。

 外から観れば、他の誰かから観れば、自分(俺)ですらもうまくいっているように観えるし、普通そこまでの思考しかしない。だとしたら、少しくらいその虚勢を利用してみても良いんじゃないか、と思うのだ。

 そうなのに、それが出来ないのは、、絶対に、負けたくないから。
 その壁に負けてしまって、虚像であると書きかえられてしまった自分たちに気がついてしまえば、涙は止まらない。

 戻らないこと、戻れないことに涙するのではない。
 きっと戻そうと努力することはしないであろう今後の自分自身を察して、涙するのだと思う。
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最強の評価基準

2012-10-28 00:20:00 | Weblog
 あくまで思考力は副産物であることを忘れてはいけない。
 理系のなかでは、考える、ということを一番の武器に置いてしまうから勘違いしてしまいがちになるけど、それを一番にするのは試合のときだけ。根本は常に、気持ちや人徳であることを、忘れちゃならない。

 お勉強や研究によって得られた思考力や頑張った結果である社会的地位を、誰かを陥れるために使ったりするのは論外だけど、それと同様に、自分の一番の武器を思考力に頼っていてはいけないのだと思う。
 ありのままの想いを、そのまま表現すること。この表現することのなかに思考力はどうしたって入ってしまうけど、なるべく少ない割合にしようと努力することが大事だ。

 色んな意味での「能力」が乏しい人と接すれば接するほど、ありのままで表現することが大事だと感じさせられる。
 紛れもない素直な思いでコミュニケーションに入らなければ、まともに話してすらくれない。逆に、混じりっけのない想いでそのまま入っていけば、笑ってくれる。
 それに気がつくまでは多少時間がかかったけど、なんて簡単なことなんだろう。何も持つ必要が無い、考える必要がない、感じたままに、想ったままに、そのまま表現することで、相手に受け入れられる。

 環境に依るとは思う。
 そのスタイルが、イヤがられる環境にいつもはいるから、わかるさ。

 能力があればあるほど、普通はひけらかしてしまうし、ひけらかしているように感じさせてしまう。テクニックがあれば、それを使わない保証はどこにもなく、悪だ、って思わせてしまう。

 だから能力があっても、損をしろ、っと言うのとも、また違う。
 ただ、自信の持ち方として、それが能力やテクニックや思考力であってはいけない。

 俺は、能力(ステータス)で評価はしない。絶対に。
 それは自分自身については例外だと思っていたけど、間違っていたみたい。自分自身についても、自らの気持ちのみについてを評価対象にして、自信を持つべきだとリファインした。

 即物的なことなんて、どうでもいい。
 持っている言葉も、どうでもいい。
 能力なんて、どうでもいい。

 そんなものは全部、所詮、一過性のモノにすぎない。若いんだから、もっともっと、広い視点に立たないとね。
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「幻の大地」からの教え

2012-10-24 23:44:47 | Weblog
 経験を積んで、論理性や思考力を向上させればさせるほど、カケヒキは上手くなる。
 自分が搾取されないように、最終的に純粋すぎて泣かないように、自分をディフェンスするために、って、常にいくつもの手段を用意してあることは、生きていく上では必要なことなのかもしれない。

 正直者は損をするし、
 純粋すぎればズルをしろと促され、
 綺麗なままでいれば汚れろと言われ、
 信じる者は救われないから。

 何をするにも、何をしないことにも、常日頃から、負けないため、でいることは、堅い世界では大切で、負けず嫌いなことは評価されることが多い。
 でも、そろそろ、もう一歩超えて、誰かに負けないため、じゃなくて、残酷な物理現象に対して負けないために!、って思わないといけない。敵は隣にいる人でも、隣の研究室の人や近くの大学や同級生たちではなく、残酷な物理現象であることを、俺自身も、もっともっと知らないといけない。すべての人について仲間意識を持って、楽しみながら、解決していかなきゃなんだから。

 特に能力がない人ほど、能力で評価せず、その人の(感情を超えて)気持ちのみで評価する。だから、カケヒキが一切通じない。
 超極端な話、重度で重複障害の人ほど、手伝ってくれる人の能力や振る舞いに一切依存せず、その人間の人間性や本来の優しさのみで、好き嫌いを決めるのだそうだ。その実感は、俺も確かにある。

 能力が無いことの唯一のアドバンテージ -他人の優しさをそのまま掴みだすことが出来る-

 これは普段もよく言ってることだけど、研究室に入って4月や5月くらいに思っていたことがスベテだ。そっちの感想のほーが、その場所に染まってしまってからの感想よりも、真実を掴んでいると思う。右も左もわからなければ、直観力で判断するしかない。それのが、論理性よりも正しいことが多いのは、当たり前っちゃ当たり前だね。

 カケヒキが一切きかないのであれば、武装解除するしかない。論理性を超えた、純粋な心のままで、何でも包んでいない、ありのままで勝負したほうが、遥かに早いし、助けられる。
 論理性や思考力といった拠り所を捨てて、新しい場所へ。

 確かに、今俺の目の前にある壁を超えるためには、思考力という名の「武器」とカケヒキという名の「防具」は、取り外さなければ前には進めない。
 でも、武器や防具は捨てなくとも良い。捨てなくても前には進める。「そうび」せずに「ふくろ」に入れておけば良いだけのことだと、俺は思う。

 ズルイ?笑
 いやいや、装備しようが、装備しまいが、気持ちや優しさはカワラナイんだし、重要な人間、大切な人、大事にしている関係性には、どんな状態であっても、しっかりと判別されるのだから、、それは運命的にね。
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意味があること

2012-10-24 00:47:11 | Weblog
 最後まで諦めない、って口で言うのは簡単だけど、実践するのはとっても難しい。

 それは俺らの場合、同値として、思考を停止させない!、ってところに行きつくわけだけど、これをきちんと出来ないとどんなことをしていても、楽しくなくなってきてしまう。
 読んでる教科書や論文のなかで、何行も続くほど長い数式をみても、有機化学の特有な書き方をしてあっても、群論やテンソルの表示をみても、積分やΣが沢山ある表記の仕方をみても、分子生物学に多く見られる酵素や遺伝子の略記が沢山羅列してあっても、ぜったいに理解してやる!、って負けない力こそが楽しさに繋がる。
 なのに、そういうことを無視して、自分には理解できないことであると決めつけて、ほっぽらかして、現象のうわべだけを切り取っていってしまえば、いつか破綻をきたす。

 思考を停止させない、っということは、若さを保つということだ。こういう能力はCグループの力が大きく寄与していて、真面目にひたすら問題に取り組むことが大事。

 でもね、こういう感じを、Aグループ方面にも突き詰めないといけない。そもそも何でそんなことをやっているんだっけ?、ってことについて、思考を停止させなかったときに初めて、意義をもって研究できるのだと思う。
 本研究の最終目標を見つけること。それはイコール、一般大衆に受け入れられる説明をするということだ。だから、きちんと正しく突き詰められるようになると、まったく研究のことを知らない人達に説明できるようになる。

 よくがっつりCグループの人が、「一般に受け入れられるように説明しちゃうと、厳密さが損なわれちゃうんだよね」っと言ってるけど、それは大いなる勘違いなんじゃないかなっと俺は思っている。
 きちんと厳密にすべきことを突き詰めた時に、それは必ず世間に受け入れられるモノだし、そうじゃないなら、今すぐテーマを変えるべきなんじゃないか。たとえ本人が修行中であっても例外ではなくって、むしろ修行中だからこそ、本気でそういうことを思考しなきゃいけないもんだと思っている。

 もうここらへんで、こんなもんかな、っと、思考に対する潮時を感じた時に、楽しい時間は終了してしまう。

 いつも自分に言い聞かせる俺の目標は、実験や観測事実から、数学の公理、定義、定理、系(定理から簡単に証明できる命題)のどれかに落とし込めるまでは、思考を停止させてはいけない。だから、数学の理屈の構成の仕方にまでは踏みこまないが(理論だけを研究するなら踏みこむべきだと思うけど、理論を武器にする実験屋さんなら、とりあえずここまでで良いと思う)、数学の論理までは行かなきゃいけないと思っている。すべての自然科学の分野でね。

 最後まで諦めない、思考を停止させない、最終目標を見つける。

 たとえ最終的なラインでそれが一回出来なかったとしても、これらをしようと努力し続けることこそが、「生きている」ということなのだと思う。だって、これらをする限り、誰かが寄ってきてくれて、楽しくなれるから。少なくとも、楽しくなる可能性を秘めているから。
 どんなに、世の中の誰にも寄与できない、ただの自己満足であったとしてもね。

 だから、一生懸命、超簡単な四則演算の計算問題や塗り絵をしている子供やお年寄りに対して、『それって意味があるんですか?』なんて、俺はちっとも思わないのだ。

 よっぽど、膨大な研究費と時間をかけて、わけのわからないことを偉そうな顔して研究していたり、社会のルールっつって誰のためでもないのに、無駄なお金と時間を使っていることのほうが、まったくなんの意味も無い。

 そういう風に、みんなは思わないのかな…?
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「終わったら…」

2012-10-22 00:47:08 | Weblog
 今日から一週間、また、研究をまったくしない生活に入る。
 こういう時間を恣意的に作ってるわけじゃないけど、今年はなんか、メリハリがあるように、半期に一度、こういう期間が訪れます。案外、この期間が大切で、ゆっくり色々なことが多角的に考えられるんだよね。まぁ、がり勉タイプにはわからない発想かもだけど。

 最近、がっつりな物理学に戻っていることが多い(生命系大学院生です、っと明日からの場所でも自己紹介するつもりですが、俺の根幹は今でも物理学です)。それも、生命現象に近いような非平衡や非線形を扱う物理学だけじゃなくて、平衡系を扱う、きちんと厳密に解ける物理学の理解を、もっともっとしなくちゃ、っと思ってきている。
 それは、そういう波が来ていて、運がそうさせている気がしていて、それがどこまで意味を成すかわからないけど、きっと意味があることなのだと思う。こういう波も、自分の毎日の仕事を一歩引いて観てみることによって、存在が認知できる。

 集団が不安定な時に、一番に安定な状態を見つけることができるためには、平衡状態の性質を良く知っていなきゃいけないってことなのかな。
 安定な状態は、いくつも存在している。それを、どの心の性質の中で不平等にならないように持っていくか、面白くするか、っていうゲーム。

 【ゲームって、言っちゃうんだ?】
 『まぁ、ゲームは言い過ぎかもしれないですけど。』
 【言いすぎだよ(笑)】

 違うよ。ゲーム、って口に出して言うことによって、大したことじゃない、って自己催眠をかけて、自分を一番に落ち着かせて、思考力を瞬間的にマックスに上げようとしてるだけ。
 それが、能力のある人間が魅せた、手法だったから。

 必死で駆け回って、みんなにまだかよー、って言われて損して、Cグループを引き上げて、本当の意味での平等性を一番に考えていた、俺なんかと言葉だけ対等でいてくれた、あの時の俺のペアも使っていた手段。
 自らを犠牲にしてBグループおよびCグループを引き上げながらも、最低限Aグループにい続ける、Aグループの能力の本気。そこには、大したことない!、って笑い飛ばす力が重要であることは、間違いない。

 あれほどの能力を、このお休みの期間に、ここからつけていけたら良いなっと願っている。終わったら、そんな能力がついていたら。。
 もちろんそれは、真面目で損している人のために。
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良くも悪くも紙一重

2012-10-20 02:49:17 | Weblog
 どんなに自分の集団における空気占有率を高めたとしても、それはたった少しの摂動によって変わりゆくものであることを、決して忘れてはならない。
 ものすごく信頼関係があったとしても崩れるのは一瞬だし、何かの保証があったとしても、その殆どはわずかな摂動に対してでさえロバストではないのだ。

 逆に言えば、今、失ってしまった関係や疎遠になってしまったり、(最初から)なんとなく離れている相手であっても、本当に紙一重で、仲良くなりうるし、仲良くなりえたのだ。
 ほんのちょっとの差。そのせいで、まったく口を聞かなかったり、暇さえあれば電話して「どっかいかね?」って言える仲になったり、ちょっと怖いよね。

 これは、人間とサルってわけじゃないんだから、それに比べたら紙一重でしょ!、てほど離れている話じゃない。人の振る舞いってのは、常にわずかな差によって形成されていると思う。
 高校の頃、一度だけ学校を完全にバックレたことがあった。確か、出欠も取らないくらい、どうでもいい日だった気もするけど、その振れ幅は当時としては大きい。あんなに真面目だったのに、そこから少し遊ぶのが増えたとはいえ、バックレるようになるなんて、って感じ。だけどキッカケはすごく小さいことだし、なのに、そんなことがあって、それでまた、真面目サイドに戻ってこなかったなら、今の俺は、理系にすらいないかもしれない。

 そう考えると、俺が理系か堕落するか、の差なんて、本当に紙一重かもしれない(今、堕落してはいないと願いたい(笑))。こういうことがなくても、他の順路を辿ったかもしれない。確かにそうなんだけど、でも、一個一個の選択をちょっとでも間違えたら確実に今の自分はいない、ってのは、やっぱりちょっと、これからの選択に躊躇がでてくるよね。

 まぁ、とか言いながら、しなきゃいけないことは十分にわかっている。
 実質的な結果は本質的な結果に依存するけど、その善し悪しは自分で決めることができる。俺次第。

 実質的に悪い結果をもってして、次の本質的な結果を良くすることは、簡単なことだ。直向きになればイイから。
 かえって、実質的に良い結果を、そのまま次の本質的な良い結果にすることのほうが難しい。自分に驕りがでてきてしまうから。

 結果そのものが紙一重なのと同様に、悪い結果も良い結果も、それを良くするか悪くするかは、紙一重なのだから、、ここから、今すべきことをきちんとして、運に負けないようにしないとね。
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完璧な人間なんていない?

2012-10-17 01:31:55 | Weblog
 小学生が最終的なカードとして持っている言葉はどれも人間の根幹を教えてくれるが、その言葉の中に、完璧な人間なんていない、ってのがある。
 何か悪いことをした時に、完璧な人間なんていないんだからさー、っと得意気に言って、だから許せよ!、っとAグループに近い小学生たちは自らをディフェンスするのだ(ちなみに、いつも言ってるけど、こういう子供を端的に、カワイイ、っというのは教育上良くない)。

 しかし、大人になると状況は一変する。完璧な人間などいないことは頭ではわかっていながらも、子供や年下や後輩に対しては、完璧じゃなきゃいけない、ような空気になっているからだ。
 そして、高学歴であればあるほど、完璧でなきゃいけないと思っているし、相手にもそうじゃなきゃだよな?、ってやる。小学生と原理は変わらないんだけどね。

 久しぶりに具体例を出そうと思うけど、そういえば、こないだの学会で、すごいがり勉君がいた。俺がポスター発表していると、そのがり勉君、俺のを聞きにきてくれて、俺は普通に彼の質問にパサパサ答えていたんだけど、パソコンを取りだしたら、「あ、それ古いヤツですよね?」っと、ここぞとばかりにニヤニヤ質問してきた。そんなとき、迷惑な子供をカワイイと言ってる馬鹿な女子の気持ちが少しだけ理解できそうになったけど(笑)、心を鬼にして、こちらからも明確なオフェンスをすることに決めた(そんな俺のがカワイイと思わんのか?笑)。研究期間について話すと、何も言わず立ち去ってくれたので、勝利!、で良いの??ってね。

 小学生、君らは正解だ。完璧な人間などいやしない。だから、完璧でありたいと願うくせに、自分で能力を磨こうとしない、精神的に向上心がない大人は、他人の完璧じゃない部分をオフェンスしまくることによって、自分を完璧に近づけようとする。そうすれば、少なくとも、自分は安定していられるから。
 このがり勉君も残念ながらそうであったが、こういうタイプってのは、必ずと言ってイイほど、オフェンスだけをする。つまり、問題点を指摘するだけなのだ。解決するための糸口や、こうしたらもっとよくなるんじゃないの?、ってことの現実的な解決案は決して出さない。よーするに、オフェンスしたい、相手を貶めたい、だけなのだ。

 まぁ、俺らの(自然科学の研究において)厄介なところは、理論的には、論理的には、こうしたらもっとよくなるはずである!、って言うことによって、解決策も出しているかにみせて、実は、現実的な実験手法や技術をいっさい無視した意見を言うことが、かなり偉い(偉そうな、の間違え?笑)先生でも普通に沢山あるから、本質的な問題解決を誰が発言しているかが解析しにくいんだけどね。
 それを俺が指摘したりすれば、中間管理職的な人間が、完璧な人間なんていないんだからさー、仕方ないよ、○○先生がそう言うのもー、っと観えないところでも、しっかりゴマすりをする。

 まったく小学生と同じ。っそ、『小学生が最終的なカードとして持っている言葉はどれも人間の根幹を教えてくれる』。

 ただし、これは、俺が俺だけに課していることだけど、こういうみみっちい、重箱の隅をつつくようなことを何百何千と言われても、それでお前なんか完璧じゃなくてダメだなーって扱いをされても、時間をも超える絶対的な思考力によって、倒れないし、個の力だけで打破できるはずで、そういう能力を、もっともっとつけなきゃいけない、っと思っている。これこそが、俺が思う、孤軍奮闘の仕方だと思う。地味に一人で黙々と与えられたテーマをしたり、論文を読んでるだけが、孤軍奮闘の仕方ではないのだ、と最近特に思ってきている。
 そして、その能力、思考力をつけるためには、今日のサッカーの代表戦のように、全力で自分達のスタイルでやったのにも関わらず、真っ向からボロ負けすることが必要だとも思っている。

 それこそ、言葉だけをあやかって、完璧な人間などいないのだから、負けて、挫折して、強くなるしかないのだ。

 絶対的に強くて、周りをよく観れて、最終的に、みんなの、たった一人の、役に立つことができる。あの頃にリアルタイムで魅せられていた、そんな力が、俺は常に欲しい。
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傷つくべきプライド

2012-10-15 03:15:51 | Weblog
 自然科学のなかで、普段、普通に使っている原理や理論や原則について、まだまだわかっていないものも多い。

 専門が物理学以外の人はあまり興味を持っていない印象を受けるが(だからダメなんだけど(笑))、すべての理論ってのは繋がらなければ意味が無いし、そうじゃないならそれは理論とは呼べないのだ。まったく新しい理論が出てきた時、それが前に信じられてきた内容とどのように整合性がとれるのか?がすべてであり、局所的に成り立つ理論に興味を持っていてはいけない。
 しかし、その原則的な理論、つまり教科書に載っていて誰も疑わないような論理構成についても、実はよくわかっていないものがあるのだから、困ったものだ。

 その原因は、多くの場合、信じているモノから出発して、理論を構築してしまうからなんじゃないかなと思う。だから、ある特別な系だけで成り立ってしまう理論をとりたてて、無理に一般化してしまいがちになるし、ある分野のみの理解で、それに関連する他分野についてしっかりとした理解をせずに、与えられた言葉だけで理論を構築しようとしちゃうんじゃないかな。
 例えば、宇宙全体は平衡状態であり膨張などしない、などという信じていることを持っているから、一般相対論のなかで宇宙定数なんてよくわからないものを考えるハメになっていたし、タンパク質こそが本質だって信じていたから核酸の正体に気がつかなかったりするのだ。

 こういうことは、現代にも、きちんと存在している。
 大学教養課程のなかの、物理学、化学、生物学、地学のなかにも、きっと、すでに紛れ込んでいるし、習う時には、これまで信じてきたモノを捨てて、きちんと論理性を持って学ばないといけないと思う。
 (ちなみに、俺がこれまでによくわからねーなっと思っていることを少しあげておくと、波動関数の二乗は密度か確率か?、統計力学の中のエルゴード性についての議論、電気陰性度、電場の境界問題などなど。)

 ただし、だからといって、なんでもかんでも信じるな!、っとも言えない。信じることによってこれまで成功してきているわけだし、実際に日常生活の中に活きている。
 自転車ひとつとってみたって、今は転びまくっているけど、これは人間が習得すれば、必ず乗れて前に進むモノなのだ、って発明者が信じられなかったら、こんなにも街に自転車は溢れていないわけだし。

 何を信じればイイか?最終的には自分の思考力や感情だけだけど、正しいことを言ってそうな人を信じてみて、自ら論理を組み立てる、って手もある。
 まぁ、それも一長一短で、アインシュタインは量子力学を信じない!、って言葉だけ知ってて、俺も量子力学を信じない!、なんて人もいるくらいだから(アインシュタインは、扱う系のオーダーが対象物体のド・ブロイ波長程度であるならば量子力学は成り立つことは信じてはいるけど、より一般化したときにそれを包括する理論があるはずだ、って思っていたのだと俺は思う)、ちゃんと感情を介在させずに思考力だけで勉強しないとダメなんだけどね。

 もう成り立ってしまっていること、しかも、それによって色々なモノの理論が構築されてしまっているモノを、否定したり、ダメだ、って言うのは、難しい。
 そこには、目には観えない傷を負わなければならないことも、沢山あるだろう。

 これまでの理論を覆して本当のことを語る、つまり日常生活で言うところの、「建前」を崩して「本音」で語る、ってのは、こういうことだということを、常に理解していたい。そこに個人の責任のもと、系全体をより良い方向に持っていくだけの自信と能力が無いならば、チャレンジすらしてはならない。
 信じているってだけのザコが吐く、重箱の隅をつつく、言葉を何百と浴びても、決して倒れないだけの思考力と表現力が必要だし、自称「平和主義」者の事なかれ主義者の連中に、やる気を出させないといけない。

 確かに、自然科学の世界は、穏便でもいいかもしれない。その分、文明が遅れるだけだからだ。
 だけど、社会や日常生活のルールにおいて、穏便さを優先順位の先頭に持ってきてはいけない、正直にやっているのに傷ついている人がいるのだから。それはあくまで、、

 『でもさ、他人のこと良く考えてるよね。』
 <そうだね。>
 『だけど、自分が一番大事、ってのが俺らには伝わっちゃってるよね。なんでだろ?』
 <っていうよりも、自分のために他人のこと考えてるからね、ヤツは。>

 自分のために他人のことを考える、ということだから。自分だけを実質的に高めるためには、他人のことを良く考えて、ルールを押し付ければイイ。
 他人のために他人のことを考えないと、何も救えないし、何もカワラナイし、何も意味が無い。ルールではなく、モラルが唯一の教科書であって、そこを信じながら、他人にとって、自然科学にとって、を考えなくちゃね。

 目に見えない傷すら負いたくないなら、(理学研究などの)論理性の高い社会から出ていけばイイだけのことだ。
 傷なくして、ホンモノは得られない。つい400年前の人達は、たとえ殺されても、自分の理論を守ってきたのだから、それに比べれば、プライドや信念や権威が傷つくくらい、仕方ないだろ。

 どうすれば正しくなるかまだまだわかっていない、社会的ルールやマナーや自然科学に関する理論は、モラルと論理性によって、リファインされていく。
 傷つくべきプライドや心によって、リファインされていくのだ。

 『まぁ、でも、所詮、上辺なところがあるじゃないですか。』
 「まぁねー。例えば、自分にとって、相手が気持ちいい方が実益があるから、そういう言葉をかける、ってよりも、たとえその瞬間に相手が怒ったとしても心が傷ついたとしても、相手にとっての言葉をかけるほうが、優しいのにね。」
 『おおー。さすが。まったくその通りだと思います。それってまったく評価されないですけどね?』
 「そりゃそうでしょ。違うでしょー、っていつも思うけどね。」

 その瞬間、すでに観てきた2つの希望に加えて、もうひとつの希望を観ていたのかもしれない。

 自然科学には、新しい理論が世界を覆うためには、過去の理論を信じてやまない世代が死ぬ必要がある、っという格言すらある。
 助けるための論理性を上げるために自然科学を研究しているという研究モチベーションを持つ俺からすれば、そうでないことを願うばかりだ。
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When will our life begin ??

2012-10-12 01:48:35 | Weblog
 期待さえしなければ、本質的に負けることは絶対に無い。
 だから、負けたくないなら、傷つきたくないなら、泣きたくないのであれば、誰も信用しなければイイし、何かの結果を得ることも期待しなきゃイイわけだ。

 ただ、それと同時に、期待しないのであれば、本質的に勝つことも絶対に無い。負けるのがイヤだからって、惚れないように気をつけても、期待しないように頑張ってみても、自分に自信を持たないように謙虚なフリをし続けてみても、現状の退屈さやツラさは何もカワラナイのだ。
 基本的には、惚れたもん負け。だけど、惚れなきゃ勝てないわけで、惚れたもん勝ちになんて辿りつけない。

 妥協して、途中で手を打ったりすれば、そこまで。無難に妥協したのに、どうして、自分がまだまだ我慢しなくちゃいけないの?、って、相手や制度や集団に思ったとしても、それは、向こうにとっては、そんなん知らねーもん。
 だとしたら、今ある思考力や行動力などの能力をフルに使って、きちんと問題解決をする方向に向かった方が、遥かに意義があるし、楽しい。そして、そういう風に一生懸命しているところにヒトは感動するし、人も集まってくるのだと思う。

 常に本気でぶつかっていれば、期待を裏切られて、ショックを受けることが殆ど。
 だからこそ、頭では、そんなもんだ、って理解していないといけないし、それとは介在しない領域である心の中で、ホンモノの存在を信じ続けなきゃいけない。難しいことだ。

 長らく時間が経っているのにも関わらず、観たくも無かった残酷な現実を目の当たりにしたり、何かの選択で懐疑的になりまくれば、出ていかざるをえないし、もう関わらないようにしようとする。
 それは、無難じゃないから逃げるとか、嫌われるのが怖いから逃げるとか、そういうんじゃない。純粋な心のどこかで残酷にも期待してしまっている自分自身から逃げるのだ。

 逃げて逃げて逃げて、周りに沢山のバリアも作って、大したことじゃないって演技のなかで笑いながら自己防衛しようとする。会って話してしまえば、関わって見つめてしまえば、冗談のひとつでも言われてしまえば、急速に過去へと戻って、期待してしまって、結果悲しく苦しくなってしまう自分自身とタチの悪さを、何よりも恐れているのだ。

 でもね、ずっとずっとそうしていると、意外と現実は、期待してしまっている通りだったりもする。過去の勘違いは勘違いではなく、今となっては嘯いてきたあの日々は、もしかしたらホンモノ?って。
 すれ違いのなかで、今の方がむしろ勘違いし合っているだけかも、って感じとることも、かなり多い。心と心が繋がり、ネットワーク構造を創りながらも、実空間では何にも寄与していない時、もうこれでいいか、って気持ちになるし、だったら、リスクはあるけど、もとに戻ってみても良いんじゃないか?って想うことすらある。
 っで、危ない危ない、って、その繰り返し。

 それでもとに戻ることも確かにある。
 期待を裏切られたっと思っていることが見当違いで、むしろ最初の期待通りって、離れている状態で、思考力が向上したことにより、理解したとしよう。でもだからといって、もとに戻るか戻らないかは、わからない。それは、少なくとも俺が決めることではないし、そうなるべきであるなら、そうなっていくはずだから、ほっとけばイイのだ。

 あの瞬間に今の能力さえあればっと感じながらも、履歴に依っていることを感じた時に、命を運ぶ、ってほどじゃなかったのだ、これで正解だったんだ、って結論に至る。

 そうこうしている間にも、今現在の本業についての仕事が沢山舞い込んでくる。まるで夢をみているように、過去を思い出しながら、でも現実なんだ、っとかみしめて、そのなかで本業も夢だったりして?、って揺らぎがあればあるほど、誰かに臆することなく、自分の意見や自分の気持ちが明確にはっきりと主張し、表現できるのだと思う。

 『意味あるんですか??』

 っと、当人が本業にしている内容の根源について、(特に)年長者に質問しているとき、必ず心でこう思っている。
 When will our life begin ??
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最期の相談

2012-10-09 01:31:24 | Weblog
 系が崩壊していく不安定さをリアルタイムで感じとることは難しいのかもしれない。

 どんなに怒っても、どんなに何かで押さえつけようとしても、どんなに優しい言葉をかけても、どんなに泣き倒したとしても、系が実空間以外の曖昧な空間上で崩れてしまっていたなら、実空間でも崩れ去ってしまうのかも。
 まだそこに残っているのに。同じ状態で、あたかも存在しているかのように観えるその系は、もはやインタラクションし慣れたそれではない。自然科学ではこうしたことを記述した学問体系がいくつもあるけれど、そのどれも、日常生活には使えないな、っと思う。だって、観測がしにくいからね。

 そうなってしまえば無力だ。できることをしようとすればするほど滑稽になる。
 できることがないのだから。

 せめて、自分ができることができていたのか、感情のベクトルは正しかったのか、それを確認することしか、実質的に意味があることはできない。
 逃げ場のない悲しみに問いかけながら、考えないように感情を押しつぶす。

 他の系に目をやってしまえば、自分はものすごく幸せであると認知する。身近な若い人が亡くなると、よりいっそうに、それを感じるのだと思う。そして、自分自身は、とても幸せなことに、また悲しくなってしまう。
 健康と家族。これまでもずっと言ってきたことだけど、何よりもこの2つが大事であり、この2つ以外に大事なモノはないとすら、今は思えてしまっている。

 不条理なことをされても、夢が持てなくても、言われたことしかできない状態でも、誰かにものすごく嫌われたとしても、生きていれば、たいていのことはなんとかなる。
 ただ、そこまで極端にしてはいけないと頭ではわかっている。例えば不条理が重なれば、優しい人間にどんどんストレスが集約していくことになり、結局は健康を害してしまうから。

 彼にとって最期に俺に相談したことが実質的に役に立って、それで叶った事が確かめられて、俺は少し安心することができた。それには何も意味が無かったのかもしれないけど、その結果、ほんの少しでも幸せの方向性を強くすることができたという事実があるならば、系は崩壊してしまったけれど、どこかせめて一ヶ所では納得することができるから。

 悲しい、と口に出し続けてしまえば、それがずっと続いて、本当になり続けてしまう。
 だから、嘘でも、笑い続けることが今は必要なのだと、俺の言葉を聞いて走っていった彼の姿が教えてくれている。それが叶っている姿を観れずにごめんね。

 これからは、その分まで、様々な系へ、とにかく、できることをしようと心がけようと思う。
 何が最も大切かを忘れないようにして。
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Full Circle

2012-10-06 03:00:20 | Weblog
 感情の赴くままに、感情そのものでぶつけた時、方向性としてはあっている確率が高い。
 それがどんなにダメな伝え方であっても、どんなに不器用であったとしても、感情に従っている限り、実は間違っていない、ってことのほうが多い物理現象を俺は面白いなって思う。

 そんな風に放たれた感情のかたまりに対して、俺は、少しの責任を感じながらも、でも、結果として、個々人がより苦しみを逃れ楽しくなるなら、明らかな自分勝手を年齢という闇の中に葬り去らせてはいけないな、っと瞬時に思考できているからこそ、それをくだらないモノとして卑下する演技をしながら、オフェンスできるような体制を作る。
 その程度の思考力じゃ俺まで届かないのにって思うシュートを見下ろしながら、次にできることを考えて行動するということは、いわば仕事として、自然にできるようになっていた。

 やっぱり、レ点をつけて、命を運ぶ、その前兆を、あの瞬間に感じとっていたのかもしれない。
 その一瞬、ほんのちょっとの過去から、「私については、どうにかしては、くれなかったよね」っと、言われているような気が勝手にしてから、スイッチが入っていたのかも。

 あの頃は今のこの状況を望んでいなかったけど、でも今は、やっぱりこれでよかったんだ、っと心から想えてしまっている自分が、過去の自分から怒られている。
 かといって、今から何かに寄与できるほど、本当に問題にしなければならなかった問題は簡単ではないから、せめて、今、目の前の系でできることを、っと思うのだ。

 そして、それができてしまえば、自分ができることをすべてでき尽くしてしまえば、ショックを受ける。簡単すぎる、って。これほどの満足感を持って、問題に接することができたなら、もっと大きな一歩を踏み出す権利を俺が感じることができたかもしれないからかな。

 ただ、命運は、一巡して元に戻りつつある。この世でたった4人にしか気がつかれないそのモチベーションは、きっと、本当の意味で絶対に解決できない、この問題をも解決してくれるはずだと信じている。

 感情の赴くままに、、か。
 もう一度、本来の問題に対して、正当にチャレンジしていこう、と決心を固めつつある。
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排他的にならない最高の破れ方を目指せ

2012-10-05 02:01:47 | Weblog
 この世はすべて対称性の破れによって、その形成を成していると言っても過言ではない。
 粒子と反粒子も、なぜこんなに粒子によって満たされているのか?ってのは対称性の破れの結果だし、我々の身体を構成しているタンパク質のアミノ酸だって、D体ではなくL体によって構成されているのは、対称性の破れの恩恵なのだ。

 ある瞬間にどちらでも選んで良いはずなのに、どちらかを選んでいる時に対称性が破れる。実は、意志ってのは、そういうことと関連しているんじゃないかとか思う。

 環境によって流れてしまうときに、自分が思っていたことを行動することが、やっぱり正解だったのに、って気がついた時に、たとえその環境が「人」依存であったとしても、物理現象にやられた!、って思うんだよね。それは単純な対称性を保ったままで、確かに綺麗なんだけど、何か物足りなくて。
 与えられた環境に適応していくことがすべてであるようなスタイルを持っている人からすると、自分が思った事をいかに自分の心の奥底に押し潰すか、ってことに情熱を注いでいたりするから、観ていて、わかりきった行動しかしない点で面白味に欠ける。

 俺は、環境に流されて、自分の考えていたことが行動に出来なかった時の後悔が大きいから、どうにか自分の意見を自分で信じることに躍起になったりする。だって、多くの人は勘違いしてるけど、環境の構成成分は確かに「人」なんだけど、環境そのものを人が作っているわけではないから、対称性があり続ける綺麗過ぎる物理現象に負けたく無いじゃん。

 だから、無難にしよう、リスクゼロで行こう、上に逆らわないようにしよう、って言葉で言われたり、行動されたりすると、俺自身に言い聞かせるようにカードを切る。ぶっちゃけて、環境を止めて、自分だけが笑う。みんなが、おいおいアイツ、まだ笑ってるけど、これって笑いなの?、って考えている隙に、次に出来る一手を考える。
 これぞコスパー。俺自身には、自分の考えを捨てるな、って言い聞かせることができるし、その時間を使って、次に出来ることを考える時間を増やせるのだ。

 関係性を保とうとして、相手にとって心地良い言葉をかけて、薄っぺらい優しさを見せることは勝手でしかない。そうじゃなくって、関係性を失う危険性を背負いながらも、相手や集団に対して、本当の意味で何かの役に立ったり、助けることができるならば、それでやっとホントに優しいと定義できて、終には、対称性が破れていくのだと想う。

 そういう意味で、正しいことばかり言っていてもいけない。
 次の成果や大きな結果を考えるなら、なおさら、(自分の思う)正しさを少し削っても、相手の意見を自分の中に組みこんだほうが良いのだ。それで関係性としてもより良くなり、個人としても楽しめるのであれば、正しさなどくだらない。

 南部-ゴールドストーンの理論によれば、破れた対称性の数だけ、南部ゴールドストーンボソン(粒子)が検出されると言う。残念なことに、人間集団における対称性の破れでは、個人やみんなが優しい方向に動こうとして、より良くなろうとして、安定状態が破れて(崩れて)いき、もっと楽しい状態へと落ち着くことは稀だ。
 平衡(安定している)状態を自発的に破る自己組織化を持っている集団の多くのケースは、金銭トラブルや妬みや憎しみによることが殆ど。

 自発的対称性の破れによって出てくる南部ゴールドストーンボソンが、優しさであることをいつだって願っている。そうなったとしても、集団全体としてexclusiveになり過ぎずにいられたら、もっともっと良いよね。

 自発的に、そうなることは、いまだかつて見たことが無いから、今は、、今のこの時代では、やっぱり、俺自身が、少しずつでも、できることをしていかないといけないと思っているし、そのような稀有な発想に立てた偶然と活性をくれた人達に、今一度感謝したいなって思う。

 極端な話、いつ死ぬかもわからないのだから、最終目標にこだわりながらも、目の前のことに一生懸命にならないといけない。
 それこそが、今も楽しくて、未来もずっと楽しいことが保証されるようになる、最強の手段なのだと思う。
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最終ラインとして

2012-10-04 00:57:14 | Weblog
 状況をより良くするためには、限られた時間の中で、確実な決断力と思考力とベストを尽くす能力が必要だ。

 ある程度完成された環境の中で自らの最高のプレーをすることは実はそう難しくない。
 本当に難しいのは、誰もが、誰かどうにかして!、っと思っているような状況下や、集団全体がダメな方向に向かっている時に、個人の能力で状況を打破させなきゃいけないようなシーンだ。

 最終ラインが自分である時、系を掌握するためには、自分にとってはそんな問題など簡単なのだ、っというような演技をしなきゃいけない。大したことない、俺にとっては指先で擦るだけで解決できるような問いだから、大丈夫大丈夫、っと、みんなに、何より自分自身に言い聞かせながら、ベストな手段を選んでいく。
 悪い状況から、楽しい状況へと昇華させるには、それが個人で出来るんだって思い詰めなければ、出来ない。

 このような決して露わにならない見えない戦いのなかでは、本当に孤軍奮闘だ。普段、その手法を表でバカにしている俺は、本当に重要なシーンで、孤軍奮闘し、手法を少し明かしながらも、非常に冷徹に対応していく。
 大丈夫、これくらいなら状況を打破できる、落ち着かせることができる、まずは安定状態に持っていける、そのなかで、できることをしながらも、できることの中で未来に託せるものは未来に押しやっていけばイイ。

 自分が無理、って言ったら、そこで終了になる、最悪の事態を想定しなければならなくなる、時間制限がある状態で、パサパサ解答を提出していくためには、何と言っても、まずは、要領よくこなす技術が必要だ。

 なので、今週いきなり増えた、この目の前にある、ある程度はしっかり理解しなきゃいけない、論文42本も、他のことのペースを落とさず、様々な方向で日々を充実させながらも、きちんとこなしていくことは、、本研究の最終目標に近づくために必要だな、っと思えるのです(笑)。
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Affect Extraction

2012-10-01 02:59:55 | Weblog
 その瞬間に何を想ったかがすべてであり、どんな難しい話を訊いていても、極端な話、そこにしか興味が無い。その一瞬を知るために長い思考を巡らすこともある。

 どのように思考するかは決まりきっている。その人の無駄なものを排除して、気持ちだけを抽出する。
 一つの言動から、習慣、思考、態度、履歴を排除して、なぜ、その行動をしたのかについて、気持ちだけを抽出できれば、簡単に判断がつく。それがオフェンシブ・ヒアリングの基本。
 こちらが話をするときは逆に思考のみを抽出していくようにする。そうすればディフェンシブ・トークになり、自分の気持ちを露わにせずに、有利に話が進められる。つまり、気持ち抽出の思考をこちらがされても、思考のみで説明がつくようにしておくのだ。

 自分については大義名分を突き詰めてself-consistentに回るようにし、相手に対しては大義名分を排除させ気持ちを鷲掴みにする。

 抽出するということは、重要な部分の原理が知りたいということ。
 そのために、2番目に重要になるのが、系を包む環境だ。

 合成生物学や再構成系で研究するときに、最後、重要になってくるのがこの部分で、「実際の環境」はなるべく多く時空間的に知っておいた方が良いと思う。こういうことを知ろうとしないと、ありえない環境下で、めちゃくちゃなことを言っている、って思われちゃうんだよね。

 これは相手の気持ちを抽出してきちんと理解するためにも必須で、その人を包む環境を正確に把握しないといけない。
 じゃないと、抽出方法そのものの問題にも気がつかなかったりするのだ。

 ただし、蚊帳の外になりすぎてもいけない。
 自分の気持ちを露呈してしまうかもしれないというリスクが無いと真実は掴めないことも間々あるし、何よりもつまんないんだよね。
 原理を知ったところで、系をよりよく変えられなきゃ意味が無いのだ。どんなに綺麗でも、どんなに高級でも、どんなに無難であったとしても、ワングルーヴに入らないなら、本当の意味で傷ついてしまう。

 そうならないためにも、考えすぎず、慌てて行動しすぎず、かといって、グル―ヴを大事にしながらも、気持ち抽出をしていきたいなと思う、系をみんなでより良くするためにね。
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