たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自分に自信があれば演技はいらない

2014-11-30 04:07:43 | Weblog
 自分に自信さえあれば、何かに過剰にアジャストする必要はなくなる。
 逆に、自分に自信が無ければ、アジャストせずにはいられず、他人からの頼みをひとつも断れなくなってしまうだろう。なぜなら、自分の必要性がゼロになってしまうことがもっとも怖いから。自分が求められなくなることが怖いから。そして、自分にとってラクな道ばかりに終始したくせに、プライドだけは高くなってしまう。

 自信がなくてプライドが高くなっている状態は、周囲に良い影響を与えない。
 それは、ゼミに外部の人を招聘することを習慣化することでみんなの活性化を促そうとしていたのに、外部招聘を大義名分にゼミの強制力をもってして次第に人数のかさ増しとして使われるようになり、初めの純粋な気持ちを長い時間をかけて平気で踏みにじるかのように、政治力学の道具として躊躇なく利用するようなクズな精神性や、自分の言うことを絶対的に訊く者のみしか入店を許されない、食の楽しみを奪うようなラーメン屋などを、誘発してしまうだろう。

 演技や小手先のテクニックで突破してしまった先に残るのは、ニセモノだけ。それは外から見てれば簡単に笑いにはなるが、現実に直面したら、ずっと笑顔ではいられないはずだ。
 だから、自分の劣等感を不当に誰かを陥れることで払拭してはいけない。劣等感は、少しずつでも、自分自身で取り除くべきなのだと俺は思う。

 自分の劣等感や自分が受け入れたくない現実にきちんと直面し続け、理想的な状況とそれらを共有したい相手を、どんなことがあっても、見放さない、見棄てないだけの強さがあれば、自分に自信を持ちながらお互いに自己実現するための、問題提起能力と問題解決能力は養われるだろう。

 そんなことしていたら、先が見えなくて不安になってしまう?
 
 それは大いなる勘違いだ。人間は、将来が見えない事が不安なのではなく、むしろ、自分の将来がすべて想定できてしまいうる可能性の狭さを感じる瞬間こそが、もっとも不安なのだから。

 だとしたら、能力なんて関係無い!、とにかく自分に自信を持って、まずは相手の要求で不満なものは、きちんと断ること。
 そして、ゆっくりでも、自分がラクじゃないけど必要なことのなかで、能力をつけて行ったらイイのだと思う。

 はじめの自信さえ手にしてしまえば、演技やテクニックを使わなくても、等身大の自分でぶつかっていける。ホンモノはその先にあるのだ。

Perfume かしゆか 恋の技あり道場
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生命とはロマンティックである?

2014-11-27 01:48:26 | Weblog
 生命は、「ロバストネス」と「可塑性」の2つの性質を同時に満たしていると考えられている。

 ロバストネスとは、よーするに、取り巻く環境が変わっても本人は変わらない、ということであり、可塑性とは、よーするに、取り巻く環境に合わせて本人も柔軟に変化していくということである。
 言い換えれば、ロバストネスは頑固、可塑性は八方美人、みたいな感じかなぁ。もっとちゃんと理解してる人に怒られそうだけど。

 確かに、生命はそういったことに溢れている。顕微鏡で観ていれば、そうまでして分裂したいの?、てこともあるし、こんなんで過剰に反応してしまうの?、ということもある。それは、日常で人々を観るのと同じで、そうまでして自分(たち)を貫きたい?、そんなに環境に流されなくちゃいけない?、と感じることもままあるだろう。

 ただ、一個体、もしくは一細胞だけで考えるんじゃなくて、2体系以上の集団としてどうか?、時間スケールを加味したときにどうか?、ということは別問題な気がする。
 なんていうか、運命は決まってる、みたいなことってあるよね。この人とはいつかどこかでぶつかる運命、ならば、遅かれ早かれ、どのような経路を辿っても、相互作用(コミュニケーション)してる限り、ぶつかることがロバストなわけで、だったらさっさとぶつかって、絶交してしまったほうがいい、みたいな。

 あらゆる環境変動をヤラセて、それに対して可塑的に振る舞っているように見えても、いつのまにか決まった経路に落ち込んでいるロバストネスの存在が感じられるとき、それが人にとっての、いやその生命にとっての、その細胞集団にとっての、運命である、と人は考えがちであると想う。

 でも、俺は、生命現象特有の論理体系というのは、少なくとも、ロバストネスや可塑性があること、ではないんじゃないだろうかと思うのだ。おそらくロバストなことも可塑的なことも、確実に物理現象として語れる。というよりも、ロバストネスと可塑性というのは、非平衡や非線形、もしくは多種や多粒子の特徴として、非常にありきたりな物理現象なのではないかと思うのだ。

 例えば、レンツの法則って、ロバストっぽいし、可塑的っぽい、と思うんですけど、どう?
 磁場の変化を妨げる向きに電流が流れるその瞬間は可塑的で、磁場がやってきたのにも拘らず変動が停止してしまえばすべてを受け入れ何も変わらずロバストネス。電流が流れるってのは非平衡定常状態なわけで、、なんとなく非平衡状態では、ロバストネスも可塑的なことも、案外、ふつーにあるんじゃないのかなぁ、と。

 そ、だから、生命らしさ、というのは、ロバストネスや可塑的を超えた先にある、明らかにエネルギー的に損をする状況でもそちらに行ってしまうような意志、みたいなことを、みんな言いたいんじゃないかなぁ、っと思ったりするのだ。
 「環境変動に対して、すべての粒子が生じた流れに流されていったり、すべての粒子がその流れに左右されなかったりするのなら、それは生命っぽくない。ゼロイチのスイッチのような2wayで、なぜか、多くの粒子とは逆側に行動を取ろうとしてしまういくつかの粒子の存在があり、しかもそれらがポアソン分布に従わないとき、とても生命っぽいし、生命独特な現象なのだと思う」

 もっとも「実」に賢く、もっともノリが良くて、もっとも性格の悪い、俺の尊敬するフィールドワーカーの言葉を借りると、この直感は、あたってると思うでぇー。直感ちゅうのは結構あたるんですよー。
 確かに、ケミカルもしくはデジタルに構成していった擬似生命と、自然界にいる本当の生命の違いは、なんとなくこういうところにある気はする。まぁ、それがあってようがあってまいが、それ自体は(俺にとっちゃ)どうでもイイですが、少なくとも理学的には、そういうことが明らかになりうる実験系にフォーカスを当てていたいな、と想うわけです。

 「大丈夫に観えてるの?最近、私、おかしくない?変でしょ?そう観えてないの?」

 それは、あの人なりの精一杯の悲痛な叫び声だったのかもしれない。俺は、その声に向かって、どんな困難があっても、どんな状態であっても、まっすぐに走っていかなくちゃいけなかったのだと思う。
 でも、実際に、あのとき、そうできなかった。それは、世界中で俺だけが、あの人も知らない、あの人自身が引き起こした運命を事実として知っていたから、という大義名分が成り立っていた。思いきって倒れながらも俺が走ったなら、あの時点でホンモノが得られたかもしれないなどと傲慢なことはそこまで思わないが、仮にその時点でホンモノだと思えるものが得られたとしても、この運命を享受できるだけの可塑性を有していなければ、結局はあの人にとってのホンモノを得られないことがロバストだと思ったからだ。そして、そのゲームをあの人自身が引き起こしていることを、蚊帳の外だから、きっと知らない。

 『例えばさ、日本人がよく好きな物語のパターンとして、相手のことを思うがゆえに相手から離れました、でも、ある環境変動が偶然に起こって、運命的に結ばれました、誤解が解けましたっていうのがあるじゃん?』
 「わかります、そんなことは、現実には絶対にあり得ない、って言いたいんでしょ?」
 『その通り。現実には、相手のことを思って離れるという選択は、ただ単純に、一生決別する、ということに過ぎない』
 「そこで、それでも自分はその人と離れたくない!、ってほうが、イイですよね」
 『Exactly!そうそ、そのほうが、運命なんかよりも、よっぽどロマンティック』
 「なんで英語で言うんですか?笑」
 『なんとなく笑』

 相手のことを思うがゆえに離れるという環境適応性を選択したくせに、くっつくことがロバストネスというような系全体からの要請を自分勝手に期待するよりも、それらをすべて超えて、まっすぐ自分の意志を貫いて、気持ちを確認してみたほうが、生命らしいかどうかは定かじゃないけど、少なくとも人情的であるし、ロマンティックであると思う。

 過去は変えられないなら、現在と未来に賭けるまで。

 今できることを考えて、実行し続ける。これに尽きるのだ。
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Combinatorial explosion

2014-11-26 00:59:32 | Weblog
 目の前のことを泥臭いやり方でも構わないからとにかく数多くやっていくべきなのか、それとも足を据えてじっくり考えて策を練るのがイイのかは、あらゆる対象に対してまちまちで、なかなか判別が難しい。

 とにかく手を動かせばいいんだ、みたいな感じになっちゃうと無鉄砲だし、考えに考えてとにかく考えてから行動を起こすべきなんだ、みたいな感じになっちゃうといつまでも行動できない。

 そりゃ、手を動かせるようなことをわざと多く仕掛けておいて(ヤラセを仕組んでおいて)、とにかく頑張ってます、これだけ残業してます、みたいな感じを出すことはラクだし、それは直近的には得をするかもしれない。だけど、それは長い目で見た時に最悪で、いずれ何もしてないのと同じ評価になってしまうだろうし、何よりも実力がつかない。いつまでも無能なままになってしまうのだ。

 そりゃ、手を動かすことを最後までとっておいて、頭の中で考えられることを考え切ってから行動するほうが、まだのびしろが有ります、こんなにも考えなくちゃいけないでしょ?、みたいな感じを出すことはラクだし、それはすごく長い目でみたときには得をする可能性もあるかもしれない。だけど、それは直近では何も結果がでないから最悪で、そこまで精神的にもつかどうか謎だし、他人に迷惑をかけるし、何よりも現実を直視するだけの能力がつかない。いつまでも無能なままになってしまうのだ。

 だから、バランスか?
 と思うんだけど、少なくとも自然科学についてなら、後者の方が、俺は、まだマシな気はします。精神衛生上、ばんばん結果みたいなゴミが出ていて、ある時点から徐々にそれがゴミだと認知するよりは、ゴミすら出ない状況から結果と呼びうれる何かが少しずつ出てくるほうが、イイと思うからです(あんまり理由になってねーけど笑)。

 組み合わせ爆発でやることばかり増やしまくって、ちゃんとやってます!感だけを出しても、何の生産性も無いしね。

『フカシギの数え方』 おねえさんといっしょ! みんなで数えてみよう!


 [動画の感想]
 あんまりERATOや未来館に文句言いたかねーんですが(俺だって、そりゃね)、このページは俺のページなんで好きなこと書かせてもらいますけど、、どういう狙いかはいまいち掴めませんが、最終的にありえないギャグに落とし込んで、情報科学の研究の素晴らしさをアピールするのは正直どうかなぁっと思います。
 個人的にはとても面白かったけど、それは俺が理系(でしかもプログラミング使って研究したことある大学院生)だからであって、、別に16×16の道順が何通りかなんて皆はどうだっていいし、そんなことしてるだけだったら、もう少し有用性のあるところに予算あてたほうがいいんじゃない?って思われてしまいそうです。アルゴリズム技術のもっと本質的に価値のあるところをちゃんとアピールしたほうがイイと思うけどなぁ。
 っま、youtubeとかで一般アピールをなんもしてないところよりは、100不可思議倍マシだけどね。
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チキンライスがいいや

2014-11-23 03:51:19 | Weblog
 「研究者として一番大事なことは何だと思いますか?」

 修士課程の入学試験の面接でそう訊かれた言葉が時折蘇ってくる。今なら、俺は何と答えるべきだろう?
 俺は、優しい気持ちです、と答えたが、質問者は「研究のなかでですよ?」と言ったので、無難に御座なりに、『目的達成に最後まで諦めない心です』などと答えなおしてしまった。審査側は満足した様子だったが、そんなものが一番大事なわけがないだろうが、と、あの時も今も未熟な俺はそう想っている。

 人と人とが集団化したときに大切なことは、相手をほんの少しでもより良くしようと努めること、に限る。
 というよりも、俺は、どんなにバカみたいで損しても、優しい気持ちが発現され続けているならそれでいいや、という気持ちでいるし、その価値観を共有している人としか、一緒にものづくりをする気も、集団化する気も無い。

 相手をより良くする、というのは、相手の価値観のなかで自分の価値観が共鳴したときにのみやらなければ、意味が無い。
 自分にとって間違った積み木を積み上げている者に対して、より良くするためには、その積み木を一回すべて壊してしまう他ない。それは相手の価値観にとっての破壊行為であり、それがただの言葉であっても、人格の否定ではなくあくまで意見の否定であるとイイワケを繰り返したって、それはただの暴力と紙一重。

 こんなにモノが有り余っている環境であっても、皆、何かが足りなくて苦しんでいるらしい。

 足りないというのは、カネに限らない。カネ、実験装置、業績、結果、知識、思考力、コミュニケーション能力、それに愛、なんて歯の浮くようなモノも足りていないのかもしれない。
 しかも、その足りていないモノを、誰か自分よりも弱い立場の人を精神的に殺すことに積極的になることで補い、自分を成り立たせようとすることが発生しやすい。

 なぜなら、そういう問題が発生した時に、誰の気持ちも考えず、ただ単純に物理的に、カネや実験装置を新たに用意し、誤魔化しても無理に結果や業績を増やそうとして、自分が持ち合わせている局所的な知識を質問と称して自慢し、ワンステップの稚拙な思考力でまったく別の弱い立場を陥れ、女性の雇用を積極的に優先するなどと男女雇用機会均等法を平気で破るような記述かつ女性優遇ですよとフェミニストのフリをして明確に女性蔑視をしているような記述を公募にだすことでその集団にコミュニケーション能力があることを表面的にアピールし、奴隷養成を教育による愛だと偽るようなことが、このくだらない理系の研究の世界のPIたちの間で横行しているからだ。だから、研究従事者は、大抵の場合、目が死んでいるのだよ?
 誰もそれを取り締まれない。研究はフロンティアだから、よそ者には何も分からない、ということが論理的に成り立ってしまう。

 そんなことをしていても、弱者を積極的に糧にしようとする者が、さらに強固になるだけ。たとえ同じ実験装置が増えたとしても、N(回数)を増やそうとして、同じ時間に実験装置を複数ぶんどってしまう非常識さを良しとする雰囲気がより強く蔓延するだけだ。
 厄介なことに、皆、頭だけは無駄に賢く、、イイワケや理由をテキトウに持ってくることだけは日本一優れているからね。

 でも、そんなときに、ふと、「そんなことで、損していても、別にいいじゃないか」という声が聴こえてくる。
 それは、別に自分勝手な者をそのままにしておいて構わないということではない。そう、確かに、弱者を糧にしながら自分をその世界で生きながらえさせることが必須であると考えている価値観(価値観、などという言葉を充てることもバカバカしいが)は、いつの時代も無様であり、徳が一番低いのだから。と、応答しながら、また別の声も聞こえる。
 「壊すっていっても、その先を見据えた破境の仕方なら、何も問題ないんじゃないですか?その時は痛くても、その先に痛みを超えたより良きが発生する責任を破境者が負うなら、それだって優しさです」

 「研究者として一番大事なことは何だと思いますか?」

 今、俺は、あの当時よりは遥かに、簡単に自分の主張を宣言することができる。そして、傾聴されることも多くなった。俺は、やっぱり、その質問の答えには、『他人にバカにされても、相手をどうにかより良くすることを常に諦めない優しい気持ちを持っていること』がいいや、と想う。
 足りないことを、お互いに顔色を気にしながら、悲しくとも笑いに変えながら、ものづくりをしたときに、必ず、それは、そのものづくりをした人、一人ひとりに対して、より良きを齎すし、世間の人々に対しても、より良きを齎すはずである。そして、足りなかったものは、いつのまにか、埋まっているものである。

 俺は、そう信じているし、これまでそれが裏切られたことは一度も無い。

チキンライス / 浜田雅功と槇原敬之
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理想

2014-11-21 00:15:17 | Weblog
君の家に着くまでずっと走ってゆく / GARNET CROW



 自分の理想は何なのか?それを見失っている時間帯が一番ツライのかもしれない。
 理想を迷いながら、人々をコントロールだけはしなくてはならないという無意味な使命感に燃えた統制は、暴力へと繋がってしまうだろう。そして、それは誤魔化しに繋がってしまうだろう。

 理想への迷いこそが、物事をめんどくさくすることで自分の権威を主張する無能なキングを創発してしまう。人はとかく暴力の恐怖に弱く、その統制下ではただただ生きる事だけが目的となり、その生きていくことさえ意味もなくなって、終には誇りも尊厳も失う。
 そして、キングがいなければお前らは何もできないという幻影を見せ続けることこそがキング自身の安全に繋がる。それは、組織として最もfragileであり、どんなにその中で無難に過ごしたとしても、本当の荒波に飲まれたら一溜まりも無い。

 俺は、そういう意味では、多くの人に比べて、ものすごく無難に過ごしてるだけなのかもしれない。
 確かに、この小さな国の中の小さな集団の中の、そのまたさらに小さなセクションのなかでは何も無難ではなく靭い人間にみえるかもしれないし、その小さな小さな集団にアジャストすることこそが無難であると定義したい政治力学的な人間が多いのは百も承知の上であるが、もっと大きい舞台に立った時に、おそらく、俺は、その中の政治力学的な人間の誰よりも、ただの無難で、本質的には脆い存在だと思う。

 「その大きな舞台に上がる権利を有するのは、お前がバカにしている、そのちっぽけな集団のなかで政治的に登りつめた人間だけなのだ!」

 バカが。それこそが、キング無しでは何もできない、という錯覚に惑わされてしまっているではないか。そんなことは決してない。舞台がなければ作ればいいし、人に連れていってもらわなくても、自分の足で舞台に上がればいいじゃないか。

 勘違いしている人が周囲に多いが、学問はCグループ(ノリが悪い集団の総称)のものではないし、恋愛はAグループ(ノリがイイ集団の総称)のものではないし、無難さはBグループ(そのあいだくらいの集団)のものではない。
 個人の尊厳を、自分の所属しているグループや集団に置き換えることで、集団のレゾンデートルに落とし込んでいこうとするなら最低サイアクだ。

 理想を追い求めて、場所を変わるとき、せめて、前の場所で、私はこれをやってました!と胸をはって正々堂々と自信を持って他人に言えるような仕事をしてから、その場所を離れるべきではある。ただ、それは、俺が俺自身に課しているってだけだし、どんな場所でも勉強できると仮定してしまった方が頑張れるからだ。
 何も、わざわざ、それも、すべての人が、暴力的な環境に身を置いて、無意味な作業を繰り返すことはあるまい。そんな環境からは、走って逃げる、に限る。

 俺は、いま、自分の明確な理想が何かが、やっとわかった。それは、曖昧な遠い先における未来予想図ではなく、明確で具体的な、すぐ先の未来として、理想はこれである、と、はっきりと宣言することができる。

 今は、この理想を見出してくれることに寄与した人に、最低限の感謝を忘れないでいよう。
 そして、俺らの理想を、、いや、俺の理想に向かって、俺が引っ張っていく。卑怯な手を使わずに、同調するかどうか決めるだけの余地を相手にきちんと与えることが、理想に迷いが無いことの俺の自信に繋がる。その理想が現実にならなくても、別に時間は無限にある、また0からちょっとずつ始めればいいのだ。

 目覚めるまでのしばらくを、、とりあえずは、そんな混じりっけのない真っ直ぐな理想ではなく、今、目にしているありきたりの珍しくもない風景のなかの、ちょっとしたドキドキ感に心を揺らされていたい気持ちでいる。


X'mas Acoustic Live 2003 しあわせの風景
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本当の天意

2014-11-17 03:29:24 | Weblog
 わざとでしょ?

 そう想った気持ちを押し殺して、仕組まれたかもしれない運命に乗ってあげてもいいんじゃない?と暖かく包まれた右手が自然と語っていた。
 狭隘しているとはいえ、そんな偶然ありえない。でも、私にだってバカを演じることくらいできる。だから、その程度の嘘なら、しかも優しさを天意だと偽る滑稽さを露出するのなら、それには道化という虚構で迎えてあげるのが筋ってもんでしょ。

 どれだけダメだって勘違いしているのか知らないけど、別にそこまで本気でも無いし、そもそも自分に対して自信も期待もしていないから全然平気なのに、、逆にムカつくっていうか落ち込む。ほっといて、って気持ちが素直な気持ちなのに、もしもそんな風に言ったら、むしろ強がってるみたいで。

 だから、わざと無視してすり抜ける。肩越しの視線に振り向きたくなるけど、無視してすり抜けて、アドバンテージ。

 ほら、この程度の障害に対してだって、信念を貫いてはくれないんでしょ?、と勝ち誇ると同時に、先手を打つことの無意味さを噛み締めながら、こう思う。
 どうしてこんな風になっちゃったのかな?って。

 何度も何度も姿を変えて現れている、その惨めさは、いつまで、もつかな?
 眼光がまったく変わらないその瞳で、何かを変えることなんて、できるのかしら?

 逃げるだけの体力すら残っていない私は、期待しないで待つことしかできない。期待しないで待つ、って、こんなに矛盾している言葉も他に無いかもね。

 確かに、虚構の優しさを見透かす道化の優しさを、さらに見透かしている慧眼さを帯びたその優しさは、未来をより良く創っていくことには揺らぎが無い。
 でも、それほどの優しさを、私に向け続けてくれるとは限らない。だから、、

 『…たった一度の人生、それほどの理想とホンモノを目指してみても、損はないんじゃないですか?』

 現実は、おとぎ話以上にロマンティックであることを、信じてみても良い時間帯かもしれないけれどね。。
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バレるとき

2014-11-16 02:42:04 | Weblog
 バカな自分も賢い自分も否定できずにいた。

 どちらを演じてみても、自分ではないような気がして、どこか他人事で、でもそれを否定できない。賢い集団のなかでバカになりきれれば良かったし、バカできる集団のなかで賢さを貫き通せれば良かったし、それらが互いに逆でも上手くいったのかもしれない。
 畢竟するに、どちらにいてもどっちつかずであるから、誰かが周囲にいてくれても、孤独を感じてしまうのかもしれないね。

 どんな集団にいても、能力を上げることを選択すれば時間がかかるが、何かを一緒に達成するためにと、バカなフリをすることは造作も無い。
 道化を演じてきれれば人は欲してくれるし、どこか抜けているフリをしてれば、誰かのレゾンデートルを明確に守ることができるもん。
 まぁ、能力を上げることも本質的には同じことかもしれない。自分はこれくらいは努力しなくちゃ能力がこれくらいも上がらない、と明確に示されることも、それだけ求めてる、ってことの表れだし。

 ただ俺の場合、純粋なところで共鳴しながら、互いが互いを高め合っていくことが将来的に期待できるような2人以上の集団形成でなければ、いずれはどこかで衝突し、何もかもが跡形もなく消え去ってしまうことだろう。
 誰のほうが大事だったとか、俺のこういう信念が譲れないとかじゃなくて、俺の好きな人がそんなことをしてしまいうるのか、自分の能力や向上しないことを誤魔化すばかりか、誰かをゴミ屑と同一視し、それらの不幸を喰らうことで自らを成り立たせるなどという、愚かさを含んでいたのか、と幻滅し、結果的に消滅してしまうことが多いのだ。

 実際に関係性が消え去ってしまえば、これまで俺が、どれほど能力以外のことを相手に求めていたのかがバレてしまう。それは、小学生が好きな子が誰なのか皆にバレてしまうのと同じくらいに恥ずかしいことで、、そしてだからこそ、自分の気持ちにもフィードバックしてきて、ホンモノだと思った瞬間に過去形になる切なさを覚えることにもなるのだ。

 『だったら、本音一歩手前まで近づいて、少しだけ俺が考えている本当のことを言うと、、』
 と淡々と事実を喋り出すと同時に、暖かい表情がみるみる曇っていくのを目の当たりにして、俺は、絶対に無理だ、と感じた。そのときは一瞬で元の関係性に戻せていけたが、今から考えてみると、あのときにすでに、解は出ていたのかもしれない。

 ただの事実を俺が喋ったということだけで自らのレゾンデートルが無くなって、終には死んでしまうと考えているような儚さに、事実は事実であり誰が喋っても同じことだという常識のない人と、何かの信頼関係を結べるわけがない。

 それに、いつまでも、賢さもバカさも演じていたら、疲れてしまうし。それで何かの集団が成り立つのだとしても、それこそ俺に対して「死んでしまって、みんなも、ストップしてしまって、、それでイイんだ?」

 きっと俺は、賢さを演じることにも、バカさを演じることにも、疲れ果ててしまっている。
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千載一遇

2014-11-13 00:38:56 | Weblog
 成功する人間はチャンスを逃さない。
 チャンスを呼びこむためには、あらゆる自分の気持ちに対して従順な行動を常に取っていくことが必要だし、賭けに勝っていく必要がある。

 それなのに、すべてを流れに任せて、周囲に反応だけして生きていたら、永遠にチャンスは訪れないのだ。
 チャンスをチャンスと思えるだけの気持ちを常に持ち続けておくこと。それこそが、千載一遇を逃さない秘訣だと思う。

 例えばそれは、自らの研究(ここでは理系に限る)のなかで、何かの真実を探り当てたかったら、文献を探すのが最もコスパーが悪いこと、についても、同じ論理構成を保っていると思う。

 周りに反応だけして、自分の研究を素早く論文にして少しでも良い雑誌に通そうとすることだけが最も重要だという価値観に従うなら、関連しそうな文献を探す行為は最もコスパーが良い。だが、自分の条件とぴったり一致する論文は(特に溶液を使うor考える系の分野では)それほど多くはないし、ということは論理においてどこか誤魔化しが入ってしまう可能性は高く、さらにCNSの生物系の論文における再現率が30%を切るとまで言われているのであれば、残念ながら論文や書物などは虚偽にまみれているとも言えてしまうわけで、自分のテーマの中なのだから、知りたいその条件について、自分で考えるか自分で実験してしまうほうがコスパーが良いに決まっている。
 ただしそれは、真実を知りたい!と願っている気持ちが、周囲の価値観を自分に取り入れてしまう反応に勝った場合のみであり、それほどまでに、自分の信念を貫いたり、そのなかで社会として生きていくのは、実際のところ、かなり難しい。

 そう、自分の気持ちのなかで周囲の喧噪から離れなければ、ホンモノは掴めない。
 ここが、ホンモノの最も厄介なところであり、最も難儀なところなのだ。

 そうだと頭で分かっていながらも、不倫をホンモノの愛だと思おうとしている人に対して、それはよくない!と俺はアドバイスしてしまうだろう。
 いやいや、俺はそういうことを言ってるんだよ、、だって、結婚している相手に対して本気になって、それで見るも無残にめちゃくちゃになってしまい、警察沙汰にまでなってしまうとして、しかも、その可能性を当の本人も予測できていたのにも拘らず、それでも本人は自分の気持ちに正直に突き進んでいきたいと願うのだとしたら、そんなに本気な気持ちになるほどの出来事は人生そうそう無いから、大きく迷惑になってしまったとしても、突っ走ってみたら?そこに誰も知りえないホンモノがあるのかもしれないのだから、と本当は考えるべきなのだ。
 無理だけど。

 「えぇ?でもさ、じゃあ、どうして?」
 俺は逡巡としての一瞥を時計にむけながら、複雑にこう返した。
 『俺は、俺の博愛的なところに縋ってくる人は確かに苦手なんだけど、俺の博愛的なところを一切認めない人はもっと苦手なんだよ』

 あの頃のくだらない緑色の瞳を、一過性である本当の自分の気持ちを裏切りながら、あえて周囲の価値観に添うように振り切った自分を、想い出していた。

 あらゆるチャンスを自分の望むように秘密裡に成功に変えてきた自分が、この千載一遇のチャンスを掴めぬはずが無いと。
 ならば、あとは、全力で突っ走るまで。
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What if...

2014-11-11 00:39:43 | Weblog
 俺のオフェンスを完璧にディフェンスしてやろうなどと考えているようじゃ、おそらく俺のオフェンスを止めることはできない。
 それは、俺程度の能力にディフェンスしなくてはいけないと意識している程度に無能であることのせーだけでなく、俺は誰かを執拗に攻撃してやろうなどと考えているわけではないからだ。

 どんなフィールドであれ、敵は自然現象だ。その事実から目を離した者は、負けとか勝ちとか、どっちが上とか下とかではなく、自然現象を相手にして対決しようとする仲間にはなりえないということ。敵は、ムカつく先生でもなければ、後輩のわりに能力が高すぎる誰かでもなく、自然現象なのだ!

 それがわからないのなら、何をやっていても楽しくないだろう。何を目標にするべきか、きちんと純粋な心に訊いてみると良い。それこそが、自分の実直な気持ちを自己実現するチャンスだと想う。

 圧倒的に純粋な気持ちに対しては常に「もしかして」と期待してしまう。そして、だいたいはそれが裏切られ、何にも「もしかして」と思えなくなってくる。
 それでも期待してしまう自分に対して、期待しないぞって決め込む自分を一瞬憂いで、こんなことくらいで期待しないぞ、これを期待しない程度には自分は賢いんだから、という論理構築をしても何も意味が無い。そこにレゾンデートルを持ってきてはダメだ。

 かといって、アカデミックな事柄そのものや、物理だけは、法律だけは、と専門性の高さを競い合うことで、一般性を見失ってしまえば、誰かを明確に傷つけることになる。

 この世には、「ただのバカ」と「専門バカ」と「自分は無能だと分かっている程度には自分は賢いと思いこんでいるバカ」しかいない。
 だとしたら、俺は、せめて、ただのバカでありたいと思っている。

 だって、「もしかして」と期待できなくなってしまったら、笑わない笑顔で満たされ、本当の意味で笑えなくなってしまうから。そして、本当の意味で笑えていることこそが、俺のオフェンスのエネルギー源であるのだ。
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決別の真実

2014-11-10 02:10:20 | Weblog
 現象を現象のまま理解できるのなら、物理学は必要ない。
 一見バラバラに観える自然現象も、共通に内在している論理を見透かすことで、現象そのものがカテゴライズされていき、より広くを扱える論理体系やこれまでの論理体系との因果関係が正しく掌握され続け、より精緻な新しい理論となるのだ。

 新しい理論を知りたいなら、これまでの理論で説明のつかない現象に着目するか、もしくはこれまで接点のなかった理論体系同士の繋がりを意識した理論に着目することが必要で、そのためには数々の現象を適切に知らなければならない。数々の現象を知るためには論文を読むのが最も手っ取り早く、その上で繋がりを意識することが大切だ。

 しかしながら、多くの実験結果は誤った論理を助長しうる危険性を秘めている。それは、メインリザルトが曖昧な砂城を構築することが実験屋にとっての最もコスパーの良い成果となるため致し方ないかもしれないが、自然現象はそんなに甘くはなく、とにかくたくさん手を動かし標準偏差さえ書いてあれば信頼性が高いと「他人」から思われるから良いだろう、などと考える者が真実を得られるわけが無い。そんな考えだから、「他人」は常に自分を傷つけるものとなってしまう。
 それを知ってか知らずか、理論家は自分にとって都合の良い実験データを抽出する感があり、実験に対して的外れなコメントに終始する。知りもしないものを自分の知っているものに置き換えてしまう。実際の現場を知らねば何事も虚妄となってしまうことは特段コメントしなくても明らかだと思うが、理論屋の一部には、実験とは俺が描こうとする絵のひとつの点でしかない、と実験装置の原理すらよく考えずに理学的な結果のみを抽出し、驕り侮ってしまう。それは学生だけでなく一流と呼ばれている理論家もまったくの同じで、虚妄家としての一途を辿ってしまいがちだ。

 だから、本質的な意味で新たな理論を探究したかったら、論理性を高めながら、実験・観察をすることが最善策。

 経験を積み重ねることと論理性を高めることは、まったくの異質のこと。それらを同時に行える者だけが真実を掴む権利を有するのだ。
 無駄な作業を論理と勇気で切り捨てるのは、熟練者であればあるほど難しい。ならば、現象を現象のまま見つめる愚鈍な単純さを抱えながら、論理を体系だって理解するだけの気概を持って、対象にチャレンジするべきだ。

 そうすれば、決して観ることのできなかった事柄を、自分だけが観ることができるだろう。

 それが幸せかどうかはまったく別の話ではあるが。

 基礎に忠実であれ。そう、まずは共通点を探すこと。あの時期にあの場所を離れたすべての人の共通項。それはなんだ?
 紛れもない真実として、誰が得をし、誰が損したか?そして、それらの共通項はなんだ?

 ならば、ほんの些細な言動ですれ違いが起きたことを、たった3文字の言葉に落とし込むことができるのではないか?実験と理論。本当の意味できちんと両方使う者のみが真実を掌握できる。

 俺は、俺がこれまでの色々をまとめているうちに、この真実に辿りつき、愕然とした。人知れず、誰もいない本棚にもたれかかりながら、涙を流すほどの悲しみに捕らわれることになってしまった。
 どうして、こんな簡単なことに現在進行形で気がつけないのだろう。気がついていれば、また、変わったかもしれない。これまで俺が培ってきたはずの経験と向上してきたはずの論理性のすべてを否定したくなるほどに、賢さに意味が無い。いや、賢さにプライドや自信があることに、意味が無い。

 この真実のすべてを公表するのには、あと5年はかかるだろう。しかし、また、5年先か。。
 いまは、分かる人だけが分かればいいし、未来にここに記していたことの証明になりさえすればそれでいい。

 残酷な真実に一番哀しんでいるあなたへ、、「あたたかい」という言葉が冷たく心に響くなら、紛れも無い理想は現実に存在するということを心に強く唱えれば一変しうる。

 気がつけなかった自分自身を責めるわりに、後悔はあまりない。選択に後悔がないのならきっとそれは正解なのだ、と心を押していく。
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この国にアジャストする価値

2014-11-08 01:17:32 | Weblog
 私のように数々の場所を知っていると、場所による優劣が明確化されていき、優位な場所にい続けるためなら、少しくらいの不条理に対して何の怒りも抱かなくなってしまう。
 この世がどれほどの不条理によって成り立っているか。それはきっとこれだけの多くの国々の現状を知ってる私でも、まだまだ計り知れないほどだろう。

 いつだって、どこでだって、強者がゴミを公共に捨て、弱者が掃除をしている。それは、この国の最高峰のアカデミズムの場における建物内であっても同じらしい。

 一生この国にアジャストすると決めている私にとって、この国のいわゆる「本音と建前」の本音の部分を聴かされてしまうと、非常に不安になってくる。
 しかし、彼が言ってることは事実であり、あらゆる国を知っている私が理解できるという部分がそれを補強してくれている。

 確かにこの国のシステムは、量産型奴隷としての本音を、自由という建前によって成り立たせることが、唯一の生き延びる道であるのかもしれない。それは、他の国に比べ、非常に支配的で、非常に格差があり、恐ろしい価値観によって支配されているのかもしれない。

 ただ、彼は知らないのだ。いかに、いかに理想を掲げても、、圧倒的な、言動による重圧が存在している限りは、何も成しえないことを。まだ、理想を言っていられることができることのこの国の幸福を、私は切に感じとっている。

 『同じさ。この国では、理想を語れば現実を見ろと言われる。そして、現実を語れば本当のことは言うな、と脅しがかかる。本音と建前という言葉も知らないのか、とね。それでも言葉を続けていれば、精神的に追い詰められる。この国の水面下での年間自殺者数を考慮すれば、銃社会や戦争してるのと、さほど変わらない』

 理想を語るだけの時間が与えられることに価値は見出せないのか?
 その答えは、そう遠くない未来に、彼自身が答えを持ってくるだろう。

 その日が来るように、今は目の前の作業と文書作成に追われている彼を、一生懸命応援していたいのだ。

 『ある集団として人と人とが集まれば、銃などの具体的な武器が一切なくとも、そのポテンシャルから一定数は必然的にドロップアウトせざるをえないという自然法則でもあるのかもしれない』と冷たい目で語る瞬間から逃れさせねばならないと考えている。
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ピペドを解放するために

2014-11-06 01:12:11 | Weblog
 教育が学生を殺すことは簡単である。

 学生の能力向上にとって無意味な作業をたくさんさせることで時間を奪い、無能にすることができてしまうからだ。
 さらには、無能である、という明確な事実を、教育以外のこと、つまりは本人のやる気などに帰着させて納得させることで、進路をひどく限定的なものに諦めてもらうように仕向ける。
 そこで学生のプライドが高ければ高いほど(つまり東大などの一流校の学生であればあるほど)、せめてそのなかでイイ思いをできることを望み、たとえば、毎日、齷齪「研究」や「実験」と言葉だけ呼んでいる、PIからの指示であるくだらない作業に勤しむ。たとえば、意味調べや本文書き写す作業に終始して、6年間習ったはずの英語が一言も喋れない。

 あなたがあなたに感じる、その無能さは、あなたに原因があるのか?それとも教育に原因があるのか?
 それはこういった論理の存在が明確にわかっている人であっても、判断は非常に難しいところだと思う。

 しかし、教育システムにおける、こういった問題をただ単純に1人の教員の責任に落とし込むのは、まったくのお門違いである。
 あくまでシステムの問題であり、ましてや40代以下の若い教員のせいではまったくない。50代や60代にはそれなりに責任はあるかもしれないが、それでもたった1人に落とし込むべきではない。教育が「作業をさせる行為」となり、それによって無能を量産する現状になってしまっているのは、システムと1人ひとりの鈍感さの集積なのだから。

 ただし、、所詮、1人じゃどうにもできないしね、だからとりあえずピペドやってるしかないんだよ、言われたことやってるしかないんだよ、能力をつけても生きていけるとは限らないし、それが一番いいんだよ、ってイイワケしてるヤツは、どんな世代であろうが、俺は好きじゃない。

 「私は、私は無能である、と認知できる程度には利口だ」

 などという思考停止をするでない!!

 俺が冷酷な現実を通告しておこう。
 こう考えている者は、私は無能だ、と気が付いていない者よりも、バカだ。
 というよりも、バカの極みであるとも言える。

 なぜなら、自分が無能であることから少しでも脱しようと試みること、どうしようもない世間と自分の周囲の環境に対して、一歩でも前進してみようと試みることを、諦めきっているからだ。
 そんな私を認めてくれる人とそれが許される環境に流されていく、と心に決めるのなら、言葉にしようのない孤独さを背負うことを覚悟せねばならない。

 もちろん、俺だって、そういうことを考える。どうしようもない自分の無能さに打ち拉がれ、それでもまだ、自分は自分が無能であることに気が付いているのだから、と勝手に安堵したくなることが、ないわけではない。
 しかし、そう思った次に、きちんとすべきことをすることができている自分に気がつき、きちんと自分を褒めることができる。このように自分を自分で盛り上げていく空しさを抱えていく自分の心を持っている。それは、行動し続けているからだと考えている。

 例えば、俺は、自分が嫌いな人が薦めている本を読むのが好きだ。これ以上に楽しく勉強になる行為を俺は他に知らない。
 そうすると、自分の幅が広がっていくことを直に感じることができる。自分がいかに狭い世界にいて、このような価値観があったのか、と痛感することも多いし、嫌いな人と自分との共通項を発見することもできて、本当に幅が広がるのだ。
 他にも、嫌いな人の得意なことや上手なこと、創作物、評価されている部分は、よく考究し、取り入れたくなった場合は、積極的に取り入れるように心がけている。

 こういうことこそが、現実を観る、ということなのではないだろうか。
 嫌いな対象から自分に抽出すべき新たな価値観を抽出することこそが、能力をつけるということなのだから。

 まずはきちんと現実を観なければ、、いや、その前に、まずは現実を観るための時間を作らねば、どうしようもない状況を一変することはできない。そして、能力をつけることもできない。

 その作業、一度手を休めて、きちんとこれからを、みんなにとっての、これからの世代にとってのこれからを、考えることが必要な時期なんじゃないだろうか。
 そんな作業、一度完全に止めても大丈夫なはずだし、止められないのは上の人の指示のせいでもなければ、お金の問題でもなく、あなたのくだらないプライドのせいでしょ?
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海外での文化ショック

2014-11-04 02:53:24 | Weblog
 いつの間にか今年もあと2ヵ月で終わりです。あなた、8月の終わりごろ、何してました?それと同じだけの時間が経つと、2015年です。やばいです。笑
 (ちなみに、このブログの累計PVが50万人を達成しました!皆さん、どうもー)

 よく考えてみたら、いつのまにか、今年はすでに合計で1ヶ月も海外にいまして、海外嫌いの俺にしては文化ショックが多かった1年でした。(まさかの今年のまとめに入ってみる)
 と、言うわけで、今夜は、これまでに俺が海外で感じた文化ショックをまとめておこうと思います。


 1.いろんな言語を自在に喋れる人が世界には意外と多い。

 今年最初に仲良くなった海外の人はポーランド人の院生の女の子でしたが、めちゃくちゃ英語が上手。ポーランド語が公用語のはずなのに、こっちが譲歩して英語で喋ってやってるのと勘違いするレベル。他にも、カメルーン人の大男はフランス語と英語と(おそらく)カメルーン語ができるし、韓国人の院生の子も韓国語と英語ができるし、日本にいる人だと、中国人の院生の子は北京語と英語と日本語を、オーストリア人の研究者はドイツ語と英語と日本語、コロンビア人の研究者はなんとスペイン語とイタリア語と英語とフランス語と日本語が自在に使い分けられていた(これは間近で見てたのでマジでビビりました)。
 マルチの人には『まぁ、お前、理系じゃねーしな。俺も、このクズみたいな英語とC++とRuby入れたら、まぁマルチだし』とかアホな冗談を言ってましたが、世界の人達はマジで言語が豊かです。

 非英語圏に行くと、英語が通じるとラッキーで、現地語をある程度は覚えていった方が良いのは必須ですね。

 だいたい俺は、最低でも「挨拶」「イエス, ノー」「please」「ありがとう」「ごめんなさい」「I'd like to go to..」「Where is..?」「I am Japanese graduate school student」「1,2,3くらいまでの数字」「私は○○語が喋れません」くらいは現地語を覚えていきます。歩き方にも載ってるしね。
 イタリアのある小都市に行った時、この程度のイタリア語でコミュニケーションしてたら、「日本人のわりに、英語じゃなくてイタリア語ができるようになってから来たのね」みたいなことをイタリア語で言われました(もちろんその後は営業スマイルで誤魔化しましたけど)。これだけでも覚えてから行くと、現地の人の親切具合が全然違います。特にフランス人とかは、何故かめちゃくちゃ親切になりますのでお勧めです。

 まぁ、逆に、台湾でおっちゃんに道聞いたとき、station「駅」が通じなかったときは、ビビりましたけどね。

 2.同じものばかりをたくさん食う食文化

 日本って、セットメニューのサイドメニューが豊富で、少ない量で色々な食べ物が楽しめるのが良いところだと思うんですが、海外って、なんでシェアすらしないのでしょうか?

 ピザって、シェアして食うのが前提の食いもんじゃねーの??大阪行った時にもお好み焼きに対して思いましたけど、二次元的に丸い食べ物はコンタミしないようにシェアするのが常識だと思ってたんだけど、違うの?

 アメリカとかハンバーガーのイメージですが(っていうかそれしかないけど)、最初はうまーい、ってなるんだけど、2日目くらいにはもう飽きてる。そして、定食たべたい!っとすぐになります。
 国際学会のreceptionでローストビーフがステーキくらいの厚切りで出てきた時は、マジでビビりました。うわぁ、ローストビーフって薄いから旨いんだぁ笑。

 3.コーヒー中毒

 お茶文化が無い国、コーヒー飲み過ぎだろ。すぐコーヒーブレイクしてるし、そんなにうまいか?あれ。

 アメリカでスターバックス入るってのは、僕みたいなノリが悪いCグループヤローにとってみると、とても緊張するんですが(日本だって赤いランプシステムに苦戦するのに)、なにせAlly Mcbealが好きなので、やっぱり真似して入りたくなるんですけど、あれ、ヤバいね。名前訊かれたりするのよ、オーダーに。いきなり「What's your name?」って。思わず「What?」って返すと、すげーバカにした顔で「May I have you name, please?」って。「I'm Kei」って答えると、でっかくレシートに「K」って書いてあって、っで、いきなり呼ばれるのさ。

 もう、コーヒーばっかりで、やっとこさ見つけた「Green Tea」を頼んだら、「Do you take sugar or lemon in your tea?」って。やれやれだぜ。

 4.駅、バス、トイレ、街などの公共施設が汚い

 パブリックプレースは、マジで汚いっす。日本って、むしろ、どうしてこんなにキレイなんでしょうかね。
 臭いもヤバいし、息ができないほどのところが多い。

 渋谷って、まぁまだ、綺麗なほうじゃない?もしかして。ホント、ニューヨークとかパリって息できないほど臭いところがたくさんある。
 吸い殻はたくさん落ちてるし、網の下がいきなりスゴイ高さがあったり、なつーか、景色の割に、細かいところが汚い。 

 小さい頃は、日本もそういうところあった気もするなぁっと思ったりしました。昔は電車のなかでタバコ普通に吸ってたもんね、みんな。今じゃ考えられないけど。

 5.ダンスパーティ

 ある国際学会のタイムテーブルにreception&danceって書いてあって、なんじゃこりゃ、っと思いましたが、ホントに踊りました。
 流石アメリカだなぁっと思ったら、なんと会場が2か所もあって、フォーマル系とクラブ系と2つ。どちらも覗きましたが、海外ドラマで一般によく見る映像そのもので、老いも若きも、男も女も、こころゆくまで自由に踊っていました。

 ビール券が2枚、アイス券が1枚ついてて、それ以上はお金を支払う感じ。
 バンドに合わせて友達と12時過ぎまで騒いで、海外で1人でフラフラでマジ危ない感じだったので、タクシーで帰りました(ちょっと反省しました)。アカデミズムの頂点である学会の正式イベントとはとても思えない。

 っていうか、みんな、ダンスをちゃんと習得してるのね。これから、中学でダンスは必修らしいですから、日本人も踊れるようになるのでしょうか。
 っていうか、国際学会ってやっぱスゴイよね、昼からワインとかビール出たりするもんね(笑。マジ、バカンスしてる感覚なんだろうな、ヤツらは。

 6.圧倒的なIndividualism感

 成田や羽田から半分は海外。という感覚をつけておくと、飛行機の中でイイ想いできますが、向こうの人って、あんまり荷物預けないよね、たぶん。日本人でも慣れてる人ってあんまり荷物預けないし。
 で、ムリヤリ荷物を機内に持ち込んで、他人のとこでもお構いなしに、荷物入れてきます。え?俺、まだ、自分の場所に、荷物入れてないけど?みたいな感じは、彼らには関係ありません、めっちゃ個人主義です。自分の場所、とかそういう発想が、パブリックプレースである機内では通用しません。

 集団で旅行してる日本人のおばちゃんたちと「やっぱ外国人はすごいね」などと共感していたら、また荷物入れられたりして。。もう、コメントのしようがないくらいです。

 まぁ、逆に言うと、オリジナリティが高いと、それだけで評価してくれたりするんですが、国内じゃ、こんなに意見をはっきりくっきり言ってるつもりでも、海外では俺はシャイ側です。みんな、もっともっと、はっきりくっきり、(どうでもいい大したことない意見でも)ガンガン言いますし、自分に喋らせろ、という感じを出してきます。
 質問時間でもないのに、ずっと手を挙げたりしてる姿には、めちゃくちゃビックリしました。

 あと、極端に言うと、英語ができるとかできないとか、関係ないっす、彼らは。
 勝手に、自分の言語で喋りだしたりしますから。

 日本の文化を研究をしてる外国人研究者がいて、そのセッションに行ったら、座長から「あなたは日本人でしょ?だから、あなたは意見を言う義務がある」とか言われたりしました。発表者からもそう言われ、仕方なく質問と意見を言ったら、他に無い視点を言ったところだけ、やはり現地にいる日本人の意見は大切だー、みたいな感じになったりして。
 ちょっとしたことでも、オリジナリティを評価する感じ、その人しか言えない意見を言うことが至上、みたいなところが日本より遥かに強い。

 なので、どんなにどうでもいいことでも、気になったところは全部言うべきなのかなぁっと思っています。海外では。一回だけ、ちょー簡単なことをフランス語で質問したこともありますが、なんとか場が流れましたし、意外とみんな助けてくれるから、日本人はもっと意見を言うべきなんかな。こんなに英語ができない俺でも大丈夫なんですから、他のみんなならもっと全然大丈夫なわけだし。

 この感じで日本に帰ると、自分だけしか質問しなかったりするから、またその場所に合わせるのが難しいですが。。


 なんか、まだまだあるけど、この記事はまた、更新することにするかな。では。
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シーソーゲーム

2014-11-03 04:02:17 | Weblog
 政治力学なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲーム。

 若い世代でどんなに能力をつけたとしても、舞台に上がれる権利を与えているのが、単に先を歩いてるってだけのバカな50代60代である限り、この世界は変わらない。

 だから、そこにアジャストするような無難さが若者のなかで流行る。
 そして、「ほら、序列にアジャストしないから、そんなに苦労するんだよ?」っと、余計なお世話を「現実」という言葉を都合よく使ってくるわけだ。
 めちゃくちゃ新しい論理的に正しい楽しさを目指すよりも、クソつまらない政治に合わせているほうが、少しずつではあるが評価が高くなり、実直だと認められ、次第に上がっていく。そして、責任ある立場も大変なのだ、あれくらいの歳になればわかる、などと理解あるフリをする言葉を吐く若者が、舞台に上がっていくのだ。

 そんなやり方でトップに立っても、本当の勝負に勝てるわけが無い。「本当の現実」は、もっともっと残酷だ。そりゃ最初、ある程度従うことも大事ではあるが、従いすぎれば、その責任は本人に帰着されるようになるのだから。
 日本だって負けていない。ただ、勝負できるはずの人間が舞台に上がれないだけなのだ。しかも、その政治をも包括して考えて、ものづくりを進捗できることが、本当の意味で優秀なのだ、などというような思想に騙される。そんな前提はありえないし、本当の能力をつけようとしたら、そんなことしてる暇はない。

 何遍もそんなツラさを味わったって、本当の信頼関係でホンモノを築いていくことを見せつける場とそれらが未来にも実行されうる保障を守りたい。
 一過性のものであったとしても、ステージ上で魅せる仲間同士の笑みでの交信や、圧倒的な自然現象に立ち向かってその場で迅速に短い言葉で考えを伝えながらの行動の一致で、世間の暗い話題はたいていブッ飛ばせると信じている。それに順番を待ってるんじゃツライし、ホンモノの信頼関係に言葉が不要になっていく現象を体感すれば、誰でもそう思える。

 10%の向上よりも10倍の向上を目指すほうが、手っ取り早い、というのは、ある意味ではそうかもね。アムダールの法則は、意外と色んな事にも成り立つのかも。

 上がったり下がったりするシーソーに乗るのも飽きた。シーソーもいずれは降りねば、新たなシーソーすら創れないのは、明らかだろう?いつまでも人生ゲームにはいられない。
 複数の箇所から能力をつけることができたのなら、彼らの流儀に従って御座なりに感謝して、さっさと新しい世界に飛び出さないとゲームオーバー。

 運命のイタズラってヤツも考慮して、ホンモノを連れ出しながら、きちんと降りていこう。
 そして、いつの日か、無意識に彼らからレゾンデートルを奪ってしまったときに、それをも考慮できる、敵に塩を送るくらいの暖かさを包括した、ものづくりの仕方をしたいね。

シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~【絢香】


シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~
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いつまでも続く激情

2014-11-01 02:45:02 | Weblog
 今日はハロウィンでしたが、いやー渋谷に川崎に、実際に目の当たりにすると、だいぶスゴイっすね。さっき(もちろんノーメイクで笑)、2大「日本でハロウィンを流行らせようとしてる」都市を冷静に観てみましたが、なんというか、Aグループ(ノリが良い集団)はやはりすることが違うなぁと。

 Cグループ(ノリが悪い集団)の俺にはよく分からないのですが、血をつけたドレスを身に纏った、同じようなたくさんのアリスや白雪姫が手を繋ぎながら歩いていたり、ふつーのマリオブラザーズが何人も歩いてる姿を観ると異様なのですが、ああいうのが人気者のグループになる秘訣なのでしょうか。まったく、俺にはよく分かりません。
 ただ、化け物のようなメイクをした、ミニスカポリスのおねぇさん達は良いと思います!「あれ、男、混じってるよ。ほら」え?マジ??あ、ホントだ、前言撤回。ヲイヲイ、ハロウィンにかこつけて、女装の趣味カミングアウトしてんじゃねーよ。まったく、Aグループは。

 外来種であるハロウィンという行事を観ても、日本がいかにオリジナリティを認めない国かがよく分かる。友達同士で同じコスプレしてないとコスプレできないようなら、ハロウィンで奇抜な衣装を選ばなければいいだろ。そして、本当に少数派、オリジナリティを出してるヤツは、たいてい顔をすべて覆うような仮面をかぶっていたりするのだ。みんなで騒いで、叫んで、みんなで、みんなで。

 勝手な想像ではあるが、、1週間も経てば、そんな心の躍動感は醒めてしまうだろう。血のついたドレスを目の前に、私なんでこんなことやってたんだろ?、っと醒める日は近い。

 確かに、どんなことをやっていても、心の変動が永久に持続するなんてありえない。どんなに素晴らしいモノづくりをしても、終わって半年、その情熱が持続しているなら、めちゃくちゃ長いほうだと想う。
 あらゆる理由によってここで正確に明言できないのが残念だが、俺の最長は、半年。それを思いだすと楽しくて楽しくて、いてもたっても居られないほどの躍動感が残っていた。これが半年ももつなんて、かなり長いほうだと思うのだが、どうだろう?

 もう少しお手軽なところでいうと、山登りをしたり、観光名所に行ったりすれば、確かに一瞬、高揚感を味わうことができる。だが、それは2日間ももたないだろう。俺はそれがよく分かってるので、あまりに決まりきった即物的なことだけで、何かを単純に観たということだけで、心が動くことはまずない。

 だから、俺は昔から(おそらくは小学生の頃から)、女が泣こうが、男が喚こうが、すごく冷酷でいられる。少し不安になっても、すぐに、そもそも涙というのは、感情だけで対処できなくなった部分が赤血球のない血として目から流れるだけであるので、むしろ泣いたり喚いたりできるのなら大丈夫ということなのだ、と不安な気持ちと状況に対する分析が始まってしまう。そして、そんな自分に呆れかえってしまう頃、泣いていた本人は泣き終わっていることが殆どだ。
 それに、どんなに泣いても、枯れるほど涙を流しても、1週間以上も連続で泣いているということはありえない。
 人が、本当に悲しみに暮れたり、どうしようもない現実に直面しているときは、むしろ一切泣かない。すごく冷静に次の手段を考えることができてしまう。むしろ、そういう人を見かけると、自然と、涙がこぼれそうになることは、よくあるのだが。。

 ちなみに、理学の多くの謎も、きちんと解明されたとしても、感動はあっちゅう間に去ってしまうものだと思う。
 超伝導状態がマクロな量子状態だとまぁまぁきちんと理解できたときも、2週間くらいは興奮できたけど、あるときから一気に熱が冷めて、『そりゃそんなこともあらぁわなぁ』といった具合であった。
 だからたぶん、仮に、生命とは何か?の答えが一言で言えるようになったとしても、生命起源が分かったとしても、宇宙に生命が発見されても、統一理論が完成してそれが理解できたとしても、宇宙の彼方はどうなっているのか分かったとしても、、この世のあらゆる自然現象がたった一つの理屈で語れたとしても、それらの解明に自らが関与していたんだとしても、そりゃ最初は、「やべー、楽しい!楽しすぎて死ねる!」とか思うのかもしれないが、(めちゃくちゃ長く見積もって)2年もすりゃ「そりゃそんなんもあらぁわなぁ」となるだけである。

 即物的な感動は長持ちしない。

 でも、自分が主体的にやった結果として、かつ、何か自分が損してしまうけれども相手を思って行動した感情は、自他に関わらず、いつまでもいつまでも、残っている気がする。まぁ、それも一過性かもしれないけれど、確かに今のところは、俺の気持ちの中で生き続けている。

 ただし、それが極端なところまで行ってしまって、「相手のことを思うがゆえに相手と今生の別れになってしまうことを自ら選んだが、奇跡的な運命によってまた結ばれるのだ」というようなおとぎ話のストーリーをホンモノだと、みんな勘違いしすぎだ。そんなのは全然ロマンティックじゃないし、現実には、永久にさよなら、になるだけである。

 自分に期待せず、相手にも期待せず、偶然のみを期待し、実際に偶然が来ても行動できず、それでいて、自らの自信の無さによって招いてしまった不本意な現実を目の前にしたときに、ぐさりとショックを受けるような「蚊帳の外」感では、不幸になるばかり。

 ホンモノにだって賞味期限はあるし、単なる感動も長続きはしない。だとしたら、むしろ、あらゆる制約の中から、相手を切り捨てないためにはどうすれば良いか?という力を発揮していったほうが、ロマンティックだと思うし、そのような行動が誘発する激情はいつまでも続くんじゃないかと、俺は思う。
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