たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

科学と政治とお金

2014-07-31 02:27:49 | 自然科学の研究
 今日は「科学と政治とお金」について話します。頭文字とって「KSO(クソ)」です。
 あ、一部の方へ、、パクってごめなさい。。笑

 何をするんでも、まず必要になるのは予算、つまりは「お金」だ。それが理学の研究ともなればお金はめちゃくちゃかかる。
 研究室を廻すのに、最低いくらかかるのか、なんて、分野によるし研究機関にもよるので、わからないが、まぁキリの良いところで1000万円/年くらいだと考えてくれればいい。どんなに小さいことをするんでも、かなりの額が必要になってくる。文系でも20万円/年が最低でも必要だとか言ってるし、いくら理論研で、まったくお金要らないって言っても、あらゆる原著論文をフリーで読むために、大学はおそらく数十億円かけているはずなので、本質的にはお金が必要だということは例外では無い(これから話すことや図からは例外になってしまう部分があるけど)。



 つまり、殆どの場合、税金を使って研究をしていることになる。
 ここで上の図1を観て欲しい。これは理想的な状態での、自然科学におけるお金の使われ方だ。国民は、本質的な自然科学の進捗や教育発展を願って、研究従事者に(強制的に)投資をしている(させられてる?)。ならば、お金をかけただけ自然科学が進捗したら良いわけで、その理想が図1というシンプルな形だ。

 しかし実際には違う。なぜなら、研究は必ず人を介して行うものだからだ。
 だから、現実的には以下の図2のようになる。



 予算はまず研究従事者に分配されるようになっている。その分配の仕方を決めるのは、カネを払っている国民ではなく(国民は研究の価値や実力が判断できないと見做されている)、研究者同士、相互評価しあうことで決まる。だから、政治力学が発生するのだ。そして、そんなことをしているから、いつまでも本質的な自然科学の進捗が成されない。

 例えばこの図を大きなプロジェクトの予算配分だと考えてみよう。新学術でも「さきがけ」でもその他ビッグプロジェクトの共同・連携研究者同士の組織図でも何でもいい。
 そのプロジェクトの中には、必ず領域代表者やプロジェクトリーダーが存在している(図では研究者A)。よーするに一番偉い人で、そのプロジェクトの最高責任者で、音頭をとる人だ。その人からさらに別の何人かの研究者に分配することを考えてみよう。すると、図にあるような政治力学的作用反作用が成り立ってしまうので、政治力学の中で予算が分散してしまう。しかもここに実験装置を売る「業者」が入ってくるので、むしろ予算が有ればあるほど、ただ単純に政治に使われるだけで、まったくもって必要な実験装置やシステム作り、自然科学(理学)の本質的な進捗にカネが回っていかないのだ(最近、俺はこの現象を、政治力学ぐるぐる、と名付けた笑)。
 大学には一定数、必ず、何のために使ってるの?、っというくらい、これまでにまったく使われていない実験装置やハイスペックすぎる技術や(それだけなら"まだ"いいが)無駄に高級なソファーや生活品や部屋そのものなどが存在する。もちろん、ある程度は仕方ないし、意味の無いことに埋もれたカタチで研究進捗がされるわけだが、それにしても数が多いのが目立つことも多々あると俺は想っている。
 そして、みんな、予算をとってきてる先生が偉いと思ってしまっている。いやいや、それを言うんなら、偉いのはポケットマネーから税金を容赦なく支払わされている国民1人ひとりであり、学費を払っている学生であるのに、そんな社会の常識、市場の論理は、研究世界では通じない。とにかく、権威がもっとも大事で、不正があれば若手研究者や学生の責任。

 まぁ、この論理が間違っているなら本当に幸せで、むしろ間違いを正確に正して欲しい。そんな嘘をブログに書くな!もっと純粋に自然科学がちゃんと進捗するように研究社会は成り立っているぞ!、と考えられる考え方があるなら、本当に本当に幸せだと想う(ので俺に教えて欲しい)。この記事が完全に間違っている方が希望が持てるのだから。

 みんな心のどこかで、そんなん「普通」だよ、どこの世界でもそうだよ、っとなるんじゃないだろうか、と残念ながら思う。
 確かに「普通」なのだが、それを「普通」として対応しておこう、「普通」だと思おうとしてしまうことこそが、健常ではないかもしれない、と少しは考えてみないのだろうか?
 本当にこれほど腐っていて、クソで、それを持続させようとするのなら、日本の科学は一度、さっさと凋落してしまった方が良い。

 だけどね、俺らの世代が創るであろう未来では、この状態は保持されない。それは、今の段階でもすでに、本当に素晴らしい研究者が僅かながらも、日々邁進している姿を、俺は良く知っているからだ。世界に、じゃなくて、日本だけでもね。

 環境や業績やお金の算段は関係無い。本当に本当に能力があれば、ほんのちょっとのお金で、新しい分野を切り開き、自分のできることを精一杯やることで、論文を書き続けることだって、原理的にはできるのだ。
 すべての研究従事者が、その点を、少しだけでも想い出せてもらえれば、わざわざ図を作ってまでこの記事を書いた意味があるもんだ笑
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演技の必然性

2014-07-30 02:34:36 | Weblog
 演技して何かを隠したいのなら、演技とは自分の感情集合にある一つの要素のエンハンスである、という基本中の基本を徹底した方が良い。
 そうでなければ、容易に演技だとバレてしまうからだ。

 例えば俺が『色々な言葉を駆使して、まるで高級っぽく魅せることこそが、何よりも大事だ』というような発言を、どんなにそれっぽく快活に語ったとしても、普段の俺を知っている人なら、俺の感情のなかにまったくそのような価値観が無いことが明らかであるゆえ、すぐに嘘だとバレてしまう。
 それと全く同様で、その本人から明らかに出てこないような言動をしてしまった瞬間に、すぐに演技だとバレる。そんな虚勢、少なくとも俺には、「例題」にすらならない「例」。まぁ、他人の心理構造を考え始めたばかりの人の練習問題にはいいかもしれないけどさ。

 だから、自分の気持ちのなかに確実に存在している小さな成分をとってきて、それをいかに自分の中で大部分を占める気持ちの要素になるのかを隠したい内容を排除しながら矛盾なく考え、その上で自然に行動していれば、演技はバレにくい。
 もちろんエンハンスの仕方も時間依存だから、いきなり大きく変化させてしまえば、わかりやすい演技になってしまう。ただ、それだって、何が変化したのか?、ってことを多要素に鏤めておけば、隠したい事実や感情の紛らわせになって、バレにくくはなる。ここまでやられてしまえば、流石の俺も、なかなかめんどくさい解析をしなくちゃ、真相は掴みにくい。これくらいでやっと、演習問題Aレベルだろうか。笑

 どんな人だって、日常生活の中でペルソナをかぶり、ある程度の演技を常にしている。
 忙しいフリをしたり、精神的に元気なフリをしたり、逆に落ち込んでいるフリをしたり、作り笑いや愛想笑いをしたり、大げさに拍手してみたりする。そういったことの真意、その行動の土台になっている気持ちを考察しそれらを正確に理解しようとすることは、系をより良くする上で必須の具体的な能力だと俺は思う。

 『だってさ、もう、あきらかに、演技じゃん。あんなん、慧眼さを使うまでも無い。だから、もう何もしなくて良いんじゃね?』
 「それは違うよ、K君」
 『どうして?』
 「だって、それほどまでにわかりやすい、異常なフリをする、ってのは、そんな演技をしなくちゃいけないって想ってる時点で、異常そのものだから。だから、僕らで最大限助けなくちゃいけないんだと想う」
 『確かに。。異常さを装っている、ってことはただの演技だけど、そんな演技をすること自体が、異常だってことか』

 感情を読まれたくないがゆえにしてしまう演技は、結局のところ本当の感情を明るみにだすことと同値になってしまうわけで、その過程においてその演技が助けだと悟性で認知し、そこからベストを尽くすために実行するということは、本系での必然なのかもしれない。
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異常抗力に慣れないで

2014-07-29 02:31:53 | Weblog
 高校に入学したての頃、自分以外のすべての人が自分よりも優秀に思えた。それは俺が私立の中学から1人で公立高校に入ったこと、多くの人の入試得点の分布から異なった分布上での入学をしたんだと思っていたことにも起因しているし、実際に話してみて、中学の頃よりも賢く真面目な人が多かったように思える。これが、どこまで真実なのか、今もわからない。

 大学に編入した学部2年生の時も、自分以外のすべての人が自分よりも遥かに優秀に思えた。このときは、俺が1年前の大学入試の時にその学科を受験して落ちていたため、いま目の前に見えているすべての人に総得点で確実に負けたのだ、という絶対的な事実で必然的にそう思わざるを得なかった。
 これも勘違いなのか、事実なのか、今だよくわからないのだが、大学院に入学した時も、俺以外の人はみんな自分なんかよりも研究遂行能力が遥かに高く、意欲に溢れていると思っていた。物理学についてはそれなりに自信があったが、生物学や化学については、全然そうは思わなかったからだ。

 だから俺は、自分には能力が無いとわかっていながらも、自分にとって圧倒的に能力がある集団に、たった1人で入っていくことに、慣れている。
 だから、ドクターに入ってから、あらゆる研究分野の専門家の前で研究発表をする初めての機会でも、堂々と自分の内容を発表することができた。どーせ俺と同じように怖がっている人がいるはずだし、実は(教員なども含め)殆どがそうなのではないか、という疑惑を、自分にとっての必然性に変えることで、ある種中二病的に自分に酔って、自信を持つことができるのだ。

 大学1年生の終わり、あの学科を離れることこそが、この先を計算していくと最善のように想えた。それは言いすぎれば、大学とは何か、大学の学部時代に何をすべきなのか、ということを真剣に考えていた現れであり、俺は俺の正論に従うことにした。
 大学4年の始め、物理学という専門領域から離れようと決めた。それは、あまりに日常に落とし込まないファジーな考え方が(理解はできるが)あまり好きではなかったし、論理性を向上させ続けることに飽きていたからだ。結果、俺は俺の直観の正しさを信じてみることにした。

 修士2年の半ばくらいの時、俺はあのときの研究室を離れることに決めた。実力ではなく政治力学を重要視するスタイルを無意識に感じとっていたし、そのなかでは何も達成できないことを理解していたからだ。そして、薄っぺらいことが正当化され続ける研究潮流のなかのさらに閉鎖空間のなかで、(俺の大好きな)正論が他人を不当に傷つけるところを間近に観ていられなかったせいもあったのだろうと思う。そして、そんなスタイルこそが、薄っぺらいと感じたからだ。俺は俺の正論と俺自身の未来の正しい方向への成長を信じてみることにした。結局のところ、それこそが、ここの未来にも繋がるはずであると信じてみた。

 だから俺は、自分の直観や正しいと想った信念を貫き、その場所からたった一人離れていくことに、慣れている。
 だから俺は、いま、自らの道徳心と価値観を信じ、正論を持ってして系をより良くしよう、そのためなら自ら出ていくことも厭わない、と判断できるのだと想う。

 でもね、
 もしかしたら、慣れているってのは、ただの麻酔で、ホントはそれらが誰よりもイヤなのかもしれない。どうしようもない悲しさと共存していく術を頑健に掌に持っているだけなのかもしれないね。
 もしかしたら、ほんとうにもしかしたら、異常抗力によって悪い習慣に飲み込まれているのは、他のみんなじゃなくて、誰よりも俺??だったりしてね。
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学生時代最後の課題

2014-07-28 02:35:07 | Weblog
 ここにきて大きな課題を抱えることになってしまった。
 その課題とは、"ある要素"の値の大きさが善に向くか私利私欲に向くか、という単純な二者択一の問題。それを正しく解かなければ、無駄な時間を過ごしてしまうことになる。大きな失敗は今後なるべく避けたい。

 意味の無い失敗など有り得ない、などということは絶対に有り得ない。無意味な失敗は確実に存在するし、そういうことは避けて通る方が良い。
 しかし、活かせない過去の失敗など存在しない、ということは正しそうだ。その後の未来の選択の仕方次第で、失敗は必ず成功に変わるし、だから任意の人生において失敗は原理的に有り得ないのだ。だからこそ、この選択で失敗をしたくない。

 俺に絶対的な能力があれば、、と何度想った事か。
 そのために出ていき、そのために始めて、そのために自ら終わりを告げた。そのために正しさを振りかざす必要もあったし、そのために発言力を上げる必要もあったし、そのためにここで気持ちを書き続ける必要もあった。
 最近、絶対的な能力を現実に所有している人が、俺の前に次々現れる。それはラッキーなことで、俺がこの大きな課題を解くためのヒントだ。

 俺はそれらヒント獲得のためなら本気になれる。破格の天才から解に必要な情報を集める必要がある。そのために、もう一歩、もう一歩だけ、っと前に進んでいく。大切な誰かを、大切な仲間を、大切なありふれたどうでもいい人達を、より良い方向に持っていくために。
 今回は、少なくとも、大きな言葉だから大丈夫だろう、俺の推理力なら大丈夫だろう、などという慢心は排除できる。あと失敗しないためには何が必要か。。

 そして、悲しいことに、すべてはたった一つの"ある要素"に帰着されていく。
 しかし、学生時代最後のこの課題を解き、そのまま実行できた者は青史に名を刻み、その際にはホンモノが必ず存在していると、俺は確信している。

 もちろん、ホンモノを、その手前で掴めることができるのかもしれないけどね。
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最も尤もらしい明鏡止水

2014-07-24 00:59:03 | Weblog
 誰もが自分自身について矛盾を抱えて生きている。
 自分を欺かずに生きている人なんているわけがないと俺は思うのだ。

 だからこそ、一つのことに集中し過ぎてはいけない。いくつか自分の居場所を持つことで、矛盾し合う要素を含む集合を、それとは別の矛盾し合う要素を含む集合で正当化し、自分が壊れないために自分を欺く必要があるのだと思う。
 俺は、研究というものすごく限られた集合のなかだけでも、物理も化学も生物も、理論も実験技術も、全部が中途半端で、それぞれの自分の理解と能力について、矛盾を抱えている。でも、全て一通り知ってるということで自分を相互に欺き、俺は物理も化学も生物も、理論も実験技術も、全部使えるもんねー、っと誤魔化しているわけだ。

 こういう矛盾を抱えていても、いやむしろ矛盾を抱えているからこそ、まったく別の価値観の尺度を同時に持てていて、どうにか前に進むことができるし、前に進もうと想えるモチベーションも湧いてくる。そして、いつか、それぞれを精緻に自己矛盾ない状態にしたい、と願っている。
 それが全部ダメであっても大したことではない。あくまで研究や自然科学という、超限られた事象が崩れるだけであって、他に自分のレゾンデートルを保てる要素をたくさん含む集合はある。

 ただ、何か重大な真実を掴んだり、深遠な真理を知ったり、大切なことや大切な人の気持ちの構造を極限まで理解するためには、自分自身が矛盾なく解けている状態、つまりは明鏡止水になっていなければ、決してできない。そうじゃなければ、自分自身の邪念や願いを含む理解となってしまうだけだろう。
 そんな状態に、今すぐ、なれるわけがない。やはり、それなりに年齢を重ねなければ無理だろうと思う。

 それまでは、自己矛盾を必要以上に恐れず、あらゆる大切なことに最も尤もらしい推定を行っていき、正解になるだけ近づけるように努力するしか術は無いのだ。
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典型的な浮気のパターン

2014-07-22 02:25:30 | Weblog
 私のことを大切にしてくれそうな人が、無意識に私自身の劣等感を目の前に突きつけてくるとき、私はその軸をズラそうと心がけてしまう。あなたが私よりも遥かに優秀なのは百も承知で客観的にも明らかなのに、なぜそれをわざわざ目の前に突きつけてくるの?っと不安になってくる。

 そんな不安も、あなたがまったく経験していないところにも私には交友がある、と示すことができれば、あなたと対等に私にも価値があるし、私自身の劣等感を払拭することができる。
 そのためには、色々な人と交流し出会うことが大切だし、その世界にいったんは入ってしまうことで、見えてくる別の世界が存在する。

 あなたも言ってたじゃない?
 『ある科目を理解したいと思ったら、その科目を一心不乱に学習することだけじゃなくて、その科目がすでに得意な友達がいるってだけで、ほぼその科目を理解したことと同値だと思う』
 私はそれを多角的に体現し、あなたが持っている良さとは別の価値を自分のなかに効率良く取り込んでいただけ。

 そして、終にはあなたの価値観を超えて、もっともっと運命的に大切なことを選ぶことができた。
 あなたほどの優秀さを捨てて、もっと違う別の現実的な価値観を選ぶことができる私は、私が少なくとも並に優秀であることの具体的な主張になるし、あなたが突きつけてきた劣等感を払拭することができる。


 ………


 『え?俺、そんなに笑ってた?』
 「そりゃそうですよ、言うたんびにですから」
 『まぁ、俺、あーいうの一番許せないんだよね。というよりも、許さない。まったくもって、あの言葉をきちんと理解してないくせに、言葉だけ使って優秀ぶってるっていうか』
 「高橋さんは厳しすぎるんです。すべての人が、高橋さんみたいに、物理やって、生物やって、化学も理解して、なんて、できないですから」
 『俺はどれも中途半端なだけだし、それに何も、磁性体やdouble-well potentialについての物理を数式をおって定量的に理解しろ、なんて一言も言ってねーよ』
 「定性的にでイイ、ってことですよね?」
 『それも違う。そこまででもない。だけど、少なくともブルーバックスとかで関連図書くらいは通勤電車の中で読んでからその言葉を使えよって思うだけ。それだけでもやっていれば、もっと違うプレゼンテーションになったはずだ。それすらしてないくせに、私は物理は専門じゃないので、て分野の違いを主張したって、その研究から学ぶことは何もないじゃん。俺らは政治力学を学ぶために学費を払ってるわけではなく、純粋に自然現象を知りに来ているんじゃないか?そんな気持ちで新しいことが学べるわけが無いじゃん、時間の無駄』
 「それも厳しすぎると思うけどなぁ」
 『そんなことはない。俺らは国民の税金を使って研究をしてるんだ。じゃあ訊くけど、そうやって言葉で誤魔化すことで自然科学に何の貢献ができた?そんな薄っぺらく言葉を暗記しただけじゃ生物系の分野は決して発展しないし、正統的にあの言葉を理解しようと日々邁進されている物性物理や素粒子物理の研究者の誤解を招く邪魔でしかない。数式を理解できていないテメーの劣等感を一番ラクな方法で憂さ晴らししただけで、同じように劣等感をラクに憂さ晴らしすることでしか研究者としてのレゾンデートルを守れない守銭奴に媚び諂っただけだろ?それは何の価値も無いし、あの人のためにも良くない。まぁ、もちろん実際どうかはわからないけど、そう感じたってだけだ。ただ、それが俺の表情に出てるのだとしたら、あまり良いことではないね』

 俺は、たった一つの言葉や行為で絆を確認することは、ハッキリ言って、嫌いだし、そんなことはこれまでにしたことがない。
 そこに現れる必然性と論理展開と価値観が共鳴するからこその共同だと思う。

 だから、自分に自信の無いバカな女が、自分の価値を確かめたり、実際の価値よりも高くみせたいがために、浮気を繰り返しているようなスタイルをとる、典型的な浮気のパターンと同じ心理的構造である研究者は、この国にはいっさい不要だと想うだけなのだ。

 厳しいことは何も言ってない。俺が言ってるのは気持ちのことだけだ。

 よーするに、言葉だけで誤魔化そうとするってのは、自然科学を本当に進捗させようとする気持ちが無い。いや、あるのかもしれないが、自然科学の未来なんかよりも、自分の劣等感をラクにズルして払拭したいというくだらない気持ちのほうが勝ってしまっている。
 俺は、その心の構造を、頭で理解することはできるが、心で納得することはできない(し、納得したくない)。

 自信が無いのは悪いことではない。
 なぜ、その自信の無さを、泥臭く、かっこ悪い努力の仕方をする自分に変えて、そんな自分を愛してやることができないのか。それが俺にはわからない。

 劣等感の払拭についてズルをしても、根本的な解決になっていない。
 艶やかに観える表の顔は、周囲の誰もが不幸になってしまう麻薬としての裏の顔を物語っている。

 どうか、これを読んでいるあなたは、自分の劣等感をできる限りラクに払拭したいってだけのために、大切なことを犠牲にしないで欲しい。

 近道は無い。
 ただ直向きに、目の前の努力を正統的に繰り返すことが、最も尊く、最も魅力的だと俺は思う。
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明るい時代に

2014-07-21 00:18:06 | Weblog
 聖人君子になるにはタイミングと運が最も大切なのではないかと、今になってそう思う。
 生きた時代という点でもあまりにも恵まれていないし、学においても私自身の能力だったらもっと高みを目指せた。だが、天命はあまりにも不運だったと言わざるをえない。

 陶冶を受け、修養を積み、教養や知識をつければつけるほど、身のまわりに褒めてくれる人が現れる。私が満足行くほどの言葉を得られなかったのは私の能力ではなくタイミングと少しの運が無かったためなのに、多くの人はそんなことを考慮してくれるほど甘くない。

 だからこそ私は、無償の愛を常に求め続けた。思い返してみると、私が選んだ人はすべて言葉を求めず、ただひたすらに自分を信じて邁進し、自分自身が楽しむことに重点を置いていたような気がする。
 そのような人が私という存在をただ無償に求めてくれるからこそ、私は嬉々たる気持ちを抱き、私も求めていた。そして、それを失うことは、何よりも何よりも、恐怖であった。

 あの子はそれをわかってくれているのかしら?と、そう言ったとしたら、どんなに叱責されるか想像もつかない。ただ自分勝手に生き、そのせいでどれほどの人生を狂わせたのか!と言われるに違いない。
 しかしそれが事実であり、あなたには私がその分に無償に愛したじゃない、と思うのだけど、どれほど伝わっているか。。

 この先の時代は、今よりもきっと明るい。冥い時代を私たちは生き抜き、その先の未来にあなたたちがいるのだから、あなたたちは全員、きっと明るくなってほしいと心からそう願っている。
 そして、私自身が残せなかった言葉を、その先の世代で取り戻している。実際にそうなったのだが、私が欲しかったものはこんな程度の言葉であったのか、、それよりももっともっと、かけがえのない日常の中にありふれた幸せが何よりも大切なのではないか、と最期にそう思う。

 無償とは何か?それは、どんな生き方をしようとも、どのような学歴でどんな職業につこうとも、どのような人を選ぼうとも、その人を愛せることではないか?

 それをあの子たちは体現してくれている、と胸に刻みこみ、安らかに眠ろうと思う。


さよなら 大好きな人 / 花*花
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光を求めたがらない恋敵へ

2014-07-19 02:31:16 | Weblog
 何かのアイディアを隠したり、何かのキッカケを自分だけに起こるようにして成功しようとしても、楽しくない。
 そのアイディアやキッカケというただの一点があるかないかで成功か失敗かは決まらないし、そういうものを奪われて後参入に負けてしまうくらい薄っぺらい内容じゃ、そもそも意味が無いのだ。

 良いものづくりやホンモノの信頼関係には、必ず価値のある原点とそれを確固とする精緻な論理体系が存在する。この2つがあって、それらははじめて光り輝く。
 どちらかが何も無いことが多くなってしまいがちだけど、価値と論理、それら2つを意識して前に進んでいたい。

 そのどちらも揃い光り輝いたとしても、光は必ず影を出現させてしまうことも忘れてはいけない。
 自分や自分達が光り輝く舞台に行けば、必ずどこかで誰かが影になってしまうのだ。その点を考慮できないのならば、光を求めず、現状維持を繰り返す人生を送っている方が遥かにラクだと思う。
 影は光がなければ存在しない。光がなくともその空間は薄暗闇が広がるだけで、影にはならないのだ。だから成功して前に出れば出るほど、光なんてなければ影ができないのに、と実力が明確化されてしまうことを恐れる旧体制派に罵られるだろうし、でも逆に、今まで脚光を浴びられなかった薄暗闇にいた実力者からは感謝される。そして、その数は、殆どの場合半々なのだ。

 光を求めたがらない、いつもデートの時間に遅れてる恋敵に、"本当の意味での時間"という要素で言い聞かせながら、いつでも喧嘩をしかける気持ちを沈めていくことができるのだろうか?
 人は誰でも絶対的に正しい存在が欲しいから、だから光など欲しがらず、権威主義になる。わからないことをわからないとは恥ずかしくて言えないから権威が必要になり、その権威やヒエラルキーの存在を守るためなら、実力に権威主義を入れ込むことこそが大切だと主張したり、(多くの愚かな理系の大学職員がそうであるように)ポケットマネーから支出されている学費と研究にしか使えないカネである研究費を同じ金として同等に扱ったり、医者の都合で心不全という言葉を多用したり、そういう一歩外から見ると常識の無いことが通常になってしまう気持ち悪さを含んでしまう。
 というよりも、こういうことこそが、システム上の影なのかもしれないね。

 さて、待っているのも飽きたことだし、暇つぶしすることもないし、そろそろ、よく知ってるつもりになってる光に向けて、動き出すとしよう。
 気まぐれなのが自分の良いところでもあるし、そこにホンモノがあることを信じてみたい。売り言葉じゃないことを示して、期待してはいけないと自分に言い聞かせなくちゃいけないと思っている強迫観念を取り払ってやるぜ。
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だからもう一歩!

2014-07-16 03:07:38 | Weblog
 自分で前に一歩踏み出していけば、無理かもしれないと考えていたことそのものが、どんどん可能に変わってくる。
 やってみなけりゃ可能性はゼロだが、自分から動き出してやってみりゃ可能性は残る。そのことの本質的な意味に気がつかない限り、自己実現することはできないのかもしれない。

 自分から動くというのは当然リスクが伴う。
 責任が生じるし、何かが揺らげば、もしくは揺らいだように相手に勘違いされてしまえば、君がやりたいって言ったんじゃないの?、そっちから誘った癖にー、っと言われてしまうわけだ。
 だからリスクは当然あるのだが、可能性を残しながら、どんどん前に進んでいけば、可能性がゼロじゃないわけだから、時間をかければ達成しうる。自分の本当の能力は向上するし、俺はそうやっていかなくちゃ、たぶん誰も何もより良くできない。
 可能性がゼロだ、って確実に分かってから退散しても、遅くは無い。

 そのせーで多少傷ついたとしても、次に繋がる自分の本質的な能力となり得る。だから、俺は、常に前に一歩、原理的に踏み出せる一歩は、自分の願いの限りに、常に踏み出していたいと思っている。

 それに、決して忘れてはいけない、今だからこそ、本当にそう想える一言がある。

 "「生きる」ということは「痛い」ということなのだ。"

 絶対に忘れちゃいけない。
 一見重要には観えない、日常の中に隠れている、本質的に重要なシーンにこそ大事になってくる、この定理を、今一度考えていたいと俺は思っている。

 間違ってもイイ、できなくてもイイ。だからとにかく、もう一歩、前へ!
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浪人して良かったこと

2014-07-13 04:38:19 | Weblog
 そろそろ夏休み。
 なので(?)今日は大学受験、特に浪人生にむけて話そうと思います。題して「浪人して良かったこと」

 このブログは2005年、俺が浪人していた当時からやってるので、もっともっとこれを書くタイミングは早くても良かったのかもしれませんが、大学院最後の年度だし、今のこの時期にこれを書いてみたい気持ちが湧いてきました。今、自分の負の履歴を語ることが、自分の、もしくは自分たちの、ここからの未来をきっと創っていくと思います。

 ちなみに、良かったことしか書きませんが、浪人を任意の人に薦めるわけでは決してありません。むしろ現役生は、そのまま現役で大学に入って下さい(笑)。
 ただ、俺個人としては、とても良かったです。なので、それを書いてみようと思います。


 1.優しくなった

 まぁ、俺の印象は優しくないかもしれませんが(笑)、浪人して、少しは優しくなったと思います。
 どうしても受験のお勉強中って、何かを覚えたとか、何かを何とかの方法で解けるような武器を持ってるとか、そんなくだらないことで実力を誇示したくなりますが、、浪人してからそんなのがバカバカしく感じるようになったし、他人の傷を理解することが重要だと感じるようになったし、無駄に人をバカにしなくなりました。

 うんうん、昔はもっともっと、たいした能力も無いくせに、意味も無く、他人を見下したり、バカにしたり、批判したりしていた気がします。これでも浪人したおかげで、意味も無くバカにするのはやめよう、と想えているのだと思います。まぁ、意味も無く誰かを見下しても、意味が無いですからね。

 2.一般の道から外れた他の人の人生を納得できるようになった

 これも1と近いんですが、様々な理由で横道にそれてしまった人生を、浪人以前も理解はできていましたが、浪人したことで心から納得できるようになりました。これは結構大きいことだと思います。

 浪人って、一年間フリーで受験勉強だけができます。だから、現役のとき、浪人生が東大に行けないのは心のどこかで納得できなかった。俺らなんて高校の行事もあって、その中で勉強してるんだし、浪人生ってそこからさらに勉強できる時間があるんだから、東大くらいは行けるだろ、みたいな感じで(今こんなヤツを目の前にしたら確実にぶん殴る笑)。
 でも、実際に浪人してみて、全然違った。まず、モチベーションは下がりやすいし、メンタルが持たないし、色んな意味で、浪人のほうが不利にすら感じました。それはそれは手痛い経験だし、貴重な経験でした。

 だから、他人がそうなっている状態をある程度は汲むことが出来る。
 浪人のときに言われて印象に残ってる言葉は多いですが、「浪人したことをマイナスだと思うことは勝手だけど、本当は、むしろプラス、浪人しなかった人よりも得ている、と考えて欲しい。例えば、将来、自分の子供が浪人したら、少なくとも、どんな気持ちか、汲んでやることができるだろ?それだけでプラスじゃないか」という言葉は、これだけ時間が経っていても、その音色まで覚えているもんです。

 実際に自分の生徒が浪人したり、友達が留年したり、就職浪人をしたりしたときに、「助ける」までは全然いけないけど、そういうことがある程度(本人の責任ではなく)仕方のないことで、どういう気持ちになっているのか想像することができます。それが意味があるかは別として。
 これが俺が浪人して無かったら、『クズがレールから落ちた』くらいにしか思わないのかも、っと思うと、そういう意味でも、俺は浪人して良かったんだと思う(笑)。

 3.レールから自由に降りることができるようになった

 浪人は、多かれ少なかれ、強制的にレールから落とされる感覚を味わいます。その時の恐怖はハンパ無いです。
 これで俺は、ここから一年間、何も保障が無い生活を送るんだ!(そんなわけないんですが)、と思えてくる。

 例えば、なんかテキトウな類いのアンケートとかで、自分の身分を選ぶときに、高校生でもなければ大学生でもなく、フリーターでもないしなぁ、みたいな感じになって「その他」を選ぶことになります。これは、とっても怖いことでした。
 ただ、半年も経てば、なんでもなくなります。自分がいかに、バカみたいなプライドを持っていたのかがわかってきて、そんなところにプライドや安心を持っていても仕方ないじゃないか、と想えるようになってきます。

 レールから落っこちたら怖いぞ、という言い伝えは眉唾物であると徐々に分かってきます。レールから落っこちてみたら、意外とキレイな景色が広がっているもんです。
 むしろ、レールから落っこちることを怖がるあまり、目の前が崖であっても降りれないレールそのもののほーが怖いことに気がつきます

 俺は、一年間浪人して、レールから落っこちたからこそ、転学部もできたし、研究室も卒研修士博士と全部違う研究室を自分で選ぶことができた。そして、それはそれなりに有意義でした(まだ博士は終わってないんですがね)。
 これが現役でそのまま大学へ行ってたら、たぶん同じ学部の同じ学科で、無難な研究室を選び、いつまでもそこにいたでしょう。今でもふとそう思うことがありますが、そっちのが何十倍も怖いです。

 そして、これからも、自由にレールを降りることができるこの「自由」こそが、浪人によって得られた実質的なことで一番大きなことです
 ただ、、僕は数々と場所を転換してきましたが、浪人以降、時間を無駄にしたことは一度も(一年も?)ありません。たぶんこれも浪人したおかげで、レールに乗りながら、別のレールを観察することができるのは、とっても貴重な俺の能力だと思います。

 4.自分の可能性の広さを模索することができた

 俺は高2のときに物理学科に志望を決めてから、物理学科にしか行きたくありませんでした。それ以外は、俺にとっては大学ですらありませんでした。
 現役の時も、友達の付き合いで、色々な学部(外国語学部、社会学部、教育学部、法学部など)学科を観ましたが、他の学部や学科を見れば見るほど、物理学科にしか行きたくない、と思うようになっていきました。

 でも、浪人して時間ができると、意外と生物イイかも?、とか思うようになりました。そ、浪人しなければ、俺はたぶん、生物系には行きません。だからと言って、物理学科が絶対にイイ!、は揺らぎませんでしたが、周りの人が実際に大学に入ってからの印象を聞いて、そこからまた動けるってのは、浪人のメリットだと思います。
 実は俺は浪人のとき、ひとつだけ生命系の学科を受験させてもらいました。物理学科がイイに決まってる!と当時は強く思いましたが、4年後に生命系の大学院しか受けない自分がいることの前触れだったのかもしれません。

 今浪人している人も、もちろんなるべく早く目標の学部を設定することが大事ですが、かといって周囲を見渡すのを怠るのもどうかと思いますので、少し可能性が広がるかも?、くらいは思っていて損は無いと思います。

 5.人生の意味や目的を考える指針ができた

 いや、だから、そんなことやってる暇あったら、勉強しろよ、って思うんだけど、まぁ、メンタルを高めるって意味では大事なんだよね。
 俺は社会は倫理をとってたんですが、浪人の時期は、よく倫理にでてくる哲学者の考え方をきちんと理解しようと考えていましたよ。この視点があるから、今、生命倫理を専攻とする人ともディスカッションができるし、哲学に詳しいんですねと、わざわざ言ってきてくれたこともありました。ごめんなさいね、受験レベルしか知らないんですけどね(笑)。

 そうそ、これは俺だけだと思うんだけど(普通は現役でできるんだと思うけど)、文系科目もちゃんとやれて、時間があるから物理もめちゃくちゃ深く理解できた、理解する方法がよくわかった、ってのも浪人のおかげです。

 自分の、もしくは任意の、人生にとって何が大切なのか?とか考えたり、お金のことを考えたり、浪人しているんじゃなくて、させてもらえている、って考えに至れたり、そういうのを十代で経験できるってのは、とてもいい経験だったと思う。
 まぁ、だから、勉強だけやってろよ、っと今思うと凄くそう思うんだけど(笑)、あの時は、あの時しかそれができないと思っていたし、事実、ある程度そうだったのだと思う。

 6.色んな仲間にあのタイミングで出会えた

 浪人してると回数は多くないですが「浪人生のくせにー」とか言われることもあります。そうやって浪人したことで失った友達もいるし、わからないところで出会えなかった人もたくさんいたのでしょう。
 でも、今周囲を見渡してみて、一年ズレていなかったら、この関係はこうじゃないし、一年ズレているからこそ、ここでこうやって今笑い合えている、と思う仲間が俺にはたくさんいます。

 それは、現役で大学に入った人もそうだし、推薦で大学に来た人もそうだし、大学とは全く別の環境で頑張ってる人との関係でも、同じです。
 俺は、浪人したことで、その後に、絶妙なタイミングで、出会うべき人と出会えている。そういう意味で、浪人して良かった。

 サークルでの仲間もそうだし、研究室での仲間でもそうだし、このタイミングじゃなかったら、と思うと、色んな意味で恐ろしかったりします。
 結局のところ、自分がどう納得するかですが、最後に帰着できるのが仲間である、ってのはとっても大事だと個人的には思っています。


 俺が今、このタイミングで、こんなに昔のことをここに書くことは、実はすごく意味があるし真意がある。
 ただ、今は、そんなことを考慮しない、ふらっとGoogleで「浪人 良かった」くらいで検索した怠け者の浪人生が、勇気を持ってくれればそれでイイと思います。

 色々書きましたが、、レールから落ちている期間中は、個人にしかわからないツラさが有ります。誰の話を訊いてみても薄っぺらく感じることもあるし、信用できないこともあります。
 それはその通りで当たり前で、今自分の限界を目の当たりにしている訳ですから、自分のカラを破ることができるのは自分しかいないわけです。

 これが淋しい言い方に感じるかもしれませんが、、あなたのことを優しく暖かく見守っている人は絶対にいます。それは、きっと、家族や本当の意味での友達や仲間や信頼関係で、今自分が一番ツライ時期に、どれだけ誰かのことを考えられて、その上で、自分自身が自分だけのためにどれほど頑張れるか?、のチャレンジだと想えば、そんなに辛いことでもないんじゃないかなぁ、と俺は思います。

 だから、頑張って!そして、助けを求めたくなったら、いつでも誰にでも助けを求めよう。

(2016.8.10 追記)
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期限が過ぎたことを受け入れられなくて

2014-07-12 03:05:41 | Weblog
 世の中のだいたいのことには期限があって、それを守って真面目に成果を提出し続けていれば、前に進めるようになっている。だから何かの結果を遅れて提出するなんて、絶対にありえない!タイムリミットまでに真面目に作業をしてしまえば評価が高いのは明らかでしょ?
 試験だったら覚えてしまえばいいだけだし、課題だったらその内容が載ってる参考書を調べて書けばいいだけ。

 自分だけが頑張れば達成できることであれば、どんどん予定を前倒しにして、さっさと提出してしまった方が良い。だって、どーせタスクは決まっているし、時間があるうちに作業をこなしてしまった方が後がラクだもん。

 そう思ってこれまで出来る限り早めに取り組んできたけど、勉強じゃないものについては、それだけではどうにもならないこともたくさん出てきてしまう。
 どんなに自分が早く提出しようとしたとしても、大人になればまだ誰もやったことないことに取り組むことになっていくわけだから、そこに不確定要素が舞い込む。だから、本当の意味での実力が必要になってくる。

 でも、それだけじゃなくて、みんな決定を先延ばしにしたがるからこそ、提出期限ギリギリになってしまうことが、いつしか多くなっていってしまうのだ。「少し待っていてください」
 でもでも、提出期限を設定する側の人と、これでOKかどうかを判定する人が一緒なのだから、その当人が、待っていろ、というのなら大丈夫でしょ?って、最初は私もそう思っていた。

 そして、何回か、ルール上の提出期限を過ぎてしまっても、本当の提出期限以内だから特別OKということが増えていく。だから、従っていればいいのだ、と考えていると、今度は本当に自分が最初に出すべき提出期限に間に合わなくなってきてしまう。
 どうして?私は誰よりも真面目なのに。提出期限の定義が曖昧になるからそうなるのもあるけど、それよりも、きっと、以前思っていた「遅れて提出したら意味が無い」という言葉が私自身にフィードバックしてくるせいだ。

 そう、提出期限が過ぎたモノに対して、モチベーションを持つことができない。そんなの当然だけどね。
 後回しにして、ついにはタイムリミットを迎えた後のモノについて、どう取り組めばいいのか、、だって、期限が過ぎてるんだから、今さら何をやっても本当は無駄でしょ??
 サイアクなのは、今さら何をやってもサイアクなわけで、絶対に変わらない。タイムマシンでも無い限り。

 こういう時に、もっとコミュニケーション能力とかある人だったら、色々な人の意見を訊きながら自分がすべきことを見出せるのかもしれない。
 『Aグループの能力がねーから、そんな風になっちゃうんだ。もっと肩の力を抜いて、落ち着いて周囲を見渡せば、助けてくれる人なんてザラにいる』ってね。

 そうかもしれないけど、私は真面目なのが取り柄だし、なんかその考え方って胡散臭い。
 っていうか、そんなの、私の気持ちを全然わかってくれてない。それは、安全圏にいる人のセリフであって、今すでに不利益をもろに被って、そこからどうすればいいのかの指針を私に示してはくれないから。

 仕方が無い。この状況は実は当たり前であって、海外では…、昔は…、って、自分が納得するように自分自身に言い聞かせていく。
 モチベーションがまったく無いんだとしても、ゆっくりでも、目の前のことを、ひとつひとつ、着実にやっていくことしか今はできないのだから。

 ほんとは、助けて!って言えれば、ラクなのにね。
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結ばれる運命ではない運命

2014-07-10 01:41:42 | Weblog
 俺は、どんな時でも、その人にとっての最善を考えていたい。大切な人は特にそうだし、ある程度不特定多数にそう思っている。まぁ完全な博愛主義者では決してないけどね。
 だから、相手にとっての最善であるなら、相手と自分の関係性やその持続はとりあえず無視して考える。待っているべきであれば待っているし、決別すべきであれば決別するし、そう言わせることが正解ならばそうする。そこに躊躇いはない。自分のためではなく、相手のためだからこそ、冷酷に決断が下せることが多いと思うのだ。

 過去は決して変えることはできない。だから、そこからの事実として、未来がより良くなるように考究すべきだし、これからの選択一つひとつが重要になることを自覚して、行動していったら良い。

 ただし、時間依存性の無いモノに着目するとき、どうせ時間依存性が無いのだから、ある時間のある一つの出来事を測定データとして取ってくれば、それこそが、すべての時間について(時にすべての空間について)、その事象を表していることになりえる。つまり、時間依存性の無いモノを試行錯誤して測定するということは、測定精度のみが重要であり、いつから精度よく測定ができるか?だけに依存する問題に帰着される。
 これが、時間をかけて積み上げてきたと錯覚していた信用を、一気に崩すことができるカラクリだ。

 そんな論理がわかっていても、ただの俺の理想の幻影であった誰かの存在を、信じてしまいたくなることがある。そのほうがラクだし、振り返りたい気持ちが上回っていく。
 しかし、こういうときこそ、俺にとっての最善を考えるのではなく、相手にとっての最善を考えるべきだ。その幻影をホンモノにするためには、俺が、待っていなくちゃいけない、ときに一生離れなくてはいけない、というのであれば、それが最善。

 俺がいなくなる程度のことで、より良く変わってくれるのなら、俺は喜んで出ていく。
 そして、決別したことを俺が後悔するような日々に変わってくれればいい。いつまでも忘れないで、、任意の人生において、失敗は原理的にありえないのだということを。

 でも、、、人って、何歳まで、変われるの??

 荒々しい空にこう尋ねると、それに逆行するような穏やかさで、もっとも意地悪でもっとも負けず嫌いな、とても懐かしい声が微かに聴こえてきた。
 「いつまででも変われるんじゃない?その人に変わる気があれば」

 一過性であったとしても、そこに何か新しい松明が宿れば、それだけで「命を運ぶ」だと定義してよい。
 結ばれるために「命が運ばれる」という事象の必要条件としてね。
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Waiting for the Lights

2014-07-08 01:58:30 | Weblog
 願いは必ず叶う。

 だから、叶えた先のことを常に考えながら何かを願いたいものだと想う。何かの想いが叶って、その後に、何の意味があるのか?それを考究せずに願うのであれば、それは自己保身に走るだけになってしまうし、結局は自分勝手な願いになってしまう。
 だとしたら、ちゃんと、その先、叶った先の遠い未来をきちんと想像しておくことが大切だ。

 真っ直ぐであればあるほど、やる気のない自分のことばかり考えている連中が足をひっぱるから、道は狭くなる。しかし、確実に進むべき道が観えるという点ではコスパーが良いし本質的だ。
 一緒に歩くべき相手を本質的に見極めることもできるし、自分の好きな気持ちと運命がそれを導いてくれる。

 もちろん、現実では動物は喋らないし歌わないし、軽快な音楽だって勝手に流れない。
 でも物語りと違って、自由にドラマティックな演出をすることができるし、ものすごくロマンティックな奇跡だって存在している。俺はそんな現実の方が好きだ。

 常に今がスタート。どうしようもなくツライ現実を目の当たりにするからこそ、現実でのかけがえのない美しさを私たちは認知できるのだ。

 またここから始まっていく物語りを、俺は本当の信頼関係を大切にしながら、前に進んで行きたいと想っている。

Tangled Waiting for the Lights Scene
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咲き誇る履歴

2014-07-07 02:32:54 | Weblog
 本質的に前に進むためには、自分の気持ちと自分の正義に従順であることが大事だ。
 圧倒的で多角的な論理とたった一つのブレない想いは常に共通になる。それを見極めながら進むべき方向を模索すればイイ。そこに道が無かったとしても、自分の手で道を創り、歩く意味のある行為へと変換する。

 俺はこのルールにはとても厳しいし、やり直しはきかない。どんな関係性であったとしても、俺が許すことができない一線を超えてしまえば、それまでの関係を簡単に捨てる。
 俺が信頼している人は、他にもたくさんいる。あなた1人、あなたたち全員を、ポイすることなんて、大したことではないし、そんなんじゃ俺のレゾンデートルは崩れない。もちろん悲しいけど、それと俺が許容するかしないかは、まったく別の次元の話で、俺がその程度を許容しないからいけないんだ、という議論をする自分のことだけしか考えられないヤツは、俺の味方ではない。

 そして、非人道的なやり方で成功しても、もしくは、ズルをして言葉を得ても、必ずそのツケが回って来て、咲き誇った誤魔化しの花は枯れてしまうだろう。
 そう、俺は花が咲くところを観たことがないが、花が枯れるところも観たことがない。

 これから花が咲くところを観られるのだろうか?というよりも俺は何を観たがっているのだろうか??
 そもそも、成功し、花が咲くこととは、どういったことなのか?

 何かの物事を自ら始めて辛抱強く理想を貫いていけば、旧態依然とした連中の弱々しい防御壁など簡単に砕くことができる。一旗揚げたのち、そこで終われば単に「業績が増える」という失敗に終わってしまうが、その後も戦線を拡大し続け永遠の戦闘を続けるとしよう。それこそが革命の本質であるのだが、だとしたら、花はいつまでも咲かない。
 しかし、その姿を観た誰かが新しい火を心に宿す。それが、花が咲く、ということなのだと俺は想う。それだったら、俺はこれまでに、何度も何度も観ているじゃないか。

 花が咲くために一生懸命になっていても、報酬には一切ならない。一時の成功の際に浴びるささやかな喝采ですら翌日には誹謗中傷に変わり、「やっぱりアイツはセンスがない」だとか「ただの出たがりだろ」だとか、夢も希望も抱いていない腰巾着どもに、色々な陰口を言われることになる。
 それでも、理想を推し進め、本当に信頼のおける人達と自己実現していこうと想える理由は、、きっとこれまで信頼してきた人たちから貰った灯のおかげなのだと想う。

 前に進むしかない運命に感謝しながら、一言一言、行動の一個一個を大切にしながら、みんなで楽しんで生きたいと、いま強く想っている。
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少年の心を忘れない

2014-07-04 00:45:53 | Weblog
 自分の気持ちに正直になっていれば、必ず、正しい選択、自分にとってより良い選択として、前に進むことができる。
 見破るのが早くなる秘訣は、現実の世界に縛られ過ぎないこと。必ず、人の気持ちによって形成される空間を意識して、その力学を考え続ける。そうすれば、微小な変化に敏感になることができるし、他の人よりも少し早く動くことができる。まぁ、それはイイ事ばかりじゃないけどね。

 何かをより良くして、系全体を最善へ少しでも近づけることで、社会貢献するためには、他人の気持ちを考え続けることが最も大事だし、それは好きな人のそれに限らない。嫌いな人や、時に、どうでもいい人、実際には出会った事もない人の気持ちを、どれだけ論理的に矛盾なく想像できるかが、その人の優しさの技量であると俺は想う。
 そのためには、やっぱり、自然科学をきちんと学習・研究し続けること。そして、当然それだけじゃなくて、自分が興味を持った学問・事柄を手当たり次第、知りたくなくなるまで考え続けることが、他人の気持ちを知る上での基礎体力となる。好きなことややりたいことや自分が歩く道を決めつけないで、とにかく色々やってみることが本当に大切だと想うのだ。そのほうが、結局、楽しいでしょ?

 どんなことも、とにかく自分が行動していれば、どこかで役に立つものだと思う。
 何度もやめようと考えた教職をとっていたからこそ教育法規に詳しいし、それを武器に大学の教員に法的な正論をぶつけることができる。高3の体育祭で受験なのになぁと思いながらもダンスを選択してフリを覚えたから、国際学会のDance&Receptionで世界の研究者と楽しく踊れる。

 真っ直ぐの道よりも、自分に合いそうなことを手当たり次第やってれば、そりゃ遠回りだけど、それこそが人生を意味あるモノに変えてくれるし、社会貢献に繋がる。だって、他の分野の人のことを知らなかったら、自分たちの考え方や価値観を押し付けるだけの人生になってしまうからね。
 そうなってしまうと、「一個人の人生よりも、我々のフィールド全体を進捗させることが大事で、それが分からないなら出ていけ」などという、ただの怪しげな信仰宗教になってしまうのさ。

 好きな気持ちが溢れだして何かの行動を起こしたくなるとき、好きな気持ちそのものがストッパーになってくれることがある。今は、あなたのためにも、待っているべきときなんだ、っと自分を律することができる。
 それでもそれを超えて想いが溢れだしそうなとき、日々、色々なことを手当たり次第行って、自分を楽しく高めていれば、紛らわすことができる。その一つひとつの本質を抽出していって、自分の価値観を確かめてみると、やっぱりこの道を選んで良かった、っと納得することができるのだ。

 こんなことでもつのかなぁ、っと不安になることもあるけれど、少年の心のままに自然に楽しんでいれば。。
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